三浦芳聖伝 60、興国天皇御陵の制定(串呂哲学研究ノート№184)
興国天皇御陵の制定
1、難航した興国天皇御陵の制定
三浦芳聖の著書によれば、興国天皇御陵は、三浦家の系図には「応永4年丁丑3月崩、猿田小高陵に葬る」となっていて、この「猿田小高陵」を探すのに43年も掛かったと述べている。
猿田小高陵が、弟宮・良玄法親王が草庵を営んでいた愛知県岡崎市明見町田代「宮崎山伝正院」裏山であると判明したのは、神風串呂と霊示によってであったという。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第一章52頁-2)
良玄法親王は、東山天皇(尊良)の第二皇子「基良親王」で、太政大臣二条良基の養子となり藤原基良、のち僧籍に入って良玄と名乗り、都から難を逃れて三河に落ちて来て、宮崎山伝正院を開基されました。
良玄法親王の嫡孫・河合家では、尊良天皇を後醍醐天皇の太子(ひつぎのみこ)尊良親王と伝承し、宝筺印塔を建立し尊姿を木像に刻んで「太子堂」に祀ったと伝えられています。
宮崎山伝正院は、愛知県岡崎市明見町宇田代130にある浄土宗西山深草派のお寺で、聖徳太子をお祀りしたという太子堂は地元ではかなり有名だが、良玄法親王が、父・尊良親王を隠祀したものだということを知る人は少ない。
興国天皇(守永)の伝説地は東日本一帯に数多くあり、終焉の地の候補地もいくつか存在する。三浦芳聖は、昭和34年(1959年)4月24日、秋田県横手市鍛冶町の金家館跡に調査に出かけ、50歳前後の興国上皇を霊視、神霊写真の撮影に成功しました。
三浦芳聖の著書によると、興国天皇は応永3年(1396年)信州浪合(長野県下伊那郡阿智村)で遭難したが、辛くも逃げ延び(身代わりが死亡)、静岡県浜松市天竜区佐久間町平和(ひらわ)に潜居した後、弟宮である「良玄法親王」が営んでいた宮崎山伝正院に身を寄せたとしています。
猿田小高陵を宮崎山伝正院裏山に比定するに足る文献資料は無く、神風串呂と霊示(超能力)によって制定したようです。
三浦芳聖が制定した興国天皇の御陵、愛知県岡崎市明見町田代の「宮崎山伝正院裏山」は、三浦芳聖の降誕地から、直線距離で約8キロの身近な所にあったのに分からなかったのは、三浦芳聖が数えの10歳の時に、父親が病気で急死した為、口頭で伝えられなかったからではないかと想像しています。
2、興国天皇の御陵の神風串呂
(1)天子ヶ岳と興国天皇御陵の神風串呂(№55)
「⛩高千穂神社」-「猿田」-「牧平大門」-「興国天皇御陵」-「一色」-「天子ヶ岳」-「下加納」-「古高」-「猿田」
(2)「八尺鏡野」と「興国天皇御陵」との神風串呂(№56)
「八尺鏡野」-「河合家」-「興国天皇御陵」-「守義」-「⛩小鷹神社」-「大日向」-「大日向」-「皇海山」-「太郎山」-「田代山」-「⛩隠津島神社」-「高松山」-「御幸山」-「⛩霊山神社」-「田代」
(3)皇大神宮内宮と興国天皇御陵の神風串呂 (№59)
「和気」-「⛩皇大神宮内宮」-「興国天皇御陵」-「巴山」-「三都橋」-「小松」-「中田」-「大蛇」-「南天山」-「天神」-「如来堂バス停」-「明神」-「登り内」-「小松」-「⛩小高神社」
(4)上野宮と興国天皇御陵との神風串呂 (№60)
「夫婦瀑」-「玉置川」-「一色町」-「興国天皇御陵」-「龍頭山」-「天龍」-「十原」-「高山」-「龍岡町」-「龍舞町」-「大和田町」-「上野町」-「上野宮」-「入定」-「五社山」-「寺脇」
(5)御在所山と興国天皇御陵の神風串呂(№61)
「高尾」-「上野」-「岩座神・日月の滝」-「竜王山」-「御在所山」-「興国天皇御陵」-「上野」-「一色」-「三原山」
3、資料編
(1)応永3年信州浪合遭難説
学者の研究によると、守永親王は、応永3年(1396年)信州浪合に於て遭難し戦死したとされている。
しかし、三浦家の系図には「応永4年丁丑3月崩、猿田小高陵に葬る」と記録されてあったので、芳聖は、興国天皇は、ここでは身代わりの方がお亡くなりになり、守永親王は辛くも危難を逃れ、静岡県浜松市天竜区佐久間町平和に落ち延びたと述べています。
尹良親王の御陵(宮内庁所管)
藤原丸山著『続南朝正統皇位継承論 尹良親王の伝説』(4頁/1971年、南朝史学会)には、下記のように述べられています。
(2)遠州佐久間町平和遭難説
南朝史学会の「藤原丸山」氏の研究や、串呂の研究で、興国天皇の終焉の地は、静岡県浜松市天竜区佐久間町平和(標高1361mの竜頭山中腹の山村、現在廃村)であるという説が出てきたのは、昭和40年(1965年)の春の事で、この山村に植野という家があり、その屋敷内に、自然石に「猿田彦」と彫んだ石碑(墓標)が有りました。
藤原丸山氏の研究では、守永親王はここで亡くなられ、胴体が埋葬されたという伝承
があるようです。
芳聖は、昭和40(1965年)年5月2日、門人45名を随行せしめ、静岡県磐田郡佐久間町平和(竜頭山中腹の山村)にて慰霊祭を厳修しました。
天候は快晴で、白鬚姿の興国上皇の霊視を拝し、霊感にて興国上皇が嘉暦3年六白金星戊辰年9月の降誕である事を確認し、興国天皇が浪合から平和へ落ち延びられた事は確信したが、ここも身代わりの方が亡くなられたようで最終的に平和を御陵と制定するには至りませんでした。
後村上院御陵(大・河内長野市観心寺)-⛩豊富神社(岡崎市牧平町大門)ー平和(静・浜松市天竜区佐久間町)
(三浦芳聖著『神風串呂』第123号付録・興国天皇御山陵祭1頁/1965年5月)
(3)豊橋市橋良町のお首塚
愛知県豊橋市の橋良町には、守永親王の御首塚と言われるお堂(神祠)が存在し、腹に蛇のこけら(鱗)のある「もと」という名前の堂守(老婆)がいました。
橋良町のお首塚が守永親王の行在所であった事は確かなようですが、ここも身代わりの方が亡くなられたようです。
戦後のある日、芳聖が快晴の天候の下、そのお堂の前でお祀りをすると、老婆のこけら(鱗)が取れてしまい、また「めくら地蔵」の眼が開き、お堂の中の真っ黒な不動尊が金ぴかになってしまうという奇蹟が起こりました。
老婆は、自慢にしていたこけら(鱗)が取れてしまったので、がっかりして泣き出したそうです。
御首塚(愛・豊橋市橋良町)ー一色(愛・新城市)ー上野宮(茨・久慈郡大子町)
三浦起義様出生地(名古屋市昭和区御所町2-9)ー中田町(愛・豊田市)ー御首塚(愛・豊橋市橋良町) *中田は、西園寺公顕の女清子を表わす。
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出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
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