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尊良親王が皇位継承者である事を昭示する神風串呂(№18)

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。

串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。 地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

ここでは、高御座(皇位)についたかどうかを鑑定する|高御位山《たかみくらやま》を起点とする「後醍醐天皇の皇位継承者を昭示する神風串呂」をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。



1、後醍醐天皇の皇位継承者を串呂哲学で

兵庫県加古川市と高砂市の市境に「高御位山・たかみくらやま」という標高304.2mの山があります。日本国内で唯一の超ユニークな地名です。

高御位山は、高御座たかみくらを表わす地文で、串呂哲学の世界では、高御座(皇位)についたかどうかを鑑定する重要串呂起点です!

今回紹介する串呂は「高御位山」を始めとする国内唯一のユニークな地名が5個もある超不思議な神風串呂です!

南北朝時代史を研究すると、後醍醐天皇が誰に皇位を譲ったかという点で諸説が分かれています。

歴史に興味のある方は、インターネットでいくらでも検索できますので、ご自分で勉強して頂くことにして、ここでは、串呂の世界では、後醍醐天皇は誰に皇位を譲ったかという一点に的を絞って考察して参ります!

南朝正統を主張する三浦家に伝承された「三浦系譜」には、後醍醐天皇の次に皇位を継承したのは後醍醐天皇の孫で猶子(ゆうし=養子)の大統宮守永親王(おおとうのみや もりながしんのう)であると記載されていました。

昭和25年(1950年)の神界からの啓示に基づいて、三浦芳聖が串呂で研究したところ、後醍醐天皇から皇位を継承したのは、第一皇子の尊良(たかなが・たかよし)親王であることが判明しました。

今回は、三種の神器の御鏡を表わす「八尺鏡野」と高御座を表わす「高御位山」とを結ぶ、後醍醐天皇の皇位継承者は第一皇子の尊良親王であることを昭示する神風串呂をご紹介します。(以下、尊良天皇と記載します。)

後醍醐天皇が誰に皇位を譲ったかという皇統史を、串呂哲学を通じて解明することで、三次元からは到底うかがい知ることの出来ない「高次元の世界」が垣間見えますので、歴史に興味のない方も最後までお付き合いください。


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2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

初めての方は、下記の記事を参照してください。


🟢尊良親王(たかよししんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族・歌人・上将軍。一品中務卿親王(いっぽんなかつかさきょうしんのう)とも呼ばれる。後醍醐天皇第一皇子。母は二条為世の娘で二条派を代表する歌人の二条為子。瓊子内親王および征夷大将軍宗良親王の同母兄。

嘉暦元年(1326年)、従兄弟に当たる皇太子邦良親王が急逝したため、現任天皇の第一皇子として、父帝の推薦によって次の皇太子候補者に選ばれる。しかし持明院統との政争に敗北し、次の皇太子になったのは量仁親王(のちの光厳天皇)だった。その後は後醍醐後継者の地位こそ、高貴な生母を持ちより政治的資質のある異母弟の世良親王に移るものの、引き継ぎ後醍醐朝の有力政治家として信任され、元徳3年(1331年)1月には一品親王に叙された。

元弘の乱(1331年 - 1333年)では、一度鎌倉幕府に捕縛され土佐国(高知県)に流罪となるも同地から脱出し、九州で旗頭となり鎮西探題を撃滅して、父の幕府打倒に貢献した。さらに、足利尊氏との戦い建武の乱(1335年 - 1337年)では上将軍(名義上の総大将)に抜擢された。父の降伏後も越前国(福井県)で尊氏との戦いを続けるが、金ヶ崎の戦いで高師泰・足利高経(斯波高経)に敗北し、新田義顕(義貞の子)と共に落命。

和歌の正統御子左家二条派の血を母方に引くだけあって歌に優れ、勅撰和歌集『続後拾遺和歌集』に1首・准勅撰和歌集『新葉和歌集』に44首が入集。家集は『一宮百首』(元徳3年(1331年))。明治時代、恒良親王と共に金崎宮(福井県敦賀市)の主祭神となった。

軍記物語『太平記』では、妻の御匣殿との恋愛譚が描かれ、幸若舞『新曲』などの派生作品が作られた。

🟡『ウィキペディア(Wikipedia)』尊良親王より転載

🟡後醍醐天皇の皇子の読みを参照。


3、八尺鏡野と高御位山とを結ぶ神風串呂

三浦芳聖は、『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』110頁で、「八尺鏡野」と「高御位山」とを串呂すると次の様になると述べています。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第三章

竹生(鳥取市)-上野(八頭町)-与位(宍粟市)-高長(姫路市)-高御位山(加古川市)-高甲良山(龍神村)-八尺鏡野(那智勝浦町)
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』110頁、現住所に改めた)

【地文のみ掲載】
竹生-上野-与位-高長-高御位山-高甲良山-八尺鏡野

【地文の解釈】(地名に地図がリンクしています。)
(1)竹生(たけなり、鳥取県鳥取市)
「竹の園生」を表わす地文で、皇族・皇室を表す。

「いでやこの世に生れては、願はしかるべき事こそ多かんめれ。帝(みかど)の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき」『徒然草』(第一段)を参照のこと。

【参考】御園・御薗(皇族・皇室をあらわす雅語)も同様の意味を表わす。

(2)上野(かみの、鳥取県八頭郡八頭町)

上野太守(こうずけのたいしゅ)守永親王を表わす地文。
「上野」は、尊良天皇の第一皇子「上野太守・守永親王」を表わす地文で、この串呂では、尊良天皇の皇位継承者が守永親王である事を表わします。

守永親王(もりながしんのう)は、系譜不詳の南朝の皇族。事績についても、親王宣下を受けて上野太守に任じられたこと、また歌人として、『新葉和歌集』に8首入集していることの他は不詳である。『南方紀伝』によると、弘和3年/永徳3年(1383年)7月に出家。なお、『鎌倉大草紙』には、永徳年間の後に南朝某宮が新田一族とともに信濃浪合で討死したことが見えるが、菅政友は佐々宗淳の著書『十竹筆記』に見える徳川家の秘説なるものを引用して、この某宮を守永親王に比定している。
『ウィキペディア(Wikipedia)』守永親王

「上野太守」 は、守永親王以外にもいますが、尊良天皇に縁の深い「上野太守」で、皇位に関係のある親王となると、守永親王以外の方は考えられません。串呂哲学では「上野」=「守永親王」です。

延元2年(1337年)2月5日、越前金ヶ崎城において、守永親王に譲位したことを昭示する地文です。(これは、神界から三浦芳聖への啓示で分かったことで、歴史書や文献には載っていません。)

(3)与位(よい、兵庫県宍粟市山崎町)国内唯一の地名。
「位を与える」を意味する地文。与位は、どのような位が与えられたかを鑑定する重要地文。ここでは、高長(尊良)と上野(守永)が、「八尺鏡」の「高御位」すなわち高御座(天皇の位)に就かれたと解釈します。

(4)高長(こうちょう、兵庫県姫路市夢前町)国内唯一の地名。
尊良天皇を表す地文。「高長」は、「たかなが」と読めるので、尊良天皇を表わす地文。

三浦芳聖は、「高長」は、地図をひろげて串呂を引いていた時に、玉虫色をした美麗な虫が飛んできて、この地名の上にとまったことから発見した。その時、あまりにも不思議で夢でも見ているのかと思ったと述べている(夢前町)。三浦芳聖は、この霊虫を「串呂の虫」と名付けた。

後醍醐天皇の皇子の名には、通字として「良」が用いられている。その読みは古くから「なが」「よし」の両様に読まれてきた。          『ウィキペディア(Wikipedia)』後醍醐天皇#皇子の名の読み

なぜ、「なが」「よし」の両様に読まれてきたのかについては、串呂を解明するために必要だからと考えています。

高長こうちょう=たかなが=高良こうら
尊良たかよし=たかよし=吉高よしたか(千葉県印西市)

(5)高御位山(たかみくらやま、兵庫県加古川市)304.2m
「高御座」(たかみくら)表わす地文。天皇の地位の意味で、神皇正統の天皇に登極されたことを昭示する地文。国内唯一の地名。

高御位山の頂上には天乃御柱の碑(天乃御柱天檀と彫られた円柱)と岩場を磐座(いわくら)としていた「⛩高御位神宮」(主祭神、天之御中主神)がある。

『九鬼文献』には、「神武五代孝昭天皇ご即位成したまふや天中押別命アメナカオシワケノミコトに命じ正月高御位山たかみくらいやまに到らしめ、この所に鬼門八神鎮霊の典儀を修せしめ、へいを立てしむ」(『九鬼文書の研究』)とあり、五代孝昭天皇が即位のとき、高御位山で鬼門八神の鎮魂の儀式を行なったと書かれている。また驚くことに、
 高御位山は皇始祖天皇天御中主アメノミナカヌシ天皇の岩築陵の存する所にして神国唯一の霊峰聖地なりとも書かれているのである。

鳥居礼『日本超古代史が明かす 神々の謎』203頁

【参照】『ウィキペディア(Wikipedia)』高御位山

(6)高甲良山(たかこうら山、和歌山県田辺市龍神村)1131.4m

尊良天皇を表わす地文。国内唯一の地名

尊良天皇は、嘉元2年(1304)甲辰8月8日御降誕。「神村の山」は、甲辰年生まれの高良(尊良)で、尊良天皇を表す地文。

尊良天皇が嘉元2年(1304)甲辰8月8日御降誕であることは、尊良天皇の第二皇子「基良親王」の嫡孫「河合家」(愛知県岡崎市明見町)に代々伝承されてきました。

(7)八尺鏡野(やたがの、和・東牟婁郡那智勝浦町)国内唯一の地名

「八咫鏡(やたのかがみ)」を表わす地文。八咫鏡は日本神話に出てくる皇位継承に不可欠の三種の神器の一つ。「古事記」には「八尺鏡」と記載されている。

八咫鏡は三種の神器(鏡、玉、剣)の中で最も重要とされる。串呂では、皇位継承者であることを昭示(あるいは鑑定)する地文で、重要串呂起点。


🔴なぜ神風串呂は構築されたのか!


4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

竹生-上野-与位-高長-高御位山-高甲良山-八尺鏡野

この串呂は、甲辰年生まれの尊良天皇は、神皇正統の皇位を継承した天皇であり、上野太守・守永親王に譲位したと解釈いたします。

「与位、高長、高御位、高甲良、八尺鏡」という極めてユニークな「国内唯一の地文」が5つも集中する超重要串呂です。実に神秘的な現象で、それだけで正に神風串呂といえます。

地文を見るだけで、神々のこの串呂への思い入れの深さが伝わってきます。それだけこの串呂は重大な意味を秘めた啓示であると思います。

日本皇統史の分水嶺ともいうべき、後醍醐天皇の皇位継承者は誰だったのかという、重要な皇位継承問題を扱う神風串呂であるため、天地神明がこのような神秘的な地文を用意されたのだと思います。

下記に「後醍醐天皇の皇位継承者は誰だったのか」を理解する上で参考になる記事を掲載しておきますので参照してください。

【参照】北陸朝廷(串呂哲学研究ノート№19)

【参照】
後村上院(義良)午年皇子説立証の神風串呂(№186
南朝正統皇位継承論3(№191)南朝正副二統皇位継承論に徹する!


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💟串呂文庫

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🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志)


🔴バックナンバー(総合)

🟡情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№17) 
🟢次号(№19)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会 
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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