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『太平記』巻17の8「儲君を立て義貞に著けらるる事 付鬼切日吉へ進ぜらるる事」(原文及び読み仮名付き)

1、口語による書き下し文

暫く有って、義貞朝臣父子兄弟三人、兵三千余騎を召し具して参内せられたり。其の気色皆忿(いか)れる心有りといえども、而(しか)も礼儀みだりならず、階下の庭上(ていじょう)に袖を連らねて並み居たり。主上例よりも殊に玉顔(ぎよくがん)を和らげさせ給いて、義貞・義助を御前近く召され、御涙を浮べて仰せられけるは、「貞満(さだみつ)が朕を恨み申しつる処、一儀(いちぎ)其の謂れあるに似たりといえども、猶遠慮の不足に当たれり。尊氏超涯(ちょうがい)の皇沢(くわうたく)に誇って、朝家(ちょうけ)を傾けんとせし刻(きざみ)、義貞も其の一家(いつけ)なれば、定めて逆党(ぎゃくとう)にぞ与(くみ)せんと覚(おぼえ)しに、氏族を離れて志を義におき、傾廃を助けて命を天に懸けしかば、叡感更に浅からず。只汝が一類を四海(しかい)の鎮衛(ちんえ)として、天下を治めん事をこそ思し召しつるに、天運時(とき)未だ到らずして兵疲れ勢ひ廃れぬれば、尊氏に一旦和睦の儀を謀って、且(しばら)くの時を待たん為に、還幸の由をば仰せ出ださるるなり。此の事兼ても内々知らせ度くは有りつれども、事遠聞(えんぶん)に達せば却って難儀なる事も有りぬべければ、期(ご)に臨んでこそ仰せられめと打ち置きつるを、貞満が恨み申すに付いて朕が謬まりを知れり。越前の国へは、川島(かうしま)の維頼(これより)先き立って下されつれば、国の事定めて子細あらじと覚ゆる上、気比(けひ)の社(やしろ)の神官等(しんかんら)敦賀の津に城を拵(こしら)えて、御方(みかた)を仕(つかまつる)由聞ゆれば、先ず彼(かしこ)へ下って且(しばら)く兵(つはもの)の機を助け、北国を打ち随がえ、重(かさね)て大軍を起して天下の藩屏(はんぺい)となるべし。但し朕京都へ出でなば、義貞却って朝敵の名を得つと覚ゆる間、春宮(とうぐう)に天子の位を譲りて、同じく北国へ下し奉るべし。天下の事小大(なに)となく、義貞が成敗として、朕に替らず此の君を取り立て進らすべし。朕已に汝が為に勾践の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡(はんれい)が謀(はかりごと)を廻らせ。」と、御涙(おんなみだ)を押えて仰せられければ、さしも忿(いか)れる貞満も、理を知らぬ夷(えびす)どもも、首(かうべ)を低(た)れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日(ここのか)は事騒しき受禅の儀、還幸の装いに日暮れぬ。夜更くる程に成って、新田左中将潜(ひそか)に日吉の大宮権現(おほみやごんげん)に参社し玉いて、閑(しづか)に啓白(けいびやく)し給いけるを、「臣苟くも和光(わこう)の御願(ごがん)を憑(たのん)で日を送り、逆縁を結ぶ事日已(すで)に久し。願くは征路万里(せいろばんり)の末迄も擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)を廻らされて、再び大軍を起し朝敵を亡す力を加え給え。我れ縦い不幸にして命の中(うち)に此の望を達せずと云うとも、祈念冥慮(みょうりょ)に違わずば、子孫の中に必ず大軍を起こす者有って、父祖の尸(かばね)を清めん事を請う。此の二つの内一(ひとつ)も達する事を得ば、末葉(まつよう)永く当社の檀度と成って霊神の威光を耀かし奉るべし。」と、信心を凝らして祈誓(きせい)し、当家累代の重宝に鬼切(おにきり)と云う太刀を社壇にぞ篭められける。

2、原文

暫有て、義貞朝臣父子兄弟三人、兵三千余騎を召具して被参内たり。其気色皆忿れる心有といへ共、而も礼儀みだりならず、階下の庭上に袖を連ねて並居たり。主上例よりも殊に玉顔を和げさせ給て、義貞・義助を御前近く召れ、御涙を浮べて被仰けるは、「貞満が朕を恨申つる処、一儀其謂あるに似たりといへ共、猶遠慮の不足に当れり。尊氏超涯の皇沢に誇て、朝家を傾んとせし刻、義貞も其一家なれば、定て逆党にぞ与せんと覚しに、氏族を離れて志を義にをき、傾廃を助て命を天に懸しかば、叡感更に不浅。只汝が一類を四海の鎮衛として、天下を治めん事をこそ思召つるに、天運時未到して兵疲れ勢ひ廃れぬれば、尊氏に一旦和睦の儀を謀て、且くの時を待ん為に、還幸の由をば被仰出也。此事兼も内々知せ度は有つれ共、事遠聞に達せば却て難儀なる事も有ぬべければ、期に臨でこそ被仰めと打置つるを、貞満が恨申に付て朕が謬を知れり。越前国へは、川島の維頼先立て下されつれば、国の事定て子細あらじと覚る上、気比の社の神官等敦賀の津に城を拵へて、御方を仕由聞ゆれば、先彼へ下て且く兵の機を助け、北国を打随へ、重て大軍を起して天下の藩屏となるべし。但朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春宮に天子の位を譲て、同北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に不替此君を取立進すべし。朕已に汝が為に勾践の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡が謀を廻らせ。」と、御涙を押へて被仰ければ、さしも忿れる貞満も、理を知らぬ夷共も、首を低れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日は事騒き受禅の儀、還幸の装に日暮ぬ。夜更る程に成て、新田左中将潜に日吉の大宮権現に参社し玉ひて、閑に啓白し給けるを、「臣苟も和光の御願を憑で日を送り、逆縁を結事日已に久し。願は征路万里の末迄も擁護の御眸を廻らされて、再大軍を起し朝敵を亡す力を加へ給へ。我縦不幸にして命の中に此望を不達と云共、祈念冥慮に不違ば、子孫の中に必大軍を起者有て、父祖の尸を清めん事を請ふ。此二の内一も達する事を得ば、末葉永く当社の檀度と成て霊神の威光を耀し奉るべし。」と、信心を凝して祈誓し、当家累代重宝に鬼切と云太刀を社壇にぞ被篭ける。

3、読み仮名つき

暫く有って、義貞朝臣父子兄弟三人、兵三千余騎を召し具して参内せられたり。其の気色皆忿(いか)れる心有りといえども、而(しか)も礼儀みだりならず、階下の庭上(ていじょう)に袖を連らねて並居たり。主上例よりも殊に玉顔(ぎよくがん)を和らげさせ給いて、義貞・義助を御前近く召めされ、御涙を浮べて仰せられけるは、「貞満(さだみつ)が朕を恨み申しつる処、一儀(いちぎ)其の謂れあるに似たりといえども、猶遠慮の不足に当たれり。尊氏超涯(ちょうがい)の皇沢(くわうたく)に誇って、朝家(ちょうけ)を傾けんとせし刻(きざみ)、義貞も其の一家(いつけ)なれば、定めて逆党(ぎゃくとう)にぞ与(くみ)せんと覚(おぼえ)しに、氏族を離れて志を義におき、傾廃を助けて命を天に懸けしかば、叡感更に浅からず。只汝が一類を四海(しかい)の鎮衛(ちんえ)として、天下を治めん事をこそ思し召しつるに、天運時(とき)未だ到らずして兵疲れ勢ひ廃(すた)れぬれば、尊氏に一旦和睦(わぼく)の儀を謀って、且(しばら)くの時を待たん為に、還幸の由をば仰せ出ださるるなり。此の事兼(かねて)も内々知らせ度くは有りつれども、事遠聞(えんぶん)に達せば却って難儀なる事も有りぬべければ、期(ご)に臨んでこそ仰せられめと打ち置きつるを、貞満が恨み申すに付いて朕が謬まりを知れり。越前国(えちぜんのくに)へは、川島(かうしま)の維頼(これより)先き立って下されつれば、国の事定めて子細あらじと覚ゆる上、気比(けひ)の社(やしろ)の神官等(しんかんら)敦賀の津に城を拵(こしら)えて、御方(みかた)を仕(つかまつる)由聞ゆれば、先ず彼(かしこ)へ下って且(しばら)く兵(つはもの)の機を助け、北国を打ち随がえ、重(かさね)て大軍を起して天下の藩屏(はんぺい)となるべし。但し朕京都へ出でなば、義貞却って朝敵の名を得つと覚ゆる間、春宮(とうぐう)に天子の位を譲りて、同じく北国へ下し奉るべし。天下の事小大(なに)となく、義貞が成敗として、朕に替らず此の君を取り立て進らすべし。朕已に汝が為に勾践の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡(はんれい)が謀(はかりごと)を廻らせ。」と、御涙(おんなみだ)を押えて仰せられければ、さしも忿(いか)れる貞満も、理を知らぬ夷(えびす)どもも、首(かうべ)を低(た)れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日(ここのか)は事騒しき受禅の儀、還幸の装いに日暮れぬ。夜更くる程に成って、新田左中将潜(ひそか)に日吉の大宮権現(おほみやごんげん)に参社し玉いて、閑(しづか)に啓白(けいびやく)し給いけるを、「臣苟くも和光(わこう)の御願(ごがん)を憑(たのん)で日を送り、逆縁を結ぶ事日已(すで)に久し。願くは征路万里(せいろばんり)の末迄も擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)を廻らされて、再び大軍を起し朝敵を亡す力を加え給え。我れ縦い不幸にして命の中(うち)に此の望を達せずと云うとも、祈念冥慮(みょうりょ)に違わずば、子孫の中に必ず大軍を起こす者有って、父祖の尸(かばね)を清めん事を請う。此の二つの内一(ひとつ)も達する事を得ば、末葉(まつよう)永く当社の檀度と成って霊神の威光を耀かし奉るべし。」と、信心を凝らして祈誓(きせい)し、当家累代重宝に鬼切(おにきり)と云う太刀を社壇にぞ篭められける。
暫(しばらく)有(あつ)て、義貞朝臣父子兄弟三人(さんにん)、兵三千(さんぜん)余騎(よき)を召具(めしぐ)して被参内たり。其(その)気色皆忿(いか)れる心有(あり)といへ共(ども)、而(しか)も礼儀みだりならず、階下(かいか)の庭上(ていじやう)に袖を連(つら)ねて並居(なみゐ)たり。主上(しゆしやう)例よりも殊に玉顔(ぎよくがん)を和(やはら)げさせ給(たまひ)て、義貞・義助を御前(おんまへ)近く召(めさ)れ、御涙(おんなみだ)を浮べて被仰けるは、「貞満(さだみつ)が朕(ちん)を恨申(うらみまうし)つる処、一儀(いちぎ)其謂(そのいはれ)あるに似(に)たりといへ共(ども)、猶遠慮(ゑんりよ)の不足に当(あた)れり。尊氏超涯(てうがい)の皇沢(くわうたく)に誇(ほこつ)て、朝家(てうけ)を傾(かたむけ)んとせし刻(きざみ)、義貞も其(その)一家(いつけ)なれば、定(さだめ)て逆党(ぎやくたう)にぞ与(くみ)せんと覚(おぼえ)しに、氏族を離れて志を義にをき、傾廃を助(たすけ)て命を天に懸(かけ)しかば、叡感更に不浅。只汝が一類(いちるゐ)を四海(しかい)の鎮衛(ちんゑ)として、天下を治めん事をこそ思召(おぼしめし)つるに、天運時(とき)未到(いまだいたらず)して兵疲れ勢(いきほ)ひ廃(すた)れぬれば、尊氏に一旦(いつたん)和睦(わぼく)の儀を謀(はかつ)て、且(しばら)くの時を待(また)ん為に、還幸(くわんかう)の由をば被仰出也(なり)。此(この)事(こと)兼(かねて)も内々知(しら)せ度(たく)は有(あり)つれ共(ども)、事遠聞(ゑんぶん)に達せば却(かへつ)て難儀なる事も有(あり)ぬべければ、期(ご)に臨(のぞん)でこそ被仰めと打置(うちおき)つるを、貞満が恨申(うらみまうす)に付(つい)て朕(ちん)が謬(あやまり)を知れり。越前国(ゑちぜんのくに)へは、川島(かうしま)の維頼(これより)先立(さきだつ)て下(くだ)されつれば、国の事定(さだめ)て子細(しさい)あらじと覚(おぼゆ)る上、気比(けひ)の社(やしろ)の神官等(しんぐわんら)敦賀(つるが)の津(つ)に城を拵(こしら)へて、御方(みかた)を仕(つかまつる)由聞ゆれば、先(まづ)彼(かしこ)へ下(くだつ)て且(しばら)く兵(つはもの)の機(き)を助け、北国を打随(うちしたが)へ、重(かさね)て大軍を起して天下の藩屏(はんぺい)となるべし。但(ただし)朕京都へ出(いで)なば、義貞却(かへつ)て朝敵(てうてき)の名を得つと覚(おぼゆ)る間、春宮(とうぐう)に天子の位を譲(ゆづり)て、同(おなじく)北国へ下し奉(たてまつる)べし。天下の事小大(なに)となく、義貞が成敗(せいばい)として、朕(ちん)に不替此(この)君を取立進(とりたてまゐら)すべし。朕(ちん)已(すで)に汝が為に勾践(こうせん)の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡(はんれい)が謀を廻(めぐ)らせ。」と、御涙(おんなみだ)を押(おさ)へて被仰ければ、さしも忿(いか)れる貞満も、理(り)を知らぬ夷共(えびすども)も、首(かうべ)を低(た)れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日(ここのか)は事騒(さわがし)き受禅(じゆぜん)の儀、還幸(くわんかう)の装(よそほひ)に日暮(くれ)ぬ。夜更(ふく)る程(ほど)に成(なつ)て、新田左中将(さちゆうじやう)潜(ひそか)に日吉(ひよし)の大宮権現(おほみやごんげん)に参社(さんしや)し玉(たま)ひて、閑(しづか)に啓白(けいびやく)し給(たまひ)けるを、「臣苟(いやしく)も和光(わくわう)の御願(ごぐわん)を憑(たのん)で日を送り、逆縁(ぎやくえん)を結(むすぶ)事(こと)日已(すで)に久し。願(ねがはく)は征路万里(せいろばんり)の末迄も擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)を廻(めぐ)らされて、再(ふたたび)大軍を起し朝敵(てうてき)を亡(ほろぼ)す力を加へ給へ。我(われ)縦(たとひ)不幸にして命の中(うち)に此望(こののぞみ)を不達と云共(いふとも)、祈念冥慮(みやうりよ)に不違ば、子孫の中に必(かならず)大軍を起(おこす)者有(あつ)て、父祖の尸(かばね)を清めん事を請(こ)ふ。此二(このふたつ)の内一(ひとつ)も達する事を得ば、末葉(まつえふ)永く当社の檀度(だんと)と成(なつ)て霊神の威光を耀(かかやか)し奉るべし。」と、信心を凝(こら)して祈誓(きせい)し、当家累代(るゐたいの)重宝(ちようはう)に鬼切(おにきり)と云(いふ)太刀を社壇にぞ被篭ける。

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