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後亀山院(熈成王)勅使3串の神風串呂(串呂哲学研究ノート№185)

後亀山院(熈成王)勅使3串の神風串呂

1、後亀山院(熈成王)の資料

(1)『ウィキペディア』後亀山天皇

 後亀山天皇(ごかめやまてんのう、1350年〈正平5年〉[1] - 1424年5月10日〈応永31年4月12日〉)は、日本の第99代天皇および南朝第4代天皇(在位:1383年〈弘和3年/永徳3年〉冬 - 1392年11月19日〈元中9年/明徳3年閏10月5日〉)。諱は熙成(ひろなり[2])。
 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。
 1911年(明治44年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。(『ウィキペディア』後亀山天皇

(2)古本本朝皇胤紹運録

古本本朝皇胤紹運録上
古本本朝皇胤紹運録下

上記の「古本本朝皇胤紹運録」では、義良親王について「南方偽朝に於て君主と称し後村上天皇と号す」と、吉野朝は南朝の正統の朝廷ではなく、陽動作戦上の見せかけの偽朝(副統・前衛・代理)であると看破している。

寛成親王については「南方に於て自立、長慶院と号す」と皇位に付いていた事を認めているが、熈成王については、「熈成、吉野より降りて後、太上天皇の尊号を蒙(こう)むる」と、親王でもなく、皇位に付いていた事を認めていない。

以上のことから、元中9年/明徳3年(1392年)の「明徳の和約」に於て、武家方(足利義満)は、吉野朝(熈成王)が南朝正統の天皇でない事を承知の上で、世間を騙すための大芝居を演じた事が分かるのである。

南朝が偽朝で北朝が正統なら「講和する」必要はないのであり、南朝の副統(前衛・代理)である吉野朝を世間には正統の朝廷と見せかけて南北講和という大芝居を演じたのである。

 吉野の朝廷を南方の偽朝とする
  『本朝皇胤紹運録』の資料価値
日本の皇系譜として最も信憑性のある『本朝皇胤紹運録』に長慶天皇の実父に当たる、義良親王を〝南方偽朝に於て君主と称し、後村上天皇と号す〟とある。従来この偽朝と云う意味を北朝系の人が書いたところから、京都の朝廷が正しい朝廷で、吉野の朝廷は偽朝であると解釈してきたが、この解釈は誤りであって南朝には、正副二統の皇統があって吉野の朝廷は南朝の偽朝即ち副統で義良親王は、後醍醐天皇の正統を継承した尊良親王の王子の俗に尹良王と伝える守永親王の身代わりの天皇であったと見るのが正しいものと考える。(藤原丸山著『続南朝正統皇位継承論 尹良親王の伝説』14頁/1971年/南朝史学会、誤字を訂正した=8行目義長→義良、9行目守良→守永)

【参照】『ウィキペディア』本朝皇胤紹運録

(3)尊号贈進の詔書

(前略)仍て準的の旧蹤無しと雖も、特に敬礼の新制を垂れ、宜しく尊号を上りて太上天皇と為すべし。

(4)『荒暦』(関白一条経嗣)

抑、此の尊号は、稀代の珍事なり。後醍醐天皇の皇胤、猶は絶つべからざる歟。天運循環の理、冥慮昭鑑の至、凡慮の測る所に非らざるのみ。

(5)『皇代記』

明徳五年二月二十三日、南方前主(後亀山)当朝に於いては諸王子たり、太上天皇の詔あり。

(6)『建内記』(万里小路時房)

次に父子にあらずと雖も、他人を以って宣下せらるゝ尊号有り、後亀山院是なり。

(7)『御神楽雑記』

南朝帝以下、三種の霊宝を御随身あつて、入洛せしめ給ひ、嵯峨大覚寺に着御。今より一向御在洛あるべしと云々。彼の三種の霊宝を当代に進ぜられんが為なり。(中略)霊宝を進ぜらるゝの上は、皆御在京等の事、大内介籌策申入ると称す。不思議の事なり。定めて御後悔御座あるべきものか。当御代の御為には大吉の事なり。南朝は御進退楚忽か。何様存じ寄らざる事なり。

(8)南北朝合一せず(滝川政次郎)

(前略)後小松天皇の御代に至って南北朝の合一が行われたというのは全くの嘘であって、南朝は元中九年以後に於ても吉野の奥川上、北山の地に厳然として存在し、南北朝の抗争は応仁文明の乱のときまで継続されている。史家は元中九年以後の南朝を「後南朝」と呼んでいるが、後南朝の史実は、明治四十四年幸徳秋水の大逆事件を契機として起った南北朝正閏論以来、我が国史家によってひた隠しに隠されてきたのである。後亀山天皇が神器を後小松天皇に伝えられたのは、爾後皇位は大覚寺統と持明院統とで交互に伝えるという北朝側の講和条件を信ぜられたからである。ところが北朝側に於ては、最初からこの講和条件を実行する意思がなかったのであるから、謂う所の南北合一は真の合一にあらずして神器の詐取である。毎日新聞社から発行された遠山・石母田・高橋三氏共著の『世界の歴史・日本』には、南北朝の合一を「南朝の降服」と書き改められてあるが、これは全く史料を無視した所論である。私は斯かる杜撰にして新奇を衒う日本歴史が、文部省の推賞を受けて広く国民に読まれていることを遺憾とするものである。
(滝川政次郎著『日本歴史解禁』88頁/創元社/1950年、新漢字、新仮名遣いに改めた)

(9)後亀山天皇の遺詔

ちん末期まつごの願也。足利一類之計策につなが無念骨髄を染む。朕が髑髏どくろさらしてち腐るとも魂魄此世に止つて、汝等日本男子忠臣之国賊退治を望むことかくの如し、依つて執達しったつくだんの如し。
(熊沢寛道『南朝と足利天皇血統秘史』3頁、句読点や送り仮名を付し編集しました。)

2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。

3、後亀山院(熈成王)勅使3串の神風串呂

三浦芳聖は、小倉(兵・丹波篠山市)と後亀山院御陵(京都市右京区嵯峨)とを串線すると、次の様な神風串呂になると述べています。

後亀山御陵勅使三串

小倉(兵・丹波市)-勅使(兵・丹波市)-東勅使(兵・丹波市)-小倉(兵・丹波篠山市)ー宮代(兵・丹波篠山市)-後亀山院御陵(京都市右京区)-勅旨(滋・甲賀市)-野村(三・伊賀市)

(三浦芳聖著『串呂哲学第一輯』15頁/1956年/大竹書店、研究の成果を盛り込み新住所に改めた。滋・甲賀市信楽町の勅使は、勅旨に訂正しました。)

【地文のみ掲載】
小倉-勅使-東勅使-小倉ー宮代-後亀山院御陵-勅旨-野村

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)小倉(おぐら、兵・丹波市青垣町)
後亀山院の王子「小倉宮良泰親王」又はその後胤を表わす。後亀山院の御陵が嵯峨小倉山東麓にある事から後亀山院を表わすとする事も出来る。

嵯峨小倉山、篠山市小倉とで小倉三串の神風串呂を構成している。

【参照】『ウィキペディア』良泰親王


丹波市青垣町小倉

(2)勅使(ちょくし、兵・丹波市市島町)
天皇の使者のこと。ここでは後亀山院が正統の天皇ではなかった事を表わす。東勅使、勅旨、とで勅使三串の絶対確証の神風串呂を構成している。(『ウィキペディア』勅使

古本大系図

神風串呂主宰神が、後亀山院を勅使(天皇の使者・前衛)と昭示する事については、「1、後亀山院(熈成王)の資料の(2)古本本朝皇胤紹運録」でも考察しましたが、

上記の『古本大系図』にある様に、当時の最も信頼に足る系図に、長慶院については「寛成親王」「南方自立」とあるのに、後亀山院については「熈成王」となっていて「親王」と書かれていない事からも的確なる昭示だと言えます。

(藤原丸山著『続南朝正統皇位継承論 尹良親王の伝説』15頁/1971年/南朝史学会

市島町勅使

(3)東勅使(ひがしちょくし、兵・丹波市市島町)
勅使に同じで天皇の使者の意味。ここでは後亀山院が正統の天皇ではなかった事を表わす。瓢箪型をした南北に長い区域で、勅使交差点が有ります。勅使、勅旨、とで勅使三串の絶対確証の神風串呂を構成している。

市島町東勅使

(4)小倉(おぐら、兵・丹波篠山市)
後亀山院の王子「小倉宮良泰親王」又はその後胤を表わす。後亀山院の御陵が嵯峨小倉山東麓にある事から後亀山院を表わすとする事も出来る。

東南に隣接して宮代(宮家の代理)がある。小倉-宮代-後亀山院御陵。

丹波市小倉、嵯峨小倉山とで小倉三串の神風串呂を構成している。

篠山市小倉

(5)宮代(みやしろ、兵・丹波篠山市)
宮家の代理(使者)を表わす。勅使と同じ意味を表わす地名。ここでは後亀山院が正統の天皇ではなかった事を表わす。

丹波篠山市宮代

(6)後亀山院御陵(ごかめやまいん御陵、京・右京区嵯峨鳥居本小坂町)
後亀山院御陵は、「嵯峨小倉陵」と呼ばれ、嵯峨小倉山東麓にある。

丹波市小倉、篠山市小倉とで小倉三串の絶対確証の神風串呂を構成している。

後村上院(義良親王)は、憲良から義良に改名している。義は義足、義理、義父、義兄弟の義で偽に通ずる。「義=偽」。王子の名前には「良」を付けず「成」を付けている。【参照】『ウィキペディア』後村上天皇

後亀山院(成)は、義良親王の王子で、名前に「臣」という文字が入っている。これは吉野朝が南朝副統(前衛)である事を名前に表わしているのである。即ち、後村上院(義良親王)は、南朝の前衛である副統(吉野朝)を継承したことをよくわきまえていた証拠です。

元中9年(1392年)の明徳の和約が進められていた時期、南朝正統家の大黒柱であった「長慶院法皇」は、御鏡を奉持して全国を遊説していた為、その間隙をついて、後亀山院とその取巻きが講和を強行したと思われる。

【参照】長慶院法皇(ちょうけいいんほうおう)

【参照】後亀山天皇嵯峨小倉陵(宮内庁)

後亀山院御陵

(7)勅旨(ちょくし、滋・甲賀市信楽町)
天皇の勅命を下達する文書の意味であるが、ここは勅使の諺文で、天皇の使者の意味。勅旨=ちょくし=勅使。ここでは後亀山院が正統の天皇ではなかった事を表わす。

勅使、東勅使とで勅使三串の絶対確証の神風串呂を構成している。
【参照】『ウィキペディア』勅旨

信楽町勅旨

(8)野村(のむら、三・伊賀市中拓植)
三浦芳聖の妻鈴(旧姓野村・三重県度会郡南伊勢町村山生まれ)の実家の野村家の伝承で、先祖が小倉宮良泰親王の王子「良仁王」と伝えられている。

伊賀市野村

4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

小倉-勅使-東勅使-小倉-宮代-後亀山院御陵-勅旨-野村

嵯峨小倉山にある後亀山院の御陵は、正統天皇の陵にあらず、勅使(天皇の使者・代理)の御陵である。野村は、その子孫である。

串呂主宰神が「元中九年の講和」について、勅使(勅旨)三串、小倉三串の超・絶対確証の神風串呂で、後亀山院は代理の使者であり、正統の天皇では無かった事が明確にされている点、神風串呂の的確性に驚嘆しています。

この串呂は南北朝時代の実に重大な「秘史」を語っているように思います。南北和睦の件は、これを串呂の世界(天地神明)は、後亀山院を勅使(天皇の使い)だと云うのですから、神皇正統の「正良天皇」が、「そんなに和睦したいのなら、偽の神器を持っていって、どんな結果になるかやって見よ」と心の中でご命令になったということであります。

その結果については、いまさら言うまでもないことですが、逆賊・足利義満一味の謀略に掛かり惨憺たる結末を迎えたのでした。

『ウィキペディア』明徳の和約を参照のこと。)

5、参考資料

【参照】吉野の朝廷を南方の偽朝とする
     『本朝皇胤紹運録』の資料価値(1、の続き)
 『本朝皇胤紹運録』『本朝皇系譜』『本朝皇胤紹運図』『日本紹運図』『帝王系図』『日本帝皇系図』等と題し、いずれも皇室の御系統を順次書き継がれて広く流布されている。
 この系図は、応永三十三年五月内大臣洞院満秀が、後小松天皇の仰せを奉じて作製したもので、この年は、後亀山天皇が崩御なさってニ年の後に当り、南朝の皇子や近臣も生存しており、これら皇子や近臣に聞き糺した上で書き上げ、後小松天皇も御承認になって題名を宸書なされたほどのもので、これが資料価値は論ずるまでもなく、おそらく南方の皇系譜として最も古い『古本大系図』の記事をそのまま引用したものであろう。
 従来は、義良親王を〝南方偽朝称君主〟又は〝熈成王自吉野降参〟と記せる意を誤解されていた。然し当時既に公に承認されていた最も有力な史料で、これが歴史の事実であることは一点の疑もないところである。(後略)(藤原丸山著『続南朝正統皇位継承論 尹良親王の伝説』14~15頁/1971年/南朝史学会)

【参照】『ウィキペディア』本朝皇胤紹運録



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この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

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出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。


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