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『太平記』巻18の6「金崎城落つる事ならびに一宮御自害その外官軍切腹の事」 (原文及び読み仮名付き・全文)

🔴一宮御自害(現代仮名遣い)

新田越後守義顕にったえちごのかみよしあきは、一宮いちのみや御前おんまえに参りて、「合戦かっせんよう今はれまでとおぼそうろう。我等、力無ちからなく、弓箭きゅうせんの名を惜しむ家にてそうろあいだ自害じがいつかまつらんずるにてそうろう。上様うえさま御事おんことは、たとえ敵の中へ御出おんいでそうらども、失いまいらするまでの事はよもそうらわじ。只加様ただかようにて御座ござ有るべしとこそぞんそうらえ。」と申されければ、

一宮いちのみやいつよりも御快気おんこころよげに打ちませ給いて、「主上しゅじょう帝都ていと還幸かんこう成りし時、我を以て元首がんしゅの将とし、汝を以て股肱ここうの臣らしむ。股肱ここう無くして元首がんしゅたもつ事を得んや。されば吾れめい白刃はくじんの上に縮めて、あた黄泉こうせんもとむくわんと思うなりそもそも自害をば如何様いかようにしたるがよき物ぞ。」とおおせられければ、

義顕よしあき感涙かんるいを押さえて、「加様かようつかまつる者にてそうろう。」と申しもはてず、刀を抜いて逆手さかてに取り直し、左の脇に突き立て、右の小脇こわきのあばら骨二三枚かけき破り、其の刀を抜いて宮の御前に差し置きて、うつぶしに成りてぞししにける。

一宮、やがて其の刀を召され御覧ごらんずるに、柄口つかぐちに血あまりすべりければ、御衣ぎょいの袖にて刀のつかをきりきりと押し巻かせ給いて、雪の如くなる御膚おんはだえを顕わし、御心おんむねの辺りに突き立て、義顕がまくらの上に伏させ給う。

頭大夫とうのだいぶ行房ゆきふさ里見さとみ大炊助おおいのすけ義氏よしうじ・武田の与一よいち気比けひの弥三郎やさぶろう大夫たゆう氏治うじはる大田帥おおたそつの法眼ほうげん以下いげ御前おんまえそうらいけるが、いざさらば宮の御供おんともつかまつらんとて、同音どうおんに念仏唱えて一度に皆腹を切る。

れを見て庭上ていじょうみ居たるつわもの三百余人、互に差違さしちがえ々々さしちがえいやが上に重伏かさなりふす

(原文の里見大炊助時義は義氏の誤りのようです。訂正しました。)

新田越後守義顕血戦之図

🔴金崎城落事(原文)

金崎城には、瓜生が後攻をこそ命に懸て待れしに、判官打負て、軍勢若干討れぬと聞へければ、憑方なく成はて、心細ぞ覚ける。日々に随て兵粮乏く成ければ、或は江魚を釣て飢を資け、或は礒菜を取て日を過す。暫しが程こそ加様の物に命を続で軍をもしけれ。余りに事迫りければ、寮の御馬を始として諸大将の被立たる秘蔵の名馬共を、毎日一疋づゝ差殺して、各是をぞ朝夕の食には当たりける。是に付ても後攻する者なくては、此城今十日とも堪がたし。総大将御兄弟窃に城を御出候て杣山へ入せ給ひ、与力の軍勢を被催て、寄手を被追払候へかしと、面々に被勧申ければ、現にもとて、新田左中将義貞・脇屋右衛門佐義助・洞院左衛門督実世・河島左近蔵人惟頼を案内者にて上下七人、三月五日の夜半許に、城を忍び抜出て杣山へぞ落著せ給ひける。瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。其程は我等責口へ罷向て、相支候べし。見苦しからん物共をば、皆海へ入させられ候へ。」と申て、御前を立けるが、余りに疲れて足も快く立ざりければ、二の木戸の脇に被射殺伏たる死人の股の肉を切て、二十余人の兵共一口づゝ食て、是を力にしてぞ戦ける。河野備後守は、搦手より責入敵を支て、半時計戦けるが、今はゝや精力尽て、深手余多負ければ、攻口を一足も引退かず、三十二人腹切て、同枕にぞ伏たりける。新田越後守義顕は、一宮の御前に参て、「合戦の様今は是までと覚へ候。我等無力弓箭の名を惜む家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様の御事は、縦敵の中へ御出候共、失ひ進するまでの事はよも候はじ。只加様にて御座有べしとこそ存候へ。」と被申ければ、一宮何よりも御快気に打笑せ給て、「主上帝都へ還幸成し時、以我元首将とし、以汝令為股肱臣。夫無股肱元首持事を得んや。されば吾命を白刃の上に縮めて、怨を黄泉の下に酬はんと思也。抑自害をば如何様にしたるがよき物ぞ。」と被仰ければ、義顕感涙を押へて、「加様に仕る者にて候。」と申もはてず、刀を抜て逆手に取直し、左の脇に突立て、右の小脇のあばら骨二三枚懸て掻破り、其刀を抜て宮の御前に差置て、うつぶしに成てぞ死にける。一宮軈て其刀を被召御覧ずるに、柄口に血余りすべりければ、御衣の袖にて刀の柄をきり/\と押巻せ給て、如雪なる御膚を顕し、御心の辺に突立、義顕が枕の上に伏させ給ふ。頭大夫行房・里見大炊助時義・武田与一・気比弥三郎大夫氏治・大田帥法眼以下御前に候けるが、いざゝらば宮の御供仕らんとて、同音に念仏唱て一度に皆腹を切る。是を見て庭上に並居たる兵三百余人、互に差違々々弥が上に重伏。気比大宮司太郎は、元来力人に勝て水練の達者なりければ、春宮を小舟に乗進せて、櫓かいも無れ共綱手を己が横手綱に結付、海上三十余町を游で蕪木の浦へぞ著進せける。是を知人更に無りければ、潜に杣山へ入進せん事は最安かりぬべかりしに、一宮を始進せて、城中人々不残自害する処に、我一人逃て命を活たらば、諸人の物笑なるべしと思ける間、春宮を怪しげなる浦人の家に預け置進せ、「是は日本国の主に成せ給ふべき人にて渡せ給ふぞ。如何にもして杣山の城へ入進せてくれよ。」と申含めて、蕪木の浦より取て返し、本の海上を游ぎ帰て、弥三郎大夫が自害して伏たる其上に、自我首を掻落て片手に提、大膚脱に成て死にけり。土岐阿波守・栗生左衛門・矢島七郎三人は、一所にて腹切んとて、岩の上に立並で居たりける処に、船田長門守来て、「抑新田殿の御一家の運爰にて悉極め給はゞ、誰々も不残討死すべけれ共、惣大将兄弟杣山に御座あり、公達も三四人迄、此彼に御座ある上は、我等一人も活残て御用に立んずるこそ、永代の忠功にて侍らめ。何と云沙汰もなく自害しつれて、敵に所得せさせての用は何事ぞや。いざゝせ給へ、若やと隠れて見ん。」と申ければ、三人の者共船田が迹に付て、遥の礒へぞ遠浅の浪を分て、半町許行たれば、礒打波に当りて大に穿たる岩穴あり。「爰こそ究竟の隠れ所なれ。」とて、四人共に此穴の中に隠れて、三日三夜を過しける心の中こそ悲しけれ。由良・長浜は、是までも猶木戸口に支へて、喉乾けば、己が疵より流るゝ血を受て飲み、力落疲るれば、前に伏たる死人の肉を切て食て、皆人々の自害しはてん迄と戦けるを、安間六郎左衛門走り下て、「何を期に合戦をばし給ぞ。大将は早御自害候つるぞや。」と申ければ、「いざやさらば、とても死なんずる命を、若やと寄手の大将のあたりへ紛れ寄て、よからんずる敵と倶に差違へて死ん。」とて、五十余人の兵共、三の木戸を同時に打出、責口一方の寄手三千余人を追巻り、其敵に相交て、高越後守が陣へぞ近付ける。如何に心許は弥武に思へ共、城より打出でたる者共の為体、枯槁憔悴して、尋常の人に可紛も無りければ、皆人是を見知て、押隔ける間、一人も能敵に合者無して、所々にて皆討れにけり。都て城中に篭る処の勢は百六十人、其中に降人に成て助かる者十二人、岩の中に隠れて活たる者四人、其外百五十一人は一時に自害して、皆戦場の土と成にけり。されば今に到迄其怨霊共此所に留て、月曇り雨暗き夜は、叫喚求食の声啾々として、人の毛孔を寒からしむ。「誓掃匈奴不顧身、五千貂錦喪胡塵、可憐無定河辺骨、猶是春閨夢裡人」と、己亥の歳の乱を見て、陳陶が作りし隴西行も角やと被思知たり。

🔴金崎城落事(読み仮名付き)

金崎(かねがさきの)城(じやう)には、瓜生(うりふ)が後攻(ごづめ)をこそ命に懸(かけ)て待(また)れしに、判官打負(うちまけ)て、軍勢(ぐんぜい)若干(そくばく)討(うた)れぬと聞へければ、憑(たのむ)方(かた)なく成(なり)はて、心細(ぼそく)ぞ覚(おぼえ)ける。日々に随(したがつ)て兵粮乏(とぼし)く成(なり)ければ、或(あるひ)は江魚(えのうを)を釣(つり)て飢(うゑ)を資(たす)け、或(あるひ)は礒菜(いそな)を取(とつ)て日を過(すご)す。暫(しば)しが程こそ加様(かやう)の物に命を続(つい)で軍(いくさ)をもしけれ。余(あま)りに事迫(つま)りければ、寮(れう)の御馬(おんむま)を始(はじめ)として諸大将(しよだいしやう)の被立たる秘蔵(ひさう)の名馬(めいば)共(ども)を、毎日一疋(いつぴき)づゝ差殺(さしころ)して、各是(これ)をぞ朝夕の食(じき)には当(あて)たりける。是(これ)に付(つけ)ても後攻(ごづめ)する者なくては、此(この)城(じやう)今十日とも堪(こらへ)がたし。総大将(そうだいしやう)御兄弟(ごきやうだい)窃(ひそか)に城を御出(おんいで)候(さふらひ)て杣山(そまやま)へ入(いら)せ給ひ、与力(よりき)の軍勢(ぐんぜい)を被催て、寄手(よせて)を被追払候へかしと、面々(めんめん)に被勧申ければ、現(げ)にもとて、新田左中将(さちゆうじやう)義貞・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・河島(かうしま)左近(さこんの)蔵人惟頼(これより)を案内者(あんないしや)にて上下七人(しちにん)、三月五日の夜半許(やはんばかり)に、城を忍(しの)び抜出(ぬけい)て杣山(そまやま)へぞ落著(おちつか)せ給ひける。瓜生・宇都宮(うつのみや)不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、今一度(いちど)金崎(かねがさき)へ向(むかつ)て、先度(せんど)の恥を雪(きよ)め城中(じやうちゆう)の思(おもひ)を令蘇せと、様々思案を回(めぐら)しけれども、東風漸(やうやく)閑(しづか)に成(なつ)て山路の雪も村消(むらぎえ)ければ、国々の勢も寄手(よせて)に加(くははり)て兵十万騎(じふまんぎ)に余れり。義貞の勢(せい)は僅(わづか)に五百(ごひやく)余人(よにん)、心許(ばかり)は猛(たけ)けれ共(ども)、馬・物具(もののぐ)も墓々(はかばか)しからねば、兎(と)やせまし角(かく)やせましと身を揉(もう)で、二十日(はつか)余(あま)りを過(すご)しける程(ほど)に、金崎(かねがさき)には、早(はや)、馬共をも皆食尽(くひつく)して、食事(しよくじ)を断(た)つ事十日許(ばかり)に成(なり)にければ、軍勢共(ぐんぜいども)も今は手足もはたらかず成(なり)にけり。爰(ここ)に大手(おほて)の攻口(せめくち)に有(あり)ける兵共(つはものども)、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)が前に来(きたつ)て、「此(この)城(じやう)は如何様(いかさま)兵粮に迫(つま)りて馬をばし食(くひ)候やらん。初め比(ごろ)は城中(じやうちゆう)に馬の四五十疋(しごじつぴき)あるらんと覚(おぼ)へて、常に湯洗(ゆあらひ)をし水を蹴(け)させなんどし候(さふらひ)しが、近来(このごろ)は一疋(いつぴき)も引出(ひきだ)す事も候はず。哀(あつぱれ)一攻(ひとせめ)せめて見候はばや。」と申(まうし)ければ、諸大将(しよだいしやう)、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻(うのこく)に、大手・搦手(からめて)十万騎(じふまんぎ)、同時に切岸(きりきし)の下、屏際(へいきは)にぞ付(つけ)たりける。城中(じやうちゆう)の兵共(つはものども)是(これ)を防(ふせが)ん為に、木戸(きど)の辺迄(へんまで)よろめき出(いで)たれ共(ども)、太刀を仕(つか)ふべき力もなく、弓を挽(ひく)べき様(やう)も無(なけ)れば、只徒(いたづら)に櫓(やぐら)の上に登り、屏(へい)の陰(かげ)に集(あつまり)て、息つき居たる許(ばかり)也(なり)。寄手共(よせてども)此(この)有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻(せめ)落さん。」とて、乱杭(らんぐひ)・逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけ屏(へい)を打破(うちやぶつ)て、三重(さんぢゆう)に拵(こしらへ)たる二の木戸(きど)迄ぞ攻入(せめいり)ける。由良(ゆら)・長浜二人(ににん)、新田越後(ゑちごの)守(かみ)の前に参(さん)じて申(まうし)けるは、「城中(じやうちゆう)の兵共(つはものども)数日(すじつ)の疲(つか)れに依(よつ)て、今は矢の一(ひとつ)をも墓々敷(はかばかしく)仕(つかまつり)得候はぬ間、敵既(すで)に一二の木戸(きど)を破(やぶつ)て、攻近付(せめちかづい)て候也(なり)。如何(いかに)思食共(おぼしめすとも)叶(かなふ)べからず。春宮(とうぐう)をば小舟にめさせ進(まゐら)せ、何(いづ)くの浦へも落(おと)し進(まゐら)せ候べし。自余(じよ)の人々は一所(いつしよ)に集(あつまり)て、御自害(ごじがい)有(ある)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。其(その)程は我等責口(せめくち)へ罷向(まかりむかつ)て、相支(あひささへ)候べし。見苦(みぐる)しからん物共をば、皆海へ入(いれ)させられ候へ。」と申(まうし)て、御前(おんまへ)を立(たち)けるが、余(あま)りに疲れて足も快(こころよ)く立(たた)ざりければ、二の木戸の脇(わき)に被射殺伏(ふし)たる死人(しにん)の股(もも)の肉を切(きつ)て、二十(にじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)一口づゝ食(くう)て、是(これ)を力にしてぞ戦(たたかひ)ける。河野(かうの)備後(びんごの)守(かみ)は、搦手(からめて)より責入(せめいる)敵を支(ささへ)て、半時計(はんじばかり)戦(たたかひ)けるが、今はゝや精力(せいりよく)尽(つき)て、深手(ふかで)余多(あまた)負(おひ)ければ、攻口(せめくち)を一足(ひとあし)も引退(ひきしりぞ)かず、三十二人(さんじふににん)腹切(きつ)て、同枕(おなじまくら)にぞ伏(ふし)たりける。新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)は、一宮(いちのみや)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て、「合戦の様(やう)今は是(これ)までと覚(おぼ)へ候。我等無力弓箭(きゆうせん)の名を惜(をし)む家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様(うへさま)の御事(おんこと)は、縦(たとひ)敵の中へ御出(おんいで)候(さうらふ)共(とも)、失ひ進(まゐら)するまでの事はよも候はじ。只加様(かやう)にて御座(ござ)有(ある)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ければ、一宮(いちのみや)何(いつ)よりも御快気(おんこころよげ)に打笑(うちゑま)せ給(たまひ)て、「主上(しゆしやう)帝都へ還幸(くわんかう)成(なり)し時、以我元首(ぐわんしゆの)将とし、以汝令為股肱臣。夫(それ)無股肱元首(ぐわんしゆ)持(もつ)事(こと)を得んや。されば吾(われ)命を白刃(はくじん)の上に縮(しじ)めて、怨(あた)を黄泉(くわうせん)の下(もと)に酬(むく)はんと思(おもふ)也(なり)。抑(そもそも)自害をば如何様(いかさま)にしたるがよき物ぞ。」と被仰ければ、義顕(よしあき)感涙を押(おさ)へて、「加様(かやう)に仕る者にて候。」と申(まうし)もはてず、刀を抜(ぬい)て逆手(さかて)に取直し、左の脇に突立(つきたて)て、右の小脇のあばら骨二三枚懸(かけ)て掻破(かきやぶ)り、其(その)刀を抜(ぬい)て宮の御前(おんまへ)に差置(さしおき)て、うつぶしに成(なつ)てぞ死(しし)にける。一宮(いちのみや)軈(やが)て其(その)刀を被召御覧ずるに、柄口(つかぐち)に血余(あま)りすべりければ、御衣(ぎよい)の袖にて刀の柄(つか)をきり/\と押巻(おしまか)せ給(たまひ)て、如雪なる御膚(おんはだへ)を顕(あらは)し、御心(おんむね)の辺(へん)に突立(つきたて)、義顕が枕の上に伏させ給ふ。頭大夫(とうのだいぶ)行房(ゆきふさ)・里見(さとみ)大炊助(おほいのすけ)時義(ときよし)・武田(たけだの)与一・気比(けひの)弥三郎大夫(たいふ)氏治(うぢはる)・大田帥(おほたそつの)法眼(ほふげん)以下(いげ)御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、いざゝらば宮の御供(おんとも)仕らんとて、同音に念仏唱(となへ)て一度(いちど)に皆腹を切る。是(これ)を見て庭上(ていじやう)に並(なみ)居たる兵(つはもの)三百(さんびやく)余人(よにん)、互に差違(さしちがへ)々々(さしちがへ)弥(いや)が上に重伏(かさなりふす)。気比大宮司(けひのだいぐうじ)太郎は、元来力人に勝(すぐれ)て水練(すゐれん)の達者なりければ、春宮(とうぐう)を小舟に乗進(のせまゐら)せて、櫓(ろ)かいも無(なけ)れ共(ども)綱手(つなで)を己(おのれ)が横手綱(よこてつな)に結付(ゆひつけ)、海上三十(さんじふ)余町(よちやう)を游(およい)で蕪木(かぶらき)の浦へぞ著進(つけまゐら)せける。是(これ)を知(しる)人更(さら)に無(なか)りければ、潜(ひそか)に杣山(そまやま)へ入進(いれまゐら)せん事は最(いと)安かりぬべかりしに、一宮(いちのみや)を始進(はじめまゐら)せて、城中(じやうちゆうの)人々不残自害する処に、我(われ)一人逃(にげ)て命を活(いき)たらば、諸人の物笑(ものわらひ)なるべしと思(おもひ)ける間、春宮(とうぐう)を怪(あや)しげなる浦人(うらびと)の家に預け置進(おきまゐら)せ、「是(これ)は日本国の主(あるじ)に成(なら)せ給ふべき人にて渡(わたら)せ給ふぞ。如何にもして杣山(そまやま)の城へ入進(いれまゐら)せてくれよ。」と申(まうし)含めて、蕪木(かぶらき)の浦より取(とつ)て返し、本(もと)の海上を游ぎ帰(かへつ)て、弥三郎大夫が自害して伏(ふし)たる其(その)上(うへ)に、自(みづから)我首(わがくび)を掻落(かきおとし)て片手に提(ひつさげ)、大膚脱(おほはだぬき)に成(なつ)て死(しし)にけり。土岐(とき)阿波(あはの)守(かみ)・栗生(くりふ)左衛門・矢島七郎(しちらう)三人(さんにん)は、一所(いつしよ)にて腹切(きら)んとて、岩の上に立並(たちならん)で居たりける処に、船田長門(ながとの)守(かみ)来(きたつ)て、「抑(そもそも)新田殿(につたどの)の御一家(ごいつけ)の運(うん)爰(ここ)にて悉(ことごとく)極(きは)め給はゞ、誰々も不残討死すべけれ共(ども)、惣大将(そうだいしやう)兄弟杣山(そまやま)に御座(ござ)あり、公達(きんだち)も三四人(さんしにん)迄、此彼(ここかしこ)に御座(ござ)ある上は、我等一人も活残(いきのこつ)て御用(ごよう)に立(たた)んずるこそ、永代の忠功にて侍(はんべ)らめ。何(なん)と云(いふ)沙汰もなく自害しつれて、敵に所得(しよとく)せさせての用は何事ぞや。いざゝせ給へ、若(もし)やと隠(かく)れて見ん。」と申(まうし)ければ、三人(さんにん)の者共(ものども)船田が迹(あと)に付(つい)て、遥(はるか)の礒へぞ遠浅(とほあさ)の浪を分(わけ)て、半町許(ばかり)行(ゆき)たれば、礒打(うつ)波に当りて大(おほき)に穿(うげ)たる岩穴(いはあな)あり。「爰(ここ)こそ究竟(くつきやう)の隠(かく)れ所なれ。」とて、四人共に此(この)穴の中に隠れて、三日三夜を過(すご)しける心の中(うち)こそ悲しけれ。由良(ゆら)・長浜は、是(これ)までも猶(なほ)木戸口(きどぐち)に支(ささ)へて、喉(のんど)乾(かわ)けば、己(おのれ)が疵(きず)より流るゝ血を受(うけ)て飲み、力落(おち)疲(つか)るれば、前に伏(ふし)たる死人の肉を切(きつ)て食(くう)て、皆人々の自害しはてん迄と戦(たたかひ)けるを、安間(あまの)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)走(わし)り下(くだつ)て、「何(いつ)を期(ご)に合戦をばし給(たまふ)ぞ。大将は早御自害(ごじがい)候(さふらひ)つるぞや。」と申(まうし)ければ、「いざやさらば、とても死なんずる命を、若(もし)やと寄手(よせて)の大将のあたりへ紛(まぎ)れ寄(よつ)て、よからんずる敵と倶(とも)に差違(さしちが)へて死(しな)ん。」とて、五十(ごじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、三の木戸(きど)を同時に打出(うちいで)、責口(せめくち)一方の寄手(よせて)三千(さんぜん)余人(よにん)を追巻(おひまく)り、其(その)敵に相交(あひまじはつ)て、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)が陣へぞ近付(ちかづき)ける。如何に心許(ばかり)は弥武(やたけ)に思へ共(ども)、城より打出(うちい)でたる者共(ものども)の為体(ていたらく)、枯槁憔悴(こかうせうすゐ)して、尋常(よのつね)の人に可紛も無(なか)りければ、皆人是(これ)を見知(しつ)て、押隔(おしへだて)ける間、一人も能(よき)敵に合(あふ)者無(なく)して、所々(しよしよ)にて皆討(うた)れにけり。都(すべ)て城中(じやうちゆう)に篭(こも)る処の勢(せい)は百六十人(ひやくろくじふにん)、其(その)中に降人(かうにん)に成(なつ)て助かる者十二人(じふににん)、岩の中に隠れて活(いき)たる者四人、其外(そのほか)百五十一人(ひやくごじふいちにん)は一時に自害して、皆戦場の土と成(なり)にけり。されば今に到(いたる)迄其怨霊共(そのをんりやうども)此(この)所に留(とどまつ)て、月曇り雨暗き夜は、叫喚求食(けうくわんくじき)の声啾々(しうしう)として、人の毛孔(まうく)を寒からしむ。「誓掃匈奴不顧身、五千貂錦喪胡塵、可憐無定河辺骨、猶是春閨夢裡人」と、己亥(きがい)の歳(とし)の乱(らん)を見て、陳陶(ちんたう)が作りし隴西行(ろうせいかう)も角(かく)やと被思知たり。


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この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。


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串呂哲学研究会 鈴木超世志
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。