『太平記』巻18の7「春宮還御事付一宮御息所事」(とうぐうかんぎょの事、つけたり、いちのみやみやすどころの事)

1、口語による書き下し文

建武元年の冬の比(ころ)より又天下乱れて、公家の御世(みよ)、武家の成敗(せいばい)に成りしかば、一宮は終いに越前の金崎の城にて御自害有って、御首(おんくび)京都に上(のぼり)て、禅林寺の長老夢窓国師、喪礼執り行れるなど聞えしかば、御息所(みやすどころ)は余りの為方(せんかた)なさに御車(おんくるま)に助け載せられて、禅林寺の辺(あたり)まで浮かれ出でさせ給えば、是れぞ其御事(そのおこと)と覚敷(おぼしく)て、墨染(すみぞめ)の夕(ゆふべ)の雲に立つ煙、松の嵐に打ち靡びき、心細く澄み上る。

2、原文

去程に夜明ければ、蕪木の浦より春宮御座の由告たりける間、島津駿河守忠治を御迎に進せて取奉る。去夜金崎にて討死自害の頚百五十一取並べて被実検けるに、新田の一族には、越後守義顕・里見大炊助義氏の頚許有て、義貞・義助二人の首は無りけり。さては如何様其辺の淵の底なんどにぞ沈めたらんと、海人を入て被かせけれ共、曾不見ければ、足利尾張守、春宮の御前に参て、「義貞・義助二人が死骸、何くに有とも見へ候はぬは、何と成候けるやらん。」と被尋申ければ、春宮幼稚なる御心にも、彼人々杣山に有と敵に知せては、軈て押寄る事もこそあれと被思召けるにや。「義貞・義助二人、昨日の暮程に自害したりしを、手の者共が役所の内にして火葬にするとこそ云沙汰せしか。」と被仰ければ、「さては死骸のなきも道理也けり。」とて、是を求るに不及。さてこそ杣山には墓々敷敵なければ、降人にぞ出んずらんとて、暫が程は閣けれ。我執と欲念とにつかはれて、互に害心を発す人々も、終には皆無常の殺鬼に逢ひ、被呵責ことも不久。哀に愚かなる事共なり。新田越後守義顕・並一族三人、其外宗徒の首七を持せ、春宮をば張輿に乗進せて、京都へ還し上せ奉る。諸大将事の体、皆美々敷ぞ見へたりける。越後守義顕の首をば、大路を渡して獄門に被懸。新帝御即位の初より三年の間は、天下の刑を不行法也。未河原の御禊、大甞会も不被遂行先に、首を被渡事は如何あるべからん。先帝重祚の初、規矩掃部助高政・糸田左近将監貞吉が首を被渡たりしも、不吉の例とこそ覚ゆれと、諸人の意見共有けれ共、是は朝敵の棟梁義貞の長男なればとて、終大路を被渡けり。春宮京都へ還御成ければ、軈楼の御所を拵へて、奉押篭。一宮の御頚をば、禅林寺の長老夢窓国師の方へ被送、御喪礼の儀式を引繕る。さても御匣殿の御歎、中々申も愚也。此御匣殿の一宮に参り初給し古への御心尽し、世に類なき事とこそ聞へしか。一宮已に初冠めされて、深宮の内に長せ給し後、御才学もいみじく容顔も世に勝れて御座かば、春宮に立せ給なんと、世の人時明逢へりしに、関東の計ひとして、慮の外に後二条院の第一の御子春宮に立せ給しかば、一宮に参り仕べき人々も、皆望を失ひ、宮も世中万づ打凋たる御心地して、明暮は只詩哥に御心を寄せ、風月に思を傷しめ給ふ。折節に付たる御遊などあれ共、差て興ぜさせ給ふ事もなし。さるにつけては、何なる宮腹、一の人の御女などを角と仰られば、御心を尽させ給ふまでもあらじと覚へしに、御心に染む色も無りけるにや、是をと被思召たる御気色もなく、只独のみ年月を送らせ給ける。或時関白左大臣の家にて、なま上達部・殿上人余た集て、絵合の有けるに、洞院の左大将の出されたりける絵に、源氏の優婆塞の宮の御女、少し真木柱に居隠て、琵琶を調べ給しに、雲隠れしたる月の俄に最あかく指出たれば、扇ならでも招べかりけりとて、撥を揚てさしのぞきたる顔つき、いみじく臈闌て、匂やかなる気色云ばかりなく、筆を尽してぞ書たりける。一宮此絵を被御覧、無限御心に懸りければ、此絵を暫被召置、みるに慰む方もやとて、巻返々々御覧ぜらるれ共、御心更に不慰。昔漢李夫人甘泉殿の病の床に臥して無墓成給しを、武帝悲みに堪兼て返魂香を焼玉しに、李夫人の面影の烟の中に見へたりしを、似絵に書せて被御覧しかども、「不言不笑令愁殺人。」と、武帝の歎給けんも、現に理と思知せ給ふ。我ながら墓なの心迷やな。誠の色を見てだにも、世は皆夢の中の現とこそ思ひ捨る事なるに、是はそも何事の化し心ぞや。遍照僧正の哥の心を貫之が難じて、「歌のさまは得たれ共実少し。譬へば絵に書ける女を見て徒に心を動すが如し。」と云し、其類にも成ぬる者哉と思棄給へ共、尚文悪なる御心胸に充て、無限御物思に成ければ、傍への色異なる人を御覧じても、御目をだにも回らされず。況て時々の便りにつけて事問通し給ふ御方様へは、一急雨の過る程の笠宿りに可立寄心地にも思召さず。世中にさる人ありと伝聞て御心に懸らば、玉垂の隙求る風の便も有ぬべし。又僅に人を見し許なる御心当ならば、水の泡の消返りても、寄る瀬はなどか無るべきに、是は見しにも非ず聞しにも非ず、古の無墓物語、化なる筆の迹に御心を被悩ければ、無為方思召煩はせ給へば、せめて御心を遣方もやと、御車に被召、賀茂の糾の宮へ詣させ給ひ、御手洗河の川水を御手水に結ばれ、何となく河に逍遥せさせ給ふにも、昔業平中将、恋せじと御祓せし事も、哀なる様に思召出されて、祈る共神やはうけん影をのみ御手洗河の深き思をと詠ぜさせ給ふ時しもあれ、一急雨の過行程、木の下露に立濡て、御袖もしほれたるに、「日も早暮ぬ。」と申声して、御車を轟かして一条を西へ過させ給ふに、誰が栖宿とは不知、墻に苔むし瓦に松生て、年久く住荒したる宿の物さびし気なるに、撥音気高く青海波をぞ調べたる。「怪しや如何なる人なるらん。」と、洗墻に御車を駐めさせて、遥に見入させ給ひたれば、見る人有とも不知体にて、暮居空の月影の、時雨の雲間より幽々と顕れ出たるに、御簾を高く巻上て、年の程二八許なる女房の、云ばかりなくあてやかなるが、秋の別を慕ふ琵琶を弾ずるにてぞ有ける。鉄砕珊瑚一両曲、氷写玉盤千万声、雑錯たる其声は、庭の落葉に紛つゝ、外には降らぬ急雨に、袖渋る許にぞ聞へたる。宮御目も文に熟々と御覧ずるに、此程漫に御心を尽して、夢にもせめて逢見ばやと、恋悲み給ひつる似絵に少しも不違、尚あてやかに臈闌て、云はん方なくぞ見へたりける。御心地空に浮て、たど/\しき程に成せ給へば、御車より下させ給て、築山の松の木陰の立寄せ給へば、女房見る人有と物侘し気にて、琵琶をば几帳の傍らに指寄せて内へ紛れ入ぬ。引や裳裾の白地なる面影に、又立出る事もやとて、立徘徊はせ給たれば、怪げなる御所侍の、御隔子進する音して、早人定りぬれば、何迄角ても可有とて、宮還御成ぬ。絵にかきたりし形にだに、御心を悩されし御事也。まして実の色を被御覧て、何にせんと恋忍ばせ給も理哉。其後よりは太すらなる御気色に見へながら、流石御詞には不被出けるに、常に御会に参り給ふ二条中将為冬、「何ぞや賀茂の御帰さの、幽なりし宵の間の月、又も御覧ぜまぼしく被思召にや。其事ならば最安き事にてこそ侍るめれ。彼の女房の行末を委尋て候へば、今出河右大臣公顕の女にて候なるを、徳大寺左大将に乍申名、未皇太后宮の御匣にて候なる。切に思召れ候はゞ、歌の御会に申寄て彼亭へ入せ給て、玉垂の隙にも、自御心を露す御事にて候へかし。」と申せば、宮例ならず御快げに打笑せ給て、「軈今夜其亭にて可有褒貶御会。」と、右大臣の方へ被仰出ければ、公顕忝と取りきらめきて、数寄の人余た集て、角と案内申せば、宮は為冬許を御供にて、彼亭へ入せ給ぬ。哥の事は今夜さまでの御本意ならねば、只披講許にて、褒貶はなし。主の大臣こゆるぎの急ぎありて、土器もて参りたれば、宮常よりも興ぜさせ給て、郢曲絃歌の妙々に、御盃給はせ給ひたるに、主も痛く酔臥ぬ。宮も御枕を傾させ給へば、人皆定りて夜も已に深にけり。媒の左中将心有て酔ざりければ、其案内せさせて、彼女房の栖ける西の台へ忍入せ給て、墻の隙より見給へば、灯の幽なるに、花紅葉散乱たる屏風引回し、起もせず寝もせぬ体に打濡、只今人々の読たりつる哥の短冊取出して、顔打傾けたれば、こぼれ懸りたる鬢の端れより、匂やかに幽なる容せ、露を含める花の曙、風に随へる柳の夕の気色、絵に書共筆も難及、語るに言も無るべし。外ながら幽に見てし形の、世に又類ひもやあらんと、怪しきまでに思ひしは、尚数ならざりけりと御覧じ居給ふに、御心も早ほれ/゛\と成て、不知我が魂も其袖の中にや入ぬらんと、ある身ともなく覚させ給ふ。時節辺に人も無て、灯さへ幽なれば、妻戸を少し押開て内へ入せ給たるに、女は驚く貌にも非ず、閑やかにもてなして、やはら衣引被て臥たる化妝、云知らずなよやかに閑麗なり。宮も傍に寄伏給て、有しながらの心尽し、哀なる迄に聞へけれ共、女はいらへも申さず、只思にしほれたる其気色、誠に匂深して、花薫り月霞む夜の手枕に、見終ぬ夢の化ある御心迷に、明るも不知語ひ給へ共、尚強顔気色にて程経ぬれば、己が翅を並べながら人の別をも思知ぬ八声の鳥も告渡り、涙の氷解やらず、衣々も冷やかに成て、類も怨き在明の、強顔影に立帰せ給ぬ。其後より度々御消息有て、云ばかりなき御文の数、早千束にも成ぬ覧と覚る程に積りければ、女も哀なる方に心引れて、のぼれば下る稲舟の、否には非ずと思へる気色になん顕れたり。され共尚互に人目を中の関守になして、月比過させ給けるに、式部少輔英房と云儒者、御文談に参じて、貞観政要を読けるに、「昔唐の太宗、鄭仁基が女を后に備へ、元和殿に冊入んとし玉ひしを、魏徴諌て、「此女は已に陸氏に約せり」と申せしかば、太宗其諌に随て、宮中に召るゝ事を休め給き。」と談じけるを、宮熟々と聞召て、何なれば古の君は、かく賢人の諌に付て、好色心を棄給けるぞ。何なる我なれば、已に人の云名付て事定りたる中をさけて、人の心を破るらん。古の様を恥、世の譏を思食て、只御心の中には恋悲ませ給ひけれ共、御詞には不被出、御文をだに書絶て、角とも聞へねば、百夜の榻の端書、今は我や数書ましと打侘て、海士の刈藻に思乱給ふ。角て月日も過ければ、徳大寺此事を聞及、「左様に宮なんどの御心に懸られんを、争でか便なうさる事可有。」とて、早あらぬ方に通ふ道有と聞へければ、宮も今は無御憚、重て御文の有しに、何よりも黒み過て、知せばや塩やく浦の煙だに思はぬ風になびく習ひを女もはや余りに強顔かりし心の程、我ながら憂物に思ひ返す心地になん成にければ、詞は無て、立ぬべき浮名を兼て思はずは風に烟のなびかざらめや其後よりは、彼方此方に結び置れし心の下紐打解て、小夜の枕を河島の、水の心も浅からぬ御契に成しかば、生ては偕老の契深く、又死ては同苔の下にもと思召通して、十月余りに成にけるに、又天下の乱出来て、一宮は土佐の畑へ被流させ給しかば、御息所は独都に留らせ給て、明るも不知歎き沈せ給て、せめてなき世の別なりせば、憂に堪ぬ命にて、生れ逢ん後の契を可憑に、同世ながら海山を隔てゝ、互に風の便の音信をだにも書絶て、此日比召仕はれける青侍・官女の一人も参り通はず、万づ昔に替る世に成て、人の住荒したる蓬生の宿の露けきに、御袖の乾く隙もなく、思召入せ給ふ御有様、争でか涙の玉の緒も存へぬ覧と、怪き程の御事也。宮も都を御出有し日より、公の御事御身の悲み、一方ならず晴やらぬに、又打添て御息所の御名残、是や限と思召しかば、供御も聞召入られず、道の草葉の露共に、消はてさせ給ぬと見へさせ給ふ。惜共思食ぬ御命長らへて、土佐の畑と云所の浅猿く、此世の中とも覚へぬ浦の辺に流されて、月日を送らせ給へば、晴るゝ間もなき御歎、喩へて云ん方もなし。余りに思くづほれさせ給ふ御有様の、御痛敷見奉りければ、御警固に候ける有井庄司、「何か苦く候べき。御息所を忍で此へ入進せられ候へ。」とて、御衣一重し立て、道の程の用意迄細々に沙汰し進せければ、宮無限喜しと思召て、只一人召仕れける右衛門府生秦武文と申随身を、御迎に京へ上せらる。武文御文を給て、急京都へ上り、一条堀川の御所へ参りたれば、葎茂りて門を閉、松の葉積りて道もなし。音信通ふものとては、古き梢の夕嵐、軒もる月の影ならでは、問人もなく荒はてたり。さては何くにか立忍ばせ給ぬらんと、彼方此方の御行末を尋行程に、嵯峨の奥深草の里に、松の袖垣隙あらはなるに、蔦はい懸て池の姿も冷愁く、汀の松の嵐も秋冷く吹しほりて、誰栖ぬらんと見るも懶げなる宿の内に、琵琶を弾ずる音しけり。怪しやと立留て、是を聞ば、紛ふべくもなき御撥音也。武文喜しく思ひて、中々案内も不申、築地の破れより内へ入て、中門の縁の前に畏れば、破れたる御簾の内より、遥に被御覧、「あれや。」と許の御声幽に聞へながら、何共被仰出事もなく、女房達数たさゞめき合ひて、先泣声のみぞ聞へける。「武文御使に罷上り、是迄尋参りて候。」と申も不敢、縁に手を打懸てさめ/゛\と泣居たり。良有て、「只此迄。」と召あれば、武文御簾の前に跪き、「雲井の外に想像進らするも、堪忍び難き御事にて候へば、如何にもして田舎へ御下り候へとの御使に参て候。」とて、御文を捧たり。急ぎ披て御覧ぜらゝるに、げにも御思ひの切なる色さもこそと覚て、言の葉毎に置露の、御袖に余る許なり。「よしや何なる夷の栖居なりとも、其憂にこそ責ては堪め。」とて、既に御門出有ければ、武文甲斐々々敷御輿なんど尋出し、先尼崎まで下し進せて、渡海の順風をぞ相待ける。懸りける折節、筑紫人に松浦五郎と云ける武士、此浦に風を待て居たりけるが、御息所の御形を垣の隙より見進せて、「こはそも天人の此土へ天降れる歟。」と、目枯もせず守り居たりけるが、「穴無端や。縦主ある人にてもあれ、又何なる女院・姫宮にても坐ませ。一夜の程に契を、百年の命に代んは何か惜からん。奪取て下らばや。」と思ける処に、武文が下部の浜の辺に出て行けるを呼寄て、酒飲せ引出物なんど取せて、「さるにても御辺が主の具足し奉て、船に召せんとする上臈は、何なる人にて御渡あるぞ。」と問ければ、下臈の墓なさは、酒にめで引出物に耽りて、事の様有の侭にぞ語りける。松浦大に悦で、「此比何なる宮にても御座せよ、謀反人にて流され給へる人の許へ、忍で下給はんずる女房を、奪捕たり共、差ての罪科はよも非じ。」と思ければ、郎等共に彼宿の案内能々見置せて、日の暮るをぞ相待ける。夜既に深て人定る程に成ければ、松浦が郎等三十余人、物具ひし/\と堅めて、続松に火を立て蔀・遣戸を蹈破り、前後より打て入。武文は京家の者と云ながら、心剛にして日比も度々手柄を顕したる者なりければ、強盜入たりと心得て、枕に立たる太刀をゝつ取て、中門に走出て、打入敵三人目の前に切臥せ、縁にあがりたる敵三十余人大庭へ颯と追出して、「武文と云大剛の者此にあり。取れぬ物を取らんとて、二つなき命を失な、盜人共。」と咍て、仰たる太刀を押直し、門の脇にぞ立たりける。松浦が郎等共武文一人に被切立て、門より外へはつと逃たりけるが、「蓬し。敵は只一人ぞ。切て入。」とて、傍なる在家に火を懸て、又喚てぞ寄たりける。武文心は武しといへ共、浦風に吹覆はれたる烟に目暮て、可防様も無りければ、先御息所を掻負進せ、向ふ敵を打払て、澳なる船を招き、「何なる舟にてもあれ、女性暫乗進せてたび候へ。」と申て、汀にぞ立たりける。舟しもこそ多かるに、松浦が迎に来たる舟是を聞て、一番に渚へ差寄たれば、武文大に悦で、屋形の内に打置奉り、取落したる御具足、御伴の女房達をも、舟に乗んとて走帰たれば、宿には早火懸て、我方様の人もなく成にけり。松浦は適我舟に此女房の乗せ給たる事、可然契の程哉と無限悦て、「是までぞ。今は皆舟に乗れ。」とて、郎等・眷属百余人、捕物も不取敢、皆此舟に取乗て、眇の澳にぞ漕出したる。武文渚に帰来て、「其御舟被寄候へ。先に屋形の内に置進せつる上臈を、陸へ上進せん。」と喚りけれども、「耳にな聞入そ。」とて、順風に帆を上たれば、船は次第に隔りぬ。又手繰する海士の小船に打乗て、自櫓を推つゝ、何共して御舟に追著んとしけれ共、順風を得たる大船に、押手の小舟非可追付。遥の沖に向て、挙扇招きけるを、松浦が舟にどつと笑声を聞て、「安からぬ者哉。其儀ならば只今の程に海底の竜神と成て、其舟をば遣まじき者を。」と忿て、腹十文字に掻切て、蒼海の底にぞ沈ける。御息所は夜討の入たりつる宵の間の騒より、肝心も御身に不副、只夢の浮橋浮沈、淵瀬をたどる心地して、何と成行事共知せ給はず。舟の中なる者共が、「あはれ大剛の者哉。主の女房を人に奪はれて、腹を切つる哀さよ。」と沙汰するを、武文が事やらんとは乍聞召、其方をだに見遣せ給はず。只衣引被て屋形の内に泣沈ませ給ふ。見るも恐ろしくむくつけ気なる髭男の、声最なまりて色飽まで黒きが、御傍に参て、「何をかさのみむつからせ給ふぞ。面白き道すがら、名所共を御覧じて御心をも慰ませ給候へ。左様にては何なる人も船には酔物にて候ぞ。」と、兎角慰め申せ共、御顔をも更擡させ給はず、只鬼を一車に載せて、巫の三峡に棹すらんも、是には過じと御心迷ひて、消入せ給ぬべければ、むくつけ男も舷に寄懸て、是さへあきれたる体なり。其夜は大物の浦に碇を下して、世を浦風に漂ひ給ふ。明れば風能成ぬとて、同じ泊りの船共、帆を引梶を取り、己が様々漕行けば、都は早迹の霞に隔りぬ。九国にいつか行著んずらんと、人の云を聞召すにぞ、さては心つくしに行旅也と、御心細きに付ても、北野天神荒人神に成せ給し其古への御悲み、思召知せ給はゞ、我を都へ帰し御座せと、御心の中に祈せ給。其日の暮程に、阿波の鳴戸を通る処に、俄に風替り塩向ふて、此船更に不行遣。舟人帆を引て、近辺の礒へ舟を寄んとすれば、澳の塩合に、大なる穴の底も見へぬが出来て、舟を海底に沈んとす。水主梶取周章て帆薦なんどを投入々々渦に巻せて、其間に船を漕通さんとするに、舟曾不去。渦巻くに随て浪と共に舟の廻る事、茶臼を推よりも尚速也。「是は何様竜神の財宝に目懸られたりと覚へたり。何をも海へ入よ。」とて、弓箭・太刀・々・鎧・腹巻、数を尽して投入たれ共、渦巻事尚不休。「さては若色ある衣裳にや目を見入たるらん。」とて、御息所の御衣、赤き袴を投入たれば、白浪色変じて、紅葉を浸せるが如くなり。是に渦巻き少し閑まりたれ共、船は尚本の所にぞ回居たる。角て三日三夜に成ければ、舟の中の人独も不起上、皆船底に酔臥て、声々に呼叫ぶ事無限。御息所は、さらでだに生る御心地もなき上に、此浪の騒になを御肝消て、更に人心も坐さず。よしや憂目を見んよりは、何なる淵瀬にも身を沈めばやとは思召つれ共、さすがに今を限と叫ぶ声を聞召せば、千尋の底の水屑と成、深き罪に沈なん後の世をだに誰かは知て訪はんと思召す涙さへ尽て、今は更に御くしをも擡させ給はず。むくつけ男も早忙然と成て、「懸る無止事貴人を取奉り下る故に、竜神の咎めもある哉らん。無詮事をもしつる者哉。」と誠に後悔の気色なり。斯る処に梶取一人船底より這出て、「此鳴渡と申は、竜宮城の東門に当て候間、何にても候へ、竜神の欲しがらせ給ふ物を、海へ沈め候はねば、いつも加様の不思議ある所にて候は、何様彼上臈を龍神の思懸申されたりと覚へ候。申も余に邪見に無情候へ共、此御事独の故に若干の者共が、皆非分の死を仕らん事は、不便の次第にて候へば、此上臈を海へ入進せて、百余人の命を助させ給へ。」とぞ申ける。松浦元来無情田舎人なれば、さても命や助かると、屋形の内へ参て、御息所を荒らかに引起し奉り、「余に強顔御気色をのみ見奉るも、無本意存候へば、海に沈め進すべきにて候。御契深くば土佐の畑へ流れよらせ給ひて、其宮とやらん堂とやらん、一つ浦に住せ給へ。」とて、無情掻抱き進せて、海へ投入奉んとす。是程の事に成ては、何の御詞か可有なれば、只夢の様に思召して、つや/\息をも出させ給はず、御心の中に仏の御名許を念じ思召て、早絶入せ給ぬるかと見へたり。是を見て僧の一人便船せられたりけるが、松浦が袖を磬て、「こは如何なる御事にて候ぞや。竜神と申も、南方無垢の成道を遂て、仏の授記を得たる者にて候へば、全く罪業の手向を不可受。而るを生ながら人を忽に海中に沈められば、弥竜神忿て、一人も助る者や候べき。只経を読み陀羅尼を満て法楽に備られ候はんずるこそ可然覚へ候へ。」と、堅く制止宥めければ、松浦理に折て、御息所を篷屋の内に荒らかに投棄奉る。「さらば僧の儀に付て祈りをせよや。」とて、船中の上下異口同音に観音の名号を唱奉りける時、不思議の者共波の上に浮び出て見へたり。先一番に退紅著たる仕丁が、長持を舁て通ると見へて打失ぬ。其次に白葦毛の馬に白鞍置たるを、舎人八人して引て通ると見へて打失ぬ。其次に大物の浦にて腹切て死たりし、右衛門府生秦武文、赤糸威の鎧、同毛の五枚甲の緒を縮、黄鵇毛なる馬に乗て、弓杖にすがり、皆紅の扇を挙げ、松浦が舟に向て、其舟留まれと招く様に見へて、浪の底にぞ入にける。梶取是を見て、「灘を走る舟に、不思議の見ゆる事は常の事にて候へ共、是は如何様武文が怨霊と覚へ候。其験を御覧ぜん為に、小船を一艘下して此上臈を乗進せ、波の上に突流して、竜神の心を如何と御覧候へかし。」と申せば、「此儀げにも。」とて、小船を一艘引下して、水手一人と御息所とを乗せ奉て、渦の波に漲て巻却る波の上にぞ浮べける。彼早離・速離の海岸山に被放、「飢寒の愁深して、涙も尽ぬ。」と云けんも、人住島の中なれば、立寄方も有ぬべし。是は浦にも非ず、島にも非ず、如何に鳴渡の浪の上に、身を捨舟の浮沈み、塩瀬に回る泡の、消なん事こそ悲けれ。されば竜神もゑならぬ中をや被去けん。風俄に吹分て、松浦が舟は西を指して吹れ行と見へけるが、一の谷の澳津より武庫山下風に被放て、行方不知成にけり。其後浪静り風止ければ、御息所の御船に被乗つる水主甲斐々々敷舟を漕寄て、淡路の武島と云所へ著奉り、此島の為体、回一里に足ぬ所にて、釣する海士の家ならでは、住人もなき島なれば、隙あらはなる葦の屋の、憂節滋き栖に入進せたるに、此四五日の波風に、御肝消御心弱りて、軈て絶入せ給ひけり。心なき海人の子共迄も、「是は如何にし奉らん。」と、泣悲み、御顔に水を灑き、櫓床を洗て御口に入なんどしければ、半時許して活出させ給へり。さらでだに涙の懸る御袖は乾く間も無るべきに、篷漏る滴藻塩草、可敷忍旅寝ならねば、「何迄角ても有佗ぶべき。土佐の畑と云浦へ送りてもやれかし。」と、打佗させ給へば、海士共皆同じ心に、「是程厳敷御渡候上臈を、我等が舟に乗進せて、遥々と土佐迄送り進せ候はんに、何の泊にてか、人の奪取進せぬ事の候べき。」と、叶まじき由を申せば、力及ばせ給はずして、浪の立居に御袖をしぼりつゝ、今年は此にて暮し給ふ。哀は類ひも無りけり。さて一宮は武文を京へ上せられし後は、月日遥に成ぬれ共、何共御左右を申さぬは、如何なる目にも逢ぬる歟と、静心なく思食て、京より下れる人に御尋有ければ、「去年の九月に御息所は都を御出有て、土佐へ御下り候しとこそ慥に承りしか。」と申ければ、さては道にて人に被奪ぬるか、又世を浦風に被放、千尋の底にも沈ぬる歟と、一方ならず思ひくづほれさせ給けるに、或夜御警固に参たる武士共、中門に宿直申て四方山の事共物語しける者の中に、「さるにても去年の九月、阿波の鳴渡を過て当国に渡りし時、船の梶に懸たりし衣を取上て見しかば、尋常の人の装束とも不見、厳かりし事よ。是は如何様院・内裏の上臈女房なんどの田舎へ下らせ給ふが、難風に逢て海に沈み給けん其装束にてぞ有らん。」と語て、「穴哀や。」なんど申合ければ、宮墻越に被聞召、若其行末にてや有らんと不審多く思食て、「聊御覧ぜられたき御事あり。其衣未あらば持て参れ。」と御使有ければ、「色こそ損じて候へ共未私に候。」とて召寄進せたり。宮能々是を御覧ずるに、御息所を御迎に武文を京へ上せられし時、有井庄司が仕立て進せたりし御衣也。穴不思議やとて、裁余したる切れを召出して、差合せられたるに、あやの文少も不違続きたれば、二目共不被御覧、此衣を御顔に押当て、御涙を押拭はせ給ふ。有井も御前に候けるが、涙を袖に懸つゝ罷立にけり。今は御息所の此世に坐す人とは露も不被思召、此衣の橈に懸りし日を、なき人の忌日に被定、自御経を書写せられ、念仏を唱へさせ給て、「過去聖霊藤原氏女、並物故秦武文共に三界の苦海を出て、速に九品の浄刹に到れ。」と祈らせ給ふ。御歎の色こそ哀なれ。去程に其年の春の比より、諸国に軍起て、六波羅・鎌倉・九国・北国の朝敵共、同時に滅びしかば、先帝は隠岐国より還幸成り、一宮は土佐の畑より都へ帰り入らせ給ふ。天下悉公家一統の御世と成て目出かりしか共、一宮は唯御息所の今世に坐さぬ事を歎思食ける処に、淡路の武島に未生て御坐有と聞へければ、急御迎を被下、都へ帰上らせ給ふ。只王質が仙より出て七世の孫に会ひ、方士が海に入て楊貴妃を見奉りしに不異。御息所は、「心づくしに趣し時の心憂さ、浪に回りし泡の消るを争そう命の程、堪兼たりし襟は御推量りも浅くや。」とて、御袖濡る許なり。宮は又「外渡る舟の梶の葉に、書共尽ぬ御歎、無跡問し月日の数、御身に積りし悲みは、語るも言は愚か也。」と書口説せ給ひける。さしも憂かりし世中の、時の間に引替て、人間の栄花、天上の娯楽、不極云事なく、不尽云御遊もなし。長生殿の裏には、梨花の雨不破壌を、不老門の前には、楊柳の風不鳴枝。今日を千年の始めと、目出きためしに思食たりしに、楽尽て悲み来る人間の習なれば、中一年有て、建武元年の冬の比より又天下乱て、公家の御世、武家の成敗に成しかば、一宮は終に越前金崎の城にて御自害有て、御首京都に上て、禅林寺長老夢窓国師、喪礼被執行など聞へしかば、御息所は余りの為方なさに御車に被助載て、禅林寺の辺まで浮れ出させ給へば、是ぞ其御事と覚敷て、墨染の夕の雲に立煙、松の嵐に打靡き、心細く澄上る。さらぬ別の悲さは、誰とても愚ならぬ涙なれ共、宮などの無止事御身を、剣の先に触て、秋の霜の下に消終させ給ぬる御事は、無類悲なれば、想像奉る今はの際の御有様も、今一入の思ひを添て、共に東岱前後の烟と立登り、北芒新丘の露共消なばやと、返る車の常盤に、臥沈ませ給ける、御心の中こそ哀なれ。行て訪旧跡、竹苑故宮月心を傷しめ、帰臥寒閨、椒房寡居の風夢を吹、著見に順聞に、御歎日毎に深く成行ければ、軈御息所も御心地煩ひて、御中陰の日数未終先に、無墓成せ給ひければ、聞人毎に押並て、類ひ少なき哀さに、皆袂をぞ濡しける。

3、読み仮名付き

春宮(とうぐう)還御(くわんぎよの)事(こと)付(つけたり)一宮(いちのみや)御息所(みやすどころの)事(こと)

去(さる)程(ほど)に夜明(あけ)ければ、蕪木(かぶらき)の浦より春宮(とうぐう)御座(ござ)の由告(つげ)たりける間、島津駿河(するがの)守(かみ)忠治(ただはる)を御迎に進(まゐら)せて取(とり)奉る。去(さんぬる)夜金崎(かねがさき)にて討死自害の頚百五十一(ひやくごじふいち)取並(とりなら)べて被実検けるに、新田(につた)の一族(いちぞく)には、越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)・里見(さとみ)大炊助(おほいのすけ)義氏(よしうぢ)の頚許(ばかり)有(あつ)て、義貞・義助二人(ににん)の首(くび)は無(なか)りけり。さては如何様(いかさま)其辺(そのへん)の淵の底なんどにぞ沈めたらんと、海人(あま)を入(いれ)て被(かづ)かせけれ共(ども)、曾(かつて)不見ければ、足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)、春宮(とうぐう)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て、「義貞・義助二人(ににん)が死骸、何(いづ)くに有(あり)とも見へ候はぬは、何(なん)と成候(なりさふらひ)けるやらん。」と被尋申ければ、春宮(とうぐう)幼稚なる御心(おんこころ)にも、彼(かの)人々杣山(そまやま)に有(あり)と敵に知(しら)せては、軈(やが)て押寄(おしよす)る事もこそあれと被思召けるにや。「義貞・義助二人(ににん)、昨日の暮程(ほど)に自害したりしを、手(て)の者共(ものども)が役所の内にして火葬にするとこそ云(いひ)沙汰せしか。」と被仰ければ、「さては死骸のなきも道理也(なり)けり。」とて、是(これ)を求(もとむ)るに不及。さてこそ杣山(そまやま)には墓々敷(はかばかしき)敵なければ、降人にぞ出(いで)んずらんとて、暫(しばし)が程は閣(さしおき)けれ。我執(がしふ)と欲念(よくねん)とにつかはれて、互に害心を発(おこ)す人々も、終(つひ)には皆無常の殺鬼(せつき)に逢ひ、被呵責ことも不久。哀(あはれ)に愚かなる事共(ことども)なり。新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)・並(ならびに)一族(いちぞく)三人(さんにん)、其外(そのほか)宗徒(むねと)の首(くび)七(ななつ)を持(もた)せ、春宮(とうぐう)をば張輿(はりこし)に乗進(のせまゐら)せて、京都へ還(かへ)し上(のぼ)せ奉る。諸大将(しよだいしやう)事の体(てい)、皆美々敷(びびしく)ぞ見へたりける。越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)の首をば、大路(おほち)を渡して獄門(ごくもん)に被懸。新帝御即位(ごそくゐ)の初(はじめ)より三年の間は、天下の刑(けい)を不行法也(なり)。未(いまだ)河原(かはら)の御禊(おんはらひ)、大甞会(だいじやうゑ)も不被遂行先に、首(くび)を被渡事は如何(いかが)あるべからん。先帝重祚(ちようそ)の初(はじめ)、規矩掃部助(きくのかもんのすけ)高政(たかまさ)・糸田(いとだ)左近(さこんの)将監(しようげん)貞吉(さだよし)が首を被渡たりしも、不吉の例(れい)とこそ覚(おぼ)ゆれと、諸人の意見共(いけんども)有(あり)けれ共(ども)、是(これ)は朝敵(てうてき)の棟梁(とうりやう)義貞の長男なればとて、終(つひに)大路(おほち)を被渡けり。春宮(とうぐう)京都へ還御成(なり)ければ、軈(やがて)楼(ろう)の御所を拵(こしら)へて、奉押篭。一宮(いちのみや)の御頚(おんくび)をば、禅林寺(ぜんりんじ)の長老夢窓国師(むさうこくし)の方へ被送、御喪礼(ごさうれい)の儀式を引繕(ひきつくろは)る。さても御匣殿(みくしげどの)の御歎(おんなげき)、中々(なかなか)申(まうす)も愚(おろか)也(なり)。此御匣殿(このみくしげどの)の一宮(いちのみや)に参り初給(そめたまひ)し古(いにし)への御心(おんこころ)尽(つく)し、世に類(たぐひ)なき事とこそ聞へしか。一宮(いちのみや)已(すで)に初冠(うひかうむり)めされて、深宮(しんきゆう)の内に長(ひととなら)せ給(たまひ)し後、御才学(ごさいかく)もいみじく容顔(ようがん)も世に勝(すぐ)れて御座(おはせし)かば、春宮(とうぐう)に立(たた)せ給(たまひ)なんと、世の人時明逢(ときめきあ)へりしに、関東(くわんとう)の計(はから)ひとして、慮(おもひ)の外(ほか)に後二条(ごにでうの)院(ゐん)の第一(だいいち)の御子春宮(とうぐう)に立(たた)せ給(たまひ)しかば、一宮(いちのみや)に参り仕(つかふ)べき人々も、皆望(のぞみ)を失ひ、宮も世中(よのなか)万(よろ)づ打凋(うちしをれ)たる御心地(おんここち)して、明暮(あけくれ)は只詩哥(しいか)に御心(おんこころ)を寄せ、風月に思(おもひ)を傷(いたま)しめ給ふ。折節(をりふし)に付(つけ)たる御遊(おんあそび)などあれ共(ども)、差(さし)て興(きよう)ぜさせ給ふ事もなし。さるにつけては、何(いか)なる宮腹(みやばら)、一(いち)の人の御女(おんむすめ)などを角(かく)と仰(おほせ)られば、御心(おんこころ)を尽(つく)させ給ふまでもあらじと覚(おぼ)へしに、御心(おんこころ)に染(そ)む色も無(なか)りけるにや、是(これ)をと被思召たる御気色(ごきしよく)もなく、只独(ひとり)のみ年月を送らせ給(たまひ)ける。或時(あるとき)関白左大臣の家にて、なま上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)余(あま)た集(あつまり)て、絵合(ゑあはせ)の有(あり)けるに、洞院(とうゐん)の左大将の出されたりける絵に、源氏の優婆塞(うばそく)の宮(みや)の御女(おんむすめ)、少し真木柱(まきばしら)に居隠(かくれ)て、琵琶を調(しら)べ給(たまひ)しに、雲隠(くもがく)れしたる月の俄(にはか)に最(いと)あかく指出(さしいで)たれば、扇(あふぎ)ならでも招(まねく)べかりけりとて、撥(ばち)を揚(あげ)てさしのぞきたる顔つき、いみじく臈闌(らふたけ)て、匂(にほ)やかなる気色(けしき)云(いふ)ばかりなく、筆を尽(つく)してぞ書(かき)たりける。一宮(いちのみや)此(この)絵を被御覧、無限御心(おんこころ)に懸りければ、此(この)絵を暫被召置、みるに慰(なぐさ)む方(かた)もやとて、巻返(まきかへし)々々(まきかへし)御覧ぜらるれ共(ども)、御心(おんこころ)更(さら)に不慰。昔漢李夫人(かんのりふじん)甘泉殿(かんせんでん)の病(やまひ)の床に臥して無墓成給(なりたまひ)しを、武帝悲(かなし)みに堪兼(たへかね)て返魂香(はんごんかう)を焼玉(たきたまひ)しに、李夫人(りふじん)の面影(おもかげ)の烟の中に見へたりしを、似絵(にせゑ)に書(かか)せて被御覧しかども、「不言不笑令愁殺人。」と、武帝の歎給(なげきたまひ)けんも、現(げ)に理(ことわり)と思知(おもひしら)せ給ふ。我ながら墓(はか)なの心迷(こころまよひ)やな。誠の色を見てだにも、世は皆夢の中(うち)の現(うつつ)とこそ思ひ捨(すつ)る事なるに、是(これ)はそも何事(なにこと)の化(あだ)し心ぞや。遍照僧正(へんぜうそうじやう)の哥の心を貫之(つらゆき)が難(なん)じて、「歌のさまは得たれ共(ども)実(まこと)少(すくな)し。譬(たと)へば絵に書ける女を見て徒(いたづら)に心を動(うごか)すが如し。」と云(いひ)し、其類(そのたぐひ)にも成(なり)ぬる者哉(かな)と思棄(おもひすて)給へ共(ども)、尚(なほ)文悪(あやにく)なる御心(おんこころ)胸(むね)に充(みち)て、無限御物思(おんものおもひ)に成(なり)ければ、傍(かた)への色異(こと)なる人を御覧じても、御目をだにも回(めぐ)らされず。況(まし)て時々の便(たよ)りにつけて事問通(とひかは)し給ふ御方様(おんかたさま)へは、一急雨(ひとむらさめ)の過(すぐ)る程の笠宿(かさやど)りに可立寄心地(ここち)にも思召(おぼしめ)さず。世中(よのなか)にさる人ありと伝聞(つたへきき)て御心(おんこころ)に懸(かか)らば、玉垂(たまだれ)の隙(ひま)求(もとむ)る風の便(たより)も有(あり)ぬべし。又僅(わづか)に人を見し許(ばかり)なる御心(おんこころ)当(あて)ならば、水の泡(あわ)の消返(きえかへ)りても、寄(よ)る瀬(せ)はなどか無(なか)るべきに、是(これ)は見しにも非(あら)ず聞(きき)しにも非(あら)ず、古(いにしへ)の無墓物語、化(あだ)なる筆の迹(あと)に御心(おんこころ)を被悩ければ、無為方思召煩(おぼしめしわづら)はせ給へば、せめて御心(おんこころ)を遣方(やるかた)もやと、御車(おんくるま)に被召、賀茂(かも)の糾(ただす)の宮(みや)へ詣(まうで)させ給ひ、御手洗河(みたらしかは)の川水を御手水(おんてうづ)に結(むす)ばれ、何(なん)となく河に逍遥(せうえう)せさせ給ふにも、昔業平(なりひらの)中将(ちゆうじやう)、恋せじと御祓(みそぎ)せし事も、哀(あはれ)なる様(さま)に思召出(おぼしめしいだ)されて、祈る共(とも)神やはうけん影をのみ御手洗河(みたらしかは)の深き思(おもひ)をと詠ぜさせ給ふ時しもあれ、一急雨(ひとむらさめ)の過行(すぎゆく)程、木(こ)の下(した)露(つゆ)に立濡(たちぬれ)て、御袖(おんそで)もしほれたるに、「日も早暮(くれ)ぬ。」と申(まうす)声して、御車(おんくるま)を轟(とどろ)かして一条を西へ過(すぎ)させ給ふに、誰(た)が栖宿(すむやど)とは不知、墻(かき)に苔(こけ)むし瓦(かはら)に松生(おひ)て、年久(ひさし)く住荒(すみあら)したる宿(やど)の物さびし気(げ)なるに、撥音(ばちおと)気高(けだか)く青海波(せいがいは)をぞ調(しら)べたる。「怪(あや)しや如何なる人なるらん。」と、洗墻に御車(おんくるま)を駐(とど)めさせて、遥(はるか)に見入(いれ)させ給ひたれば、見る人有(あり)とも不知体(てい)にて、暮居(くれゐる)空の月影の、時雨(しぐれ)の雲間(くもま)より幽々(ほのぼの)と顕(あらは)れ出(いで)たるに、御簾(みす)を高く巻上(まきあげ)て、年の程二八許(ばかり)なる女房の、云(いふ)ばかりなくあてやかなるが、秋の別(わかれ)を慕ふ琵琶を弾(だん)ずるにてぞ有(あり)ける。鉄砕珊瑚一両曲、氷写玉盤千万声、雑錯(かきみだし)たる其(その)声は、庭の落葉(おちば)に紛(まぎれ)つゝ、外(よそ)には降らぬ急雨(むらさめ)に、袖渋(しほ)る許(ばかり)にぞ聞へたる。宮御目も文(あや)に熟々(つくつく)と御覧ずるに、此(この)程漫(そぞろ)に御心(おんこころ)を尽して、夢にもせめて逢(あひ)見ばやと、恋悲(こひかなし)み給ひつる似絵(にせゑ)に少しも不違、尚あてやかに臈闌(らふたけ)て、云はん方なくぞ見へたりける。御心地(おんここち)空(そら)に浮(うかれ)て、たど/\しき程(ほど)に成(なら)せ給へば、御車(おんくるま)より下(おり)させ給(たまひ)て、築山(つきやま)の松の木陰(こかげ)の立寄(たちよら)せ給へば、女房見る人有(あり)と物侘(ものわび)し気(げ)にて、琵琶をば几帳(きちやう)の傍(かたは)らに指寄(さしよ)せて内へ紛(まぎ)れ入(いり)ぬ。引(ひく)や裳裾(もすそ)の白地(あからさま)なる面影(おもかげ)に、又立出(たちいづ)る事もやとて、立徘徊(たちやすら)はせ給(たまひ)たれば、怪(あやし)げなる御所侍(ごしよさぶらひ)の、御隔子進(みかうしまゐら)する音して、早人定(しづま)りぬれば、何迄(いつまで)角(かく)ても可有とて、宮還御成(くわんぎよなり)ぬ。絵にかきたりし形(かたち)にだに、御心(おんこころ)を悩(なやま)されし御事(おんこと)也(なり)。まして実(まこと)の色を被御覧て、何(いか)にせんと恋忍(こひしの)ばせ給(たまふ)も理(ことわり)哉(かな)。其後(そののち)よりは太(ひた)すらなる御気色(おんけしき)に見へながら、流石(さすが)御詞(おんことば)には不被出けるに、常に御会(ぎよくわい)に参り給ふ二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為冬(ためふゆ)、「何(いつ)ぞや賀茂の御帰(おんかへ)さの、幽(ほのか)なりし宵(よひ)の間(ま)の月、又も御覧ぜまぼしく被思召にや。其(その)事(こと)ならば最(いと)安き事にてこそ侍(はんべ)るめれ。彼(か)の女房の行末を委(くはしく)尋(たづね)て候へば、今出河(いまでがはの)右大臣公顕(きんあき)の女(むすめ)にて候なるを、徳大寺(とくだいじの)左大将に乍申名、未(いまだ)皇太后宮(くわうたいごうぐう)の御匣(みくしげ)にて候なる。切(せつ)に思召(おぼしめさ)れ候はゞ、歌の御会(ぎよくわい)に申寄(まうしよせ)て彼亭(かのてい)へ入(いら)せ給(たまひ)て、玉垂(たまだれ)の隙(ひま)にも、自(みづから)御心(おんこころ)を露(あらは)す御事(おんこと)にて候へかし。」と申せば、宮例(れい)ならず御快(おんこころよ)げに打笑(うちわらは)せ給(たまひ)て、「軈(やがて)今夜其亭(そのてい)にて可有褒貶御会。」と、右大臣の方へ被仰出ければ、公顕(きんあき)忝(かたじけなし)と取りきらめきて、数寄(すき)の人余(あま)た集(あつめ)て、角(かく)と案内申せば、宮は為冬許(ばかり)を御供(おんとも)にて、彼亭(かのてい)へ入(いら)せ給(たまひ)ぬ。哥の事は今夜さまでの御本意(ごほんい)ならねば、只披講許(ひかうばかり)にて、褒貶(はうへん)はなし。主(あるじ)の大臣(おとど)こゆるぎの急ぎありて、土器(かはらけ)もて参りたれば、宮(みや)常よりも興(きよう)ぜさせ給(たまひ)て、郢曲絃歌(えいきよくげんか)の妙々(たへたへ)に、御盃(さかづき)給はせ給ひたるに、主(あるじ)も痛く酔臥(よひふし)ぬ。宮も御枕(おんまくら)を傾(かたむけ)させ給へば、人皆定(しづま)りて夜も已(すで)に深(ふけ)にけり。媒(なかだち)の左中将(さちゆうじやう)心有(あつ)て酔(よは)ざりければ、其(その)案内せさせて、彼(かの)女房の栖(すみ)ける西の台(たい)へ忍入(しのびいら)せ給(たまひ)て、墻(かき)の隙(ひま)より見給へば、灯(ともしび)の幽(かすか)なるに、花紅葉(はなもみぢ)散乱(ちりみだれ)たる屏風(びやうぶ)引回(ひきまは)し、起(おき)もせず寝(ね)もせぬ体(てい)に打濡(うちしをれ)、只今人々の読(よみ)たりつる哥の短冊(たんじやく)取出(とりいだ)して、顔打傾(うちかたむ)けたれば、こぼれ懸りたる鬢(びん)の端(はづ)れより、匂(にほ)やかに幽(ほのか)なる容(かほば)せ、露を含める花の曙(あけぼの)、風に随へる柳の夕の気色(けしき)、絵に書共(かくとも)筆も難及、語るに言(ことば)も無(なか)るべし。外(よそ)ながら幽(ほのか)に見てし形(かたち)の、世に又類(たぐ)ひもやあらんと、怪(あや)しきまでに思ひしは、尚(なほ)数(かず)ならざりけりと御覧じ居給ふに、御心(おんこころ)も早ほれ/゛\と成(なつ)て、不知我が魂(たましひ)も其(その)袖の中にや入(いり)ぬらんと、ある身ともなく覚(おぼえ)させ給ふ。時節(をりふし)辺(あたり)に人も無(なく)て、灯(ともしび)さへ幽(かすか)なれば、妻戸(つまど)を少し押開(おしあけ)て内へ入(いら)せ給(たまひ)たるに、女(をんな)は驚く貌(かたち)にも非(あら)ず、閑(のど)やかにもてなして、やはら衣(きぬ)引被(ひきかづい)て臥(ふし)たる化妝(けはひ)、云(いひ)知らずなよやかに閑麗(みやびやか)なり。宮も傍(そば)に寄伏給(よりふさせたまひ)て、有(あり)しながらの心尽(づく)し、哀(あはれ)なる迄に聞へけれ共(ども)、女はいらへも申さず、只思(おもひ)にしほれたる其気色(そのけしき)、誠(まこと)に匂(にほひ)深(ふかう)して、花薫(かを)り月霞(かす)む夜の手枕(たまくら)に、見終(はて)ぬ夢の化(おもかげ)ある御心(おんこころ)迷(まよひ)に、明(あく)るも不知語(かたら)ひ給へ共(ども)、尚(なほ)強顔(つれなき)気色(けしき)にて程経(へ)ぬれば、己(おのれ)が翅(つばさ)を並(なら)べながら人の別(わかれ)をも思知(おもひしら)ぬ八声(やこゑ)の鳥も告(つげ)渡り、涙の氷解(とけ)やらず、衣々(きぬぎぬ)も冷(ひや)やかに成(なり)て、類(たぐひ)も怨(つら)き在明(ありあけ)の、強顔(つれなき)影(かげ)に立帰(たちかへら)せ給(たまひ)ぬ。其後(そののち)より度々(たびたび)御消息(ごせうそく)有(あつ)て、云(いふ)ばかりなき御文(おんふみ)の数(かず)、早千束(ちづか)にも成(なり)ぬ覧(らん)と覚(おぼゆ)る程(ほど)に積(つも)りければ、女も哀(あはれ)なる方に心引(ひか)れて、のぼれば下(くだ)る稲舟(いなふね)の、否(いな)には非(あら)ずと思へる気色(けしき)になん顕(あらは)れたり。され共(ども)尚(なほ)互に人目を中(なか)の関守(せきもり)になして、月比(つきごろ)過(すぎ)させ給(たまひ)けるに、式部(しきぶの)少輔(せう)英房(ひでふさ)と云(いふ)儒者、御文談(ごぶんだん)に参じて、貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)を読(よみ)けるに、「昔唐(たう)の太宗、鄭仁基(ていじんき)が女(むすめ)を后(きさき)に備(そな)へ、元和殿(げんわてん)に冊入(かしづきいれ)んとし玉(たま)ひしを、魏徴(ぎちよう)諌(いさめ)て、「此女(このむすめ)は已(すで)に陸氏(りくし)に約(やく)せり」と申せしかば、太宗其諌(そのいさめ)に随(したがつ)て、宮中に召(めさ)るゝ事を休(や)め給(たまひ)き。」と談(だん)じけるを、宮熟々(つくつく)と聞召(きこしめし)て、何(いか)なれば古(いにしへ)の君は、かく賢人の諌(いさめ)に付(つい)て、好色心を棄給(すてたまひ)けるぞ。何(いか)なる我なれば、已(すで)に人の云名付(いひなづけ)て事定(さだま)りたる中(なか)をさけて、人の心を破(やぶ)るらん。古の様(ためし)を恥(はぢ)、世の譏(そしり)を思食(おぼしめし)て、只御心(おんこころ)の中(うち)には恋悲(こひかなし)ませ給ひけれ共(ども)、御詞(おんことば)には不被出、御文(おんふみ)をだに書絶(かきたえ)て、角(かく)とも聞へねば、百夜(ももよ)の榻(しぢ)の端書(はしがき)、今は我や数(かず)書(かか)ましと打侘(うちわび)て、海士(あま)の刈藻(かるも)に思乱(おもひみだれ)給ふ。角(かく)て月日も過(すぎ)ければ、徳大寺此(この)事(こと)を聞及(ききおよび)、「左様(さやう)に宮なんどの御心(おんこころ)に懸(かけ)られんを、争(いか)でか便(びん)なうさる事可有。」とて、早(はや)あらぬ方に通(かよ)ふ道有(あり)と聞へければ、宮も今は無御憚、重(かさね)て御文(おんふみ)の有(あり)しに、何よりも黒(くろ)み過(すぎ)て、知(しら)せばや塩やく浦の煙(けぶり)だに思はぬ風になびく習(なら)ひを女(をんな)もはや余(あま)りに強顔(つれな)かりし心の程、我ながら憂(うき)物に思ひ返す心地(ここち)になん成(なり)にければ、詞(ことば)は無(なく)て、立(たち)ぬべき浮(うき)名を兼(かね)て思はずは風に烟(けぶり)のなびかざらめや其後(そののち)よりは、彼方此方(かなたこなた)に結(むす)び置(おか)れし心の下紐(したひぼ)打解(うちとけ)て、小夜(さよ)の枕を河島の、水の心も浅からぬ御契(おんちぎり)に成(なり)しかば、生(いき)ては偕老(かいらう)の契(ちぎり)深く、又死(しし)ては同苔(おなじこけ)の下にもと思召通(おぼしめしかよは)して、十月(とつき)余(あま)りに成(なり)にけるに、又天下の乱(らん)出来(いできたつ)て、一宮(いちのみや)は土佐(とさ)の畑(はた)へ被流させ給(たまひ)しかば、御息所(みやすどころ)は独(ひとり)都に留(とどま)らせ給(たまひ)て、明(あく)るも不知歎き沈(しづま)せ給(たまひ)て、せめてなき世の別(わかれ)なりせば、憂(うき)に堪(たへ)ぬ命にて、生(うま)れ逢(あは)ん後の契(ちぎり)を可憑に、同(おなじ)世ながら海山を隔(へだ)てゝ、互に風の便(たより)の音信(おとづれ)をだにも書絶(かきたえ)て、此日比(このひごろ)召仕(めしつか)はれける青侍(せいし)・官女(くわんぢよ)の一人も参り通はず、万(よろ)づ昔に替(かは)る世に成(なつ)て、人の住荒(すみあら)したる蓬生(よもぎふ)の宿(やど)の露けきに、御袖(おんそで)の乾(かわ)く隙(ひま)もなく、思召入(おぼしめしいら)せ給ふ御有様(おんありさま)、争(いか)でか涙の玉の緒(を)も存(ながら)へぬ覧(らん)と、怪(あやし)き程の御事(おんこと)也(なり)。宮も都を御出(おんいで)有(あり)し日より、公(きみ)の御事(おんこと)御身(おんみ)の悲(かなし)み、一方(ひとかた)ならず晴(はれ)やらぬに、又打添(うちそひ)て御息所(みやすどころ)の御名残(おんなごり)、是(これ)や限(かぎり)と思召(おぼしめし)しかば、供御(くご)も聞召入(きこしめしいれ)られず、道の草葉(くさば)の露共(とも)に、消(きえ)はてさせ給(たまひ)ぬと見へさせ給ふ。惜共(をししとも)思食(おぼしめさ)ぬ御命長(なが)らへて、土佐(とさ)の畑(はた)と云(いふ)所の浅猿(あさまし)く、此(この)世の中とも覚(おぼ)へぬ浦の辺(あたり)に流されて、月日を送らせ給へば、晴るゝ間(ま)もなき御歎(おんなげき)、喩(たと)へて云(いは)ん方(かた)もなし。余(あま)りに思(おもひ)くづほれさせ給ふ御有様(おんありさま)の、御痛敷(おんいたはしく)見奉りければ、御警固(おんけいご)に候(さふらひ)ける有井庄司(ありゐのしやうじ)、「何(なに)か苦(くるし)く候べき。御息所(みやすどころ)を忍(しのん)で此(これ)へ入進(いれまゐら)せられ候へ。」とて、御衣(おんきぬ)一重(ひとかさね)し立(たて)て、道の程の用意(ようい)迄細々(さいさい)に沙汰し進(まゐら)せければ、宮無限喜(うれ)しと思召(おぼしめし)て、只一人召仕(めしつかは)れける右衛門(うゑもん)府生(ふしやう)秦武文(はだのたけふん)と申(まうす)随身(ずゐじん)を、御迎(おんむかひ)に京へ上(のぼ)せらる。武文(たけふん)御文(おんふみ)を給(たまはり)て、急(いそぎ)京都へ上(のぼ)り、一条堀川(いちでうほりかは)の御所へ参りたれば、葎(むぐら)茂りて門(かど)を閉(とぢ)、松の葉積りて道もなし。音信通(おとづれかよ)ふものとては、古き梢(こづゑ)の夕嵐(ゆふあらし)、軒もる月の影ならでは、問(とふ)人もなく荒(あれ)はてたり。さては何(いづ)くにか立忍(たちしの)ばせ給(たまひ)ぬらんと、彼方此方(あなたこなた)の御行末を尋行(たづねゆく)程(ほど)に、嵯峨の奥深草(ふかくさ)の里に、松の袖垣(そでがき)隙(ひま)あらはなるに、蔦(つた)はい懸(かかり)て池の姿も冷愁(さびし)く、汀(みぎは)の松の嵐も秋冷(すさまじ)く吹(ふき)しほりて、誰(たれ)栖(すみ)ぬらんと見るも懶(ものう)げなる宿の内に、琵琶を弾(だん)ずる音しけり。怪(あや)しやと立留(たちどまつ)て、是(これ)を聞(きけ)ば、紛(まぎら)ふべくもなき御撥音(ばちおと)也(なり)。武文(たけふん)喜(うれ)しく思ひて、中々(なかなか)案内も不申、築地(ついぢ)の破(やぶ)れより内へ入(いつ)て、中門(ちゆうもん)の縁(えん)の前に畏(かしこま)れば、破(やぶ)れたる御簾(みす)の内より、遥(はるか)に被御覧、「あれや。」と許(ばかり)の御声幽(かすか)に聞へながら、何共(なんとも)被仰出事もなく、女房達(にようばうたち)数(あま)たさゞめき合ひて、先(まづ)泣(なく)声のみぞ聞へける。「武文(ためふん)御使(おんつかひ)に罷上(まかりのぼ)り、是(これ)迄尋(たづね)参りて候。」と申(まうし)も不敢、縁(えん)に手を打懸(うちかけ)てさめ/゛\と泣(なき)居たり。良有(ややあつ)て、「只此迄(これまで)。」と召(めし)あれば、武文(たけふん)御簾(みす)の前に跪(ひざまづ)き、「雲井の外(よそ)に想像進(おもひやりまゐ)らするも、堪忍(たへしの)び難(がた)き御事(おんこと)にて候へば、如何にもして田舎(ゐなか)へ御下(おんくだ)り候へとの御使(おんつかひ)に参(まゐり)て候。」とて、御文(おんふみ)を捧(ささげ)たり。急ぎ披(ひらい)て御覧ぜらゝるに、げにも御思ひの切(せつ)なる色さもこそと覚(おぼえ)て、言(こと)の葉毎(はごと)に置(おく)露の、御袖(おんそで)に余(あま)る許(ばかり)なり。「よしや何(いか)なる夷(ひな)の栖居(すまひ)なりとも、其憂(そのうき)にこそ責(せめ)ては堪(たへ)め。」とて、既(すで)に御門出(おんかどで)有(あり)ければ、武文(たけふん)甲斐々々敷(かひがひしく)御輿(おんこし)なんど尋出(たづねいだ)し、先(まづ)尼崎(あまがさき)まで下(くだ)し進(まゐら)せて、渡海(とかい)の順風をぞ相待(あひまち)ける。懸(かか)りける折節(をりふし)、筑紫人(つくしひと)に松浦(まつら)五郎と云(いひ)ける武士(ぶし)、此(この)浦に風を待(まち)て居たりけるが、御息所(みやすどころ)の御形(かたち)を垣(かき)の隙(ひま)より見進(まゐら)せて、「こはそも天人の此(この)土へ天降(あまくだ)れる歟(か)。」と、目枯(めがれ)もせず守(まも)り居たりけるが、「穴(あな)無端や。縦(たとひ)主(ぬし)ある人にてもあれ、又何(いか)なる女院(にようゐん)・姫宮(ひめみや)にても坐(おはし)ませ。一夜(いちや)の程(ほど)に契(ちぎり)を、百年の命に代(かへ)んは何(なに)か惜(をし)からん。奪取(うばひとつ)て下(くだ)らばや。」と思(おもひ)ける処に、武文(たけふん)が下部(しもべ)の浜の辺(あたり)に出(いで)て行(ゆき)けるを呼寄(よびよせ)て、酒飲(のま)せ引出物(ひきでもの)なんど取(とら)せて、「さるにても御辺(ごへん)が主(あるじ)の具足(ぐそく)し奉(たてまつ)て、船に召(めさ)せんとする上臈(じやうらふ)は、何(いか)なる人にて御渡(おんわたり)あるぞ。」と問(とひ)ければ、下臈(げらふ)の墓(はか)なさは、酒にめで引出物(ひきでもの)に耽(ふけ)りて、事の様(やう)有(あり)の侭(まま)にぞ語りける。松浦大(おほき)に悦(よろこん)で、「此比(このごろ)何(いか)なる宮にても御座(おは)せよ、謀反人(むほんにん)にて流され給へる人の許(もと)へ、忍(しのん)で下給(くだりたま)はんずる女房を、奪捕(うばひとつ)たり共(とも)、差(さし)ての罪科(ざいくわ)はよも非じ。」と思(おもひ)ければ、郎等共(らうどうども)に彼宿(かのやど)の案内能々(よくよく)見置(おか)せて、日の暮(くる)るをぞ相待(あひまち)ける。夜既(すで)に深(ふけ)て人定(しづま)る程(ほど)に成(なり)ければ、松浦が郎等(らうどう)三十(さんじふ)余人(よにん)、物具(もののぐ)ひし/\と堅めて、続松(たいまつ)に火を立(たて)て蔀(しとみ)・遣戸(やりど)を蹈破(ふみやぶ)り、前後より打(うつ)て入(いる)。武文(たけふん)は京家(きやうけ)の者と云(いひ)ながら、心剛(かう)にして日比(ひごろ)も度々(どど)手柄(てがら)を顕(あらは)したる者なりければ、強盜(がうだう)入(いり)たりと心得て、枕に立(たて)たる太刀をゝつ取(とつ)て、中門(ちゆうもん)に走出(わしりいで)て、打入(うちいる)敵三人(さんにん)目の前に切(きり)臥せ、縁(えん)にあがりたる敵三十(さんじふ)余人(よにん)大庭へ颯(さつ)と追出(おひだ)して、「武文(たけふん)と云(いふ)大剛(だいかう)の者此(これ)にあり。取(とら)れぬ物を取らんとて、二(ふた)つなき命を失(うしなふ)な、盜人共(ぬすぶとども)。」と咍(あざけつ)て、仰(のつ)たる太刀を押直(おしなほ)し、門(もん)の脇(わき)にぞ立(たつ)たりける。松浦が郎等共(らうどうども)武文(たけふん)一人に被切立て、門より外(そと)へはつと逃(にげ)たりけるが、「蓬(きたな)し。敵は只一人ぞ。切(きつ)て入(いれ)。」とて、傍(そば)なる在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、又喚(をめい)てぞ寄(よせ)たりける。武文(たけふん)心は武(たけ)しといへ共(ども)、浦風に吹覆(ふきおほ)はれたる烟(けむり)に目暮(くれ)て、可防様(やう)も無(なか)りければ、先(まづ)御息所(みやすどころ)を掻負進(かいおひまゐら)せ、向ふ敵を打払(うちはらつ)て、澳(おき)なる船を招き、「何(いか)なる舟にてもあれ、女性(によしやう)暫(しばらく)乗進(のせまゐら)せてたび候へ。」と申(まうし)て、汀(みぎは)にぞ立(たち)たりける。舟しもこそ多かるに、松浦が迎(むかひ)に来たる舟是(これ)を聞(きい)て、一番に渚(なぎさ)へ差寄(さしよせ)たれば、武文(たけふん)大(おほき)に悦(よろこん)で、屋形(やかた)の内に打置(うちおき)奉り、取落(とりおと)したる御具足(ぐそく)、御伴(おんとも)の女房達(にようばうたち)をも、舟に乗(のせ)んとて走帰(わしりかへり)たれば、宿(やど)には早(はや)火懸(かかつ)て、我方様(わがかたざま)の人もなく成(なり)にけり。松浦は適(たまたま)我(わが)舟に此(この)女房の乗(のら)せ給(たまひ)たる事(こと)、可然契(ちぎり)の程哉(かな)と無限悦(よろこび)て、「是(これ)までぞ。今は皆舟に乗れ。」とて、郎等(らうどう)・眷属(けんぞく)百(ひやく)余人(よにん)、捕(とる)物も不取敢、皆此(この)舟に取乗(とりのつ)て、眇(はるか)の澳(おき)にぞ漕出(こぎいだ)したる。武文(たけふん)渚(なぎさ)に帰来(かへりきたつ)て、「其(その)御舟(おんふね)被寄候へ。先(さき)に屋形(やかた)の内に置進(おきまゐら)せつる上臈(じやうらふ)を、陸(くが)へ上進(あげまゐら)せん。」と喚(よばは)りけれども、「耳にな聞入(ききいれ)そ。」とて、順風に帆を上(あげ)たれば、船は次第に隔(へだた)りぬ。又手繰(てぐり)する海士(あま)の小船に打乗(うちのつ)て、自(みづから)櫓(ろ)を推(おし)つゝ、何共(なんとも)して御舟(おんふね)に追著(おひつか)んとしけれ共(ども)、順風を得たる大船に、押手(おして)の小舟非可追付。遥(はるか)の沖に向(むかつ)て、挙扇招きけるを、松浦が舟にどつと笑(わらふ)声を聞(きい)て、「安からぬ者哉(かな)。其(その)儀ならば只今の程(ほど)に海底(かいてい)の竜神(りゆうじん)と成(なつ)て、其(その)舟をば遣(やる)まじき者を。」と忿(いかつ)て、腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、蒼海(さうかい)の底にぞ沈(しづみ)ける。御息所(みやすどころ)は夜討の入(いり)たりつる宵の間(ま)の騒(さわぎ)より、肝心(きもたましひ)も御身(おんみ)に不副、只夢の浮橋(うきはし)浮沈(うきしづみ)、淵瀬をたどる心地して、何(なん)と成行(なりゆく)事(こと)共(とも)知(しら)せ給はず。舟の中なる者共(ものども)が、「あはれ大剛(だいかう)の者哉(かな)。主(あるじ)の女房を人に奪はれて、腹を切(きり)つる哀(あはれ)さよ。」と沙汰するを、武文(たけふん)が事やらんとは乍聞召、其方(そのかた)をだに見遣(やら)せ給はず。只衣(きぬ)引被(ひきかづい)て屋形の内に泣沈(なきしづ)ませ給ふ。見るも恐ろしくむくつけ気(げ)なる髭男(ひげをとこ)の、声最(いと)なまりて色飽(あく)まで黒きが、御傍(おんそば)に参(まゐつ)て、「何をかさのみむつからせ給ふぞ。面白き道すがら、名所共(めいしよども)を御覧じて御心(おんこころ)をも慰(なぐさ)ませ給(たまひ)候へ。左様(さやう)にては何(いか)なる人も船には酔(よふ)物にて候ぞ。」と、兎角(とかく)慰め申せ共(ども)、御顔をも更(さらに)擡(もたげ)させ給はず、只鬼を一車(ひとつくるま)に載せて、巫(ぶ)の三峡(さんかふ)に棹(さをさ)すらんも、是(これ)には過(すぎ)じと御心(おんこころ)迷ひて、消入(きえいら)せ給(たまひ)ぬべければ、むくつけ男も舷(ふなばた)に寄懸(よりかかつ)て、是(これ)さへあきれたる体(てい)なり。其(その)夜は大物(だいもつ)の浦に碇(いかり)を下(おろ)して、世を浦風に漂(ただよ)ひ給ふ。明(あく)れば風能成(よくなり)ぬとて、同じ泊(とま)りの船共(ふねども)、帆を引(ひき)梶(かぢ)を取り、己(おの)が様々(さまざま)漕(こぎ)行けば、都は早迹(あと)の霞に隔(へだた)りぬ。九国にいつか行著(ゆきつか)んずらんと、人の云(いふ)を聞召(きこしめ)すにぞ、さては心つくしに行(ゆく)旅也(なり)と、御心(おんこころ)細きに付(つけ)ても、北野天神荒人神(あらひとがみ)に成(なら)せ給(たまひ)し其古(そのいにし)への御悲(おんかなし)み、思召知(おぼしめししら)せ給(たま)はゞ、我を都へ帰し御座(おはしま)せと、御心(おんこころ)の中(うち)に祈(いのら)せ給(たまふ)。其(その)日(ひ)の暮(くれ)程(ほど)に、阿波の鳴戸(なると)を通る処に、俄に風替(かは)り塩向(むか)ふて、此(この)船更に不行遣。舟人(ふなうど)帆を引(ひい)て、近辺の礒へ舟を寄(よせ)んとすれば、澳(おき)の塩合(しほあひ)に、大(おほき)なる穴の底も見へぬが出(いで)来て、舟を海底に沈(しづめ)んとす。水主(すゐしゆ)梶取(かんどり)周章(あわて)て帆薦(ほごも)なんどを投入(なげいれ)々々(なげいれ)渦(うづ)に巻(まか)せて、其間(そのま)に船を漕(こぎ)通さんとするに、舟曾(かつて)不去。渦巻くに随(したがつ)て浪と共に舟の廻(めぐ)る事(こと)、茶臼(ちやうす)を推(おす)よりも尚(なほ)速(すみやか)也(なり)。「是(これ)は何様(いかさま)竜神(りゆうじん)の財宝に目(め)懸(かけ)られたりと覚(おぼ)へたり。何をも海へ入(いれ)よ。」とて、弓箭(ゆみや)・太刀・々(かたな)・鎧・腹巻、数(かず)を尽(つく)して投入(なげいれ)たれ共(ども)、渦巻(うづまく)事(こと)尚(なほ)不休。「さては若(もし)色ある衣裳(いしやう)にや目を見入(いれ)たるらん。」とて、御息所(みやすどころ)の御衣(おんきぬ)、赤き袴を投入(なげいれ)たれば、白浪(しらなみ)色変(へん)じて、紅葉(もみぢ)を浸(ひた)せるが如くなり。是(これ)に渦巻(うづま)き少し閑(しづ)まりたれ共(ども)、船は尚(なほ)本(もと)の所にぞ回居(めぐりゐ)たる。角(かく)て三日三夜に成(なり)ければ、舟の中の人独(ひとり)も不起上、皆船底(ふなぞこ)に酔臥(よひふし)て、声々に呼叫(をめきさけ)ぶ事無限。御息所(みやすどころ)は、さらでだに生(いけ)る御心地(おんここち)もなき上に、此(この)浪の騒(さわぎ)になを御肝(おんきも)消(きえ)て、更に人心(ここち)も坐(ましま)さず。よしや憂目(うきめ)を見んよりは、何(いか)なる淵瀬にも身を沈めばやとは思召(おぼしめし)つれ共(ども)、さすがに今を限(かぎり)と叫ぶ声を聞召(きこしめ)せば、千尋(ちひろ)の底の水屑(みくづ)と成(なり)、深き罪に沈(しずみ)なん後(のち)の世をだに誰かは知(しり)て訪(と)はんと思召(おぼしめ)す涙さへ尽(つき)て、今は更に御(み)くしをも擡(もたげ)させ給はず。むくつけ男(をとこ)も早忙然(ばうぜん)と成(なつ)て、「懸(かか)る無止事貴人を取(とり)奉り下(くだ)る故(ゆゑ)に、竜神(りゆうじん)の咎(とが)めもある哉(や)らん。無詮事をもしつる者哉(かな)。」と誠(まこと)に後悔の気色(けしき)なり。斯(かか)る処に梶取(かんどり)一人船底(ふなぞこ)より這出(はひいで)て、「此鳴渡(このなると)と申(まうす)は、竜宮城(りゆうぐうじやう)の東門(とうもん)に当(あたつ)て候間、何(なに)にても候へ、竜神(りゆうじん)の欲(ほ)しがらせ給ふ物を、海へ沈め候はねば、いつも加様(かやう)の不思議(ふしぎ)ある所にて候は、何様(いかさま)彼(かの)上臈を龍神の思懸申(おもひかけまう)されたりと覚(おぼ)へ候。申(まうす)も余(あまり)に邪見(じやけん)に無情候へ共(ども)、此御事(このおこと)独(ひとり)の故(ゆゑ)に若干(そくばく)の者共(ものども)が、皆非分の死を仕らん事は、不便(ふびん)の次第にて候へば、此上臈(このじやうらふ)を海へ入進(いれまゐら)せて、百(ひやく)余人(よにん)の命を助させ給へ。」とぞ申(まうし)ける。松浦(まつら)元来無情田舎人(ゐなかうど)なれば、さても命や助かると、屋形(やかた)の内へ参(まゐつ)て、御息所(みやすどころ)を荒らかに引起し奉り、「余(あまり)に強顔(つれなき)御気色(おんけしき)をのみ見奉るも、無本意存(ぞんじ)候へば、海に沈め進(まゐら)すべきにて候。御契(おんちぎり)深くば土佐(とさ)の畑(はた)へ流れよらせ給ひて、其宮(そのみや)とやらん堂(だう)とやらん、一つ浦に住(すま)せ給へ。」とて、無情掻抱(かきだ)き進(まゐら)せて、海へ投入奉(なげいれたてまつら)んとす。是(これ)程の事に成(なつ)ては、何(なん)の御詞(おんことば)か可有なれば、只夢の様(やう)に思召(おぼしめ)して、つや/\息をも出(いだ)させ給はず、御心(おんこころ)の中(うち)に仏の御名許(みなばかり)を念じ思召(おぼしめし)て、早絶入(たえいら)せ給(たまひ)ぬるかと見へたり。是(これ)を見て僧の一人便船(びんせん)せられたりけるが、松浦(まつら)が袖を磬(ひかへ)て、「こは如何なる御事(おんこと)にて候ぞや。竜神(りゆうじん)と申(まうす)も、南方無垢(むく)の成道(じやうだう)を遂(とげ)て、仏の授記(じゆき)を得たる者にて候へば、全く罪業の手向(たむけ)を不可受。而(しか)るを生(いき)ながら人を忽(たちまち)に海中に沈められば、弥(いよいよ)竜神(りゆうじん)忿(いかつ)て、一人も助(たすか)る者や候べき。只経(きやう)を読み陀羅尼(だらに)を満(みて)て法楽に備(そなへ)られ候はんずるこそ可然覚(おぼ)へ候へ。」と、堅く制止(せいし)宥(なだ)めければ、松浦理(ことわり)に折(をれ)て、御息所(みやすどころ)を篷屋(とまや)の内に荒らかに投棄(なげすて)奉る。「さらば僧の儀に付(つい)て祈りをせよや。」とて、船中の上下異口同音(いくどうおん)に観音の名号(みやうがう)を唱(となへ)奉りける時、不思議(ふしぎ)の者共(ものども)波の上に浮(うか)び出(いで)て見へたり。先(まづ)一番に退紅(こきくれなゐ)著たる仕丁(じちやう)が、長持を舁(かき)て通ると見へて打失(うちうせ)ぬ。其次(そのつぎ)に白葦毛(しらあしげ)の馬に白鞍(しらくら)置(おき)たるを、舎人(とねり)八人して引(ひき)て通ると見へて打失(うちうせ)ぬ。其(その)次に大物(だいもつ)の浦にて腹切(きつ)て死(しし)たりし、右衛門(うゑもんの)府生(ふしやう)秦武文(はだのたけふん)、赤糸威(あかいとをどし)の鎧、同毛(おなじけ)の五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)、黄鵇毛(きつきげ)なる馬に乗(のつ)て、弓杖(ゆんづゑ)にすがり、皆紅(みなくれなゐ)の扇(あふぎ)を挙げ、松浦が舟に向(むかつ)て、其(その)舟留(と)まれと招く様(やう)に見へて、浪の底にぞ入(いり)にける。梶取(かんどり)是(これ)を見て、「灘(なだ)を走る舟に、不思議(ふしぎ)の見ゆる事は常の事にて候へ共(ども)、是(これ)は如何様(いかさま)武文(たけふん)が怨霊(をんりやう)と覚(おぼ)へ候。其験(そのしるし)を御覧ぜん為に、小船を一艘(いつさう)下(おろ)して此(この)上臈を乗進(のせまゐら)せ、波の上に突流(つきなが)して、竜神(りゆうじん)の心を如何と御覧(ごらん)候へかし。」と申せば、「此(この)儀げにも。」とて、小船を一艘(いつさう)引下(ひきおろ)して、水手(すゐしゆ)一人と御息所(みやすどころ)とを乗せ奉(たてまつ)て、渦(うづ)の波に漲(みなぎつ)て巻却(まきかへ)る波の上にぞ浮べける。彼早離(かのさうり)・速離(そくり)の海岸山(かいがんさん)に被放、「飢寒(きかん)の愁(うれへ)深(ふかく)して、涙も尽(つき)ぬ。」と云(いひ)けんも、人住(すむ)島(しま)の中なれば、立寄(たちよる)方(かた)も有(あり)ぬべし。是(これ)は浦にも非(あら)ず、島にも非(あら)ず、如何に鳴渡(なると)の浪の上に、身を捨舟(すてぶね)の浮(うき)沈み、塩瀬(しほせ)に回(めぐ)る泡(うたかた)の、消(きえ)なん事こそ悲(かなし)けれ。されば竜神(りゆうじん)もゑならぬ中をや被去けん。風俄に吹分(ふきわけ)て、松浦が舟は西を指(さ)して吹(ふか)れ行(ゆく)と見へけるが、一(いち)の谷の澳津(おきつ)より武庫山下風(むこやまおろし)に被放て、行方(ゆきかた)不知成(なり)にけり。其後(そののち)浪静(しづま)り風止(やみ)ければ、御息所(みやすどころ)の御船(おんふね)に被乗つる水主(すゐしゆ)甲斐々々敷(かひがひしく)舟を漕寄(こぎよせ)て、淡路(あはぢ)の武島(むしま)と云(いふ)所へ著(つけ)奉り、此(この)島の為体(ていたらく)、回(まはり)一里に足(たら)ぬ所にて、釣する海士(あま)の家ならでは、住(すむ)人もなき島なれば、隙(ひま)あらはなる葦(あし)の屋(や)の、憂節(うきふし)滋(しげ)き栖(すみか)に入進(いれまゐら)せたるに、此(この)四五日の波風に、御肝(おんきも)消(きえ)御心(おんこころ)弱りて、軈(やが)て絶入(たえいら)せ給ひけり。心なき海人(あま)の子共(こども)迄も、「是(これ)は如何にし奉らん。」と、泣悲(なきかなし)み、御顔に水を灑(そそ)き、櫓床(ろどこ)を洗(あらう)て御口に入(いれ)なんどしければ、半時許(はんじばかり)して活出(いきいで)させ給へり。さらでだに涙の懸(かか)る御袖(おんそで)は乾く間(ま)も無(なか)るべきに、篷漏(とまも)る滴(しづく)藻塩草(もしほぐさ)、可敷忍旅寝(たびね)ならねば、「何迄(いつまで)角(かく)ても有佗(ありわ)ぶべき。土佐(とさ)の畑(はた)と云(いふ)浦へ送りてもやれかし。」と、打佗(うちわび)させ給へば、海士共(あまども)皆同じ心に、「是(これ)程厳敷(いつくしく)御渡(おんわたり)候上臈(じやうらふ)を、我等が舟に乗進(のせまゐら)せて、遥々(はるばる)と土佐迄送り進(まゐら)せ候はんに、何(いづく)の泊(とまり)にてか、人の奪取進(うばひとりまゐら)せぬ事の候べき。」と、叶(かなふ)まじき由を申せば、力(ちから)及ばせ給はずして、浪の立居(たちゐ)に御袖(おんそで)をしぼりつゝ、今年は此(ここ)にて暮し給ふ。哀(あはれ)は類(たぐ)ひも無(なか)りけり。さて一宮(いちのみや)は武文(たけふん)を京へ上(のぼ)せられし後(のち)は、月日遥(はるか)に成(なり)ぬれ共(ども)、何共(なんとも)御左右(おんさう)を申さぬは、如何なる目にも逢(あひ)ぬる歟(か)と、静心(しづごころ)なく思食(おぼしめし)て、京より下(くだ)れる人に御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「去年の九月に御息所(みやすどころ)は都を御出(おんいで)有(あつ)て、土佐へ御下(おんくだ)り候(さふらひ)しとこそ慥(たしか)に承(うけたまは)りしか。」と申(まうし)ければ、さては道にて人に被奪ぬるか、又世を浦風に被放、千尋(ちひろ)の底にも沈(しづみ)ぬる歟(か)と、一方(ひとかた)ならず思ひくづほれさせ給(たまひ)けるに、或(ある)夜御警固(おんけいご)に参(まゐり)たる武士共(ぶしども)、中門(ちゆうもん)に宿直申(とのゐまうし)て四方山(よもやま)の事共(ことども)物語しける者の中に、「さるにても去年の九月、阿波の鳴渡(なると)を過(すぎ)て当国に渡りし時、船の梶(かぢ)に懸(かかり)たりし衣(きぬ)を取上(とりあげ)て見しかば、尋常(よのつね)の人の装束(しやうぞく)とも不見、厳(いつくし)かりし事よ。是(これ)は如何様(いかさま)院(ゐん)・内裏(だいり)の上臈女房(じやうらふにようばう)なんどの田舎(ゐなか)へ下(くだ)らせ給ふが、難風に逢(あう)て海に沈み給(たまひ)けん其(その)装束にてぞ有(ある)らん。」と語(かたつ)て、「穴(あな)哀(あはれ)や。」なんど申合(まうしあひ)ければ、宮墻越(かきごし)に被聞召、若(もし)其行末(そのゆくへ)にてや有(ある)らんと不審(ふしん)多く思食(おぼしめし)て、「聊(いささか)御覧ぜられたき御事(おんこと)あり。其衣(そのきぬ)未(いまだ)あらば持(もち)て参れ。」と御使(おんつかひ)有(あり)ければ、「色こそ損(そん)じて候へ共(ども)未(いまだ)私に候。」とて召寄進(めしよせまゐら)せたり。宮能々(よくよく)是(これ)を御覧ずるに、御息所(みやすどころ)を御迎(おんむかひ)に武文(たけふん)を京へ上(のぼ)せられし時、有井(ありゐの)庄司(しやうじ)が仕立(したて)て進(まゐら)せたりし御衣(おんきぬ)也(なり)。穴(あな)不思議(ふしぎ)やとて、裁余(たちあま)したる切(き)れを召出(めしいだ)して、差合(さしあは)せられたるに、あやの文(もん)少(すこし)も不違続(つづ)きたれば、二目共(ふためとも)不被御覧、此衣(このきぬ)を御顔に押当(おしあて)て、御涙(おんなみだ)を押拭(おしのご)はせ給ふ。有井(ありゐ)も御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、涙を袖に懸(かけ)つゝ罷立(まかりたち)にけり。今は御息所(みやすどころ)の此(この)世に坐(ましま)す人とは露(つゆ)も不被思召、此衣(このきぬ)の橈(かぢ)に懸(かか)りし日を、なき人の忌日(きにち)に被定、自(みづから)御経(おんきやう)を書写(しよしや)せられ、念仏を唱(とな)へさせ給(たまひ)て、「過去聖霊(くわこしやうりやう)藤原氏女(うぢのむすめ)、並(ならびに)物故秦武文(もつこはだのたけふん)共(とも)に三界の苦海(くかい)を出(いで)て、速(すみやか)に九品(くぼん)の浄刹(じやうせつ)に到れ。」と祈らせ給ふ。御歎(おんなげき)の色こそ哀(あはれ)なれ。去(さる)程(ほど)に其(その)年の春(はる)の比(ころ)より、諸国に軍(いくさ)起(おこつ)て、六波羅(ろくはら)・鎌倉(かまくら)・九国・北国の朝敵共(てうてきども)、同時に滅びしかば、先帝は隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成り、一宮(いちのみや)は土佐(とさ)の畑(はた)より都へ帰り入らせ給ふ。天下悉(ことごとく)公家一統(くげいつとう)の御世(みよ)と成(なつ)て目出(めでた)かりしか共(ども)、一宮(いちのみや)は唯御息所(みやすどころ)の今(この)世に坐(ましま)さぬ事を歎思食(なげきおぼしめし)ける処に、淡路(あはぢ)の武島(むしま)に未(いまだ)生(いき)て御坐(ござ)有(あり)と聞(きこ)へければ、急(いそぎ)御迎(おんむかひ)を被下、都へ帰上(かへりのぼ)らせ給ふ。只王質(わうしつ)が仙より出(いで)て七世の孫(まご)に会ひ、方士(はうし)が海に入(いつ)て楊貴妃(やうきひ)を見奉りしに不異。御息所(みやすどころ)は、「心づくしに趣(おもむき)し時の心憂(こころう)さ、浪に回(めぐ)りし泡(うたかた)の消(きゆ)るを争(あら)そう命の程、堪兼(たへかね)たりし襟(ものおもひ)は御推量(おんおしはか)りも浅くや。」とて、御袖(おんそで)濡(ぬる)る許(ばかり)なり。宮は又「外渡(とわた)る舟の梶(かぢ)の葉に、書共(かくとも)尽(つき)ぬ御歎(おんなげき)、無跡(なきあと)問(とひ)し月日の数(かず)、御身(おんみ)に積(つも)りし悲(かなし)みは、語るも言(こと)は愚(おろ)か也(なり)。」と書口説(かきくどか)せ給ひける。さしも憂(う)かりし世中(よのなか)の、時の間(ま)に引替(ひきかへ)て、人間の栄花(えいぐわ)、天上の娯楽、不極云(いふ)事(こと)なく、不尽云御遊(ぎよいう)もなし。長生殿(ちやうせいでん)の裏(うち)には、梨花(りくわ)の雨不破壌を、不老門(ふらうもん)の前には、楊柳(やうりう)の風不鳴枝。今日を千年(ちとせ)の始めと、目出(めでた)きためしに思食(おぼしめし)たりしに、楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなし)み来(きた)る人間の習(ならひ)なれば、中(なか)一年有(あつ)て、建武元年の冬の比(ころ)より又天下乱(みだれ)て、公家(くげ)の御世(みよ)、武家の成敗(せいばい)に成(なり)しかば、一宮(いちのみや)は終(つひ)に越前(ゑちぜんの)金崎(かねがさき)の城にて御自害(ごじがい)有(あつ)て、御首(おんくび)京都に上(のぼり)て、禅林寺(ぜんりんじの)長老夢窓(むさう)国師、喪礼(さうれい)被執行など聞へしかば、御息所(みやすどころ)は余(あま)りの為方(せんかた)なさに御車(おんくるま)に被助載て、禅林寺(ぜんりんじ)の辺(あたり)まで浮(うか)れ出(いで)させ給へば、是(これ)ぞ其御事(そのおこと)と覚敷(おぼしく)て、墨染(すみぞめ)の夕(ゆふべ)の雲に立(たつ)煙(けむり)、松の嵐に打靡(うちなび)き、心細く澄上(すみのぼ)る。さらぬ別(わかれ)の悲(かなし)さは、誰とても愚(おろか)ならぬ涙なれ共(ども)、宮などの無止事御身(おんみ)を、剣(やいば)の先(さき)に触(ふれ)て、秋の霜の下に消終(きえはて)させ給(たまひ)ぬる御事(おんこと)は、無類悲(かなしみ)なれば、想像(おもひやり)奉る今はの際(きは)の御有様(おんありさま)も、今一入(ひとしほ)の思ひを添(そへ)て、共に東岱(とうたい)前後の烟と立登(たちのぼ)り、北芒新丘(ほくばうしんきう)の露共(とも)消(きえ)なばやと、返る車の常盤(とことは)に、臥沈(ふししづ)ませ給(たまひ)ける、御心(おんこころ)の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。行(ゆき)て訪旧跡、竹苑(ちくゑん)故宮(こきゆうの)月心を傷(いたま)しめ、帰(かへりて)臥寒閨、椒房(さうばう)寡居(くわきよ)の風夢を吹(ふき)、著見に順聞に、御歎(おんなげき)日毎(ひごと)に深く成行(なりゆき)ければ、軈(やがて)御息所(みやすどころ)も御心地(おんここち)煩(わづら)ひて、御中陰(ごちゆういん)の日数(ひかず)未終(いまだをへざる)先(さき)に、無墓成(なら)せ給ひければ、聞(きく)人毎(ひとごと)に押並(おしなべ)て、類(たぐ)ひ少なき哀(あはれ)さに、皆袂(たもと)をぞ濡(ぬら)しける。

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