琳琅 第二号より、「ヴァン・ダ・イールー渓谷の民」武村賢親

10

 日がすっかり登ってしまった頃、族長を筆頭に集落の重鎮たちが私たちの住居を訪れた。いまだ微睡から覚めないヌェラをそのままに、体中に満遍なく香油を塗り終えていた私は慌てて腰布に手を伸ばしたが、族長はそれを制止して、天井に渡した蔓に引っ掛けておいた服を指さした。私が都市から着てきた外界の衣類である。

 服を着てしまうと、族長は拾い上げた革鞄を私に手渡して外に出るよう合図をする。外には数人の戦士をはじめ、集落の住人殆どが集まっているようだった。彼らは私とヌェラの交わりを既に知っている様子であった。私は戦士たちに囲まれて、集落の外れまで誘導された。

 昨夜の情事に対する処罰だろうかと身構えていたが、そうではないらしい。後について来る族長や住人たちの雰囲気は、なにか大仕事を終えた後のような、静かな達成感と安堵感を備えている様子だった。もしかすると、私はこの集落から追い出されることになったのかもしれない。都市に帰れる。そう思うと脳裏に懐かしき都市での生活が蘇った。散らかった研究室や、整然と書物が並んだ学院図書館、アッガスの汚れた顔やミーシェカの皮肉った笑みを、また目にすることが出来るのだ。

 これは喜ばしいことだ。喜ばしいことのはずなのに、私の心は晴れ晴れとせず、ずっと後ろ髪を引かれていた。当然だ、住居に残してきたヌェラに、別れの言葉も感謝の言葉も、何も告げずに出てきてしまったのである。彼女の鋭い双眸にもう一度射貫かれたい。自らの行く末より、たった一人残される彼女のこれからを、私は案じているのだった。

 集落の外れで立ち止まると、族長は私の正面に立ち、真っ直ぐに私を見つめた。族長の指示で上着を脱ぐ。これから何が行われるのか、固唾を呑んで身構えていると、見物について来ていた住人たちの間に葉鳴りのような騒めきが広がる。囁き合い蠢く人山をかき分けて姿を現したのは、羽織と腰布だけを身に着けたヌェラだった。足は生まれたての子ジカを思わせるほど小刻みに震えており、槍を杖のように地面に突き立てながら、ゆっくりと私に近づいて来る。頼りない足取りで隣に並んだヌェラは、咄嗟にそえた私の支えがなければ立っていることも大変そうな様子だった。

 ヌェラは訝しんでいる族長に、畏れ多くもといった声音で何事かを懇願している。何を頼み込んでいるかはわからないが、なんとなくそれは私にも関係があることのように感じて、私も彼女に倣って小さく頭を垂れる。

 黙って耳を傾けていた族長は、暫く考える素振りを見せると、一言、肯定の意を表し、後ろに控えさせていた戦士二人を呼び寄せた。一人は大きな土器を持ち、一人は真新しい二本の槍を携えている。何らかの詩を歌い始めた族長は、かたわらの戦士の持つ土器から灰色に濁った泥を掬い上げて、私の頬に短く塗り付けた。次いでヌェラの頬にも同じ線を描き入れる。次いで私の肩に、同様にヌェラの肩に、次いで私に、同様にヌェラに、次々に線を塗り入れて模様を描くこの行為が一体何を意味しているのか分からなかったが、族長の唄は少しずつ見物人の住人たちにも伝播していき、やがて全体での合唱となった。

 学院の図書館に少数民族について書かれた文献があったことを思い出す。一部の部族では夜伽を成人の儀式として行っており、これを終えた男女は一人前と認められるというのだ。しかし、成人の儀には多くの条件があったはず、例えば、特定の獲物を一人で狩ってこなければならないだとか、指定された生物の攻撃に耐えきらねばならないだとか。そもそもこの集落の人間ではない余所者の私にその成人条件を知る術はない。知らず知らずのうちに、私はその条件を満たしていたとでもいうのか。

 儀式はとどこおり無く進行し、私たちの身体は隅々にまで描かれた泥の模様で埋め尽くされてしまった。粘着質な泥は乾燥しても肌に張り付いたまま崩れてくることはない。最後に、族長は戦士の携えていた二本の槍を取り上げた。場に厳格な空気が張り詰める。差し出された槍を、ヌェラは頭を垂れながら受け取った。だが私は一瞬だけ、受け取るべきかどうか迷った。この槍を受け取ってしまえば、恐らく儀式は修了する。では儀式を終えたら私はどうなるのか。きっと集落内に戻ることは許されず、彼らに背中を向けて歩みださなければならないだろう。そんな予感がした。そうなる前に、やり残したことはないだろうか。

 私は槍を受け取る前に、ヌェラの肩に手を置いて振り向かせ、吸い込まれるような黒をした双眸を真っ直ぐに見つめた。しかし、彼女の瞳は当惑に揺れており、爛々とした輝きは身を潜めてしまっている。

 どうしたらいい、どうすればあの貫くような強い輝きで私を射貫いてくれる?

 私は彼女の手を取って、その傷跡だらけの甲にそっと唇を押し付けた。ヌェラの手が強張る。目を見張る彼女の表情が目に浮かぶようだった。指先から引き抜かれていった掌が飛来し、私の頬を張る。見れば彼女の瞳にはまばゆいほどに凶暴な光が戻っており、まるで初めて顔を合わせた日を思い出させるような殺気を、全身からほとばしらせていた。

 ひとりでに口元が引き結ばれ、目頭が熱くなる。深い敬意と感謝の念を込めて、私は彼女に一枚の用紙を差し出した。訝しみながらも受け取ってくれたそれは、ヌェラの眠っている間に描いた彼女のスケッチであり、本当は秘密にしておきたかった私の劣情だった。

 吹っ切れた心持になった私は、族長から槍を受け取り、集落に背中を向けた。

 二人の戦士に先導され暫く歩くと、灌木帯が途切れ切り立った渓谷の断面が露わになった。黒い地表に散らばる鉱石の破片が朝日に照らされ煌いている。頬に手をやりながら振り向くと、暗い緑の向こう側に一筋の狼煙がたなびいていた。

 そういえば、籠らない煙の謎は最後まで教えてもらえなかったな。

 どこからともなく湿り気を帯びた甘い風が吹いてきて、私の火照った頬を撫でて行く。香油の香りを孕んだ風を見送ったとき、私の耳に歌が届いた。歌は木々の隙間を抜け、渓谷の斜面に反響する。私と、この渓谷との隔たりをとかしてくれた歌声だ。

 立ち止まった私に、戦士が歩くよう促す。再び歩みを進める私の背中を、彼らの歌が押している。渓谷の入り口まではまだ距離があるはずだ。私は耳を澄まして、この旋律を脳裏に焼きつけようとした。

 そして気がついた。昨日の雨で地面はぬかるんでいるのに、自分の足音が一向に聞こえてこない。

 槍を握る手に力がこもった。

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