故郷に海ができる【掌編小説】
あなたゴルフする? あたしはしない。でも穴のことなら分かる。ほらグリーンに空いているまあるい穴。あれって不思議な大きさよね。大きすぎもせず、小さすぎもせず。他の何にも似ていない穴。すごく的確な空洞。
パパが開けた穴もちょうどそれと同じくらいの大きさの穴だった。
園芸用のスコップを持っていきなり庭の畑を掘り始めたの。畑っていっても趣味(というかパパの暇つぶし)の家庭菜園用だから、全然猫の額みたいに小さいんだけど、何も言わずおもむろに掘り始めた。何かの種や球根を植えるとか、土に空気を含ませるとか、そういう目的みたいなものが感じられれば、あたしだってこんなに言ったりはしないんだけど、どうしてか何も感じられないんだもの。ウツロなの。ウツロ。あたしちょっと怖くなって「大丈夫? ねえ大丈夫?」ってパパに訊いたの。だって心配じゃない? 途端に気が触れていたりしたらさ、嫌じゃない? そしたらパパはにっこりと微笑んだ。あたしを見て。まるで授業参観日で後ろに立ってた時みたいに。そしてまた向き直って何も言わずに穴を掘り出した。
あたしはとても嫌な予感がしてママを探しにいった。その時のあたしはまだ小学四年生で、(自分の父親とはいえ)大人の男の人を制止する方法なんて嘘泣きと噛み付き以外に知らなかったしね。でもそのどっちでもどうにもならない、って思ったの。直感だった。玄関のドアを開けて家に飛び込んで、かかとを使って靴を脱いで、そのまま後ろに蹴り上げた。可愛い水色の運動靴は少し宙を飛んで三和土の上に転がった。両方ともウラ。目の端でそれだけは確認した。何故かね。台所にも二階の物干しにもトイレにもママは居なくて、あたしは戸惑った。ママはその時ちょうど車に乗ってスーパーに買い物に出かけていたの。ちっとも気がつかなかった。念のためもう一度台所と物干しとトイレと、ベッドとクローゼットとお風呂場まで見たけど、ママはいなかったからあきらめた。はい分かりました、終了って。この頃からやっぱ現実的だったよね、あたしは。
庭に戻るとパパは一仕事終えましたって感じで右手にスコップを握って突っ立ってた。畑にはそのゴルフのグリーンにある大きさくらいの穴がぽこって空いていた。ひとつだけ。正直あたしはそれを見て、「え? それだけ?」って思った。「え? え? 待って待って、それだけ?」。あのウツロな眼差しが発していた狂気じみた何か(オーラ?)に対して、ほんの小さな穴ぼこひとつなんて、そのお釣りはどこいっちゃったのさ? って思った。
質量保存の法則? だよね? あたしあんまり通信簿よくないからさ、アカデミックな固有名詞のひとつひとつ、間違っていたらゴメンね。いいように解釈して? その法則は人の気持ちにだって当てはまるって思っているの、あたしは。だからさつまり、
パパの気持ち ー 畑に空いたまあるい穴(ひとつだけ) = 残されている何か
ってこと。
あたしはね、庭の真ん中でスコップ持って突っ立ってるパパの足下に空いている、パパの掘ったまあるい穴が怖くて堪らなかった。正確に言うと穴以外のそのお釣りがね。
今日は土曜日で、晴れてて、空には椋鳥の群れが飛んでる。百科事典に載せたいくらい平凡で平和な日で、庭の畑をいじる父親と側に佇む娘。絵日記にしたら先生もにこにこ笑って花マルくれる。そんな風景なのにね。
パパは黙ったまま、くるりと私に背を向けて近所のコンビニまで歩いていった。スコップ? 黙って私に渡した。ステンレスのスコップは錆こそついていなかったけど、地面を掘った後だから土だらけで汚れていて、それがなんだかテレビドラマに出てくる人殺しの凶器みたいな感じがした。銀色に光るスコップ、畑に空いた穴。あたしはその的確な空洞をじいっと見つめる。穴に穴の空くくらいにね。まあ別にそんなことしたって何にも無かったよ。いい? 穴は誰が掘ったって穴なんだよ。なあんにも無い。
でも、あたしの予感は当たってた。当たらなくて良かったのに当たってた。やがて穴の奥からコポコポと水が湧き出したの。ねえ信じられる?
そしてその水は、一日経っても一年経っても全っ然止まらなかったの。
パパが空けた穴から湧き出た水は、まずあたしの家の床下をびしょびしょに濡らして、それからどんどんご近所に流れていった。田舎で呑気だからね。最初はみんな、あら珍しいこともあるものねえ、なんて余裕かましていたけど、そのうちピタリと笑わなくなった。代わりにヒソヒソ話が多くなったよね。水は町内一帯をぜーんぶ浸して、隣町まで広がっていった。
うん何とかしなきゃいけなかったのは分かってたよ。でも何ともできなかった。だって穴を掘り終えた後、パパは近所のコンビニに行って、そのまま倒れたんだもの。自動ドアの前で、リモコンのミュートボタンを押したみたいにパパの音が消えた。救急車で運ばれて、診察受けて脳卒中。ママはパニックになって、病院に着く前に事故を起こした。国道でダンプカーと正面衝突。地元の新聞に載るくらい酷い有様だった。さよならママ。こんにちは可哀相なあたし。そういうわけだから、水のことは二の次三の次だった。でも弁解をさせてもらうと、一応あたしも何とかしようとはしたんだよ? パパの銀色のスコップを持って、畑の穴を埋めにいった。満月の夜だった。いやいや別に気分を出そうとしたわけじゃないよ? 学校行って、病院に行って、ご飯を食べて、お風呂入って、宿題をして、歯を磨いたらそんな時間だっただけ。
裏の畑からはこんこんと水が湧き出ていて、お月様が水面で気持ちよさそうに泳いでた。あたしはガリガリの両足をお気に入りの長靴で包んで、そのゆらゆらしている光のマルに銀色のスコップを突き立てて、せっせせっせと泥を運んだ。簡単そうに見えるけど、これがどうして大変なんだよ。だって、足下はぐずぐずにぬかるんでいるし、泥を入れても入れても、穴から出る水が押し返しちゃうんだもの。離乳食をべっと吐き出す赤ちゃんみたいに。あーもううんざり。やめやめ。あたしは現実的にあきらめた。誰か大人の人にショベルカーで埋めてもらおう。でも結局それも頼まなかった。だってあたしの長靴に絡みついているワカメを見つけたから。なんでこんなところにワカメ? 手に取って月明かりに照らして見てみても、やっぱりワカメだった。お味噌汁に入っているやつ。あれれ、もしかしてって思って、濡れた指をしゃぶったら、しょっぱかった。
海だ。
あたしは直感的に理解したの。これは海なんだって。ここは関東平野のど真ん中で、そんなことあるはずないんだけど、これは海なの。パパが掘った穴から海が湧き出した。
そう気づいたら、あたしは見えていなかったものが見えるようになった。途端に山犬になって夜目が利くようになったみたいに。ワカメだけじゃなくて、水の中には色々なものが漂っていた。クラゲとか小さな魚とかサンゴとかの海の生き物。それに穴からは音が鳴っていた。コポコポと出てくる泡と一緒に呟いていた。しゃがみ込んで耳を澄ますと、海鳴りの響きがした。そしてその低い揺らぎに混じって、パパの声が聞こえてきた。
パパのCTスキャンには星空みたいに斑点があって、それが全部血栓? 血のカタマリだった。お医者さんはそう言った。科学的に考えてありえないって茫然としていたけど、でもそれが事実なんでしょ? あたしは受け入れた。パパはもう全然動かなくなっちゃって、目を開いていても意識があるんだかないんだか分からなかった。でも一応あたしは毎日学校が終わると病院に行って、パパにその日起こったことをべらべらと話した。身振り手振りをまじえて楽しそうに大笑いしながら。何人かの看護師さんはあたしのはしゃいだ姿を見て、泣き出しそうになって病室を出ていった。意味が分からなかった。家に帰って裏の畑(その時はもう沼のようになっていたけど)で耳を澄ませば、パパからの返事が聞こえてくるんだから。ちょっと時間差のある衛星中継みたいなものだった。
水? ああ水ね。そうね、そっちはもうどうにもならなかったよね。それはもうあたしの家の問題じゃなくて、もっと大きな話になっていたんだけど(市長さんは大変そうだった)、どだい人間が海に勝てるわけがないんだよ。人間が山に勝てる? 勝てないでしょ? じゃあ海にも勝てないよ。あたしの生まれた町は、真ん中からどんどん海になっていった。ある地点を通り越すとみんな怒ったり、嘆いたりするのをやめて、黙って荷物をまとめて引っ越していった。ちょっと変わった人は、家を改造して水上ハウスみたいにして、ヨットを買って楽しんでいた。あたしはそっちのほうが好き。
四階の病室の窓からは、遠くに海が広がっていく様子がよく分かった。あたしは病院にお願いして、パパのベッドの向きをぐるっと九十度変えてあげた。つまり、ずっと海が見えるようにしてあげたの。パパどう? 海が見える? キレイ? って訊いても、何でだろうね。パパは海のことについては一言も返事を聞かせてくれなかった。でも絶対にパパを海を見ている。それは分かった。だって、パパの二つの瞳を覗き込むと、キラキラと故郷の景色と、そこに出来た海が映っていたんだもの。
パパが目を閉じたのは五年後で、あたしは高校受験を終えて遊びほうけていた。無責任な春休み万歳って感じ。その頃には町はすっかり様変わりしていて、海は貴重な観光資源になり、港や灯台まで出来ていた。病院の駐車場は長い桟橋になっていたし、みんな車の免許じゃなくて、船舶免許を欲しがった。あたしはパパの病室に行くのは週に1、2回程度になっていた(だって友達や男の子と遊ぶのに忙しい)。パパもそれで良いって言ってくれた。だからパパの目が閉じた時、あたしは側にいなかった。でも分かったの。感じるものがあった。急に体の力が抜けて、全身が粘土みたいに重くなっていった。そしてね、だんだんと水位が下がっていったの。町の海がゆっくりと一点に引き込まれていった。そうパパの空けたあの穴に向かってね。
あたしは服を買った帰りに一人でボートを漕いでいるところだった。ふいに発生した海流は、病院と反対の向きに進んでいて、頑張ってオールで漕いでも全然進まなかった。仕方がないからあきらめて、寝そべって空を見ていた。まるで木の葉の上に取り残されたアリみたい。三十分くらいそのまま綿雲と一緒に漂っていた。
あの穴の周りには大きな渦が出来ていて、海の水を飲み込んでいた。でもね、凶暴な感じはしなくて、なんて言うのかな、ゆっくりとレコードが回っているみたいだった。そうね、あの海鳴りの音だね。そしてパパの声の音。海の水は真ん中に向かって吸い込まれていく。あたしのボートもゆっくりと地球みたいに自転しながら渦に向かってぐるぐる進んでいく。中心には穴がある。ん? 穴が「ある」のかな。それとも「ない」のかな。まあ別にどっちでもいいよ。お天気もいいし、あたしはまだ十五歳だし、考えたり、経験しなければいけないこと、まだまだたくさんあるもの。