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三浦芳聖伝 2、尊良親王の再現(串呂哲学研究ノート№114)

尊良親王の再現

1、三浦芳聖の母「元子」の悲願

後醍醐天皇第一皇子「尊良親王」は嘉元2年(1304年)甲辰年(陰暦8月8日)のご降誕で、その第二皇子「基良親王」の嫡孫河合家では、尊良親王ご降誕6百年記念の明治37年(1904年)甲辰年に、そのご真体が再現すると伝承されて来たという!

三浦芳聖の母「元子」の悲願とは、尊良親王ご降誕6百年記念日である、明治37年(1904年)甲辰年9月17日(陰暦8月8日)に、尊良親王の再現をこの世に生み参らすことであった。

2、三浦芳聖の母「元子」について

(1)5月10日、河合家に生まれる

三浦芳聖の母・元子(籍名もと・通称茂登子)は、明治14年(1881年)年5月10日、愛知県額田郡宮崎村大字明見(岡崎市明見町)字田代の河合家に生まれました。

元子の父・河合和助は、20代で額田郡宮崎村の村長に就任、その後、額田郡会議長・愛知県会議員等を歴任し、終生公職にあった方で、元子の祖父・河合英輔は、岡崎藩主・本多氏と豊橋の吉田藩主・松平氏の殿様に学問を教える大学者でした。

後醍醐天皇
-尊良天皇-興国天皇-小室門院¬
-宗良親王――――――小松天皇-松良天皇-大宝天皇-----三浦芳聖
-義良親王――――――寛成親王-綾子皇后-大宝天皇
尊良天皇基良親王-----河合英輔河合和助河合もと三浦芳聖

宮崎村初代村長の山本源吉は、助役の河合和助とともに、村の発展には道路の改修が不可欠と考えた。馬や車の通れる道にするため村会で提議し、満場一致の可決を得るも、その工費が問題となった。村民に相談し反対をされつつも、熱心にその必要性を説いて回り、なんとか明見坂の改修工事にこぎつけた。村債は1893年(明治26年)には完済し、山の値段も3倍となった。現在、明見坂の途中には当時の宮崎街道記念碑が残されている。   (『ウィキペディア』宮崎街道 (岡崎市)

三浦芳聖師の母・元子の誕生日5月10日は、世界最初の「母の日」。
アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、1908年5月10日に同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。 『ウィキペディア(Wikipedia)』母の日

(2)河合家の遠祖、基良親王

この河合家は後醍醐天皇の第一皇子「尊良親王」の第二皇子「基良親王」(もとなが親王、太政大臣二條良基の猶子となり藤原基良、落飾後は良玄)の直系の後胤である。

基良親王は、南北朝時代に都から難を逃れて愛知県岡崎市宮崎町に落ちて来られ、京都市左京区下鴨の下鴨神社の摂社・河合神社にゆかりがあった為、その河合神社の河合姓を名乗ったという。(尊良親王の母・藤原為子の父は下鴨神社の斎王・藤原氏二条為世)。

愛知県岡崎市宮崎町もおそらく河合神社の住所(京都市左京区下鴨宮崎町)と同じ地名をつけたものと思われます。また、宮家の先(子孫)であるという意味も込められたと思います。

岡崎市宮崎町
下鴨宮崎町

良玄法親王は、愛知県岡崎市明見町字田代に宮崎山伝正院を開基され、尊良親王の宝筺印塔を建立し、また御尊姿を木像に刻んで「太子堂」に祀られました。(宮崎山伝正院は、正統の宮を伝えるという意味が込められているという。)

伝正院

尊良親王を聖徳太子として「太子堂」に陰祀した理由は、一つには、尊良親王の名前を表に出せなかったこと、二つには、尊良親王の在位期間が短く、後醍醐天皇から直接、尊良親王の第一皇子・守永親王に皇位が譲られたと思われていたので、太子(ひつぎのみこ)という尊称でお祀りしたようだ。

(3)後醍醐天皇ご自作の観音像を伝承

三浦芳聖によると「河合家には後醍醐天皇ご自作の観音様(木造一寸五分・お厨子入り)が一子相伝に継承されていた。後醍醐天皇は戊子年で自ら観世音菩薩の化身と申されて18人の皇子に自ら刻んだ「観音像」をお守りとして授けたと伝承されている。」という。

後醍醐天皇の御陵は如意輪観音を本尊とする「如意輪寺」の裏山にある。

元子の父・河合和助には三人の女子があったが男子がなかったので、男系相続の河合家の家督は、和助の甥の「和喜治」(弟、国助の長男)が継承することとなり、後醍醐天皇から継承された観音像は、廃嫡(跡取りを他の人に譲ること)して三浦家に嫁ぐ元子に伝えられた。

この観音様の霊験あらたかな事は下記のような逸話が残っていることで窺われる。

河合和助が宮崎村の村長の時、大平川の洪水で溺れた学童を救う為、着物を着たまま飛び込んで学童を抱いたまま流され、明見の堰に落ちたら命が危ないという危機一髪の時、奇跡的に岩に乗り上げ助かった時には二人とも人事不省であったが、肌身離さず奉持していた観音様は全然濡れていなかった。

三浦元子が、三浦家に嫁いでから、隣家に火事があり、火炎が自宅に迫ろうとしていた時、観音様に祈ったら奇跡的に風向きが変わり、自宅への類焼を免れた。

コラム・超世志のここだけの話
河合家に伝承された木造一寸五分の観音様は、真黒の小さなお厨子入りで、愛知県稲沢市矢合町の観音様と兄弟だといわれています。河合家に伝承された観音様は、その役目を終えたのか、芳聖の母「元子」が亡くなった昭和9年6月26日、元子と共に火葬に付され遺骨と共に灰になりました。
金崎神宮」(福井県敦賀市)-「矢合」(愛知県稲沢市)-「中部国民道場兼三浦芳聖元住所」(名古屋市昭和区御所町)-「三浦芳聖降誕地」(愛知県岡崎市牧平町大門)
(三浦芳聖著『神風串呂の解明』7頁、1965年2月1日発行)

(4)尊良親王様を御生み参らせよ!

元子の父・河合和助は、明治32年(1899年)元子が三浦家に嫁ぐに当って、下記のように望みを託したという。

わが河合家の遠祖・尊良親王様は、嘉元2年(1304年)甲辰年陰暦8月8日の御降誕である。これから5年後の明治37年(1904年)甲辰年陰暦8月8日は、尊良親王様のご降誕満6百年(10還暦)に当たり、天運循環してそのご真体が再現できる年ゆえ、尊良親王様より一子相伝に継承してきたこの観音様を肌身離さず奉持して、ひたすらに祈念を込め、必ず尊良親王様を御産み参らせよ! 尊良親王様には、天運循環の時に必ず直系の子孫のもとに再現して天業恢弘に邁進される御誓願である。

(5)尊良親王ご降誕6百年目の奇跡

明治32年(1899年)愛知県岡崎市牧平町大門の三浦家に嫁いだ元子は、父・河合和助の期待に応え、この観音様を肌身離さず奉持して、5ヶ年半ひたすら祈念を篭めて毎日を送っていた。

牧平大門

すると、その熱祷祈願が成就して、一日の狂いもなく、明治37年9月17日、甲辰年(1904年陰暦8月8日)午前6時、三浦芳聖を出産した。正に尊良親王降誕6百年目の奇跡でした。

暦1904.917

こよみのページ(WEB頁)参照

新生児の命名について相談を受けた河合和助氏は三浦芳聖の父「三浦市次郎」に「聖人(尊良親王)がお生まれになったのだから、名前に聖の一字を是非入れるように」と助言されたという。

その影響で、三浦家に一子相伝に伝えられた系図には「芳聖」と書かれてあったそうだ。

この明治37年9月17日午前6時降誕という先天運は「四柱推命学」でみると「帝王」になる運命と出るそうだ。

3、尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂

三浦芳聖が尊良親王の再現であることを昭示する神風串呂が解明されていますのでご紹介いたします。

ア、尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂1(№25)
「田黒」-「神代」-「高松」-「高長」-「高松町」-「卍醍醐三宝院」-「三浦芳聖降誕地」-「観音山」-「黒田」

イ、尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂2(№26)
「高良」-「八幡」-「和気」-「竜王山」-「応神天皇御陵」-「卍一身田専修寺」-「三浦芳聖降誕地」


🟣バックナンバー(総合)

🔴情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟢前号(№113)       
🟡次号(№115)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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