見出し画像

8月31日

みなさん、こんばんは。禧螺です。

今日もnoteをご覧いただき、ありがとうございます。


本日は題名の通り、8月31日です。

この日になるたびに願って止まない。

どうか、1人でも多く、幸せでいるように。



8月の終わり。

私にとって、夏を見送る日。

「今年も楽しかったよ、また来年も会いに来てね」と、名残惜しい気持ちになる。

それで悲しいなんて思ったことはなかった。

夏はまた会いに来てくれる。

季節が巡って、帰って来る。

じゃあ、人間はどうなのだろう。

誰かがこの世界から旅立つ時にも「また会える」と思うものなのだろうか。


今、私が生きているこの世界では、一度死んでしまった人とは再会できない。

ちなみに、この再会は物質的な再会。

相手の声だとか、体温だとか、眼差しだとか、自分の眼で直に見ることできて、相手がいると認知できるものでのやりとり。


気持ちやこころでは繋がっているというのは分かってる。

だけど、それでも私は人間だから、今は亡きあの人の声や、息遣いや、眼差しを、思い出しては涙する。

自分の五感はきちんと働いているし、こころが繋がっているなら、相手の存在を感じられる感触があってもいいはず。

なのに、どうしてなにもないのだろう。

なにも残らないのだろう。

涙を流したって、生きているうちに、もう会えないことは、わかりきったことなのにね。


この8月31日に旅立った人、あるいは旅立とうとしている人は、どのくらいいるのだろうか。

簡単に「生きて欲しい」とか「死なないで欲しい」とは言えない。

それを言うことは、過去の自分の「旅立ちたい」と思ったこと、準備したことを否定することになるから。

「生きて欲しい」「死なないで欲しい」確かに励まされることもある。

でも、その言葉で息をすることが苦しくなる時があった。

まだ苦しまないといけないのか。

これから先、どれだけ世界は私を苦しませたいのか。

お願いだから、死なせて欲しい。

だって苦しいし、誰も助けてくれない。

助けてくれないのに、なんで「生きろ」とか「死ぬな」とか言われなきゃいけないんだよ、ふざけんな。

そんな気持ちを持って旅立とうとしたのに、結局、私は旅立てなかった。


あれから、どれくらいの時間が経っただろうか。

今でもこの日は、過去を思い出す。

生きるのに苦しんで、もがいてももがいても、底無しの闇に飲まれていく感覚に、身体は生きていても、自分自身はもうおしまいだと思っていた。


それでも、今日を生きている。

noteを書いている。

幾重もの8月31日を生きてきた私を、深く深く抱きしめながら。



トップ画像は monacooc様 からお借りしました!

ありがとうございました。


みなさんに、ここで出逢えて嬉しいです。

この記事にお時間をいただき、ありがとうございました。


それでは、今日はここまでです。

みなさんの本日が、素敵なものでありますように。



クリエイターの活動費として、使わせていただきます。 また、日本を中心とした、伝統文化を守り後世にも残して参りたいですので、その保護活動費としても使わせていただきます。