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三浦芳聖伝 6、志学の頃(№119)


志学の頃

1、上級学校への進学を志す

厳しいお寺の生活を受け入れ、耐え忍び、成長した芳聖は、小学校5年になると健気にも上級学校への進学を志していた。兄弟子たちのほとんどが資産家の息子達だったので、安楽寺では、上級学校へ進学するのが普通だった。そういう面では良い文教環境にあったと言えよう。

志学2

師匠の富永老師は、芳聖の上級学校への進学希望に対し次のように答えた。

 5年でやる中学を2年でやるなら15才になったら暇(ひま)をやる。中学4年の編入試験に受からないようなら壮丁検査まで安楽寺で働き、擬講補(第十五級教師)の位を買って末寺の住職にして一生安楽寺の役僧坊主に使ってやる。
 もし中学4年の編入試験に受かったら、あとは自分の力で専門学校でも大学でも行くがよい。ただし、お前は何処からも一文も送ってこないのであるから、総本山で働くなり、あるいは新聞配達でもするなりして、独力独行でやれ、師匠としては一文の金も出してやる訳には行かぬ。
(三浦芳聖著『神風串呂解明』121号2頁・要約、昭和40年3月1日発行)

通常5年でやる中学を2年でやれとは、まるで進学するなと言っているようなものだが、幼少の頃からお寺で育てられた芳聖は、立場が弱く、親代わりの老師の言う事に反対することなど出来なかった。

小学校の成績が優秀で青雲の志を抱いていた芳聖は、向学の念止み難く、万難を排して上級学校への進学を志していたので、誰が考えても、意地悪としか思えない老師の答えは、老師が上機嫌の時にやっと引き出した朗報だった。

実際この当時、上級学校に進学した児童の割合は一割以下で、たとえ条件は厳しくとも、進学の許可が与えられ、勉学の為に暇が貰えるだけでも幸運だった。

2、睡眠3時間で中学講義録を独習

こうして進学への道が開かれると芳聖の猛勉強が始まった。それは大正4年(1915年)数えの12才(満10才・小学5年生)のことでした。

芳聖は法要の引出物の砂糖や饅頭を、お寺の直ぐ前にあったお店に買い上げて貰ったお金で「中学講義録」(現在の通信教育)を取り寄せ、皆が寝てから、お寺の寮の自分の部屋で睡眠時間を削り午後8時から12時まで毎日4時間勉強することにした。

行灯(あんどん)の油も自分で購入し、行灯の光が外部に漏れると叱られるので、押入れの中に隠れて勉強した。

こうして中学4年の編入試験合格を目指しての猛勉強が始まったが、厳しいお寺の修行や、法要、葬式、作務などをこなしながらの学習は困難を極め、優秀な芳聖といえども並大抵の決意や努力では出来なかった。毎晩、勉強中に居眠りしては、学習計画が進まぬ日々が続いた。

3、超居眠り防止法を工夫

そこで芳聖は、居眠りを防ぐために、うっかり居眠りしたら、錐(きり)がひざ上の太ももに突き刺さるように工夫して(錐を手に結び付けて太ももに当てて)勉強した。

激痛と共に、ももから血が噴き出しては居眠りから醒めるのを繰返しながら、すさまじい努力によって、遂に睡眠3時間の生活が可能となり、猛勉強につぐ猛勉強の末「中学講義録」の独習が可能になり、中学4年に入学できる程度の学力を身につけることができたのである!

🧡5年でやる中学を2年でやるには、少なくとも中学3年修了の学力が必要です。老師が出した厳しい条件のお蔭で、芳聖は睡眠3時間を可能にし、独習の習慣が備わったのです。😊💯💝

4、蒲郡市中を寒行して回る

芳聖は進学に備えて倹約生活を実施していたのは勿論だが、将来必要となる学費や生活費を儲けるため、師匠の許可を得て単独寒行をすることにした。

大正5年〔1916年〕から大正7年〔1918年〕にわたる3年間、1月6日から2月3日の夜中の12時から朝の7時まで、三谷・蒲郡の近辺を廻って寒行をし、頂いたお布施など3百円(現在の120万円位に相当か?)の金子を貯めることができました。

大正五年、六年、七年と三ヶ年の毎年一月六日から二月三日までの寒中は、師匠の許しを受けて、夜中の十二時から朝七時まで寒行をして三谷・蒲郡を経巡り、之が回向で布施して貰った金子が三年間で実に当時の金で金三百円(今日にしたら三十萬円に匹敵しましょう)の学費が出来ました。
(三浦芳聖著『神風串呂解明』121号3頁、昭和40年3月1日発行)

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ところが、いよいよ上洛の時が来た大正7年(1918年)3月、老師の誘導尋問にかかって、芳聖が正直に貯蓄した金子の存在を打ち明けると、「お寺にいた時に稼いだお金は、お寺のものだから置いて行け」と老師に取り上げられてしまいました。

富永老師の言い分は一理あるというものの、この話を最初に聞いた時、私は、老師の愛の無さに、驚きと怒りの思いを抱きました。

しかし、それから半世紀以上たった今は、これは芳聖が生まれてくる前に、事前に打ち合わせた計画通りの事が起きたまでだと思い直せるようになりました。老師は串呂主宰神の計画した青写真の台本通りに台詞を読み上げたに過ぎないのだと。

*コラム・超世志のここだけの話
義理堅い三浦芳聖は寒行の時にお世話になった蒲郡市の人々に恩義を感じ、晩年、蒲郡市出身の大相撲の力士「玉の海(玉乃島)」を応援していました。玉の海が、第51代横綱になったのは、彼の努力の賜物ながら、八幡大明神芳聖の霊的サポートも大きかったと思います。

5、上洛後、誓願寺を頼るも断られる

芳聖は慣れたお寺で働きながら通学しようと考えて、上洛するや浄土宗西山深草派の総本山「誓願寺」(京都市中京区桜之町)に宿泊して、早朝から清掃などの奉仕活動をして役に立つ小僧であることをアピールしました。

誓願寺
京都市中京区桜之町「誓願寺」(地図マピオン)

ところが数日後、出張から帰った第85世管長、加藤観海大僧正から「富永慶法の弟子では随身に置く訳には行かない!」と厳しく断られ、総本山誓願寺を追い出されてしまいました。

その理由は、師匠の富永老師と加藤観海大僧正とは法脈が異なり、派閥争いで仲が悪かった為でした。

お寺さんも人間ですから出世競争や派閥争いがあっても不思議はありません。しかし、これもまた芳聖が生まれてくる前に、霊界で打ち合わせた計画通りの事が起きたまでなのです。

串呂主宰神の計画により、芳聖の下宿先は芳聖が生れる前から決まっていたからです。神風串呂史観です。

6、新聞販売店に住み込む

そこで、仕方なく芳聖は、新聞配達をしながら通学を余儀なくされ、誓願寺近くの三条寺町の「大阪毎日新聞販売店」に住み込むことになりました。

朝3時半に起床して空の荷車を引いて京都駅まで行き、午前4時13分に到着する新聞を受け取って、相棒と二人で、上り坂を汗だくとなって、新聞を一杯積んだ荷車を曳いて5時までに三条寺町の新聞店に帰り、休む間もなく自分の受け持ちの新聞を約3百部ほど畳んで、およそ16キロの道のりを駆け足で配るという過酷な労働の毎日でした。

お金を持っていなかった芳聖は、少しでも多く生活費を稼ぐため、やむなく荷車曳きを志願したのですが、当時こういう境遇の学生は芳聖だけではありませんでした。

芳聖が学んだ両洋学院の先輩で、カナダで活動した聖公会の祭司(Canon)中山吾一氏は、下記のように述べています。

私は家が貧しくて、苦学しているのであるが、毎朝他の苦学生がまだ眠って居る早朝三時半に起床して、相手の少年と二人で荷車を引いて京都駅に行き、大阪から来る汽車を待って、新聞をつんで大阪時事支局に届ける、そして二〇〇枚の新聞を折り重ねて配達し、それがすむと大急ぎで、ささやかな朝食をすませて登校するのである。其のため時には授業中に、つい居眠りをしてしまう次第。その当時の我らの月給は六円で、食費が四円五十銭、僅か一円五十銭で学費を払い電車に乗る、一銭の金の余裕がない。衣類は何時も同じもの、遂に服もハカマもほころびて困っていた。それを見られた中根校長は、或る日私を御室に呼び出して下さって、私の身上話を聞いて下さり、小使いとして学校の寄宿舎に寝起きし掃除したり先生の御手伝をするように取計って下さった。
(『中根正親先生回想録』90頁・1986年、同書刊行会発行)

幸い中学4年の編入試験に合格した芳聖は、大正7年(1918年)4月8日から朝刊を配達してから通学し、また午後4時頃新聞店に戻って焼き芋で空腹を満たし、夕刊を配達し、夜は12時まで勉強する生活が始まった。

臨時ニュースが出ると「号外」配達の為、電話で呼び出される事もよくあった。そうなると学校を早退して号外を配らねばならず、一番多い時で一日に70キロも走ったことがあった。それで一ヶ月の給金は28円(現在の6万円位?)だった。

新聞店の同僚たちは不良少年が多く、勉強の邪魔をするので、困った芳聖は4月下旬、店主の特別許可を得て下宿を探すことにした。これもまた芳聖が生まれてくる前に、霊界で打ち合わせた計画通りの事が起きたまでなのですが。

7、尊良親王の御陵墓に遭遇

大正7年(1918年)4月28日の日曜日、芳聖は下宿を探すため三条寺町の新聞販売店を出発し、東北方面に向かって歩き出しました。

下宿人を募集している貼り紙は、なかなか見つからず、あちらこちらと探して行くと、偶然にも東山永観堂(禅林寺)前の「尊良親王御陵墓」に行き当たりました。

尊良親王墓
京都府京都市左京区南禅寺下河原町  尊良親王御陵墓

三浦芳聖伝 3、恵まれた幼年時代(№115)の2、尊良精神を叩きこまれる」で詳しく述べたように、600年前、自分と同じ干支(甲辰)の同月同日に降誕したご先祖様の御陵墓に遭遇して芳聖は感無量でした。

芳聖は、御陵墓の前で「阿弥陀経一巻」を読経したあと、往昔、尊良親王を丁重に葬って下さった夢窓国師を追憶して、その徳を偲びつつ永観堂(禅林寺)へ参り、この門前を北に土塀越しに横切って、右に回って若王子町の坂を一寸行くと左手の農家に「学生さんに二階を貸間します」という厚紙に書いた札が吊るしてありました。

永観堂

8、藤田喜三郎家に下宿

芳聖は、これこそ全く尊良親王の御神霊の御導きと、早速貸間を願い出た所、待っていたと言わんばかりに即座に喜んで貸して貰えることになり、その日のうちに引き移りました。こうして串呂主宰神の計画通りに、芳聖の下宿先が決まりました。

そこは、京都市左京区鹿ケ谷若王子町の藤田喜三郎という家でした。まことに不思議な巡り合わせだと思いますが、この、若王子町は平安時代、東宮(皇太子)が、天皇になる修養の為、3年間学問をする所であったそうです。若王子町という地名の由来です。

若王子町

芳聖はこの藤田家に下宿し、初めは、毎朝2時半に起床、3時に出発、未明にこの尊良親王の御陵と永観堂にお参りし、駆け足で新聞店に行き、配達が済むと帰宅して朝食を取ったあと登校し、夕方また新聞配達をして帰宅するという毎日でした。

食事は、自炊で、朝刊配達中に「ゆきひら鍋」に入れた玄米が、火鉢の中で炊けるようにしておいて、配達から帰ると、どろどろになった玄米ご飯を、梅干か生味噌をおかずにして掻きこんでから登校しました。

ゆきひら鍋

幸いにも、それから半年後には、藤田家の、その時小学校6年生だった「かよちゃん」という娘が、毎朝夕の食事の支度から洗濯までやってくれるようになり、30分睡眠時間が増え、生活が少しではあるが楽になりました。

芳聖は後年、この藤田喜三郎氏は、尊良親王の御陵墓のお世話をする為に大昔その地に遣わされた、三浦家の縁者から出た関係者の子孫であろうと書いています。恐らく大宝天皇の子孫であろうと。ちなみに芳聖の父方の祖母の旧姓名は「藤田さく」といいました。

9、志学の神風串呂

三浦芳聖が、向学の念止みがたく、数えの15歳の春3月、青雲の志を抱いて上洛し、学問を修めたことを昭示する「志学の串呂」が解明されています。


🟣バックナンバー総合

🔴情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№118)       
🟢次号(№120)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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