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にわかを迎え入れる「スキ」 ーーダブルスタ丼さんへのわたしの回答/にじさんじへ捧ぐ



つまりこういうことだ。他人が何を考えているのかなんて、究極的には、わからない。自分の思いを完全に伝えることも、究極的には、不可能だ。ひょっとしたらお互い、相手を誤解ばかりしているかもしれない。だけどそれでも人は人を好きになるのだ。                         この物語の登場人物は、みんな表面上とは違う気持ちを抱いている。その気持ちは隠されているから、お互いがお互いを誤解している。だからこそすれ違いが生じて、よく衝突し、時にひどく傷つけ合ったり、つらい思いをしたりする。けれど人というのは、そういうものなのだ。人は相手のことが完全に理解できなくても、他人を好きになったりする。それでいい。それを恐れていたら、好きになること自体、できないのだ。もちろん、人を見た目で決めつけちゃいけない。でも、その人がどんな人か完全に理解できなくても、好きになっていい。この物語は、そういうことを言っている。                 さやわか「とらドラ!」紹介文 『人生を変えるアニメ』(p190-191)河出書房新社編
誰かが人を好きになるなんて自然じゃないか!誰かが君を好きな理由を否定するな。                                                                                                              だから、理屈とかいいんだよ!なんでみんな、そうやって人と会うことを拒むんだ――話にならない!誰かと誰かが会わなきゃ話にならないだろうが 物語にならないだろうが!                       西尾維新「第四話 しのぶメイル」『終物語(中)』神原駿河


はじめに

…だけど正直、わたくしがにじさんじに応募した理由のひとつとして、「色々整っていなさそうだったから」というものがあった。ただでさえバーチャルユーチューバーなんてわけの分からないものに、この「にじさんじ」の胡散臭さが上乗せされて(当時のにじさんじ公式HPは相当胡散臭い)よっぽど何が起きるか分からないワクワク感があった。                                 皮肉なことに、その期待が一番成就できていたのってあの時なんじゃないか?            『月ノさんのノート』「月ノ美兎は箱の中」

(「あの時」のエピソードは是非本を買ってお確かめください)


去年の10月頃の事。当時は黛くんと健屋さんの放送をよく見ていて、にじさんじの人たちって本当に熱い心を持っているよねという話を、にじさんじに詳しくない友達にしていた。その時にこう言われた。

「でもさ、毎度のことでこういうコンテンツは一方で世間の空気と企業だからこそのお金の話でがんじがらめになって、一方でそういう世間から隔絶しようとして、コミュニティで不文律が出来まくって、みんな壁を作り合ってニコニコ動画みたいに消費されて終わる。そういうもんじゃん?」

場の空気が凍った。


それから数か月後。黛くんのファンに誘われ、書かせていただいた記事が好評だったころ。noteで人気の記事は何だろうと思って、ダブルスタ丼さんの記事を読んだ。あまりの衝撃的な内容に、なんとか色んな考え方があるよと言おうとして、愚かながら↑の記事を書いた。その時、あるライバーさんの単推しの方が「自分はあの記事を否定することができなかった」と悔しがりながら、こう言った。

「私たちが、推しを好きなのも、彼女たちの周りに村を作るだけで迷惑なのかな…」


わたしがにじさんじについて、記事を書いている理由には、こうした言葉をどうにか「それは多分違うよ、見方を変えたらこうも言えるよ…」ということを繰り返しているような、ずっと否認したがっているような、そんなところが、ある。

前回の記事、ものすごい賛否の声をいただいた。これは私が2019年にリアルの事情で界隈の動向をしっかり見れなかったため、諸々の文脈を知らなかったためが大きい。申し訳ありませんでした。

ただ、私はある種のライトなユーザーに近い立場にいる。そしてそういう人間に対して、こういうことがあった。実は、賛成の声は(にじさんじファンの方であっても!)匿名でいただき、反対の声はnote側に集中していた。この状況に、にじさんじを「村」と例えるダブルスタ丼さんの感想を頭に入れていた自分は、本当に困っていた。海外の方も含め、にわかの人が入ることは、文脈が欠落したり勘違いすることは、「迷惑や危険と隣り合わせ」と同時に「面白さや革新の源泉」だと私は考えていた。

私は、前回の記事で「にじさんじと海外の関係性について考えたいなあ」と書いた。正直、用意しているものは相当軽薄な一般論だった(経営学や人類学の本を用意していた)。が、その「軽薄な議論」すら許さない環境は、違う意味のまずさを持っている。海外からくる方は「文脈が違う」「わかってない」ことを言う可能性のある人だ。けれども、その「わかってなさ」はちがうにじさんじの側面を作り出すかもしれない。今回はそういう記事だ。


ロキノン・独学大全・外国語学習の方からきた一般人

ローリングストーンズの代表曲のこの曲、邦題を『悪魔を憐れむ歌』という。でびさまのたまに使うあの言葉の元ネタの可能性が高い。ゴダールの映画『ワン・プラス・ワン』の主題歌である。


わたしのにじさんじ遍歴を紹介しておく。記憶だよりなので、あいまいな部分があるのは申し訳ない。

文化人類学を勉強していた関係で、よく外国語に触れる機会があった。そこから頻繁にyoutubeを触るようになる。そして2018年のバーチャルユーチューバーブームの頃にバーチャルユーチューバー四天王、そして月ノ美兎さんの動画に出会うことになる。実は、この時の彼女の印象は「結構文字通り清楚では…?」だった。

その後リアルの影響で、2019年10月あたりまで、あまり動画を追えなくなる。そのころはむしろ本や外国語の下敷きになっていた。そして、10月頃から、かなり特殊だと思うが私はまるでにじさんじとホロライブを見て回る、「周遊」するかのように見るようになる。最初ぼんやりと見たのは夜見さん、意識し始めたのは後述する加賀美社長から。

ニュイさん、アルスさん、星川さん、リゼ様…おそらく感覚的には各ライバーの生配信を10-15本ずつ見ているような見方をしている(例外は緑仙、黛くん、健屋さん、月ノ美兎委員長、舞元さん)。にじさんじ→ライブ配信ボタン→やっている生放送をなんとなく見る。これは、人間の記憶が「忘れる」ことを考えると、絶妙に全ライバーに対してにわかになる見方である。ホロライブに関しては、特にゲーマーズの四人に関して、同じような状況である。

また、2020年4-6月頃には、言語の勉強も兼ねて翻訳も投稿していた。緑仙の動画上にはいくつか残っている。そして時々twitterで独学大全という本に触発され、ライバーさんの考察などしていた所、黛くんのファンの方に「noteに書きませんか?」と言われて書いたのが、この記事である。

にじさんじのことばかり書いたが、私も一般的な人間と変わりない。この間のゴルフ松山英樹さんの勝利に思わず泣く。にじさんじ外の趣味で将棋とかフラメンコギターとかをやっている没個性な人間である(にじさんじの趣味における割合は20-25%ほどだと思う)。むしろ趣味の大部分は音楽鑑賞だ。

時に言葉で人を傷つけることもあるし、感謝されることもある。そういう人間である。

まとめると、私がにじさんじを見る時、必ずしもVtuberの文脈ではない、「サブカル」「J-POP/洋楽」の一部としてみていることをご理解願いたい


ダブルスタ丼さんの議論とその限界

ダブルスタ丼さんの文章、とりわけこの二つを考えよう。前者は「箱無理」と省略する。

この方の記事は、非常に丹念に、当時のにじさんじの状況を説明しながら、自分の感想に説得力を持たせている。あくまで「感想」ではあるが、それは実際の事実がしっかりとられているため、強烈な反応を取ることになった。何より、私のフォロワーさん方ですら、首を横に振ることができなかった。

おもしろいことの好きな、月ノさんがこれを読んだと考えると本気で心が痛い。

好きな事をしたいなら、自分でファンを増やせ。
それが出来ないままで、や他のライバーを頼らないでくれ。
を、他のライバーを頼りたいというなら好感度を意識しろ。
蔑ろにしたままで出歩くな。
好感度など投げ捨て、それが自分のスタンスだというならば誰とも絡まず、
自分と、自分のファンの中だけで完結させて欲しい。          『にじさんじ文化論まとめ』

まず私は、この記事で頻繁に使われている「箱」という比喩が、YouTubeで活動する人々に使うのには厳しいのではないかと考えた。「箱」という言葉は、アイドルが同じ場所に集まるところから始まっている。しかしVirtual Youtuberは活動の場所がインターネットの上である故、「場所、時間、出演する人間、演出方法を固定して集合するのに向いていない、あるいはそれはネットの『展開の読めない』タイプや『異業種交流』タイプの文化の面白さを消してしまう」と考えた。下のリンクのように「線のまとまり」として捉える方がまだよい。さらにその線は外部と蜘蛛の巣のようにつながっているはずだ。

ただし、「面白い」と思っているはずの行動が、いつのまにかみんな同じ方向に行ってしまうことは、人間が環境の生き物である以上、明らかにあり得る(内輪ノリ)。にじさんじの人は「にじさんじの一人」であると同時に「一人のにじさんじ」である。バラバラと思ったら固まってた、というのはあり得る。

文化人類学者のホイジンガは、「遊び」の類型として次の四つを作った。(この記事より参照

・アゴン -競争 :運動や格闘技、子供のかけっこ、ほか。
・アレア -偶然 :くじ(宝くじなど)、じゃんけん、サイコロ遊び、賭博(ルーレット・競馬など)、ほか。
・ミミクリ -模倣 :演劇、絵画、カラオケ、物真似、積み木、ごっこ遊び(ままごとなど)、ほか。
・イリンクス -めまい :メリーゴーランド、ジェットコースター、ブランコ、スキー、ほか。

私がこの記事で擁護したいのは、特に「偶然」(少しめまいも入る)である。偶然、予測不可能性、「展開の読めなさ」は一番言語が記述するのが難しい領域であり、「安心」「安全」という一見絶対に見える価値観の標的にされやすい。しかし、偶然を忌避しすぎると、文字通り「村社会的な」良くないところも出てくる。この中庸をどうつくり出すかで、私は延々悩んでいる。

いつまでも箱の中で既存のファンだけをぐるぐると回す。いつまでも箱の中で既存の話題をぐるぐると回している。ならば今にじさんじは新しい話題の洪水によってネガティブな話題を押し流す事が叶わず、炎上や不祥事に弱い箱になった。               『にじさんじ文化論まとめ』

「箱無理」へのファンの方の対応は「もうにじさんじを無理して見なくてよいのでは?」「嫌なら見るな」という答えが多かった。これは、一つの答えとして正しいと思う。

ただ、正しすぎるが故に、昔を懐かしむ古参の人に致命傷を与えてしまう少しでも心変わりをしようものなら、にじさんじとの出会いが「悲劇だった」ことになってしまうのだ。強迫的な仕方でにじさんじを見る危うさを緩和しておきたい。私は↑の記事の前に、推し・あるいは好きだったものへのソフトな離れ方の提案をしている。

「推しの推しを推しにいく」という方法を書いた。この方法を実践化しているのが、例えば加賀美社長の記事である。ここで私は、この人を「洋楽メタルの好きな歌手」と置き換え、彼の好きな洋楽を紹介している(間違いではないはず)。実は、この記事、メタラーの方にかなり好評をいただいている。推しの推しに目線をうつしておくことで、メタラーさんに加賀美社長が知れ渡ったかもしれない。推しを調べるだけでこういう冒険もでき、応援にもなり得る。そしてメタルにハマるという方向で「離脱」することも可能になる。これはにじさんじの別の見方である。私の記事の一部はこれを支援するために書いていた。(あんまりおおっぴらにしたくなかったけど…)後述するが、これはライバーの趣味を「聖地巡礼」するためのツアーブックに等しい。

そして、「箱無理」の記事には致命的な限界がある。わたしはダブルスタ丼さんがにじさんじを立ち去る必要はないと思う。しかし、もし「世間」ににじさんじが顔向けできないとしたら、それを判断するためにはにじさんじの中の言葉や視点だけではいけないはずなのだ。それはオタクや原作好きには怖いかもしれないが「外」の判断がいるはずだ。

売れるということはお金が入る(セルアウト)という意味だけじゃない。ローリングストーンズのボーカル・ミックは大学で経済学を学び、お金はお金だけじゃなく人間の影響力など他の指標もいることは頭に入っていた。今の日本で言えば、Official髭男ismやKing Gnuはあえて売れ線の曲を一度書き、その後でえげつない実験曲やCM曲をドラマ主題歌に持っていくという恐るべき行動をとった。(髭男の藤原さんはそもそもBruno Marsの大ファンなので、自然体ではあるかもしれない)



続々と有名人の方が、海外の方がVtuberへの興味を示している。色んな障壁はあるかもしれないけれど。それは明日花開くかもしれないし、10年後、法律の事情などが変わる時に花開くかもしれない。そういう種が、インターネットを通じて散種されているのだ。時に恐ろしいものも引き連れてくるけど。



そしてダブルスタ丼さんの問題は、何故かライバーとリスナーとその他の世界が双方向に影響したりしなかったりして、新しいものが生まれる可能性を等閑視していることだ。予測のし過ぎなのである。外での偶然の出来事が、内側の配信に好影響を与える可能性はある。(経済学的には「外部経済」の問題だ)

そして、なぜ「案件を生む」ことができるのが、運営だけだと考えているのだろう。にじさんじ甲子園は、Vtuber甲子園から続く、舞元さんやてんかいじの野球への熱い思いがコナミに届いた結果できた案件だったはずだ。(あとSKB部の案件はまじびっくりした)

ファンやガチ恋という名前をした人は存在しない(それはあくまで属性だ)。にじさんじに対してちょっと嫌になったり、好きになったりするかもしれない。あと剣持とファンの関係はあまりに世にも奇妙すぎる。私のように、長期離脱からの復帰者もいるかもしれない。そこにはグラデーションと個性があるはずだ。


「ずっと好きだった」は小さい頃に好きだった人に思いを伝える曲

こうした状況をまとめるために、そして前回の記事の件を考えるために、私は「にわか」の人が発言しやすい環境が必要である、そして「にわか」について各個人が考える必要があると考えている。なぜ海外の話をしてにわか?と思われるかもしれない。しかし、にじさんじは原点が日本であるため、海外の方はにじさんじの文脈を知らない「にわか」(言い換えれば観光客)として現れる可能性が高い。そして私のように、界隈を往ったり来たりして、時に離脱したりする人もいるだろう(観光のリピーター)。その人たちが、たとえその場にふさわしくない行動・発言を繰り返すとしても、それを否定してはいい意味での偶然も途切れてしまう可能性があるのだ。ライバーさんはよく「自分の人生を大事に」という言葉を使う。これは確かにリスナーを気遣う言葉だが、本人にとっても意味がある。

時に、夢の方向が変わるライバーがいる。「我にじさんじぞ?」と言った彼女は、にじさんじを離れることに決めた。

ひとめぼれという言葉があるように、人は一瞬ですぐに人やモノを好きになってしまう。けれども社会や建前がそれを許さないことがある。

人間は偶然に左右される。選択が時には「良い手」であり「悪い手」にもなりうる。田角社長の好きな麻雀は、ある所まで「手を読む」ことは出来るが、最後は「偶然に左右」される。

だから、ライバーの方が突然変調して、「にわか」として新しいことに挑戦してもよいはずだ。それは配信の新しい形になる。「にわか」とはニュアンスがずれるが、鈴木勝くんは、緑仙の影響でピアノを再開して、一年以上続けている。

水泳と同じくピアノも幼少から嗜んではいたが、練習が嫌で中学に入ってからは触れていなかった。ところが緑仙の企画した『にじさんじ合唱コンクール』にて経験者ということからピアノ伴奏に抜擢。久々に鍵盤に触れることになった。(中略)このライバーとしてのコラボ活動で久々に触れた事が契機となり、2020年3月電子ピアノを購入(この時、『Get Wild』ピアノ伴奏の真実が語られた。)。ブランク故に覚束ない点はあるが、練習によって感覚やピアノを弾く事の楽しさを思い出しつつある。(にじさんじ非公式wiki)


観光客の哲学と「にわか」——文脈全てを追うのは不可能である

この文献を出すと、卯月コウくんの「弁の立つ批評家」の話を思い出すが、許してほしい。

たとえば、日本に短期滞在した外国人が、「ゲイシャ」「フジヤマ」「アキハバラ」にばかり注目し、写真を撮り帰っていくとする。彼らの写真は、日本に住むぼくたちからすれば、多様な現実のなかから彼らが好むイメージだけを取り出した、いわば「日本の二次創作」にすぎない。ぼくたちはそれを「日本についてなにもわかっていない」と笑う。それはまさに原作厨の態度である。住民が観光客を認めないように、原作厨は二次創作を認めない。しかし、同時に、住民の経済が観光客なしに成立しないように、原作厨の喜びもじつは二次創作(二次創作的な実写ドラマ化や実写映画化)なしには存在しない。なぜならば、それこそが原作者を潤わせるからである。実際、それがいくら「原作とは違う」ものだったとしても、実写ドラマ化や実写映画化によって、原作は売れ、より広い読者を獲得するのが現実である。

(ここでの経済は、単純なお金だけではなく、話題性なども含んだ「経済圏」の問題と考えた方がよい)

観光客は、訪問先を、遊歩者のようにふわふわと移動する。そして世界のすがたを偶然のまなざしでとらえる。ウィンドウショッピングをする消費者のように、たまたま出会ったものに惹かれ、たまたま出会ったひとと交流を持つ。だからときに、訪問先の住人が見せたくないものを発見することにもなる。本書でぼくは、観光と都市の関係、観光と視覚の関係、観光と複製技術の関係といった表象文化論的な問題系での考察をほとんど行うことができなかったが、しかし、ほんとうは、観光客の本質を捉えるうえでこの「ふわふわ」性(偶然性)はきわめて重要である。そこにこそ観光客の限界があり、また可能性がある。


にじさんじは、一時期「にじさんじクルーズ」と呼ばれる生放送システムを導入したことがある。ニコニコクルーズを参考にしたのだろう。結果として、ニコニコクルーズと同じようににじさんじクルーズは、コメントが荒れるなどの原因があったのか、終了している。

このクルーズの目的は、邪推でしかないが、「ファンの流動化」がひとつの目的としてあったものと考える。しかしクルーズは、大概な生放送そのものの流れをさえぎる上、クルーズ側の放送が荒れるという弱点があった。

唐突だが、現実のコミュニティの話を挟もう。

不破湊くんや剣持くん、そしてzepp福岡の成功の影響で散々タワーが紫色に光った福岡には、まさに「にわか」を許容するための仕組みがある。「博多にわか」は、にわか面と呼ばれるお面をつけるちょっとした即興劇である。「わたしはおえらいさあのように、世間一般やむつかしいことはわかりもせんですが」と言いながら、世間一般に対して皮肉や心に秘めている、思っていることを言う。しかし、にわかは喜劇なので、うまいオチをつけて照れ隠しをして締める。そういう劇である。(これ、月ノさんのよくやるやつじゃない?)

今、私はライバーさんに対して、ライト層の方がこういうことをできる回路がない、サイレントな声を拾える場が少なくなっていると思う。そのためには、こうした現実の祭りなどから、にわかの声を拾う色んな工夫を探したほうがよいと考えている

(サムネに見えるアクロス福岡は、福岡を題材に書いたマンガ『エクセルサーガ』と『Rewrite』の聖地である。またこの少し奥には『嫌われ松子の一生』の舞台である中洲がある)

博多どんたくは、動員数200万人を超えるお祭りである。「どんたく」の語源は、オランダ語の「zondag」の訛りであり、明治初期に使われ始めた。 「どんたく隊」と呼ばれるグループが各地を練り歩く。ポイントはその祭りの流れだ。まず最初に①天神のど真ん中、一番大きい博多-天神間の道路を「どんたくパレード」と称して練り歩く。

②次にどんたく隊は各自が縁がある/行きたくなった家に『バラバラ』に挨拶周りにいく。パレードに集まった「観光客」と地元の「どんたく隊」は頻繁にすれ違い、そこに挨拶をする偶然がうまれる。すれ違い通信全盛期はすごいことになってそうだ。

にじさんじクルーズは、比喩的には①の練り歩くパレードしかない。②のバラバラに好きな所に散らばるパートをうまくアーキテクチャ化できれば、また違うファンの交流が生まれると私は妄想している。(ただ、こればかりは色々技術的要素がいるだろう)


作業中に見つけたこの曲の宇多丸師匠のリリックが、私の考えに近い

にじさんじにバイオリズムを取り入れることはできるか。

私がやっているのは、ネット上ではあるがコロナ禍で外に出れない現在、あえてライバーを違う目線で語ることで、観光客的な人を招き入れる「聖地巡礼パンフレット作戦」である。文献まとめを大量に書いている理由は、個人の勉強のためでもあるが、共有資源を創り、違う人を呼ぶ場所としての意味も大きい。そして、下の健屋さんの記事は幸運にも医療従事者の方の助言も頂くことができた。

(変な話、考察より↑みたいな記事の方が伸びてほしい気持ちがあったりする)

(学術的参考・いちからはIT企業だからこそ、情報の先鋭化が怖い)


「にわか」は時に迷惑をかける ——しかし、正しさは揺らぐ

糸井:南アフリカ戦があったおかげで、にわかファンが一気に増えましたよね。「にわかファンが一番えらくて、昔からラグビーを知っている人は下(しも)に回るという形で広げていくコミュニケーションが重要じゃないでしょうか?」ということを言ったらえらく喜んで、いろいろ話が発展していったんですよ。                           伊達:へえー!                           糸井:にわかの人を大事にすると、今までのコミュニケーションでどこが詰まっていたのか、よくわかるようになるんですよ。                                             

福岡で行われた、ラグビーワールドカップに際して、「にわか」であることは大きく取り上げられた。重要なのは、固定ファンの存在は、にわか側からはそもそも否定しようもない(必然)ということである。固定ファンの方がいなければ、そのコンテンツは存在しない。そして村であることは悪いことですらない(マイナスだけだったら今ある村の人に失礼じゃろ…)。現実の村や、鎖国していた江戸時代も、きちんと外界と車やバス、出島で交流していた(代わりに村八分や姥捨て山という、分かりやすい晒上げがあったが…)。

そして「にわか」は、文脈が違う・目線の違う話をすることでその場を困惑させる。初期と最近の月ノさんだけを見た私は、彼女がこんなに外に飛び出して色んなことをしてくる人だと最近まで本気で知らなかった。が、一方で彼女は「引きこもり」に価値を見出している時があることも、ファンの方ならわかるだろう(プリコグ・serani poji)。というか、外に行くことが憚られる今の時代においては「引きこもり」はむしろ社会的に擁護される存在になっている。一つの言葉の定義は、容易に揺らぐのだ。そして、先日の復帰配信で月ノ美兎さんは、バーチャルユーチューバーはバーチャルなのに皮肉にも「ひとつの場所に縛り付けられた存在」だと述べていた。ここの価値判断は簡単にはできない。

(月ノさんの好きな吉澤嘉代子さんの最新曲)

ちなみに、ホロライブの私のイメージは良くも悪くもマリン船長よろしく「海賊」である。独特の開放性と取る戦略のガチのヤバさが共存している。故にしょっぴかれるとGTAよろしくひどいことになる。

横道に逸れるが、ビートルズは、その公式版の入手困難さに大量の海賊版が誕生した。ビートルズ側も対応に困ったが、マニアたちはこぞってこの海賊版すらも集め、曲順やジャケットの良さをニヤニヤしながら確かめあった。おそらく、海賊版がなければ日本でこれほど知名度もなかったと思われる。

ひきこもりが専門の精神科医・斎藤環氏は、『ひきこもり文化論』で、「ひきこもり」という言葉をなんらかの線引きにつかうよりも、慎重に「両義的な(ときによいものであり、ときに悪いものである)」言葉として語るようにしているという。例えばプルーストのような天才の大作家は長期間の引きこもりと読書期間がある。奥田民生はユニコーン解散後に一年休暇を取っていた。「作品をつくる」という側面において、引きこもりは基本的に+である。しかし、新しい機会や変節の可能性に関しては-だろう。

この記事の重要な目線は、「逆張り」を史上命題としていた月ノ美兎さんの視点からもらっている。この記事の書き起こしをお借りしよう。

わたくしね、これ言うと賛否両論あると思うんだけど、「にじさんじ」もそうだと思うんですよ。2Dで顔しか動かないところとか、わたくしのなんか変にがばっちゃうところとか、必要以上にパーソナルなところを話しちゃう面とかって、普通は形式とか定義とかそういうものに当てはめたらやめた方がいいんだろうけど、でも「面白いっちゃあ面白い」んだったら、それがもしかしたら正義になるかもしれないっていうことは、今でもよく思うんですよね。
ひっくり返っちゃうかもしれないんですよね。よく、「この定義を兼ね備えていないとこういうものとは呼べないんじゃない?」っていうのをよく見るんですけど、そんなものって結構簡単に揺らいじゃうんですよね、言葉とか、単語とかくくりとかって。

ネタばらしをすると、月ノさんについて色々発見できたのはこの本の影響が大きい。


炎上とライト層の目線 

炎上対策の論文や専門家の意見も出しておこう。去年9月ごろから、にじさんじはadish社の監視ツールを利用するようになった。本音を言えば、私はぎょっとしたが、この可否に関しては個々人に託したい。

炎上の専門家である山口真一氏のインタビューによると、炎上に参加している人の多くは「個々人の持っている正義感」によって攻撃を仕掛けてくるという。特に情報に対して感度が高く、自分と違う考えを持つ人に対して「お前は何も分かっていない」という思いを強く抱き、攻撃を仕掛けてしまうという。そして「𠮟りつける」行為に至ってしまう。

山口氏によると、対処法としては炎上は実は全体から見て少数であると知ること、ちょっとイラっとして攻撃的な投稿をしてしまいそうな時に一呼吸置くことを推奨する。特にネットは「能動的な発言者」「愛憎どっち側にも振り切った人」がどうしても目立つ。

一番大事なのは「誹謗中傷はしないけど、悪質なコメントはみたくない」という「サイレントマジョリティー・ライト層」をどう救うか、彼らに言葉を発する機会を与えるかである。この状況を解決するためには人間だけではどうしようもない面があるため、プラットフォーム側がアーキテクチャ(仕組み)をどう変えていくかを考えなくてはいけないと山口氏は述べる。

そう、「サイレントマジョリティー」を呼び起こすことなのだ。大事なのは場の空気を読んで押し黙ることじゃない。個々人が、自分の違和感や感情を大事にする、自分なりのやり方で言明する、表現することなのだ。それがどんな事態を引き起こそうとも。


その場にいることに「NO」ということは、違う解釈をすることは、文字通り「にわかもの」として叱られることかもしれない。ケンカにもなるかもしれない。でもそういうちょっと厄介な人間がいなければ、人々は極端に二分されて、刷新の機会は失われてしまう。念のために再び言えば、これは古参がいけないという議論ではない。なぜなら、古参がいないとそもそもこの人たちは物理的にいない。しかし、人が新鮮味を忘れずに、炎上や固定化した目線から逃れていくためには「変なことを言うにわかや、外からやってくる観光客」の存在を許容する余裕と時間がいるのだ。『サイレントマジョリティー』は、これを歌う彼女たち自身を救うための曲でもある。


『社会的ジレンマ』の問題 ーーいじめの傍観者たち

山岸 誰だって「リスクは取りたくない」のが正直なところだと思うんです。だからそうしないで済む社会をつくろうとする。そのために、日本では「終身雇用制度」や「離婚してはいけないムード」が生まれた。
糸井 うん、うん。
山岸 しかし「リスクを引き受ける可能性」を抑え込んだ結果、リスクそのものが大きく育ってしまった。そのために「リスクにつながる行動」が
避けられるようになり、自由に行動できなくなってしまった‥‥。
糸井 人は失敗するし、愛し続けないこともある。その可能性は、ぼくにもあるし、そのことをきちんと理解できている人とだと、仕事もプライベートも、すごくやりやすいんです。『「しがらみ」を「科学」してみた。』

社会心理学者の山岸俊男は、「倫理」や「モラル」、「品格」で人を縛る思想は確かに高潔ではあるが、「それで集団を治めるのは不可能だ」と結論付けている。「倫理」や「モラル」は「他人に行動を決めてもらうこと」である。しかし、人間にはそもそも「リスクをとって人を憐れみ、利他的に誰かを助ける」本能が備わっている。少しずつリスクを取りながら行動するからこそ、社会は回ってきたが、強力な規範意識はそれを阻害する。そして「真面目で優しい」人ほどこのモラルに弱い。こうしたジレンマを山岸氏は『社会的ジレンマ』と名付けた。『囚人のジレンマ』も近い概念だろう。色々例を下に置いてみる。

この研究では、いじめがしばしば報告されているいくつかの中学校の二年生と三年生の、合計三三クラスの中で、傍観者の数がどのように分布しているかを調べました。そうすると、半分くらいのクラスではほぼ全員が傍観者を決め込んでいるのに、別の半数くらいのクラスでは傍観者がほとんどいないことがわかりました。                                                     このこちは、積極的にいじめっ子に立ち向かう生徒(協力者)の数が限界質量を超えるとクラスのほぼ全員がいじめっ子に立ち向かうようになり、「見てみぬふり」を決め込む傍観者がほとんどいなくなること、そして逆に、いじめっ子に立ち向かう生徒の数が限界質量に達しないとほとんどの生徒の数が限界質量に達しないとほとんどの生徒が非協力行動を取るようになる、つまり傍観者を決め込むようになることを意味しているのだと、この研究を行った正高信男は解釈しています。                                  山岸俊男「たったひとりでいじめに立ち向かえるか」『社会的ジレンマ』

山岸は同著で、社会的ジレンマの解決には「かしこい非合理性」である「感情」や「憐れみ」が、一見バカに、否定的にとらえられるが有効に作用することを指摘する。

合理的な人間であるAさんは、八万円以下の品物を盗まれても、警察に訴えたりしません。そのため、まわりの人たちから身を守ることができません。        「かしこい」Aさんは、「どんな少額の品物でも盗んだ人間は警察に訴えてやる」と宣言することで、まわりの人たちから搾取されるのを防ごうとするでしょう。問題はこのAさんの言葉がまわりの人たちにとって説得力を持つかどうかです。合理的であることがはっきりしている以上、このAさんの言葉は説得力をもたないでしょう。Aさんが自分の言葉に説得力を持たせるためには、合理的な人間であることをやめ、搾取されたら「頭に来て」感情的に行動する人間になる必要がある、というのがフランクの主張です。                   山岸俊男「感情がコミットメント問題を解決する」『社会的ジレンマ』

この曲の最後の一行に注目


外国でも「サイレントマジョリティー」

実は、『サイレントマジョリティー』の「ある国」である、アメリカ合衆国では、「ニューヨークのイギリス人」という、文化の違いに耐え皮肉を吐きながらも自らを貫くことを背中を押す歌がある。

久保帯人先生のBLEACHの次の新作、『BURN THE WITCH』の元ネタはRadiohead。いかに現代において「魔女狩り」がかろやかに、正義の名のもとに行われるかを皮肉めいて歌っている。ちなみにRadioheadはロックアンセム『Creep』の一発屋と言われていたが、その後テクノにキャラを変えることで、バンドとしての地位を絶対的なものにした。これは自分を突き通そうとした日本のたまとはまた違う例として参考になる可能性がある(当然どっちがいい悪いはない)。


EminemのStanは、Eminemに憧れすぎるあまりに破滅するファンを描いた曲で、Stanという言葉自体も辞書にのるスラングになった。

David Bowieのこの曲も「間違った相手を法務官が処罰するなんて、本人たちは気づいていないけど、ネズミ髪の女の子にとっては退屈なスクリーンに映った、よくある売れ線の喜劇にしか見えない」ということを歌っている。しかもこの曲の内容の元ネタは世界で一番、二次創作された書物、「新約聖書」である。 




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ここから文章が砕けますが、お許しください。

月ノ美兎とフランス ーー古参の武器は「邪推」

ご注文承りました。

ここから目線を月ノさんに向けよう。↑に引用した二曲は、月ノ美兎さんが好きなササキトモコさんと吉澤嘉代子さんが好きだと言って名前を挙げたアーティストである。ここまで音楽史的にDigる(深く潜る)と、流石に月ノさんの文脈から逸脱するように見えるだろう。しかし、洋楽も含めた音楽史的に月ノさんのおおまかな趣向は「今は」フレンチ・ポップやネオアコに近い。吉澤さんの活動の起源は、フランスかぶれだった井上陽水なのも大きい。月ノさんが言及する曲は『アンチグラビティ・ガール』を除くと、悪魔のコードと言われたパワーコードをそのまま使うものがほぼない。(90年代以降のアメリカの匂いがプンプンする加賀美社長とかなり対照的である。ただ、Linkinなどはローリングストーンズのキースリチャーズが愛用するオープンGチューニングも多い)。

これは、音楽古参の人間が文字通り暴走しながら語っている。しかも、長さの関係で細かい分析にはなってない。この分析は間違っているかもしれない以前に、月ノさんはアルバムすら出していない(分析がはえーよホセ)。ただし、彼女のカバーして歌ってきた曲はあまりに綺麗にサブカルチャーの歴史をなぞっている故に、こうも言えてしまう。これにツッコミが来るとしても、それ自体がにじさんじを一般的な音楽史として見る土壌を生成するボケないとツッコミがない。(実は、にじさんじはまだしも、Vtuber音楽の流れに疎いのは申し訳ありません)

音楽理論については、この「いちにの」というサイトの方が細かく解説されている。時々ササキトモコさんの名前も出てくる。

佐々木敦は、渋谷系の元となったフリッパーズ・ギターについて次のように述べている。

彼らの音楽性はおそろしくマニアックな、洋楽オタク的なものであり、彼ら自身、そのことをまったく隠そうとはしておらず、それどころか多くの機会にそのオタクぶりを披露していませんでした。                      しかし、実際に彼らが全国規模の人気者になったのは、もちろんそのマニアぶりによるものではなく、二人のルックスやファッション、あるいはトリックスター的な言動によるところが大であったのである。これは疑いを入れない事実です。彼らのマニアックな目配せは、もちろんわかる人にはわかったわけですが、わからない人にはわからず、関係がなかった。それでもフリッパーズ・ギターの人気は爆発した。(中略)ここで思い出されるのは、もちろん、YMOの細野晴臣が言っていた「キャラクターで売れてくる国」という話です。                        佐々木敦『ニッポンの音楽』(p168)

先週、はじめてシャニマスの動画を見たが、まさに「模倣」の話であった。そして月ノさんは自分も昔のものから影響を受けていることを隠していなかったはずだ

小中 でも、あれ(文字を出すこと)はね、庵野さん (『エヴァンゲリオン』の監督)の場合は市川崑監督の映画、特に金田一耕助シリーズから来ているんだろうし、私のはゴダールなんですよ。それと、私はホラー・ビデオでキャリアをスタートしていて、最初からドキュメンタリー・タッチのものを作っていたんですが、よく黒味の画面にスーパーインポーズを出していたんですよ。 何年何月何日っていう具体的な年月や土地の名前を入れることで、擬似的なリアリティーを出して、ほんとにあったのかも知れないという感覚を誘発する。いわゆる一つのシステムとして意識的にやっていることで、それはまあ、そういえばゴダールもやってたよねっていうところからスタートしているんです。私の過去の作品を見た人は分かるんだけど、以前から同じことをやっていたんですよ。                  HK いや、それはもう、テクニックとしてもすごく普遍的ですよね。   小中 確かに今の若い人、つまり市川崑とかゴダールの作品を見たことのない人たちからすれば、一緒というか、あるいは真似してると見られるのは致し方ないかもしれない。でも、それは君たちが勉強不足なんだよということですからね。(↑リンクのインタビューより)           
(エヴァンゲリオンは)過去の小説、マンガ、アニメ、映画、音楽への徹底した引用・参照の束で作られている。コードウェイナー・スミスフィリップ・K・ディック市川崑ジェイムズ・キャメロンらから、村上龍神林長平成田美名子大槻ケンヂなどの、八〇年作家たちへと続く参照リストは、膨大な固有名を含んでいる。ニ〇代以上のファンの多くがこの仕掛けを喜んだのは、言うまでもない。                                         つまり、『エヴァンゲリオン』は、ある意味で八〇年代日本アニメの完成形態だったのだ。                             東浩紀「庵野秀明はいかにして八〇年代アニメをおわらせたか」『郵便的不安たちβ』


小中千昭氏は、Lainとなるたるの構成作家)

さらに変なことを述べておこう。エヴァンゲリオンとLainは共にジャンリュック=ゴダールというフランスの映画監督を使って語られることが多かった。とりま「記号が氾濫しているわね・大量生産大量消費社会だわね」という状況をゴダールやボードリヤールと一緒に語るのが、かっこいいと思われていた時代があった(特に80-90年代)。フランスかぶれの系譜は、根深い。だから、月ノさんにニッチ戦略としてアメリカではなく、「フランス」について見て見ませんか?というのは、まあ…ありなのかなあ。フランスは、日本かぶれの意味を持つ「ジャポニズム」という言葉の発祥地である。

「邪推」というのは、「考察のしすぎ」「文脈の読み違い」のことである。アイマスは邪推を楽しむものという話を聞いたことがあるが、それは恐らく相互コミュニケーションの失敗だからこそ、そこから生まれる何かがあるのだろう。古参の武器は、解釈違いを恐れないことだ。

二つほど補足。月ノ美兎さんは、間違いなく観光客的な人である。ここ最近彼女のことを書いていたのには、ここに原因がある。

彼女は一方で部屋に引きこもって配信をするが、一方でにわかであることを厭わずに前世療法にも行く。やばそうな医療にも手を出す。でも彼女がその相手をベタに否定的な意味で罵ったところは、見たことがない。ほんとうにすごい人だと思う。ここに、にじさんじが続いてきた理由があるように私は感じている。

プログラミングの世界には「ファジング」と呼ばれる手法がある。デバッグの際、入力するデータにわざとバグを潜ませることで、エラーを発見する。私は、逆張りを突き詰める月ノさんの方法論がこれに重なって見える。

余談だが、岡崎体育のこの曲、『けものフレンズ』の放送終了2か月後にリリースされている。怖っ


家族 ーーIt's a family affair(若干批評家の方向け)

星野源は、家族について次のように述べている。

Mステ出演時のコメントが衝撃だった。
両親が同性同士の家族だったりっていうのも、これからどんどん増えてくると思う」                                                                                                     「家族って、漠然と血の繋がりだと思ってたんですけど、よく考えたら夫婦って、血つながってないじゃないですか? だから血のつながりとか関係ないな思って」                                                                                                  「例えば、友達や仕事仲間も”ファミリー”って言ったりするじゃないですか。広い意味で、これからの時代に向けての”ファミリー”なんです。あと例えば、両親が同性同士の家族だったりっていうのも、これからどんどん増えてくると思うんですよね。そういう家族も含めた、懐の大きい曲を作りたいな思って作りました」                        サラっと言ってたけど、本当に鋭いコメントだった。
片親、独り身、LGBT。今家族のカタチが一番変わりつつある時代だと思う。
そんなネットリした問題を吹き去ってくれる本当に懐の大きい曲だった。
心からありがとう。        星野源『Family Song』コメント欄より

この間、月ノ美兎はこんな感じで舞った。

東浩紀は、『観光客の哲学』第5章「家族」で、家族の概念について次の三つの特徴を書いた。

①強制性 →自由意志で簡単に入退出ができない集団であり、同時に強い感情に支えられる集団である。

②偶然性→子どもからすれば、親から生まれたのは「偶然」であるが、一方で親から子供が生まれたのは「必然」に見える

③拡張性→血縁的な関係だけではなく、「同じ釜の飯を食えば家族」といった親密性、私的な感情によって形が変わる

さらに東氏は、ヴィトゲンシュタインを例に次のように述べている。

あるグループがある。メンバーの全員の共通点だからグループとしてはなんとなくのまとまりを構成している。家族とは、あるいはゲーム(彼はコミュニケーションすべてを「言語ゲーム」として捉えていた)とはまさにそのようなものだ、というのがウィトゲンシュタインの主張である。           東浩紀『観光客の哲学』(p221)

東村ドライ氏はもうほとんどにじさんじ。

スピッツはアフリカで歌われるようになった

Numa Numaは今アフリカで流行っている

Crossickのベトナム語切り抜きをずっと上げている人がいる

そう、リーチしていない国であっても、微々たるものであってもまるで「感染」するかのように情報や影響は伝播していく(ミーム)。そして向こうの国で受け入れられることがある。それは、何か言葉を超えて「同じもの」と感じる部分があるからだ。特にCrossickの動画などは、この動画がなければにじさんじの存在すら向こうの方が知らない可能性がある。直接宣伝する以外の伝播がネットには頻発することは頭にあっていい。(収益化やバズるかはまた別の話)

これは一般的な言葉での論理の伝播だけではない伝わり方である。社会学ではガブリエル・タルド『模倣の法則』がガチガチの理論書になる。(ちなみにこの人、ライプニッツ主義者である)





ある三つの弔辞




僕もあなたも大して変わりはしない

(YO-KING)ジョン・レノンの代名詞的に“愛と平和”が押し出され過ぎてたじゃない。もちろん、それもジョン・レノンの表面だけど、裏には相当な悪人っぷりもある。俺は両面だと思ってたし、どっちも語ることによって、愛と平和も真実味が増すと思うんだよね。愛と平和ばかり前面に出てる風潮に、ちょっとなんだかなっていう気持ちにはなってたから、ああいう曲になったんだと思う。                                                                                                          ——ジョン・レノン本人も「いかれてる」って自認してますしね。                 めちゃめちゃいかれてますよ。ビートルズのころの彼らのブラックユーモアの感覚はわからなかったけど、20代だからやり過ぎちゃうところがあったんだと思う。俺もその年齢のころはやり過ぎたし、そのやり過ぎたころがあるからこそ、ロックンロールの際どさや危なさが出てたと思うんだよね。        でも、あんないかれたやつが言うからこそ、「この人は本当に心から世界を平和にしたいんだな」っていう真実味というか、すごみが増すって思ってたんだよね。                                                                                                        ——当時はその思いが正確には伝わらない部分もありましたね。スポーツ新聞には「ジョン・レノンを冒涜する歌だ」と書かれましたし、放送禁止にしたFM局までありました。                                                                                    僕自身もいかれた時代だったので、今なら言わないよなっていう表現もありますね。「なんか、ごめんなさい」っていう(笑)。当時はね、本当に勝手な思い込みなんだけど、聖人君子みたいに扱われてる舞台から下ろしてあげたかったの。そのほうが楽なんじゃないかなと思って。もうちょっと、ちゃんと黒歴史を出してあげたかったっていう感じかな。  

 真心ブラザーズの『拝啓、ジョン・レノン』(1996)は、フジテレビで放送禁止になった曲である(が、後にチャットモンチーと一緒に、『僕らの音楽』で、フジテレビで共演している。)

月ノ美兎さんは、にじさんじを三年間継続させたヒロインだ。毎日ひたすらにじさんじのことを考えてきていた超人だ。これは正しい。でも同時に、彼女はただの、一人の不思議な女の子だと考えるのもありえてよい。この「公」と「私」の両義性やゆらぎは精神の健康を考えるうえで大事だ。精神科医の中井久夫氏は、精神健康を保つ基準をこのように述べている。

1.分裂に(splitting)する能力、そして分裂にある程度耐えうる能力          2.両義性(多義性)に耐える能力                           3.二重拘束への耐性を持つこと                         4.可塑的に退行できる能力                                       5.問題を局在化できる能力                                                   6.即座に解決を求めないでおれる能力                                             7.一般にいやなことができる能力、不快にある程度耐える能力                          8.一人でいられる能力、同時に二人でいられる能力                       9.秘密を話さないで持ちこたえる能力                                               10.いい加減で手を打つ能力、意地にならない能力                                                              11.しなければならないという気持ちに対抗できる能力                                                   中井久夫「精神健康の基準について」『「つながり」の精神病理』
一般に笑いは一過性の現象である。対人的道具と化した笑いは、絶えず再入力して維持されているのである。したがって、防衛的な笑いを長く続けているとかえってストレスが蓄積する。                     中井久夫「笑いの機構と心身への効果」『「伝える」ことと「伝わる」こと』

彼女は、にじさんじ全体を揺るがすとんでもないゴシップネタが飛んできた時も、自分の身を呈してみんなを笑わそうとした。こんなにやさしい子を私は見たことがない。彼女がどれだけ悲劇を喜劇に変えようとしてきたか、その努力を思わずにはいられない。遅刻の件で実際に葛葉くんにひどい言葉を言ったように、逆張りを突き詰める彼女なら、大好きなにじさんじのために、自分が犠牲になることだってためらわないだろう。

だから私は、彼女が「全知全能を演じなくてよい」「泣いてもよい」余白を残してあげたいのだ(別に今泣けとかいうわけではない。泣いてもいいけど)。彼女の歌う歌には地獄がつきもので、見る映画はグロテスクで救いのないものばかりだ。

月ノ美兎さんに限らず、YouTuberやアーティストは一面を切り取られがちだ。多義性を飲み込むためにはどうしても時間がいる。YouTubeは、一方で手軽に音楽を聴く環境を用意した代わりに、その深さ(歌詞の多様な解釈や音の意味)を知るための機関が貧弱だ。そのため、検索ワードをきちんと探す、新しい記号を探すようにしなければ、いつの間にか自分の解釈を一元化しすぎてしまう。そこで「偶然」がカギになる。(ただし、月ノさん本人は、「わかったつもり」になることをむしろ肯定的にとらえているのは、『月ノさんのノート』を読まれればわかるだろう。それがファンとアイドル(アーティスト)の関係だと分かっているように見える)


サブカル遊び人の「旅/Trip」 ーー自分を自分で探す/なくすためにさすらった90年代

1990年代は、「旅」に関する歌やサブカルチャーが流行っていた。1996年の『水曜どうでしょう』は、何もしらない大泉洋が、さいころをふってあり得ない場所に飛ばされるようなお話だった。この時期には、バブル経済がはじけて、フリーターとしてどこかを旅しながら、やりたいことを探す「自分探し」が流行していた。その過程の中でミスターチルドレンや小沢健二、奥田民生が出てくる。ただし、こちらはどちらかというと自分を探しにいく「旅人」的側面が大きいことも注意されたい(ミュージシャンは、ライブハウス巡りで旅をしがちだ

一方で、「自分を自分でなくす」ような活動を繰り広げたサブカルマンも多い。マンガでいえばこち亀の両津勘吉もかなり「観光客」的な人だろう。派出所からありとあらゆるところに突撃し、謎のうんちくを語り、商品を作る。

みうらじゅんは『ない仕事の作り方』(2021)で大量の自分が作ったアイデアを説明している。「マイブーム」という言葉(1997年新語流行語大賞)や「ゆるキャラ」という言葉を作り出した。この時の戦略をみうらじゅんは「一人電通」と呼んでいる。ネタを考えるだけでなく、その見せ方や編集者の接待など多くの人の目に触れるようにしていく戦略だ。

ゆるキャラであれば、「ピカチュウ」のようにわかりやすく有名ではないキャラに注目し、いびつなものとして発見する。ポイントは、「ゆるいキャラクター」ではなく、「ゆるキャラ」と言われてそれが固有名詞化するポイントを見つけることだ。これは卯月コウくんの「ブリーチ/LOキャッチコピー」が近いパターンだ。

そのうえで、ゆるキャラを理解してくれる仲間とイベントをする。重要なポイントは、ブームは誤解が起こった時に起こる、深読みが発生した時に起こるということだ(邪推の話を思い出してほしい)。勝手に独自の意見を言い、「乗る」人が出てくればよい。みうらさんの場合、「このゆるキャラ、ゆるくないんじゃないですか?」という怒りの電話が来たらしい。怒りは「誤解」のサインだ。みうらさんは、人を怒らせる可能性も、きちんと理解しておくべきと述べている。

ここに重大なポイントがある。もしもクリエイターがバズを狙うとすれば、「これはこの解釈が正しい」という意見が周囲にガチガチに固定されていたら、それは広まってくれない可能性が高いのだ。だから、ファンの間で違和感を言う場ができていないと、本当にまずいことになるのでは…?と私は考えている。(一方、作品という壁をきちんと作ることは、作者への防御壁になりえる)

(この本は企画アイデアを出す時に本当に有用なのでおすすめです)

このみうらさんのバズ理論は、おそらく現代の「インフルエンサー」の理論として使える。ちなみにみうらじゅんは「アンチ断捨離」を掲げ、物をひたすら集めている。

荒俣宏さんは、水木しげるの弟子として世界中のありとあらゆる怪しいものを収集する妖怪の専門家だ。彼の活動を細かく説明はできないが、柳田国男や折口信夫、小説家だが京極夏彦と同じ「民俗学者」と捉えることができる。詳しい紹介は、もう上記のサイトに行って直接その展示を見た方がいい。

・厳密に考えるなら 「生きている」の反対概念は 「死」ではなくて、「生きていない」 でなければならない。                     ・知らないものは”無い”のと同じだ。                  

中島らもは最強のコピーライターである。家長むぎさんの好きなニーチェがアフォリズム(箴言)を大事にしたように、きちんと練られたコピーライティングは、人の目を開かせる効果がある。


面白ければよいの功罪の意味 ーー「マンネリ化」との戦い/「面白くないこと」への恐れ/予想された「逆張り」ーーある一面のサブカルチャー史


「面白ければよい」「好きなことをすればよい」の功罪は、「面白いことに突っ走る」ことが確定的な命題として語られ、ファンの間で固定化することで、アーティスト側の意志を固定化する可能性があることである逆にファンが「ファンである」ことにこだわりすぎることも、危険な時はある。あるいはアーティスト自身も思い込み、悩み自縄自縛になる可能性がある。「レッテル」の問題だ。

BUMPの『新世界』や米津玄師作詞の『まちがいさがし』は、まさにひとめぼれの不思議を描いている。一瞬で事物の意味が塗り替わってしまうことは、あり得る。

面白いことの問題点は「面白くないことを発見するのが難しい」という逆説にある。視点を変える、ダジャレにするなど、やろうと思えば物事は面白くなってしまう(実は、ひとつの物事が「面白くない」ことを証明するのは相当難しい)。しかし、面白いことを面白いと分かる人はその場にしかいない。そこに内輪ノリ、衝突/革新の種が生まれる。ちなみに「詰まりある」という言葉はない。

サブカルチャーはそもそも、「カウンターカルチャー(逆張り文化)」として生まれてきたところがある。現状とは違うものは何か…?と探す。まず、アメリカの文化を取り入れ、反戦を叫ぶ(吉田拓郎・フォークブーム)→叫んでも変わりないといって、フランスの文化にかぶれる(井上陽水フレンチポップ)→いや、日本と欧米だけなんてだめだ世界に繰り出さねば…(YMO・テクノ)といった感じ。

TVOD『ポストサブカル焼け跡派』は、矢沢永吉沢田研二坂本龍一ビートたけし/北野武戸川純江戸アケミフリッパーズ・ギター小沢健二小山田圭吾)、電気グルーヴX JAPAN椎名林檎KREVA(KICK THE KANG CREW)、バンプ星野源秋元康大森靖子に至るまで、現状への「アンチ」として出てくるものが、結局は現状追認の「キャラクター」に回収されてしまうことに抵抗し、なんとか「世間」の厳罰主義を回避する方策を探っている(特にこの本では、電気グルーヴのピエール瀧の逮捕を悲しんでいる)。自分とは違う立場の人、不愉快な他人をどう寛容するべきかの問題だ。

この本では大森靖子が説く「自分が自分を眺める視線を信じる」ような態度が必要と結論づけられている。(また、大槻ケンヂ/筋肉少女帯は「安易に自己正当化せずに、社会との自分なりの対峙の仕方を考え続けている」と書かれている)

大森さんバージョンの「サイレントマジョリティー」は初めてきいた時震えがとまらなかった。

コメカ ZOCのコンセプトは「孤独を孤立させない」というものなんだけど、これはグループ内の関係性で「キャラクター」を作り出すのではなく、「孤独」な「キャラクター」同士がいかに共生できるか?という問題意識なんだろうと僕は解釈している。グループに参加するメンバーや、それを観る観客たちと、大森はそういう共生のための方法論や技術を共有しようとしているんじゃないかと思うのね。自分のイデオロギーを共有するコミュニティを作るんじゃなくて方法論や技術を手渡していくことで、それぞれの「私が認めた私」同士が関係性を結べるようになることを目指しているというか。「大森靖子 たったひとりのあなたに届けるということ」

もしも、単純なアイドルならばNHKの番組のように「沼に嵌めて」しまった方がいい。お金が欲しいだけなら、単純に楽しいだけならそれが楽かもしれない。そしてレバガチャ台パンの「逆張り」の話をはじめ、実は委員長はところどころで自分の方法論をはっきり話している。以前の記事の繰り返しにもなるが、彼女は人生ゲームをしようよと言っている。なにより、彼女はあまりに文字通り「キャラクター」である。そして、彼女の好きだと言ったサブカルチャーは、何故か、まるでサブカルの歴史をなぞっているかのような曲線を描いている。彼女は「洗脳」を避ける形で僕たちに生きるための武器を渡してはいないか…?


にじさんじと海外(未完成) ーー非市場戦略と「通訳」

これは妄想だ。例えば力一さんが、ノリで「ケチャを踊りたいんだけど」とNIJISANJI IDのHANAさんに言って、何故かやろうということになって月ノさんがインドネシアに行くシナリオは世界線としてあり得る。旅行に行くかどうかは気分の問題だ。これを封殺してはいけない。

ただ、「旅行に行きたい」という感情が出た後に、「私インドネシア語できないし…」と引くのも、「いったれいったれ!JKT48見るんじゃい!」となるのも気分だ。人生はゲームのような選択肢に満ちている。

しかし、RPGに隠し扉があるように、ポケモンの秘伝技にいあいぎりがあるように、パーティにその知識がないと入れない扉は存在する。なので、bilibiliでいきなり大勢の前で中国語言わせるのは人にもよるが、月ノさんにはつらいはずだ。なので流石にその選択肢は外し気味でお話する。

鷹宮リオンさんの好きなアリアナ・グランデは、日本のサブカルチャーが大好きだった。しかしそんな彼女は新曲『7rings』で「七輪」というタトゥーを入れていたことが、「文化の盗用」と言われてしまい、日本語の勉強をやめると言ってしまう。(とはいえ、その後日本公演はしているので、日本嫌いになったわけではない)

この例では、韓国がどうのアメリカがどうの書かれているが、重要なポイントは「日本人でアリアナがやったことをダメと言った人が、問題になるほど見当たらない」ことだ。向こうの人が自分たちの檻に閉じ込められてしまっているのだ。海外にも「世間」がある。

ではどうするか。確か、昔スッキリに出演した時、Brunoが「山下達郎が好き」と言ってくれたのを覚えている。この話題を振ればわかりやすいからという側面もあるが、何より山下達郎はネット上で80年代の雰囲気を示すシティポップのアーティストとして、海外で爆発的に聞かれているこうした「文化的共通項」を「分かっている相手」と最初は共有しにいく『ダイナミック修学旅行/社会科見学』作戦が、にじさんじの場合いいのではないかというのが、おおまかな私の発想の元である。海外では「グランドツアー」という、教養のため旅立つ旅がある。ONE OK ROCKのTakaさんも最初は現地のアーティストと海外でどう売れればよいか議論している。しかもこの方法ならば「学習のため」が一応の目的にあるので無理に動画を作る必要すらない。(当然、他にも色々手はあっていい)

ただ、まだ海外については細かくリサーチできていない。ここの章は未完とさせてください。ここから書くのは大まかなスケッチ。


樋口楓さんに「たこ焼きロック」を提供したみのミュージックのみのさんは、先日、世界的ロックバンドFoo Fighters(元Nirvana)のデイヴ・グロールさんをインタビューした(!?)。これはコロナを逆手にとった方法であるともいえる。

(前の記事で反応に困ったのは例に出したポンジュノと北野武は英語圏以外から世界的に有名になった映画監督であるからだ。海外という名前の海外は存在しないし、グラデーションがある。そして、ポンジュノさんのテーゼのひとつは「地下(Underground)」だ。あんまり言うと月ノ美兎さんご本人に影響があるのであれだが、方法論を調べて「なるほどなあ…」と私は思った)

社築さんの推し球団、横浜ベイスターズの元監督アレックス・ラミレス氏。彼は日本語が堪能だが、あえてニュアンスを守るために話す時はかならず通訳の人をつける。このような形でニュアンスを守る選択は「アリ」だ。

Billie Eilishさんは大のジブリファンで、かつマンガアニメにも造詣が深い。特にこのインタビューでこう述べている。

ーーあなたの影響力は大きくて、スッキリの近藤春奈もあなたの真似をしましたがどうおもいますか?                       マジ?私から影響を受けている人を見る度に嬉しい気持ちになる。誰かから自由に影響を受けることって大切だと思う。私も同じだけど他人を真似したくないからという理由で他人から影響を受けることに罪悪感を感じる人は多い。でも他の人からインスピレーションを受けていろんなことを試してみないと「自分らしさ」は生まれないでしょ?誰かが私から影響を受けているのを見るとすごくうれしいしワクワクする!

サカナクションの山口さんも比較的同意見である。20代は受ける影響は選り好みするべきではないという。

加賀美社長の文脈で紹介した、Linkin ParkのMike Shinoda氏

(アニメ版攻殻機動隊を北野武が外国人の中で語るとかこれもうわかんねえな…)

他にも、例えば笹木咲さんのように任天堂に詳しい方なら、海外の任天堂ファンであり、リアクション動画の王様RogerBase兄貴と話してみたら、面白いことが起きそうだ(彼の動画にVtuberが出たことはない)。ほかにもマンガ作品の解釈などをしゃべった動画を後から翻訳してみるのもよい。

ただし、あまりこの方法を進めすぎると日本ごり押し主義になるので、お相手の文化の癖も、同時に情報収集するのがベターと思われる。

1000万再生を突破した大塚製薬のCMの影響で、スキマスイッチはかなりインドネシアで人気が出ている。こういう「日本の音楽がどう向こうで受け取られているか/2次創作されているか?」の検索は、Google翻訳でいけるはずだ。私は外に出にくい現状、同じものを見続ける状態を回避する意味で外国語検索はおすすめする。

もう一つ、法制度について、重要な視点がある。

日本人は法律があると「法律があるから守らなきゃ」となりがちだ。しかし実際は法律の制定に関しては事件事故が起こった後に議論する・ロビイング活動などで押し戻すなどの駆け引きがある。事実、マンガ『ネギま!』の作者・赤松健氏は、児童ポルノ法やマンガ村、著作権法に関するロビイング活動を続けている。この方がいないとおそらく今コミケ自体が存在していない。そもそも、このような交渉がなければ、IT企業やクリエイティヴのような波風大きい業界はやってられないだろう。しかも赤松さんのリサーチは海外にも及んでいる。

こうしたイノベーション(新しすぎて、正しいか正しくないかわからない事項)に関しては、『非市場戦略』という方法がある。つまり、企業の法務部が、新しいシステムなどについて、議論を行い、法律を動かすことが可能であるという視点だ。任天堂の強力な法務部は、賠償金を取るためだけではなく、こうしたイノベーション後の法整備にも関わっている

絵文字と英語であそぼ YouTube検索くんバグらせ編 おれたちのねっとさーふぃんはこれからだ★

かたぃはなしまぢつかれた…。委員長のツイートで気づいたのでまじであざまるなのだが、絵文字は検索エンジンにバグをひっかけるうえで強力な素材になり得る。海外の方に聞くべきではあるが、まあこの絵文字で委員長が嬉しそうなのは伝わりそうだ。

「ギャル文字」の記事では、こんな文字が出てくる。

こωL=ちレ£レ†’’w(キ

えっ何これは…。この文字、これで「こんにちは げんき」と読むらしいのである。

この記事によると、こういう怪しげな文字が出現したのは「手書き文字を無理やり根性でタイピングしたから」らしい。丸文字は言葉の意味内容では表せない「KA★WA★I★SA」を表すことができる。

エスペラントをはじめ、世界共通言語を創る思想というのは昔から存在していて、その大きな一派に「絵文字」を使う派がいる。デザインとか勉強すると必ずぶちあたる話だろう。

本音を言うと、検索のバグらせ方はまじで私自身が悩んでおりまして、月ノさんみたいな人にアイデアが欲しくなる…。



経営学的に考えていること

私がこの記事で考えた限り、田角社長はかなりバランス型の思考をされている(基本はベンチャー的に冒険をするが、危険度が高いものについてはリサーチ)。ただ、あくまで私個人の懸念として、これは「流行に流されすぎる可能性」を感じている。つまり、ネットにまつわる社会問題も全て背負ってしまうのだ。

キャズム理論は、「アーリーアダプター(面白いものずき)」と「アーリーマジョリティ(実利を求めて、早めに入ってくる層)」の間には、商品を売り込む時に大きな「溝」があり、これを乗り越えられないと企業や業界は落ちぶれてしまう。

しかし、ここで問題がある。キャズムを乗り越えるためには実利を求める人々に合わせるため、世間の事情(資本主義やら法律やらうんぬんかんぬん)が絡んでくるため、特にYouTuberのような業態ではガチで軋轢が起こり、そこで法整備やらがガチガチになっていく。この監視コストや増えていくノルマが、精神的にも金銭的にも負担をガンガンあげていくのではないか、というのが私の考えである。そして、人が命の事業なので、精神的負荷は直球で経営に響く。実は、以前調べたWired社の本や複数の書物で、監視的手法より、本人たちの良心にまかせることを勧めている。(監視は見守りと同じで、必要性は時と場合によりそうだ)

あるとき、イスラエルの六つの託児所で、子どものお迎えにくるのが遅れた親たちに、罰金が課されることになりました。託児所としては、親たちに時間通りにきてほしかったのです。ところが罰金制を導入したところ、かえって遅刻する親が増えてしまいました。                                       ここで何が起きたかというと、親たちのあいだで、「託児所のことを思って、時間どおりお迎えに行こう」という利他的な感情が消えたということです。むしろ、罰金さえ払えば、予定されていた時間よりも遅れていいんだ、自分たちの都合のいいように行動してかまわないんだと考える親が増えた。伊藤亜沙「うつわ的利他」『利他とは何か』

AruFaさんの盟友、ピノキオピーさんの初期の代表曲。これは「よくあるお話」だ。絶望的なほど。

この考えはイノベーションのジレンマとも関連している。「まだ見えない市場」を開拓する努力は、既存のファンに目を向けすぎるとできなくなってしまう。この記事から破壊的イノベーションの成功法則を見てみよう。

【破壊的イノベーションで成功する原則】
(1)破壊的技術の商品化は、それを必要とする顧客を持つ組織に担当させる
(2)小さな機会や小さな勝利にも前向きになれる小さな組織に任せる
(3)試行錯誤を前提として、失敗を早い段階でわずかな犠牲にとどめる計画を立てる
(4)主流組織のプロセスや価値基準を利用しないように注意する
(5)これまでと違う特徴が評価される新しい市場を見つけるか、開拓する

 ポイントは「失敗を予防する」のではなく、「失敗した時のダメージを減らす」方策を取るべき、ということである。

大企業が社内で小さなベンチャーを育て上げるようにクリステンセンのジレンマを打破する戦略を、改めて整理してみましょう。                          ・違う基準で評価される新技術に目を向ける
・新しい市場へ投入する
・既存客に縛られない組織を意図的につくる

さて、私がおすすめするのは、社員のやる気や発想を大事にするところから会社や世界を動かした株式会社ポケモンのやり方だ。IP戦略が基調になることや、会社の規模感、そしてポケモンを好きなライバーさん(特に天宮こころさん)が多いこと、あと月ノさん的にはポケモン自体が人類学をモチーフに出来ていることから、考えることが多いはずだ。さらにポケモンはIPが増えすぎて覚えてもらえない問題に取り組んでいて、同じ問題を抱えているといっていい。

任天堂もポケモンも、別に失敗がなかったわけではない(ゲーフリが一回、政治に近い問題で炎上しかけたのも見たことはある)。だが、この企業の努力と純粋さを誰が否定できようか。

あまり言うと運営批判みたいになるので、擁護を… 基本的に運営や会社側と、クリエイターのやりたいことは「衝突」するのが運命づけられています。例えばどんな会社でもずっと経費の帳簿をつけている方がいて、細かい衝突に頭を悩ませている人がいる。クリエイター側はやりたいことをやろうとするけど、法律や金など汚い論理がどうしても運営側からそれを押さえつけさせようとする。

そこで出来ることは、最低限でも、自分から見てわかる範囲でもいいので経営側の悩みがわかるように勉強しておくことです。一番コストがかかるが強いのは、リゼ様のように日経新聞とか読んでしまうことですが、これはもう最上級クラス(誰でも簡単にできることではない)なので、↑の亀田さんのサブスク問題のように、自分に身近な所からでもいい。また、えらい人が話している概念をわかりやすくするため、以下のようなブックリストも作成しました。

お金に関する状況を知ったうえで、それの穴をつくような作品を作るのも手です。イメージではゴールデンボンバーがすごいことしている感じ。


終わりに ーーそしてバラバラのパレードは続く

「覚悟」とは………………犠牲の心ではないッ!              「覚悟」とは!!暗闇の荒野に!!進むべき道を切り開く事だッ!                              『ジョジョの奇妙な冒険』第五部・ジョルノ・ジョバーナ       

いつまででも いつからでも くだらない話で笑おう。

でも人はいつの間にか、自分らしさの檻にとらわれてしまう。真面目になってしまう。周りの目を気にしてしまう。

東日本大震災に際して、音楽は一回、必要ない存在として排除されかけた。その時に特にラッパーを中心に、色んな人々が色んな形で声を上げていた。この二組は、Creepy Nutsの二人が尊敬しているとよく言及している。実際に政治活動に行く人もいた。

私はこの記事で、ライバーさん本人たちではなく、逆張りの一種としてライバーさんが憧れ、夢として追いかけた世界をなぞってきた。この記事は誰に届くかもわからない不真面目なものだ。でもヒーローは真面目で不真面目な人々じゃなかったか。不真面目に真面目なことをしていなかったか。

間違いも面倒くささも、動物にも神にもなれない、天国でも地獄でもない、皮肉も悲しみも愛も憎しみも全て飲み込んだその混沌の世界が、あの月に憧れた女の子が夢見たものではなかったか。

私は所詮、本や動画をつぎはぎして、にじさんじを分かっている風にしている太鼓持ち(Tambourine Man)のワニの子にすぎない。だが、太鼓をぽんぽこ叩いているのにも飽きてきた。こうなったら徹底的ににじさんじを荒らして(Tumbling Down)やろう。「つまらなさ」を探し続ける警察官にも、「面白さ」を探し続ける蟻地獄のライバーにも、ダイスを100回でも1000回でも10000回でも投げつけてやるのだ(Tumbling Dice)。その結果はGod knowsであり、God only knowsであり、神のみぞ知る地獄でもともとだ。

そして、『けものフレンズ』のその後も全て見届けた、あのおにいさんのように、にこやかに叫ぶのである。



ーー君を'退屈'から、救いに来たんだ!


P.S. 何処にでもいける切手

助けないよ。力を貸すだけ。君が一人で勝手に助かるだけだよ。お嬢ちゃん                     化物語・忍野メメ

私が書いたことは、J-POPに歌われていることです。でも、J-POPも、誰かの魂が入って作られているのです。

今回の記事では、その力を少しお借りしました。もう美兎さんやライバーさんにも、ファンコミュニティの方にも見限られているでしょうし、これはやけくその産物にすぎません。

月ノさんのことを書き始めたのはガチ恋したから……とかではなく、「真夜中のウィスパーボイス縛り歌枠(ウクレレもいるよ!)【にじさんじ/月ノ美兎】」の中で、ひとつだけ違和感が取れないところがあったのがきっかけです。この日のプレイリストの中で、何故かスピッツだけ彼女らしくないレベルで圧倒的にメジャーのバンドに感じたのです(のちに小島真由美さんが『夏の魔物』をカバーしていたことに気づきます)。そこで気になって曲を聴きなおしてみたら……

この一番上、『歌ウサギ』という曲を聞いて、衝撃を受けて涙が止まらなくなったのです(リンクは公式なので短い版。フルをおすすめします)。これより彼女らしい曲を(本人オリジナルを除き)私は知りません。

これが、最初の月ノさんの記事を書いたあたりのこと。人がものを書き始める理由なんてそんなものです。今は色んなことがありすぎてにじさんじに対しても、月ノさんに対しても自分がどういう感情か自体よくわかりません。ただ、試しにスピッツの経歴を調べてみてください。なんかもうすごいことになってます。

またこれは個人的妄想ですが…にじさんじの方が洋楽を聞き始めるならColdplayを強く勧めます。理由は

①BUMP Of CHICKEN(特に中期以降)が珍しく露骨に影響を受けていて、米津玄師やRADWIMPSも影響を明言しているため、そもそも日本音楽界で影響を避けることが不可能なレベル(EDM、オルタナティヴロック方面)。逆張りするにも一回聞かないとムリ。

②Xylobandsをはじめ、舞台演出が明らかににじさんじのライブに似ているため、参考にされていると思われる

③(月ノさん向けに)圧倒的水タイプで、虹や魔法についての描写も多い。(若干優しすぎる感じはあ

私は権利上(というか、にじさんじを今見ている方もそうですが)ここで筆を止めて、にじさんじを見るのをやめて去ることができます。その時持っている感情は前回の記事のコメントの関係でマイナスになるでしょう。それが、まるでガスのように外部の評判を悪くする。あんまり自己弁護はしたくないですが、↓みたいな動画を普段見ているような、違う情報を持った人間を焼き討ちしてどうするんですか・・・。

そして…本音を言うとこれは失礼だと思ったから隠していたことを言います。例えばColdplayにとって、1000万再生の歌動画は「アルバムの中で最も過小評価されている曲」の再生数なのです。そう、桁が違う。チャンネル登録者は1870万人。そういう世界に対して、視聴数や登録者数という数の評価軸だけ見て突っ込んでいくなんて、ライバーもファンもメンタルやられてしまいます。再生数で評価していたらエド・シーランがワンオクのTakaさんと一緒に曲作ってくれるわけがない。だから、ライバー・ファン問わず個々人が自分のやり方で評価軸を持っておかないと、わけがわからないことになると私は考えます。私は、面白いことや、自分を見つめている人、あと自分が見ていて勉強になる人を見に行きます。

そして、数にこだわるのだとしても、ホロライブとにじさんじとVで紛争している場合ではなくて、むしろこういうすでにお金も名声も持たれた方々がYouTubeに参入されている方を考えないと非常にまずい(実際最近よく見ちゃうし)。というのが私の感覚です。結構視聴者って残酷です。

一方で、YouTuberという目線で言えば、瀧澤克成さんは12年前、もはやYouTubeに動画を上げるのが困難だった時代からずっと地道にギター教室の動画を上げられています。元々、YouTubeは本やテレビに比べてもまだ10何年選手なので、YouTube自体が揺らぐ可能性だって予想しておく必要もあります。ただ、瀧澤先生の存在は「10年後活動できるか?」という恐怖に希望の光を当ててくれます。やってるじゃん

結局、月ノ美兎委員長や舞元さんはじめ、にじさんじの方々と私の人生が交差することは、たぶん、ないのでしょう。緑仙が好きだと言っていた椎名林檎の曲が言うように、キャンキャン吠えるのがせいぜいいい所なのでしょう。

彼らの歩みの後ろから、私は日本の音楽史が微笑み返しているような、そんな印象を勝手に持ちました。だから、それがチャイカさんの言うように終わるものだとしても、その苦しみも喜びも、クズさもやさしさも心の中に刻み付けて、静かに通りすぎようと思います。

それが、せめて同じ時代に生きた人間としての、覚悟です。




(募集・Vtuberの歴史を収集されている方がいらっしゃいました)

闇に葬られたアプリゲーみたいになる前に、是非。


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