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⛩金崎神宮と尊良天皇御陵とを結ぶ神風串呂(№33)

この記事は、神皇正統家極秘伝神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。

串呂(クシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した元伊勢クシロの事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。

ここでは、尊良天皇をお祭する⛩金崎神宮(福井県敦賀市)と尊良天皇御陵(京都市左京区南禅寺下河原町)との神風串呂をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神・天照大御神からの神妙なる息吹を体感体得たいかんたいとくすることができるでしょう!

串呂主宰神かんろしゅさいしん(天照大御神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助てんゆうしんじょにより日本民族本来の力を発揮はっき出来るようになります。


1、南北朝時代の戦乱を象徴する二つの事件

元弘3年(1333)、元弘の変で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、親政を開始したことで成立した建武政権は、足利高氏の反乱により瓦解し、南北朝時代の戦乱が始まると、宮様が殺害されたり、自害されたりする悲惨な事件が続出した。

建武2年(1335)7月、鎌倉の二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、足利直義の命を受けた淵辺義博によって首を刎ねられ殺害された。享年数え28歳。お墓とお宮は、鎌倉宮(神奈川県鎌倉市二階堂)。

延元2年3月6日(1337年4月7日)、尊良親王(実は天皇)は、金ケ崎城に於てご自害 。享年数え年34歳。その御首が京都に送られ、南禅寺の長老夢窓国師によって葬礼が執り行われた。御陵は、京都市左京区南禅寺下河原町(永観堂前)。お宮は、金崎宮(金崎神宮と尊称、福井県敦賀市金ケ崎町)。

今回は、尊良天皇のお宮(金崎神宮)と御陵とを結ぶ串呂をご紹介します。


2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。


3、金崎神宮と尊良天皇御陵とを結ぶ神風串呂

三浦芳聖は、尊良天皇をお祭する「金崎神宮」(福井県敦賀市)と尊良天皇御陵(京都市左京区南禅寺下河原町)とを串線すると下記のような串呂になると述べています。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第一章

「⛩金崎神宮」(敦賀市)-「尊良天皇御陵」(京都市)-「応神天皇御陵」(羽曳野市)-「日高」(伊都郡かつらぎ町)

(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第一章27頁、現在の住所に改めた。住所の詳細は【地文の解釈】をご覧ください。)

【地文のみ掲載】
「⛩金崎神宮」-「尊良天皇御陵」-「応神天皇御陵」-「日高」

 【地文の解釈】(地文に説明や地図がリンクしています)
(1)金崎神宮(かねがさきじんぐう、福井県敦賀市金ケ崎町)

金崎宮
福井県敦賀市金ケ崎町(地図マピオン)

尊良天皇と恒良親王を祭神とする神社。天皇を祭神とする神社ですので、串呂哲学では「金崎神宮」と尊称しています。

【参照】金崎神宮についての詳細はこちらをご覧ください。

(2)尊良天皇御陵(たかなが天皇御陵、京都市左京区南禅寺下河原町)

尊良親王墓
京都市左京区南禅寺下河原町19-2

後醍醐天皇 第一皇子 尊良親王(串呂哲学では天皇と尊称)の御首塚

   尊良親王妃御歌一首
 御息所は西園寺公顕の女。元弘乱に尊良親王土佐国畑に流され居給ひし頃、御息所が一方ならぬ御辛苦遊ばされし由は、太平記に詳し。延元二年三月親王越前金ケ崎に戦死し給ひ、御しるし京都に送らるるや、御息所悲嘆の余り亡せ給ふと伝。
 思ひきや 越路に消えし夕煙 みやこの空に 又立たむとは   

(川田順著「吉野朝の悲歌」続篇83頁)

『太平記』(巻18の7)によると、越前金ヶ崎城で自害した尊良親王の首が南禅寺に届けられ、住職の夢窓国師が葬礼を執行した後、この地で首塚として祀られた。皇后清子姫も埋葬され、比翼塚ともいう。

「一宮(いちのみや)は終(つひ)に越前(ゑちぜんの)金崎(かねがさき)の城にて御自害(ごじがい)有(あつ)て、御首(おんくび)京都に上(のぼり)て、禅林寺(ぜんりんじの)長老夢窓(むさう)国師、喪礼(さうれい)被執行など聞へしかば、御息所(みやすどころ)は余(あま)りの為方(せんかた)なさに御車(おんくるま)に被助載て、禅林寺(ぜんりんじ)の辺(あたり)まで浮(うか)れ出(いで)させ給へば、是(これ)ぞ其御事(そのおこと)と覚敷(おぼしく)て、墨染(すみぞめ)の夕(ゆふべ)の雲に立(たつ)煙(けむり)、松の嵐に打靡(うちなび)き、心細く澄上(すみのぼ)る。さらぬ別(わかれ)の悲(かなし)さは、誰とても愚(おろか)ならぬ涙なれ共(ども)、宮などの無止事御身(おんみ)を、剣(やいば)の先(さき)に触(ふれ)て、秋の霜の下に消終(きえはて)させ給(たまひ)ぬる御事(おんこと)は、無類悲(かなしみ)なれば、想像(おもひやり)奉る今はの際(きは)の御有様(おんありさま)も、今一入(ひとしほ)の思ひを添(そへ)て、共に東岱(とうたい)前後の烟と立登(たちのぼ)り、北芒新丘(ほくばうしんきう)の露共(とも)消(きえ)なばやと、返る車の常盤(とことは)に、臥沈(ふししづ)ませ給(たまひ)ける、御心(おんこころ)の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。行(ゆき)て訪旧跡、竹苑(ちくゑん)故宮(こきゆうの)月心を傷(いたま)しめ、帰(かへりて)臥寒閨、椒房(さうばう)寡居(くわきよ)の風夢を吹(ふき)、著見に順聞に、御歎(おんなげき)日毎(ひごと)に深く成行(なりゆき)ければ、軈(やがて)御息所(みやすどころ)も御心地(おんここち)煩(わづら)ひて、御中陰(ごちゆういん)の日数(ひかず)未終(いまだをへざる)先(さき)に、無墓成(なら)せ給ひければ、聞(きく)人毎(ひとごと)に押並(おしなべ)て、類(たぐ)ひ少なき哀(あはれ)さに、皆袂(たもと)をぞ濡(ぬら)しける。」

『太平記』(巻18の7)
尊良天皇御陵
京都市左京区南禅寺下河原町19-2(地図マピオン)

【参照】尊良天皇御陵についての詳細はこちらを参照ください。

(3)応神天皇御陵(おうじん天皇御陵、大阪府羽曳野市誉田)

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大阪府羽曳野市誉田 恵我藻伏岡陵

神皇正統第15代応神天皇(誉田別尊・ほむだわけのみこと)の御陵で、恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ)と呼ばれる。全国第二位の前方後円墳。応神天皇陵の南側、円形部の先端近くには、⛩誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)があります。

この串呂上に応神天皇御陵が存在するのは、尊良天皇再現「三浦芳聖」が五皇一体の八幡大明神であることと関連しています。

『ウィキペディア(Wikipedia)』応神天皇

応神天皇御陵
大阪府羽曳野市誉田 恵我藻伏岡陵(地図マピオン)

(4)日高(ひだか、和歌山県伊都郡かつらぎ町大字)

かつらぎ町日高
和歌山県伊都郡かつらぎ町大字日高(地図マピオン)

日嗣の天子・尊良を表わす地文。(日は日嗣の天子=天皇、高は尊)

【参照】尊良天皇を表わす「高甲良山」が、和歌山県田辺市の龍神村と日高川町(旧日高郡)寒川の境界線上にあることから、日高と尊良天皇とは関連がありそうだ(日高=日嗣の天子尊良)。

寒川村(そうがわむら)は、和歌山県日高郡にあった村。現在の日高川町大字寒川・串本にあたる。

【参照】富士文献(宮下文書)には、神武天皇の幼名を「日高佐野王尊」(ひだかさのおう尊)と言ったと出ています。

4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

「金崎神宮」-「尊良天皇御陵」-「応神天皇御陵」-「日高」

三浦芳聖は次のように述べています。「神国日本の日本魂」とは斯くの如きものぞと「八幡大明神応神天皇」が、「尊良天皇」に権現して身を以て御示し賜ったものと確信して居ります。
(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』本文27頁)

三浦芳聖は、尊良親王の再現として降誕し、母親から「尊良親王再現」として訓育を受けて育ち、34歳の時、シナ事変に応召し、腹部盲管銃創を受けて傷痍軍人となり、内地送還となりました。(尊良親王御自害の追体験)

また一面、三浦芳聖は、大宝天皇が祈念した「神武、応神、後嵯峨、後村上、松良、五皇一体の八幡大明神」としてこの世に派遣されました。

この神風串呂は、この辺りの事情が関連して構築されていると理解しています。三浦芳聖は、この串呂について次のように述べています。

 「金ケ崎神宮」には「尊良天皇」の御胴体が埋蔵されてあり、「尊良天皇」の御首は、京都市東山永観堂(浄土宗西山禅林寺派総本山)正面南三百米の所に「清子姫命」の骸と共に埋蔵せられてあります。(宮内庁所管の尊良親王御墓となっている。)
 此の「尊良天皇」の「御胴」と「御首」即ち「金ケ崎神宮」と「尊良親王御陵」とを串呂して延長致しますと、大阪市羽曳野市誉田の「応神天皇御陵」にピシンと串呂しています。
 「応神天皇」は「八幡大明神」として日本全国津々浦々に至るまで、一ヶ町村に一社は必ず奉祀されていて、総計二十八萬社の「八幡宮」があります。如何に我が日本民族祖先等が「応神天皇」を崇敬したかを窺知する事が出来ますが、「尊良天皇」の「御胴」と「御首」を結べば正に「応神天皇」であらせられます。(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』本文26頁)

5、尊良天皇と三浦芳聖に関連した神風串呂

尊良親王(再現)を御生み参らせよ!(№24)
尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂1(№25)
尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂2(№26)

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💟串呂文庫

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🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
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🟡情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№32)
🟢次号(№34)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会 
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。