琳琅 第二号より、「ヴァン・ダ・イールー渓谷の民」武村賢親

 ヌェラに限らず、過酷な食料不足と黒雨のもたらす病を幾度も越えてきた彼らの気性は総じて荒く、陰湿であった。この渓谷に住まう部族の歴史は古く、片方の瞳が白濁していた族長の話から推測するに、都市に住む人々が鉱山を発見して採掘を始めるずっと以前、まだこの山脈が活火山であった頃からこの土地で暮らしているようであった。

 私がこの集落にきて最初に連れて行かれた場所は、外に並ぶ他の物よりやや大きく、内部の広い住居だった。土砂から掘り起こされて集落に運ばれて来る道中、目立った攻撃や拘束などをされなかったため、敵とは見なされていないらしい。住居内にはモモによく似た甘い香りがたちこめていた。香炉でもあるのかと住居内を見回そうとしたが、私より頭一つ分背の低い住人に制され、焚火を囲んで座している老人達の前に膝をついて座らされた。勝手な見立てだが、おそらく集落の重鎮たちだろう。

 一番奥に座る、部族の長と思われる老人に何事かを問われたと思うが、彼らの使う言語は囁くような音量で話されほとんど聞き取ることが出来ず、顔は目元を残して黒い布で隠されてしまっているため、唇の動きや表情から彼の意思を読み取ることはできない。私は伝わらないことを承知で、自身の身の上と敵対する意思がないことを慎重に明言した。武器を持っていないことは見れば分かってもらえるだろうし、私と一緒に回収された荷物にも、紙とペン、それと少量の食料以外の物は入っていないことは既に確認されているはずだった。

 黙って耳を傾けていた老人たちは、私の話しが終わったとみると同席者と顔を近づけ、二言、三言と話し合いを始めた。彼らをはじめ、私を囲んで見下ろしている集落の人々は皆、一様に黒い布で素顔を隠しており、顔立ちを窺うことができない。肌の色も長袖の装束に隠されており、唯一晒されている両の目も疑念に細められていて正確な瞳の色がわからない。頭には細長い布を包帯のように巻いて髪の毛をその中にすっぽりと納めてしまっているため、髪色でどこのどんな人種に近いかということも推測することは出来なかった。聞く言葉も初めて耳にする抑揚や音の配列である。囁くような声音にどれほど耳を澄ましても、私の知る言語に当てはめてあたりをつけることも適わなかった。

 そもそも私がこの渓谷に足を踏み入れたのはこの部族の人々とは一切関係のない事柄によるものであった。こんな状況に陥った原因は、元来私に備わっている好奇心と、研究者として後天的に染み付いた職業病による合併症をこじらせ、たいした備えもなく、軽い気持ちで新種と思われる爬虫類の生態調査に踏み切ってしまったことにある。

 都市では、この渓谷は人間の生活できる環境ではないとされていた。二つの鉱山山脈に挟まれた谷底には生活をたてられるほどの土地や食料は乏しく、海抜が海より低いため、山影に日光を遮られて日照時間も極端に短い。谷を含む周辺の山脈に降り注ぐ雨には鉱山から採取できる可燃性の鉱物の塵や灰が混じっており、大地や植物を黒く染め、農作物となりえる植物は満足に育たないとされていた。植物が育たなければそれを餌にする生物の生存は難しく、特にこの渓谷の周辺で土着の生き物が確認されたという報告が上がったことはない。そのためか、都市部や山脈周辺に暮らす人々はこの渓谷を「死の谷」と呼んでいた。

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