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三浦芳聖の母 河合元子(№24)

💟ご挨拶

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。

串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。 地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

ここでは、尊良親王ご降誕満6百年記念日に、尊良親王の再現を御産み参らせんという「三浦芳聖の母・河合元子」について御紹介し、詳細な解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


1、三浦芳聖の母「元子」の悲願

尊良親王は嘉元2(1304年)甲辰年(陰暦8月8日)のご降誕で、その第二皇子の嫡孫河合家では、尊良親王ご降誕6百年記念の明治37(1904年)甲辰年に、そのご真体が再現すると伝承されて来たという!

三浦芳聖の母「元子」の悲願とは、尊良親王ご降誕6百年記念日である、明治37年(1904年)甲辰9月17日(陰暦8月8日)に、尊良親王の再現をこの世に生み参らすことでした。

2、三浦芳聖の母・元子について

(1)5月10日、河合家に生まれる

三浦芳聖の母・元子(籍名もと・通称茂登子)は、明治14年(1881年)5月10日、愛知県額田郡宮崎村大字明見(岡崎市明見町)の河合家に生まれました。

元子の父・河合和助は、20代で額田郡宮崎村の村長に就任、その後、額田郡会議長・愛知県会議員等を歴任し終生公職にあった方で、元子の祖父・河合英輔は、岡崎藩主・本多氏と豊橋の吉田藩主・松平氏の殿様に学問を教える大学者でした。

宮崎村初代村長の山本源吉は、助役の河合和助とともに、村の発展には道路の改修が不可欠と考えた。馬や車の通れる道にするため村会で提議し、満場一致の可決を得るも、その工費が問題となった。村民に相談し反対をされつつも、熱心にその必要性を説いて回り、なんとか明見坂の改修工事にこぎつけた。村債は1893年(明治26年)には完済し、山の値段も3倍となった。現在、明見坂の途中には当時の宮崎街道記念碑が残されている。  (『ウィキペディア』宮崎街道 (岡崎市)

元子の誕生日5月10日は、世界最初の「母の日」。

アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、1908年5月10日に同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。『ウィキペディア(Wikipedia)』母の日

(2)河合家の遠祖、基良親王

この河合家は後醍醐天皇の第一皇子「尊良親王」の第二皇子「基良親王」(もとなが親王、太政大臣二條良基の猶子となり藤原基良、落飾後は良玄)の直系の後胤であるようだ。

基良親王は、南北朝時代に都から難を逃れて愛知県額田郡宮崎村に落ちて来られ、京都市左京区下鴨の下鴨神社の摂社・河合神社にゆかりがあった為、その河合神社の河合姓を名乗ったという。(尊良親王の母・藤原為子の父は下鴨神社の斎王・藤原氏二条為世)。

愛知県額田郡宮崎村も恐らく河合神社の住所(宮崎町)と同じ地名をつけたものと思われます。河合神社(京都市左京区下鴨宮崎町)。

岡崎市宮崎町
愛知県岡崎市宮崎町
下鴨宮崎町
京都市左京区下鴨宮崎町(地図マピオン)

良玄法親王は、宮崎村大字明見字田代(岡崎市明見町宇田代)に宮崎山伝正院を開基され、尊良親王の宝筺印塔を建立し、また御尊姿を木像に刻んで「太子堂」に祀られました。(宮崎山伝正院は、正統の宮を伝えるという意味が込められているという。)

伝正院
岡崎市明見町宇田代 宮崎山伝正院(地図マピオン)

聖徳太子として「太子堂」に陰祀した理由は、一つには、尊良親王の名前を表に出せなかったこと、二つには、尊良親王の在位期間が短く、後醍醐天皇から直接、尊良親王の第一皇子・守永親王に皇位が譲られたと思われていたので、太子(ひつぎのみこ)という尊称でお祀りしたようだ。

(3)後醍醐天皇ご自作の観音像を伝承

三浦芳聖師によると「河合家には後醍醐天皇ご自作の観音様(木造一寸五分・お厨子入り)が一子相伝に継承されていた。後醍醐天皇は戊子年で自ら観世音菩薩の化身と申されて18人の皇子に自ら刻んだ「観音像」をお守りとして授けたと伝承されている。」という。

後醍醐天皇の御陵は如意輪観音を本尊とする「如意輪寺」の裏山にある。

河合和助には三人の女子があったが男子がなかったので、男系相続の河合家は、和助の甥の「和喜治」(弟、国助の長男)が継承することとなり、後醍醐天皇から伝承された観音像は、廃嫡(跡取りを他の人に譲ること)して三浦家に嫁いだ元子に伝えられたという。

コラム・超世志のここだけの話
河合家に伝承された木造一寸五分の観音様は、真黒の小さなお厨子入りで、愛知県稲沢市矢合町の観音様と兄弟だといわれています。河合家に伝承された観音様は、その役目を終えたのか、芳聖の母「元子」が亡くなった昭和9年(1934年)6月26日、元子と共に火葬に付されました。
⛩金崎神宮(福井県敦賀市)-矢合(愛知県稲沢市)-中部国民道場兼三浦芳聖元住所(名古屋市昭和区御所町)-三浦芳聖降誕地(愛知県岡崎市牧平町大門)
(三浦芳聖著『神風串呂の解明』7頁、1965年2月1日発行)

(4)尊良親王様を御生み参らせよ!

元子様の父・河合和助は、明治32年(1899年)元子が三浦家に嫁ぐに当って、下記のように望みを託したという。(西暦を補った)

わが河合家の遠祖・尊良親王様は、嘉元2年(1304年)甲辰陰暦8月8日の御降誕である。これから5年後の明治37年(1904年)甲辰陰暦8月8日は、尊良親王様のご降誕満六百年(10還暦)に当たり、天運循環してそのご真体が再現できる年ゆえ、尊良親王様より一子相伝に継承してきたこの観音様を肌身離さず奉持して、ひたすらに祈念を込め、必ず尊良親王様を御産み参らせよ! 尊良親王様には、天運循環の時に必ず直系の子孫のもとに再現して天業恢弘に邁進される御誓願である。

三浦芳聖著「神風串呂第177号」、「徹底的に日本歴史の誤謬を糺す」など要約

🟡尊良親王を表わす地文「高長」(姫路市夢前町)

(5)尊良親王ご降誕6百年目の奇跡

明治32年(1899年)、愛知県岡崎市牧平町大門の三浦家に嫁いだ元子は、父・河合和助の期待に応え、この観音様を肌身離さず捧持して、5ヶ年半ひたすら祈念を篭めて毎日を送っていた。

牧平大門
愛知県岡崎市牧平町大門(地図マピオン)

すると、その熱祷祈願が成就して、一日の狂いもなく、明治37年9月17日、甲辰年(陰暦8月8日)午前6時、三浦芳聖を出産した。正に尊良親王降誕6百年目の奇跡でした。

暦1904.917
「こよみのページ」より

(6)芳聖を尊良親王の再現として養育

三浦芳聖は、幼少の時から母親の元子から、「汝は後醍醐天皇第一皇子尊良親王様の生まれ変わりであります!尊良親王様という方は、延元2年3月6日、越前敦賀の金ケ崎城に於て、宮様の御身分でありながら、従容として切腹自裁され・・・」と、一日に一回は必ず『太平記』の一節を聴かされ、尊良精神を打ち込まれて養育されたと述べています。

(7)尊良精神について

尊良精神とは、『太平記』巻18の6「金崎城落つる事ならびに一宮御自害その外官軍切腹の事」に詳述されている「金崎城の落城に当たり、尊良親王が宮様でありながら、生き永らえる道を選ばず、新田義顕ほかの将兵らと共に従容しょうようとして見事なご自害をとげられた事績にちなみ、「いつでも笑って死ねる精神」を指すようです。

🟡参考のため、『太平記』巻18の6の該当部分を掲げます。「太平記」の中の白眉の一節です。声を出して朗読して見て下さい。緊迫した城中の空気が伝わって来るようです!(現代仮名遣い)

新田越後守義顕にったえちごのかみよしあきは、一宮いちのみや御前おんまえに参りて、「合戦かっせんよう今はれまでとおぼそうろう。我等、力無ちからなく、弓箭きゅうせんの名を惜しむ家にてそうろあいだ自害じがいつかまつらんずるにてそうろう。上様うえさま御事おんことは、たとえ敵の中へ御出おんいでそうらども、失いまいらするまでの事はよもそうらわじ。只加様ただかようにて御座ござ有るべしとこそぞんそうらえ。」と申されければ、

一宮いちのみやいつよりも御快気おんこころよげに打ちませ給いて、「主上しゅじょう帝都ていと還幸かんこう成りし時、我を以て元首がんしゅの将とし、汝を以て股肱ここうの臣らしむ。股肱ここう無くして元首がんしゅたもつ事を得んや。されば吾れめい白刃はくじんの上に縮めて、あた黄泉こうせんもとむくわんと思うなりそもそも自害をば如何様いかようにしたるがよき物ぞ。」とおおせられければ、

義顕よしあき感涙かんるいを押さえて、「加様かようつかまつる者にてそうろう。」と申しもはてず、刀を抜いて逆手さかてに取り直し、左の脇に突き立て、右の小脇こわきのあばら骨二三枚かけき破り、其の刀を抜いて宮の御前に差し置きて、うつぶしに成りてぞししにける。

一宮、やがて其の刀を召され御覧ごらんずるに、柄口つかぐちに血あまりすべりければ、御衣ぎょいの袖にて刀のつかをきりきりと押し巻かせ給いて、雪の如くなる御膚おんはだえを顕わし、御心おんむねの辺りに突き立て、義顕がまくらの上に伏させ給う。

頭大夫とうのだいぶ行房ゆきふさ里見さとみ大炊助おおいのすけ義氏よしうじ・武田の与一よいち気比けひの弥三郎やさぶろう大夫たゆう氏治うじはる大田帥おおたそつの法眼ほうげん以下いげ御前おんまえそうらいけるが、いざさらば宮の御供おんともつかまつらんとて、同音どうおんに念仏唱えて一度に皆腹を切る。

れを見て庭上ていじょうみ居たるつわもの三百余人、互に差違さしちがえ々々さしちがえいやが上に重伏かさなりふす

(原文の里見大炊助時義は義氏の誤りのようです。訂正しました。)

3、尊良親王再現・三浦芳聖の串呂解明される

三浦芳聖が尊良親王の再現であることを昭示する神風串呂が解明されていますのでご紹介いたします。ぜひご一読ください。

(1)尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂1(№25)
高長-醍醐三宝院-三浦芳聖降誕地

(2)尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂2(№26)
高良-一身田専修寺-三浦芳聖降誕地


💟皆様方の御支援に感謝しています!

読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。


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🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№23)
尊良(南朝東山)天皇
🟢次号(№25)
尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂1

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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