琳琅 第二号より、「ヴァン・ダ・イールー渓谷の民」武村賢親

 必死で何かを伝えようとしているが、いまだ肯定と否定でしか意思表示が出来ない私には何をそんなに怒っているのかさっぱりわからなかった。困惑し続けている私に業を煮やしたのか、ヌェラは羽織の前を乱暴に掻き開いて半身を晒し、脇腹に残る噛み跡のような大きな傷跡を示して見せた。罠を振り解こうと暴れ続けているトカゲと傷跡とを交互に指さしながら訴えてくるため、その傷が黒いトカゲによってつけられたものであろうことは理解できた。しかし私の意識は、脇腹の傷跡よりも、胸部で彼女の動きに従って小刻みに揺れる二つの乳房に奪われていた。

 ヌェラは女性だったのか! 

 私は探し求めた黒いトカゲを発見した時とは比べ物にならないほどの衝撃を受け、言葉も発せず、相槌を打つことも忘れてしまった。そんな私の様子を何も理解していないと受け取ったのか、ヌェラは呆れたようにため息をついて装束を正すと、私の上から退き、せっかく捕獲した生態サンプルであるトカゲに短剣を突き立て、止めを刺してしまった。そうして動かなくなったトカゲの口から大きな牙を一本引き抜き、やっと上体を起こしたばかりの私に突きつけた。先端が鋭利に尖った細いそれは、はじめこそ血で濡れていたが、すぐに降り注ぐ雨によって洗われて黄ばんだ表面を露わにする。彼女はおもむろに私の左腕を取り、注射針でそうするように、軽く、ちくりと刺し込んだ。

 いまにして思えば、彼女は私を助けてくれたのである。左腕に奴の牙を突き立てたのは、それに神経を麻痺させる強い毒があり、一度噛まれたら肌を直接炎で炙られているような痛みが襲い掛かってくることを教えるためだったのだろう。左腕に生じた激痛に悲鳴を上げてうずくまり、焼けるように痛む腕を少しでも冷まそうと濡れた土を握って左腕に塗り付ける私に、彼女はずっと付き添い、集落に戻るまで身体を支えていてくれていた。

 ヌェラは族長から私の教育係を命じられたらしく、右も左もわからない私にこの集落での暮らし方を教えてくれていた。同じ住居を割り当てられ、朝の香油塗りに始まり、装束の正しい着方、罠の作り方、作物の収穫、言葉、武器の扱い方、この集落での生活はすべてヌェラから教わったのである。当初、種火も満足に作れない私を彼女は蔑むような眼差しで見ていたが、それも三日目を過ぎる頃になると薄れてきて、今では隣に座って共に獲物の肉に食らいつける程度には気を許してくれているらしい。

 例によって骨に残った肉片まで綺麗に食べ終えてしまうと、先の細くなった骨で歯の間を掃除し、頂いた命に感謝の儀式を捧げた。それが済んでしまうとあとは休むだけである。

 いつもなら私が眠りに落ちるまでヌェラは決して目を閉じないのだが、今日は少し様子が違うようであった。彼女は羽織に包まるようにして丸くなると、干し草の敷き詰められた床で私に背を向けて横になってしまう。雨に濡れ、怒声を飛ばし、なかなか意思の伝わらない私への教育で疲れてしまったのかもしれない。

 火に薪をくべて、私も横になった。煤で黒くなった天井が目に入る。いや、ここの天井は初めから黒かったのだ。雨風を防いでいる屋根は渓谷の黒い土でできている。いまだ、立ち昇る煙がどこから抜けていくのか判然としないが、住居内は暖かく、快適だ。無論、都市の建物のような整然とした清潔さはない。しかし、椅子がなくても座れるし、ベッドがなくても眠りにつける。窓はないが、耳を澄ませば外の様子が脳裏に浮かぶ。車輪が石敷きの道路を叩く耳障りな音も、人々の喧騒も、遠い過去のことように感じる。
雨音は更に激しさを増し、明日の朝まで続きそうだった。左手の痺れは随分と落ち着き、物を掴むくらいは出来そうである。ヌェラの様子を確認すると、呼吸に合わせて羽織が小さく浮き沈みしていた。

 狩りでの一件を思い出す。私に詰め寄った彼女の瞳には、小さく私が映っていた。この集落で名前もなく生活する私はときに、自分がちゃんとここにいるのか分からなくなることがあった。例えば狩りで獲ってきた獲物を分配するとき、ちょっとした用事で集落内を横切るとき、集会所として使われる住居に住民全員が集まって議論を交わすとき、その時々で私は自分だけが彼らとは全く違う空間に、一人ぽつねんととり残されているような感覚に襲われるのである。確かに私は余所者であり、いつ追い出されるかもわからない身の上だ。感じる疎外感は仕方のないことかもしれない。しかし、そんな感情を抱くたびに、私はここでの暮らしの師であるヌェラに対して、強く申し訳なさを覚えるのだ。彼女は私と集落の住人を繋ぐパイプの役割を担ってくれている。そのため、私の失敗はそのまま彼女の失敗として非難され、私への罰はそのまま彼女への罰になってしまう。私の過失が原因で飯抜きになったことは一度や二度ではない。それでも彼女は私を見捨てずに根気強く教育を続けてくれた。ときには手酷く打擲されることもあったが、母親が子にするようなものである。私は彼女から受けた恩に報いたいと思っていた。

 薪の爆ぜる音が一際大きく響いたのを境に、雨の音が少しずつ遠退いていく。明日はヌェラに蹴とばされる前に起床することができるだろうか。先に起きた私を見る彼女の表情を想像しながら、小さくなっていく雨音に耳を澄ましていた。

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