琳琅 第二号より、「ヴァン・ダ・イールー渓谷の民」武村賢親

 しかし私は、この渓谷に適応して進化したと思われる、独特な生態を持った爬虫類の存在を発見した。もう半年ほど前のことである。採掘された鉱物を研究資料として融通してもらうため、助手のミーシェカと共に車に乗り、ウマに引かせて採掘場へと出かけた。

 採掘所を取り仕切るアッガスとは旧知の間柄で、鉱石や地質に関する研究に携わる際には必ず協力を仰ぐ私の良き協力者である。私の研究室に住み込みで働いているミーシェカも彼に紹介された人材であった。少し皮肉屋なところがあるが、良く働く壮健な女性である。

 まぁた研究資料に使うのか、たまには部屋の暖を取るとか、新しいナイフを造りたいだとか、そういう研究目的以外の理由で取りに来られないものかなぁ、と呆れる彼の顔に張り付いた煤汚れも見慣れたものである。同じ初等教育を受けていた頃の彼は色白で線が細く、力比べではいつも最後から二番目の順位だったのに、今では私を片手で持ち上げるくらいの屈強な男になってしまっていた。それに比べて私の腕は、先生には研究以外での欲ってものがないんですよ、と言って鉱石の入った木箱を馬車に上げるミーシェカのそれより非力である。日がな一日研究室に籠っている私にとって、今日のこの外出は学院の図書館に出かけた時分から数えて約半月ぶりの外出であった。

 アッガスから鉱石を譲り受けた帰り道のこと、私は山道脇の岩影に横たわっている黒い体色をした爬虫類の死骸を拾ったのだ。体調は八十センチ程度の中型で、南西諸国に多い砂漠地帯に分布するトカゲに酷似している。鋭い爪のある足で四足歩行をしていると思われ、尾は胴体よりも長く、目の粗いやすりのような手触りをしていた。

 研究室に持ち帰って調べてみると、この爬虫類は鉱山から採取される鉱物と同等の硬い鱗で覆われていることがわかった。しかもこの鱗は鋭刀を通さないほど硬く、解剖して胃の中を調べようにも手持ちの刃物では一向に切り開くことができない。仕方なく石工用の鑿と木槌を持ち出して来て、多少荒くなることを承知で鱗の割断に取り掛かった。鑿を宛がって槌を振り下ろす。しかしその時、まったく予想もしていない現象が発生した。木槌の勢いに負けて鱗の上を横滑りした鑿の摩擦で、鱗から火花が散ったのだ。

 それからの私の対応は早かった。新しいオモチャを貰った子どもの如く、隅々まで調べてみないと気が済まなくなったのである。まず解剖よりも先に尾を根元から切断し、その端を握って鞭のようにしならせ、胴体の鱗に叩きつけてみた。もしかすると、という私の予想は的中した。やすり状になった尾が強かに鱗を打った瞬間、互いの摩擦によって火花を生じさせたのである。その火花の残りカスを分析してみたところ、鉱山で取れる鉱石から生じる灰と同じ成分であることが分かったのだ。

 この爬虫類は何らかのかたちで鉱石の灰を摂取している。

 再び鑿と槌を手に取り爬虫類の鱗を割って腹を捌く。取り出した胃の内容物を分析すると、黒い雨によって灰をコーティングされたコケを主食にしているようだった。他にも植物の葉やトリの骨のような残骸も取り出すことができ、この爬虫類が雑食性だということも判明した。これらの要素から仮説を立ててみるに、かの渓谷は死を待つ谷などで決してなく、現在も適者生存の方程式に当てはまった生態系が築かれている生きた谷なのではないか。

 この仮説を立証し論文としてまとめるために、私は渓谷での実地調査を決意した。それから渓谷に関する文献を調べ上げ、数々の仮説を立て、漆黒の鱗を持つ爬虫類の研究も残すところは生きた実物の生態のみにまで迫った昨日、渓谷の入り口の集落でガイドを雇い、とうとう私は海抜の浅い緩斜面で黒いトカゲの捜索を開始するに至ったのだ。

 捜索を開始して半日が過ぎたが一向にトカゲの見つかる気配はない。山脈特有の黒い雨も降り始めてきた。ここ数日雨が続いているらしく、谷底から吹きあがってくる風は絡みつくような強い湿り気を孕んでおり、吸い込むと土と金属とが混ざったような匂いがする。底の方で風が乱流しているのか、耳に届く風鳴りは高く低く乱高下し、なんとも不思議な音律を奏でている。

 今日はここまでにしておこうと言うガイドの提案を受け入れて山道に戻ろうとした時、大きな地響きと共に台地が揺れて、私たちの立つ地面がにわかに崩れ始めた。普段から山仕事をしているガイドの男はすぐさま山道まで駆け上がって大きな岩によじ登ったが、ここ十数年ろくな運動をしてこなかった私の足腰は脆弱で、彼のような機敏な動きで流動する地面を駆け抜けるなどという芸当は出来なかった。

 あっという間に土砂に流された私は、生き埋めにだけはなるまいと懸命に手足をばたつかせて、背泳ぎのような格好で必死にもがき続けた。小石や岩の破片に皮膚を裂かれ、手首や足首など、露出しやすい部分が痛みで熱くなる。土は服の中にまで侵入し、汗で濡れた皮膚をひやりとさせた。瞼に砂利が降りかかり目を開けていられない。脳裏に鉱山夫のアッガスの灰だらけの顔が思い浮かんだ。彼なら私をこの土砂から引き揚げてくれるだろうか。毎日つるはしを振るって鉱石を山のように運んでいる彼の腕なら造作もないだろう。学院の図書館にこういった非常事態での取るべき行動に関する文献はあっただろうか。それよりも、あの黒いトカゲがこの土砂崩れに驚いて、ひょっこりとその姿を現さないだろうか。なにか固いものがこめかみにぶつかったことは覚えているが、私の記憶はそのあたりでぷっつりと途絶えてしまっていた。

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