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後村上院(義良)午年皇子説立証の神風串呂(串哲№186)

この記事は、神皇正統家極秘伝神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。
 
 串呂(クシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した元伊勢クシロの事です。 元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。

串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。 地名(地文ちもん)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。 
 
ここでは、後村上院御陵と後醍醐天皇御陵を結ぶ、「後村上院(義良)午年皇子説立証の神風串呂」をご紹介し詳しい解説をしています。

 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう! 
 
串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。 
 
 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、群雄割拠の戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。




1、後村上院の資料

(1)『ウィキペディア』後村上天皇

後村上天皇(ごむらかみてんのう、1328年〈嘉暦3年〉10月4日または10月11日 - 1368年3月29日〈正平23年3月11日〉)は、日本の第97代天皇および南朝第2代天皇(在位:1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉- 1368年3月29日〈正平23年/応安元年3月11日〉)。諱は初め憲良(のりよし / のりなが)、後に義良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。

父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。1911年(明治44年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。

誕生した月日について、『南朝編年記略』は1328年10月4日(嘉暦3年9月1日)とし、中田憲信の『南方遺胤なんぽういいん』は10月11日(嘉暦3年9月8日)とするが、その確たる史料的裏付けはない

(2)古本本朝皇胤紹運録

古本本朝皇胤紹運録上
古本本朝皇胤紹運録下

上記の「古本本朝皇胤紹運録」では、義良親王について「南方偽朝に於て君主と称し後村上天皇と号す」と、吉野朝は南朝の正統の朝廷ではなく、陽動作戦上の見せかけの偽朝(副統・前衛・代理)であると看破している。

後醍醐院─┬─尊良親王 第一皇子
                 ├─世良親王 
      ├─恒良親王
         ├─成良親王 第六皇子
      ├─義良親王

これまでの研究結果は下記の通りです。
尊良親王 嘉元2年(1304)三碧木星・甲辰年生れ 第一皇子
世良親王 不明(早世)  元徳2年薨去      第二皇子
護良親王 元応2年(1308)八白土星・戊申年生れ 第三皇子
宗良親王 応長元年(1311)五黄土星・辛亥年生れ 第四皇子
恒良親王   正中2年(1325) 九紫火星・己丑年生れ  第五皇子
成良親王 嘉暦元年(1326)八白土星・丙寅年生れ 第六皇子
守永親王 嘉暦3年(1328)六白金星・戊辰年生れ 第七皇子(猶子)
義良親王 元徳2年(1330)四緑木星・庚午年生れ 第八皇子     

*猶子の守永親王を入れなけば「第七皇子は義良親王」である。
*『大政紀要』には「後村上院天皇。先帝ノ第八子ナリ」(84頁)と出ています。

(3)吉野の桜(さくら)

諺文学では吉野の桜で「さくら」とは偽客(さくら)の事をいい、吉野朝が陽動作戦上の見せかけの偽朝(副統・前衛)であった事を表わしている。

吉野の桜

君をのみたのむ吉野の宮人の同じかざしは桜なりけり(宗良親王)
【通釈】我が君をひたすら頼みとする吉野の宮に仕える人々が、揃って挿頭とするのは、名にし負う桜の花であることよ。(宗良親王 千人万首

(4)南朝正副二統皇位継承論(藤原丸山)

南朝史学会の藤原石山氏は、「南朝には正副二統の天皇が存在し、吉野朝の天皇は南朝の擬朝(副統)であり、後醍醐天皇の正統を継承した守永親王の身代わりの天皇であったと見るのが正しいものと考える」として下記のように述べています。

南朝の正副二統
南朝には、正副二統の天皇が存在し、吉野の朝廷は、南朝の偽朝(副統)であった。皇系系譜として最も信憑せられる『本朝皇胤紹運録』に吉野の朝廷を〝南方偽朝〟とあり、『古本大系図』には義良親王を〝偽主〟と断じている。従来の史家は、この〝南方偽朝〟とか〝偽主〟の意を北朝の朝廷に対する偽主と解釈してきたが同系譜が長慶天皇の即位を〝南方ニ於イテ自立〟と明確に認めていること、後亀山天皇が吉野から降服したことなぞ、この系図に誌されていることが史実であることは、疑いのないところである。
(藤原石山著『南朝正統皇位継承論』105頁/1988年版)

 吉野の朝廷を南方の偽朝とする
  『本朝皇胤紹運録』の資料価値

    日本の皇系譜として最も信憑性のある『本朝皇胤紹運録』に長慶天皇の実父に当たる、義良親王を〝南方偽朝に於て君主と称し、後村上天皇と号す〟とある。従来この偽朝と云う意味を北朝系の人が書いたところから、京都の朝廷が正しい朝廷で、吉野の朝廷は偽朝であると解釈してきたが、この解釈は誤りであって南朝には、正副二統の皇統があって吉野の朝廷は南朝の偽朝即ち副統で義良親王は、後醍醐天皇の正統を継承した尊良親王の王子の俗に尹良王と伝える守永親王の身代わりの天皇であったと見るのが正しいものと考える。
 『本朝皇胤紹運録』『本朝皇系譜』『本朝皇胤紹運図』『日本紹運図』『帝王系図』『日本帝皇系図』等と題し、いずれも皇室の御系統を順次書き継がれて広く流布されている。
 この系図は、応永三十三年五月内大臣洞院満秀が、後小松天皇の仰せを奉じて作製したもので、この年は、後亀山天皇が崩御なさってニ年の後に当り、南朝の皇子や近臣も生存しており、これら皇子や近臣に聞き糺した上で書き上げ、後小松天皇も御承認になって題名を宸書なされたほどのもので、これが資料価値は論ずるまでもなく、おそらく南方の皇系譜として最も古い『古本大系図』の記事をそのまま引用したものであろう。
 従来は、義良親王を〝南方偽朝称君主〟又は〝熈成王自吉野降参〟と記せる意を誤解されていた。然し当時既に公に承認されていた最も有力な史料で、これが歴史の事実であることは一点の疑もないところである。(後略)(藤原丸山著『続南朝正統皇位継承論 尹良親王の伝説』14頁/1971年/南朝史学会、誤字を訂正した=8行目義長→義良、9行目守良→守永)

(5)神皇正統記は擬装の書物

上記の「南朝正副二統皇位継承論」に徹し、吉野朝は陽動作戦による南朝の前衛であり擬朝であるとして南北朝時代史を読む解くと、北畠親房の『神皇正統記』は、北朝・武家方を欺く為に著わした、陽動作戦による「偽書」であり、敵方を如何に騙すかに腐心して書かれた著書であることが理解されます。

下記は『神皇正統記』の一節ですが「義良親王が皇位を継承したように擬装して書かれた」という視点に徹して解釈するのです。

*後に芳野へいらせましまして、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。
内侍所・神璽も芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。
*まへの夜より親王をば左大臣の亭へうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる
*御母准三宮、藤原の廉子。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御こととぞかねてよりきこえさせ給し。
*秋八月中の五日ゆづりをうけて、天日嗣をつたへおまします

2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。

3、後村上院(義良)午年皇子説立証の神風串呂

三浦芳聖は、『「後醍醐天皇」には56人の皇子・皇女がありますが、他の皇子皇女の宮や墓と串呂しても「親之谷」と串呂しているのは、「尊良天皇」と「興国天皇」と御二方のみであります。』と述べ、

【参照】後醍醐天皇御陵と金崎神宮との神風串呂 

と比較対照する為に、後醍醐天皇御陵(奈・吉野町)と後村上院御陵(大・河内長野市寺元観心寺)とを串線すると、次の様な神風串呂になると述べています。

王院山(島・出雲市)-大馬木川(島・仁多郡奥出雲町三成)-美女原(島・仁多郡奥出雲町三成)-釜村(岡・新見市神郷)-大忠(岡・新見市神郷釜村)-南山方(岡・和気郡和気町)-後村上院御陵(大・河内長野市寺元観心寺)-後醍醐天皇御陵(奈・吉野郡吉野町)

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第一章22頁、現住所に改め、新たな研究成果「大馬木川」を盛込んだ。)

【地文のみ掲載】
「王院山」-「大馬木川」-「美女原」-「釜村」-「大忠」-「南山方」-「後村上院御陵」-「後醍醐天皇御陵」

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)王院山(おういんざん、島・出雲市)国内唯一の地名。
親王でありながら後村上院(吉野朝の天皇)を名乗ったの意味。ここでは義良親王が、神皇正統の天皇にあらず、親王であったことを云う。

島根県出雲市王院山(国土地理院地図)

北朝方の権威ある記録である古本大系図にある「義良親王 偽主南朝と号し、南方偽朝に於て君主と称し、後村上天皇と号す。陸奥太守、後醍醐院第五皇子、母新待賢門院」と記載されている記事中に

「義良親王」「偽主南朝」「南方偽朝」とあるのは、武家方が、吉野朝は南朝前衛(偽主・偽朝・副統)であると見抜いてた証拠である。但し、第五皇子は第八皇子の誤り(法親王二人と猶子の守永親王を除けば第五皇子)。

*下記の「青木文献」には「後醍醐帝第八子」と記録されている。

後村上天皇
諱義良初名憲良後醍醐帝第八子
母者新待賢門院廉子藤原氏右中将公廉之女也
在位二十九年正平二十三戊申年三月十一日崩
于住吉殿寿四十一才葬河内国錦部郡観心寺
後檜尾陵

*猶子の守永親王を入れなけば「義良親王は第七皇子」である。

古本大系図

*『大政紀要』には「後村上院天皇。先帝ノ第八子ナリ」(84頁)と出ています。

(2)大馬木川(おおまきがわ、島・仁多郡奥出雲町三成)国内唯一の地名。
四緑木星午年の大物をあらわす。大は大物。馬は午年。木は木星。午年の九星には「一白水星、四緑木星、七赤金星」の三種類があるのみ。

従って馬木は四緑木星午年の事で、ここから義良親王が元徳2年(1330年)四緑木星・庚午年生まれの皇子で大物であった事を昭示している。

従って、嘉暦3年(1328年)戊辰年生まれの皇子は、三浦皇統家系図にある如く「興国天皇(守永親王)」であるという説を立証している。

ちなみに、この地名「大馬木川」は、「美女原」に隣接して流れている川である点を強調しておきたい。

大馬木川
島根県仁多郡奥出雲町三成(地図マピオン)

(3)美女原(びじょはら、島・仁多郡奥出雲町三成)国内唯一の地名
美女の誉れ高かった後醍醐天皇の寵妃、藤原(阿野)公廉の女・新待賢門院藤原廉子(義良親王の母)を指す。

【参照】『ウィキペディア』阿野廉子

美女原
島根県仁多郡奥出雲町三成(地図マピオン)

新待賢門院藤原廉子については『太平記』巻第一「立后の事附三位殿御局の事」を参照のこと。

そのころ、阿野中将公兼の娘で三位殿の局廉子という女房が禧子中宮に仕えていたのを、帝が一目見て気に入り、特別に御寵愛になられた。他を退けて帝の愛を独占してしまったので、後宮の美女たちはみな顔色もなくす程だった。いかなる階級を持った女性も、また、後宮の名高い美人も、美しい歌声を持つ女性も、帝は顧みようともされなかった。

〔其比(そのころ)安野(あの)の中将(ちゆうじやう)公廉(きんかど)の女(むすめ)に、三位殿(さんみどの)の局(つぼね)と申(まうし)ける女房(にようばう)、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)に候(さぶらは)れけるを、君(きみ)一度(ひとたび)御覧(ごらん)ぜられて、他に異(こと)なる御覚(おんおぼえ)あり。三千の寵愛(ちようあい)一身(いつしん)に在(あり)しかば、六宮(りくきゆう)の粉黛(ふんたい)は、顔色無(がんしよくなき)が如(ごとく)也。都(すべ)て三夫人(さんふじん)・九嬪(きうひん)・二十七(の)世婦(せいふ)・八十一(の)女御(にようご)・曁(および)後宮(こうきゆう)の美人・楽府(がふ)の妓女(ぎぢよ)と云へども、天子顧眄(こめん)の御心を付(つけ)られず。〕

(4)釜村(かまむら、岡・新見市神郷)国内唯一の地名。
『「月夜に釜を抜く」の諺文の如くに、足利方の目をくらます為に擬装した「天王」ですから「釜村」と申します。』(同上著第一章22頁)とあります。

つまり、釜村は、敵の目をくらます陽動作戦による見せ掛けの天皇の意味。従って「月夜」とは、南朝副統の吉野朝を云い、「釜村」の「釜」とは南朝副統の擬天皇のことで、「村」は後村上院を云う。

🟡月夜に釜を抜く
明るい月夜に釜を盗まれる。ひどく油断することのたとえ。

⭕私は、おかま(女装男性)からも、釜村は、擬装天皇後村上院と解釈できるのではないかと思います。

釜村
岡山県新見市神郷(地図マピオン)

(5)大忠(おおただ、岡・新見市神郷釜村)国内唯一の地名
義良親王が、神皇正統の天皇を守るため、南山(吉野朝)で「擬朝の天王」(陽動作戦)を演じた、大義名分をわきまえた人物であったことを指す。

岡山県新見市神郷釜村「大忠」(国土地理院地図)

三浦芳聖は、この地文「大忠」について次のように解説しています。

准后新待賢門院藤原廉子の生んだ皇子でありながら、神皇正統の「天皇」を守護し奉る為に、身替りの「天王」となって、其の名も「憲良」を態々「義良」と改め、又正妃左大臣経忠の女「藤原勝子」の生んだ王子には「熈成」と命名して、将来大義名分を絶対誤らない様に態々「己は臣」という字を入れて命名せられた極めて大義名分の明らかな親王故、「後醍醐天皇」も之を神界から御嘉賞になって「大忠」とおほめになっています。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第一章21頁~22頁)

🟠後村上院(義良親王)は、憲良から義良に改名している。
義は義足、義理、義父、義兄弟の義で偽に通ずる。「義=偽」。王子の名前には「良」を付けず「成」を付けている。
【参照】『ウィキペディア』後村上天皇

(6)南山方(みなみやまがた、岡・和気郡和気町)国内唯一の地名。
「玉骨は、たとい南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕(ほっけつ・北の都)の天を望まん」の後醍醐天皇の御遺詔にあるように「吉野朝」のことを表わす。この地名の住所が「和気郡和気町」であることも参考にして下さい。

(7)後村上院御陵(大・河内長野市寺元観心寺)
高野山真言宗「観心寺」後山にある檜尾陵(ひのおのみささぎ)のこと。

観心寺後村上
河内長野市寺元観心寺・後村上院御陵

(8)後醍醐天皇御陵(奈・吉野郡吉野町吉野山)
塔尾山椿花院・如意輪寺裏山にある北面の御陵。

塔尾御陵
後醍醐天皇御陵

4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

「王院山」-「大馬木川」-「美女原」-「釜村」-「大忠」-「南山方」-「後村上天王御陵」-「後醍醐天皇御陵」

義良親王は、神皇正統の天皇を守るため、南山(吉野朝)で「擬朝の天王」(陽動作戦)を演じた、大義名分をわきまえた四緑木星午年生まれの親王であり、美女の母親(新待賢門院藤原廉子)から生まれたと後醍醐天皇が立証している。

この串呂は、王院山、大馬木川、美女原、釜村、大忠、南山方の国内唯一の地名が6個も一直方角線上に並んでいる神秘的な神風串呂です。

南朝には正副二統の皇統があった事を昭示する為に、上記のユニークな地名を配置して神風串呂を構築された串呂主宰神(天照大御神を始めとする日本神界)の御配慮を思う時、何と申上げて良いか、言辞に窮する次第です。

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串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)

情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)

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