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💟尊良(南朝東山)天皇


1、概説

東山ひがしやま天皇、いみなは尊良(たかなが・たかよし)、神皇正統嫡皇孫三浦芳聖の遠祖で、神皇正統第50世・三浦皇統家第一代の天皇。嘉元2年(1304年)8月8日京都でご降誕。

嘉元2年(1304年)8月8日生 - 延元2年(1337年)3月6日崩(34才)
在位・延元元年(1336年)10月9日 - 延元2年 (1337年)2月5日
父・後醍醐天皇、母・二条為世の女・為子、第一皇子。皇后・西園寺公顕の女・藤原清子(後京極院御匣殿みくしげどの)。

三浦芳聖が神界からの霊示を受け、神風串呂による調査研究を行った結果、延元元年(1336年)10月9日、比叡山に於て後醍醐天皇から皇位を継承したことが判明。

同年11月、敦賀の金ヶ崎城から綸旨を発し天下に号令を掛けた北陸朝廷の天皇。籠城中の金ヶ崎城で新田義顕らの将兵と共に自害した。

東山天皇の諡号(贈り名)は、神界から三浦芳聖への霊示による。御陵が京都東山山麓にあることから神界から贈られた。

2、生涯の歩み

嘉元2年(1304年)8月8日、後醍醐天皇の第一皇子として降誕。

嘉暦元年(1326年)、元服。従兄弟に当たる皇太子邦良親王が急逝したため、現任天皇の第一皇子として、父帝の推薦によって次の皇太子候補者に選ばれたが皇太子にはなれなかった。
ウィキペディア尊良親王より転載。以下同じ。)

元徳3年(1331年)1月、一品親王に叙される。

元弘の乱(1331年 - 1333年)では、一度鎌倉幕府に捕縛され土佐国(高知県)に流罪となるも同地から脱出し、九州で旗頭となり鎮西探題を撃滅して、父の幕府打倒に貢献した。

足利尊氏との戦い建武の乱(1335年 - 1337年)では上将軍(名義上の総大将)に抜擢された。

延元元年(1336年)10月9日、比叡山に於いて後醍醐天皇より皇位を継承し、新田義貞、脇屋義介らに奉戴されて越前敦賀の金ヶ崎城へ落ちた。(三浦芳聖)

延元2年(1337年)2月25日(推定)、金ケ崎城に於て、第一皇子守永親王に譲位。(三浦芳聖)

延元2年3月6日(1337年4月7日)、金ケ崎城に於てご自害。(「太平記」)

御陵は京都市左京区南禅寺下河原町(永観堂前)。お宮は福井県敦賀市金ケ崎町「金崎宮」。

『ウィキペディア』尊良親王より転載(2019年12月11日版)
 後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の娘・為子。宗良親王の同母兄。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。 
 幼少時は吉田定房に養育された。1326年(嘉暦元年)に元服し、中務卿に任じられた。1331年(元徳3年)1月には一品に叙任されたことから、一品中務卿親王と称された。
 元弘の乱では父と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流された。しかし脱出して翌年には九州に移り、その後、京都に帰還した。
 1335年(建武2年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた。
 1337年(延元2年/建武5年)1月、尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、3月6日に義顕や他の将兵と共に自害した。自害の寸前、義顕は尊良親王に落ち延びることを勧めたが、尊良親王は配下の将兵たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶したという。

皇子・皇女
 第一皇子・守永親王(母は右大臣西園寺公顕の女・藤原清子、後醍醐天皇猶子・纂集御系図)
 第二皇子・基良親王(母は同上、二条良基の養子となる。後、僧籍に入り、良玄法親王、宮崎山伝正院開基)
(以上、『尊良親王- Wikipedia』2019年12月11日版
  第三皇子・良慧(纂輯御系図による)
 第一皇女・女子(今林尼衆、母藤原為世女大納言典侍、為子妹)               

尊良天皇が元弘の乱でご活躍された経緯等は、『太平記』その他の文献に出ていますので、『ウィキペディア(Wikipedia)尊良親王』に譲ることにして、ここでは、尊良天皇が後醍醐天皇から皇位を継承された天皇であるという一点に的を絞って考察いたします。 

3、延元元年10月9日比叡山に於て皇位を継承

『太平記』巻17の8によれば、延元元年(1336年)10月9日、比叡山において受禅の儀が行われたと出ています。後醍醐天皇は比叡山に於て譲位されたということです。

比叡山

九日は事さわがし受禅じゆぜんの儀、還幸かんこうよそおいに日くれぬ。(太平記巻17の8

春宮に天子の位を譲て、同じく北国へ下しまつるべし。天下の事小大なにとなく、義貞が成敗として、朕にかわらず此の君を取り立てまいらすべし。(『太平記巻』17の8

三浦皇統家に伝承された系図によると、延元元年(1336年)10月9日、比叡山に於て三浦家の遠祖である大統おおとう守永もりなが親王(興国天皇)が後醍醐天皇から皇位を継承したと書かれてありました。

この三浦家の系譜を裏付けるように、新田義貞・脇屋義助らに奉戴されて北陸に落ちて行った新天皇が、天下に号令をかけた文書が3通残っています。それは、白河文書(結城文書ともいう)綸旨2通と得江文書(白鹿二年行貞奉執達状)と呼ばれる軍忠書1通です。(詳細は「北陸朝廷」参照の事)

守永親王が後醍醐天皇猶子であることは、纂集御系図にも記されています。後醍醐天皇には多くの皇子が有りながら孫である守永親王を猶子にしたということは守永親王に皇位を継承させたいという意思が有ったと考えることができます。

しかし、延元元年(1336年)10月9日、守永親王は御幼少で武家方との戦いのさ中を乗り切ることは無理だと判断された後醍醐天皇は、将来必ず守永親王に皇位を譲ることを条件に尊良天皇に譲位されたというのです。

その後、神界からの霊示(昭和25年/1950年)に基づき三浦芳聖が神風串呂で調査研究した処、延元元年(1336年)10月9日、比叡山において皇位を継承したのは東山天皇(尊良)であることが判明しました。

後醍醐天皇から三浦芳聖への霊示(要旨要約)
 昭和25年(1950年)8月15日、三浦芳聖が豊川市市田町諏訪林37番地に於て祭祀を厳修した時、正午から約一時間にわたって後醍醐天皇から次のような御神示がありました。「延元元年10月、比叡山に於いて足利軍に包囲されたとき高氏から起請文が寄せられたが、これは三種の神器を奪い取るための謀略であると見抜き、第一皇子の尊良親王に譲位した後、高氏の請いを入れて京都へ還幸したように装った。
 非常の場合であるので表向きは恒良親王に譲位したように見せかけたが、皇位は尊良親王以外には誰にも譲位していない。ただし『将来必ず守永親王に譲位する事』という条件は付けた。
 尊良天皇は金ケ崎の落城以前に守永親王に譲位し、義貞・義助らに女官二人を付けて杣山へ落とした。これらは神風串呂によって証明せられてある。後醍醐天皇の皇位を継承している神皇正統たる所以である。
 数ある皇子の中で尊治の尊という字は尊雲、尊澄などの法親王は別にして尊良親王以外には付けていない。」

『神風串呂解明』(昭和40年7月24日発行、通算125号)

春宮恒良親王が皇位継承者でなかった件については「北陸朝廷3、北陸朝廷の天皇は誰だったのか」で詳述していますので、そちらを参照ください!

4、尊良天皇の綸旨

新田義貞・脇屋義助らに奉戴されて北陸に落ちて行った新天皇が、延元元年(1336年)11月12日、越前敦賀の金ヶ崎城において左中将(新田義貞)の名前で天下に号令をかけた文書が残っています。(白河文書または結城文書といいます。)

延元元年(1336年)11月12日付けの「尊氏直義以下逆徒追討の事」という表題で「結城上野入道館」(結城宗弘)あてに味方に馳せ参ずるように督促した綸旨で「左中将」(新田義貞)の名前で通達されています。

森茂暁「太平記の群像」207頁/角川ソフィア文庫

尊氏直義以下逆徒追討の事
先度被下綸旨了去月十日所有臨幸越前国鶴賀津也
相催一族不廻時刻馳参可令誅伐彼輩於恩賞者可依請者
天気如此悉之以状
 延元元年十一月十二日      左中将在判
 結城上野入道館

本文を書き下し文・口語文にすると、それぞれ次のようになります。

先度綸旨を下されおわんぬ。去月十日、越前国つる賀津がつに臨幸ある所なり。一族を相催し、時刻を廻らさず馳せ参じ、かの輩を誅伐せしむべし。恩賞においては請いによるべし、てへれば、天気かくのごとし。これをつくせ、以て状す。
 延元元年十一月十二日      左中将在判 
 結城上野入道館

さきごろ綸旨を下された。先月十日、越前国の敦賀港(金ヶ崎城)に臨幸中である。一族を相催し時間をかけず(すぐに)馳せ参じ、かの輩(尊氏直義以下逆徒)を誅伐させなさい。恩賞は望みどおり与える。天皇のお気持ちはこのようである。このようにしなさい。以上、通達する。

この越前国鶴賀津(金ケ崎城)から綸旨が発せられた、延元元年(1336年)11月12日の時の天皇は東山(尊良)天皇です。従って、この綸旨は、東山(尊良)天皇が出された綸旨ということになります。これが真実の歴史です!

5、金ケ崎城で古今無双の壮烈なるご自害

雪の金ヶ崎神宮
金崎宮(福井県敦賀市金ヶ崎町1-4)

延元2年(1337年)2月5日、第一皇子守永親王に譲位、尊良上皇となる。

東山天皇(尊良)の在位期間は、延元元年(1336年) 10月9日から延元2年(1337年)2月5日までのおよそ4か月間ということになります。

延元2年(1337年)3月6日、金ヶ崎城が落城し、尊良上皇は新田義貞の嫡男、新田義顕らと共に壮烈無比の最期を遂げられました。   

このとき、藤原行房、新田義顕、気比氏治、気比斎晴、里見義氏、由良具滋、長浜顕寛、武田與一らの将士が殉死し、多くの兵士(約300名)が自害しています。

尊良上皇以下、官軍将兵の壮烈なる最期の有様を述べた『太平記』巻18の6の一節は、是非とも目を通して頂きたいと思います。中世戦記文学の珠玉の結晶、日本民族の宝です!(読みやすい口語書き下し文にしました。)

尊良天皇の第二皇子「基良親王」の嫡孫家である愛知県岡崎市明見町の河合家では、宮様でありながら壮烈無比の最期を遂げられた大和魂を「尊良精神」と呼んで尊称し伝承してきました。享年34(満33歳)。

歴史上、宮様のご自害など例が無いことだと思います。生き永らえようと思えば生きながらえることが出来た御身分でありながら、従容として配下の将兵と共にご自害された古今無双のご最期です。

新田にった越後守えちごのかみ義顕よしあきは、一宮いちのみやの御前に参りて、「合戦のよう今は是れまでと覚えそうろう。我等、ちから無く、弓箭きゅうせんの名を惜しむ家にて候う間、自害じがいつかまつらんずるにて候う。上様の御事は、縦え敵の中へ御出おんいで候え共、失いまいらするまでの事はよも候わじ。只加様かようにて御座ござ有るべしとこそ存じそうらえ。」と申されければ、

一宮、いつよりも御快気おんこころよげに打ち笑ませ給いて、「主上しゅじょう帝都へ還幸かんこう成りし時、我を以て元首がんしゅの将とし、汝を以て股肱ここうの臣らしむ。れ股肱無くして元首たもつ事を得んや。されば吾れ命を白刃はくじんの上に縮めて、あた黄泉こうせんの下にむくわんと思う也。そもそも自害をば如何様いかようにしたるがよき物ぞ。」と仰されければ、

義顕感涙を押さえて、「加様かようつかまつる者にて候う。」と申しもはてず、刀を抜いて逆手さかてに取り直し、左の脇に突き立て、右の小脇のあばら骨二三枚かけき破り、其の刀を抜いて宮の御前に差し置きて、うつぶしに成りてぞししにける。

一宮、やがて其の刀を召され御覧ずるに、柄口つかぐちに血余りすべりければ、御衣ぎょいの袖にて刀の柄をきりきりと押し巻かせ給いて、雪の如くなる御膚おんはだえを顕わし、御心おんむねの辺りに突き立て、義顕が枕の上に伏させ給う。

頭大夫とうのだいぶ行房・里見大炊助おおいのすけ時義・武田の与一・気比けひの弥三郎大夫たゆう氏治うじはる大田帥おおたそつの法眼ほうげん以下いげ御前に候いけるが、いざさらば宮の御供おんともつかまつらんとて、同音に念仏唱えて一度に皆腹を切る。(里見大炊助時義は義氏の誤りのようです。)

是れを見て庭上ていじょうに並み居たるつわもの三百余人、互に差違さしちがえ々々さしちがえいやが上に重伏かさなりふす。(『太平記』巻18の6)

6、皇后 藤原清子

皇后は、右大臣西園寺公顕の女、藤原清子(後京極院御匣殿)。『太平記』巻18の7「春宮還御の事付一宮御息所事」に詳しく出ています。

三浦芳聖が解明した尊良天皇皇后「清子姫」に関する神風串呂がありますので、参照ください。

金崎神宮-清子-天子ヶ岳-毘沙門-尊房

【参照】尊良天皇皇后「清子姫」を 昭示する神風串呂(№22)

7、皇子・皇女

第一皇女今林尼衆(系図纂要)、母藤原為世女大納言典侍(為子妹)
第一皇子:守永親王(大統宮・興国天皇)、一品。上野太守。号宇津峯宮、母・西園寺公顕女清子(後京極院御匣殿)。後醍醐天皇猶子〔纂輯御系図〕
第二皇子:基良親王、母・西園寺公顕女清子(後京極院御匣殿)、良玄法親王、関白二条良基公養子・一乗院  実玄僧都資 大僧正 (系図纂要)
第三皇子:僧良慧(纂輯御系図)

【参考】公卿類別譜~公家の歴史~ 摂家 二条 良玄
猶子。実後醍醐天皇皇子南方中務卿尊良親王男。一乗院。法務大僧正。准后。延文2/正平12年6月27日(ユリウス暦:1357年7月14日)得度〔水谷川家譜〕

【参照】第一皇女は、新田義顕の妻(三浦芳聖)

8、御陵・神宮

尊良親王墓

🟡御陵は、京都市左京区南禅寺下河原町(永観堂前)。

お宮は、金崎宮(福井県敦賀市金ヶ崎町)
尊良天皇と恒良親王を祭神とする神社。天皇を祭神とする神社ですので、串呂哲学では「金崎神宮」と尊称しています。

金埼神宮 (2)
金崎宮(福井県敦賀市金ヶ崎町1-4)

金崎神宮は、明治23年(1890年)9月、金ヶ崎城址に尊良天皇を御祭神として建立され、官幣中社に加列。明治25年11月、恒良親王が合祀され、明治26年(1893年)、現在地に社殿が竣工して遷座しました。

いわゆる建武中興十五社(建武中興に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社)のひとつであります。金ヶ崎城跡は、尊良天皇終焉の地(ご胴体埋葬)の地であります。

金崎宮(かねがさきぐう)は、福井県敦賀市にある神社である。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社である。
恒良親王と尊良親王は、足利尊氏の入京により北陸落ちした新田義貞、および氣比神宮の大宮司に奉じられて金ヶ崎城に入ったが、足利勢との戦いにより敗死した。
明治23年(1890年)、尊良親王を祀る官幣中社金崎宮が金ヶ崎城址に創立された。明治25年(1892年)には恒良親王が合祀され、明治26年(1893年)、現在地に社殿が竣工して遷座した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』金崎宮

9、第二皇子基良親王の嫡孫河合家の伝承

愛知県岡崎市明見町田代の河合家(三浦芳聖の母・元子の里)は、尊良親王の第二皇子「基良親王」の嫡孫家で、下記のように伝承してきました。

愛知県岡崎市明見町田代「伝正院」(YAHOO!JAPAN地図)

太子尊良親王は、嘉元2年(1304年)甲辰8月8日生まれ。福井県金ケ崎市の金ケ崎城に於て古今無双の壮烈なるご自害をされた。

『太平記』には「御心(おんむね)の辺(へん)に突立(つきたて)」と出ていますが、河合家では新田越後守義顕同様、切腹されたと伝承。

天運循環する尊良天皇御降誕600年目に当たる明治37年(1904/甲辰年)に、尊良親王のご真体がこの世に再現する。

【参照】尊良親王(再現)を御生み参らせよ!(№24)

また、後醍醐天皇御自作の観世音菩薩像(一寸八部・お厨子入り)を伝承してきた。

10、尊良天皇の神風串呂(一部)

(1)尊良親王が皇位継承者である事を昭示する神風串呂(№18)
(2)北陸朝廷(串呂哲学研究ノート№19)
(3)北陸朝廷の存在を昭示する神風串呂 (№20)
(4)元伊勢内宮と金崎神宮との神風串呂 (№21)
(5)尊良天皇皇后「清子姫」を 昭示する神風串呂(№22)
(6)東山天皇(尊良) (串呂哲学研究ノート№23)
(7)尊良親王(再現)を御生み参らせよ!(№24)
(8)尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂1(№25)
(9)尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂2(№26)
(10)金崎神宮と尊良天皇御陵とを結ぶ神風串呂 (№33)
(11)皇大神宮内宮と応神天皇御陵とを結ぶ神風串呂(№34)
(12)縦横無尽にリンクしている神風串呂の世界(№35)
(13)石清水八幡宮と金ヶ崎神宮の神風串呂(№36)
(14)後醍醐天皇御陵と金崎神宮との神風串呂 (№37)
(15)尊良天皇御陵と与位との神風串呂(№38)
(16)坂出市天皇と白山市三浦との神風串呂(№39)
(17)三浦芳聖伝 2、尊良親王の再現(№114)
1、三浦芳聖の母「元子」の悲願 2、三浦芳聖の母「元子」について
3、尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂

(18)三浦芳聖伝 6、志学の頃(№119)
1、上級学校への進学を志す 2、睡眠3時間で中学講義録を独習
3、蒲郡市中を寒行して回る 4、上洛後、誓願寺を頼るも断られる
5、新聞販売店に住み込む 6、尊良親王の御陵墓に遭遇
7、藤田喜三郎家に下宿 8、志学の神風串呂

(19)志学の神風串呂(№120)
(20)名古屋市御所町の神風串呂2(№143)
(21)地文学への招待-「一身田」
(22)地文学への招待-「高長」


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この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

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出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№22)
🟢次号(№24)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
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