琳琅 第二号より、「ヴァン・ダ・イールー渓谷の民」武村賢親

 不意に、香油よりも強烈な匂いが鼻先に触れ、沈んでいた意識が浮上した。口を塞がれたような息苦しさを覚えて目を覚ますと、それと同時に生暖かい液体が喉奥に浸入してきて激しく咽こむ。いくらか呑み込んでしまった液体は酷い生臭さで、鳩尾の辺りから立ち昇り、熱く渦を巻くようだった。

 上体を起こそうとするが、金縛りにあったかのように身動きがとれない。蝋で固めたかのように開かない瞼を無理やり持ち上げて見ると、すぐ目と鼻の先でヌェラの漆黒の瞳とぶつかった。深淵を覗かせるような瞳の持ち主は一糸まとわぬ姿になって私の身体にしがみつき、一心不乱に髪を振り乱している。身体が焼けるように熱く、少しでも動かすと突き抜けるような痺れが走った。唯一動く左手で彼女の肩を掴むと、惚けたような瞳が震え、鎖骨に歯をたてられた。初めて目にした彼女の素顔は幼く、あどけない様子が抜けてすらいない。やめろ、そう言ったつもりだったが、洩らした息は言葉にならず、ただの喘ぎとして雨音に吸い込まれていく。

 身体を起こした彼女の四肢は、弱々しく残っている焚火の明かりに照られて、ひどく妖艶な曲線を浮かび上がらせた。髪が肩から一房垂れている。下腹部が熱く、赤い。白昼に浮かぶ岩のような肌からは想像もできない赤が、仄暗い夜陰の底に広がっている。呼吸を整えるように動きを止めていたヌェラは、かたわらから底の深い容器を取り上げ、口をつけて仰向いた。そのまま私の顔に覆いかぶさり、唇を重ねて、舌で抉じ開けるようにして生臭い液体を送り込んでくる。喉仏に手を掛けて、飲み込んだことを確認するまで彼女は口を離してくれない。呼吸のため仕方なくその怪しい液体を嚥下すると、彼女は満足そうに息を吐いた。

 それから暫くの間、私たちは抱き合ったまま時を過ごした。ヌェラの荒い息はほどなくして小さく規則的なものに変わり、彼女は私の肩に爪を食い込ませたまま眠ってしまった。体温は子どものように高く、私の火照った身体の熱と合わさって互いに大量の汗を流している。こうして肌を重ねていると、彼女の身体が狩りをする戦士のそれではなく、ガラス細工のように脆く弱い存在のように感じられた。受け入れられた喜びか、裏切られたような悲しみか、どの感情を発露させれば良いのか分からず、結局なにも浮かんでこない私の心は、ひどく静かに凪いでいた。

 痺れの残る身体を無理やり動かして身体を引き離す。一瞬だけ身を震わせて呻いた彼女だったが、またすぐに静かな寝息を立て始めた。雨の音はいつの間にか止んでおり、代わりにトリの甲高い囀りが聞こえてくる。垂れ布の隙間から差し込んできた薄明の光が私の感情を蘇らせ、湧き上がってくる身も世も無い思いに身体を震わせた。しかし、涙が出て来ることはなかった。涙を生成するだけの水分はすべて汗と情欲に持っていかれてしまったようである。心地よいほどに気怠く、それがまた情けなかった。ヌェラを抱き起こしてそっとかたわらに寝かせ、脱ぎ捨てられていた羽織を掛けてやる。眠る素顔はやはり幼く、良心が痛むほどいじらしかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?