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尊良天皇御陵(京都市左京区南禅寺下河原町19-2)

1、尊良天皇御陵(たかながてんのうごりょう)

後醍醐天皇 第一皇子 尊良親王(串呂哲学では天皇と尊称)の御首塚。

『太平記』によると、越前金ヶ崎城で自害した尊良親王の首が南禅寺に届けられ、住職の夢窓国師が葬礼を執行した後、この地で首塚として祀られた。皇后清子姫も埋葬され、比翼塚ともいう。

住所は、京都市左京区南禅寺下河原町19-2

2、参考資料

後醍醐天皇皇子 尊良親王墓    尊良親王墓      尊良親王画像

後醍醐天皇皇子 尊良親王墓    金ヶ崎城の籠城戦で自害した尊良親王

『ウィキペディア(Wikipedia)』尊良親王

『ウィキペディア(Wikipedia)』尊良親王より転載
 後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の娘・為子。宗良親王の同母兄。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。 
 幼少時は吉田定房に養育された。1326年(嘉暦元年)に元服し、中務卿に任じられた。1331年(元徳3年)1月には一品に叙任されたことから、一品中務卿親王と称された。
 元弘の乱では父と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流された。しかし脱出して翌年には九州に移り、その後、京都に帰還した。
 1335年(建武2年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた。
 1337年(延元2年/建武5年)1月、尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、3月6日に義顕や他の将兵と共に自害した。自害の寸前、義顕は尊良親王に落ち延びることを勧めたが、尊良親王は配下の将兵たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶したという。                          第一皇子・守永親王(母は右大臣西園寺公顕の女・藤原清子、後醍醐天皇猶子・纂集御系図)
第二皇子・基良親王(母は同上、二条良基の養子となる。後、僧籍に入り、良玄法親王、宮崎山伝正院開基)

建武元年の冬の比(ころ)より又天下乱れて、公家の御世(みよ)、武家の成敗(せいばい)に成りしかば、一宮は終いに越前の金崎の城にて御自害有って、御首(おんくび)京都に上(のぼり)て、禅林寺の長老夢窓国師、喪礼執り行れるなど聞えしかば、御息所(みやすどころ)は余りの為方(せんかた)なさに御車(おんくるま)に助け載せられて、禅林寺の辺(あたり)まで浮かれ出でさせ給えば、是れぞ其御事(そのおこと)と覚敷(おぼしく)て、墨染(すみぞめ)の夕(ゆふべ)の雲に立つ煙、松の嵐に打ち靡びき、心細く澄み上る。(『太平記』巻18の7

尊良親王妃御歌一首 御息所は西園寺公顕の女(藤原清子)元弘の乱に尊良親王土佐畑に流され居給ひし頃、御息所が一方ならぬ御辛苦遊ばされし由は、太平記に詳し、延元二年三月親王越前金ヶ崎に戦死し給ひ、御しるし京都に送らるるや、御息所悲嘆の余り亡せ給ふと伝。 思ひきや越路に消えし夕煙みやこの空に又立たんとは 『吉野朝の悲歌』(川田順著)

3、尊良天皇御陵に関する神風串呂

金崎神宮と尊良天皇御陵とを結ぶ神風串呂(№33)

 「金ケ崎神宮」には「尊良天皇」の御胴体が埋蔵されてあり、「尊良天皇」の御首は、京都市東山永観堂(浄土宗西山禅林寺派総本山)正面南三百米の所に「清子姫命」の骸と共に埋蔵せられてあります。(宮内庁所管の尊良親王御墓となっている。)
 此の「尊良天皇」の「御胴」と「御首」即ち「金ケ崎神宮」と「尊良親王御陵」とを串呂して延長致しますと、大阪市羽曳野市誉田の「応神天皇御陵」にピシンと串呂しています。
 「応神天皇」は「八幡大明神」として日本全国津々浦々に至るまで、一ヶ町村に一社は必ず奉祀されていて、総計二十八萬社の「八幡宮」があります。如何に我が日本民族祖先等が「応神天皇」を崇敬したかを窺知する事が出来ますが、「尊良天皇」の「御胴」と「御首」を結べば正に「応神天皇」であります。(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』本文26頁)

「尊良天皇御陵」と「与位」との神風串呂(№38)

串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)

情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。