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「ヴァン・ダ・イールー渓谷の民」武村賢親

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黒い谷に迷い込んでしまった研究者の手記をもとに綴られた物語です(設定)。 文明人である研究者と原住民の戦士との交流を書いたファンタジー作品。
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琳琅 第二号より、「ヴァン・ダ・イールー渓谷の民」武村賢親

第一章「はくり」



 雨が降っていた。山脈の灰を含んだ黒い雨である。都市部の雨と違い、大粒で重たく、肌に触れるとぬるりとした気味の悪い粘り気がある。薄墨のような水を吸った衣服は黒く染まってしまった。この調子で目立ちはじめた白髪も黒く染まってくれるとありがたいのだが、生憎とこの雨は酸性だ。長く浴び続けると毛根に悪い影響を及ぼすことになる。

 四苦八苦しながら服を脱ぐ。いまだ痺れの引かない左腕

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 ヌェラに限らず、過酷な食料不足と黒雨のもたらす病を幾度も越えてきた彼らの気性は総じて荒く、陰湿であった。この渓谷に住まう部族の歴史は古く、片方の瞳が白濁していた族長の話から推測するに、都市に住む人々が鉱山を発見して採掘を始めるずっと以前、まだこの山脈が活火山であった頃からこの土地で暮らしているようであった。

 私がこの集落にきて最初に連れて行かれた場所は、外に並ぶ他の物よりやや大きく、内

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 しかし私は、この渓谷に適応して進化したと思われる、独特な生態を持った爬虫類の存在を発見した。もう半年ほど前のことである。採掘された鉱物を研究資料として融通してもらうため、助手のミーシェカと共に車に乗り、ウマに引かせて採掘場へと出かけた。

 採掘所を取り仕切るアッガスとは旧知の間柄で、鉱石や地質に関する研究に携わる際には必ず協力を仰ぐ私の良き協力者である。私の研究室に住み込みで働いているミ

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 薪の爆ぜる音に顔を上げると、族長の白濁した瞳とぶつかった。話し合いを終えたらしい彼は私をこの集落まで引きずってきた者に何事かを命じている。どうやら私を別の住居へ移らせようとしているらしい。槍で牽制されながら集落内を移動すると、住人はたいして多くはなく、小規模の集落であることが判明した。余所者が珍しいのか、後をついてくる者もいれば、遠くから睨みつけるように視線を投げかけてくる者もいる。皆一様

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 獲物を並べ終えると、戦士たちはその円を囲んで膝をつき、胸の前で掌を合わせて瞼を閉じた。私はヌェラの半歩後ろでその姿勢を倣い、戦士たちの仕草を観察する。皆一様に目を閉じ、何事か囁いているようだった。これら一連の流れは命を頂くことを感謝する儀式か、この貧しい土地へ祈りをささげるしきたりと思われる。

 新鮮な光景だった。考えてみれば当然である。都市の生活では、食べ物は獲るものではなく買うものだ

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 こうして儀式を終えた獲物は集落に持ち帰られ、初めて族長と相対したあの大きな住居で、集落の住人全員に分配される。

 彼らの集落は谷底の少し開けた場所に密集する灌木帯によって隠されるように存在していた。絡み合った蔓や枝葉によって黒い雨から守られているのか、集落周辺の地面や草は、渓谷内の雨曝しになった場所ほど黒く染まってはおらず、辛うじて農作物を育てることのできる環境にあった。といっても、育て

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 情けないことに、私はつい先程まで、ヌェラを男だと思いこんでいたのである。というのも、男は外へ仕事に出て、女は家で家事をする、という都市での固定観念が抜けきっておらず、外へ狩りに出るヌェラのことは、背が低いだけで、当然男であると思っていたのだ。

 彼女の短剣捌きは正確の一言に尽きた。研究室では石工用の鑿と槌を使ってやっと割れた硬い鱗だったが、彼女はまるで木像を掘っているかのような滑らかな手

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 必死で何かを伝えようとしているが、いまだ肯定と否定でしか意思表示が出来ない私には何をそんなに怒っているのかさっぱりわからなかった。困惑し続けている私に業を煮やしたのか、ヌェラは羽織の前を乱暴に掻き開いて半身を晒し、脇腹に残る噛み跡のような大きな傷跡を示して見せた。罠を振り解こうと暴れ続けているトカゲと傷跡とを交互に指さしながら訴えてくるため、その傷が黒いトカゲによってつけられたものであろう

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 不意に、香油よりも強烈な匂いが鼻先に触れ、沈んでいた意識が浮上した。口を塞がれたような息苦しさを覚えて目を覚ますと、それと同時に生暖かい液体が喉奥に浸入してきて激しく咽こむ。いくらか呑み込んでしまった液体は酷い生臭さで、鳩尾の辺りから立ち昇り、熱く渦を巻くようだった。

 上体を起こそうとするが、金縛りにあったかのように身動きがとれない。蝋で固めたかのように開かない瞼を無理やり持ち上げて見

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 日がすっかり登ってしまった頃、族長を筆頭に集落の重鎮たちが私たちの住居を訪れた。いまだ微睡から覚めないヌェラをそのままに、体中に満遍なく香油を塗り終えていた私は慌てて腰布に手を伸ばしたが、族長はそれを制止して、天井に渡した蔓に引っ掛けておいた服を指さした。私が都市から着てきた外界の衣類である。

 服を着てしまうと、族長は拾い上げた革鞄を私に手渡して外に出るよう合図をする。外には数人の戦

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