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長慶院法皇(ちょうけいいんほうおう)

長慶天皇墓富士谷白黒
長慶院法皇の御陵墓(三輪義熈著『長慶天皇紀略』巻頭写真)

1、概説・生涯の歩み

南朝副統(吉野朝)第98代の天皇。第51世、諱は寛成(ひろなり・ゆたなり)。玉川宮・長慶院法皇、覚理、金剛心院皇夫大士。興国3(1342年)壬午年11月15日の満月の日に降誕したようだ(「芳花鶴水園の聖地」)。

神風串呂上の符号は「つき」(愛知県北設楽郡東栄町)で表わされる。

御父・後醍醐天皇第八皇子義良親王(副統後村上天皇)。母、嘉喜門院(関白二条師基猶子)、実は赤松氏三女玉己姫(青木文献)、春子の局(富士古文書)。

青木文献には、母は赤松氏三女玉己姫と記されてあります。この五井美吉原は、千種忠顕の一子「盛勝」が父「千種忠顕」忠死の功により、延元元年、三河に領地を賜り三河の国守護職に任じられ、三州玉川村(愛知県豊橋市石巻山麓)に赴き、「青木和田尉盛勝」と名乗り、後年青木一族活躍の端緒を開いたことにより、青木一族の領地であった。(青木文献)

三浦芳聖は、『長慶院寛成親王の御母は「二条関白の女」となっていますが、実際は赤松氏範の女であります・・・』と述べています。
 (三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』279頁)

【参照】三浦芳聖伝 58、長慶院法皇の母の名は?(№181)

興国3(1342年)壬午年8月13日、愛知県豊川市御油町(五井美吉原、隠沢城全柵「天皇山明燈院」)に於てご降誕。6歳まで隠沢城全柵「天皇山明燈院」に居城。(青木文献)

山口保吉氏は、興国3(壬午)年11月15日降誕と記している。(『芳花鶴水園の聖地』71頁)

三河吉野朝の仙洞御所の住所が「望王里」と名付けられた所から見ると長慶院法皇の降誕日は望(もち)の日すなわち15日が正しいと思います。

御油神社
愛知県豊川市御油町西沢(地図マピオン)

 隠沢城は、三州宝飯郡五井美吉原(愛知県宝飯郡御油町)の西南隅に在る、乃ち現在の御油神社の前方に当る高地一帯が城址で、背面側面は野山、姥山、膳の柵等の峰に囲まれ、前面は峻嶮な懸崖で攻むることは勿論、発見さえ容易でない地形である、これは隠沢の地名に因っても察せらるる如く一個の隠城である。
 後村上天皇に奉仕し奉った玉己妃が、皇胤を宿して帰郷するに及んで、父赤松氏は賊手の及ぶことを慮り隠沢に在った明燈院細川貞海に守護を託した。(中西久次郎・家田富貴男共著『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』16頁/1940年。新字体に変換しました。)

正平2年(1347年)明燈院の細川貞海和尚と共に吉野に上り太子の位に就任。(青木文献)

長慶院法皇は、10歳の正平6年(1351年)正月から正平11年(1356年)まで足掛け6年甲斐の隠城(富士谷)で教育を受けています。(五條文書)

正平6年(1351年)正月、甲斐の隠城に、尉衛吉見頼武侍講菅原為通外十士を従えて御潜行。到る正平11年(1356年)まで御駐蹄。

寛成親王は御年九才におはします正平六年正月、甲斐の隠城に、尉衛吉見頼武侍講菅原為通外十士を従へて御潜行あらせ給ふ。其れより正平十一年正月まで御駐蹄あらせらる。(五條文書)

正平11年(1356年)以後、三河御所(御津町御馬長床)に行在。

長慶天皇の三河御所(御津町御馬長床)(地図マピオン)

吉野で皇太子に就任した数年後に、吉野宮から三河御所宮(御津町御馬長床)に来られてお住まいになり、覚理法皇となられ明燈院を望理原に移し錦門御堂(王田殿)にお住まいになられました。

数年後、吉野宮下、三州御所宮在位、覚理法皇成、望理原於明燈院移、錦門御堂住給、東西四百五十間、南北五百三十間、王地南檜殿、北長勝寺西高前寺東馬込殿成(「青木文献」)『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』より

正平22年(1367年)、弥勒元年。
三河ではこの年を弥勒元年と称す。(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』52頁)・・・三河の国で降誕した吉野朝の長慶天皇践祚の年か?

後村上天皇に院政の可能性あり。

🟡後村上天皇生前譲位説
八代国治とともに長慶天皇即位確定に大きな役割を果たした武田祐吉は、『新葉和歌集』が「後醍醐天皇」「後村上院」と記していることを指摘して、後村上天皇が生前に譲位して上皇となっていた可能性を指摘した(「長慶天皇を仰ぎ奉りて」 『武田祐吉著作集 第8巻 文学史・歌物語篇』 角川書店、1973年。初出は1917年)。近年では、坂口太郎も同様の理由から生前譲位説を提唱している(「建武政権・南朝と院政 ―後院の設置を中心として」 『人間・環境学』17巻 京都大学大学院人間・環境学研究科、2008年)。

後村上天皇- Wikipedia

正平23年(1368年)3月11日、南朝副統(吉野朝)第97代後村上天皇崩御され、3月23日、寛成皇太子即位(青木文献)(正平23年ー日本史蹟)。

正平23年(1368年)3月23日、興良親王践祚。(三浦芳聖・大著142頁)

正平23年(1368年)長慶院法皇、吉野の朝廷を熈成親王に任せて三河に移り、南朝正統の皇子を守護することに専念せられることになった。後醍醐天皇の皇女の懽子内親王も来国し、三河吉野朝の基礎は確立する事となった。
(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』2頁)

建徳3年(壬子/1372年)正月、長慶院法皇「皇弟熈成親王を立てて、皇太弟となす。後村上天皇第二の皇子なり。」(三輪義熈『長慶天皇紀略』48頁)

三輪義熈著『長慶天皇紀略』の中に、長慶院が、吉野朝と富士谷御所の両拠点を構え、皇弟熈成親王と共闘計画を立てたことが書かれています。

建徳「三壬子年正月、皇弟熈成親王を立てて、皇太弟となす。後村上天皇第二の皇子なり。是より先、天皇、公卿及び諸将を行宮に会し、密議の末、計策を立てさせ給ふ。即ち、天皇、位を皇太弟に禅り、以て兄弟吉野、富士の東西に分かれ、皇太弟は吉野に拠り、関西の勤王の義兵を催し、以て京師を図らむとし、天皇は、富士谷に拠り、関東の宮方の、忠臣を語ひ、以て鎌倉を討せんことをぞ定めける。」
三輪義熈『長慶天皇紀略』48頁、旧漢字は新字体に改めました。)

建徳三(壬子)年は西暦1372年です。皇弟熈成親王が皇太弟に就任した時期は、『ウィキペディア』後亀山天皇では、正平23年/応安元年(1368年)で、4年の食い違いはありますが、

上記は、吉野朝廷(副統)と富士谷御所(正統)の両方に拠点を置いてやって来たこれまでの方針を踏襲し、富士谷御所にも副統の長慶院が表に立つという方針が加わった事になります。

 内伝上皇・・・守永上皇(尊良天皇一宮、後醍醐天皇猶子)
 内伝天皇・・・興良天皇(宗良親王王子)、皇后小室門院
 副統天皇・・・熈成親王(吉野)、長慶院法皇(富士谷)

正平23年(1368年)3月11日、南朝副統の後村上院が亡くなり、また同年7月21日、新田義貞の三男義宗が戦死し、翌正平24年(1369年)には、楠木正成の三男正儀が三代将軍に立った足利義満に降伏するなど南朝の大受難期であったため、長慶院は、内伝の天皇では求心力に欠けると考えたのではないかと推察しています。

文中2年(1373年)、山名氏春来り犯すに及び、天皇位を熈成親王に譲りて、紀州高野に避け給ふ。(日本史蹟)

文中2年(1373年)春半ば、長慶院法皇、吉野朝の皇位を後亀山天王に譲る。(『後太平記』)

文中2年(1373年)5月26日、内伝の松良天皇践祚。10歳。(三浦芳聖・大著145頁)

文中2年(1373年)8月、賊将山名氏春南山を犯し奉る。長慶天皇難を避けて紀州高野山に幸せさせ給ひ、御飾りを落(おろ)して覚理法皇と称へさせ給ふ。(日本史蹟)

西南将軍満良親王は四国に在はし、征西将軍懐良親王は肥後に在はします。両親王與に法皇の御叔父なり、法皇乃ち両親王に頼りて南朝の恢復を計らせ給はんと思し召し、高野聖僧行人と称して伊予国越智郡神戸郷高野玉川の里御旗寺に着かせ給ふ。供奉の人々は御妃並に御子尊聖親王を始め奉り、日野従一位、北畠前関白、四条前内大臣、洞院中将、門脇中納言、武士には楠木正勝、同く正秀、河野通政、同く通定等の面々亦た皆僧衣を纏ふて従ひ奉る。(日本史蹟)

文中3年(1374年)正月、法皇温泉郡湯の北多幸山天徳寺内の弥勒院に匿れ給ひ、尚ほも御軍略を運らし給ふ。(中略)足利義満乃ち大挙して九国四国の南軍を撃ち滅ぼさんと欲す、四国には武田信春、小笠原政長一萬余騎を率いて来り犯す。(中略)北軍勢に乗じ、進んで河野通政を湯の奥城に攻む、通政奮闘して之を破る。(中略)惨ましいかな法皇計らずも御傷を負わせ給ひ、法水院神宮寺に入りて御治療を加へ給へども其甲斐あらず、終に四月十二日を以て、空しく崩くれさせ給ふ。河野通政哀悼已まず、終に屠腹して御供に立ち奉る。
    浮島につもる思ひは深き江の波に漂ふ身のよるべなし
今日は西、明日は東と漂はせ給ひて、遂に尊き御身を鋒鏑に衊(ちぬ)らせ給ふ、悼ましとも悼まし。諸臣泣く泣く浮島原に葬(か)くし奉つる、今の御陵の松即ち此のところ。(日本史蹟)

文中3年(1374年)1月21日、長慶院法皇、吉野朝の皇位を熈成親王に譲る。(『長慶天皇紀略』48頁)

文中3年甲寅正月21日、長慶院は「遂に位を、皇太弟熈成親王に禅らせ給ふ。後亀山天皇是なり。前帝は、寛成院、又は長慶院太上天皇とぞ称し奉りける。(三輪義熈『長慶天皇紀略』48頁、旧漢字は新字体に改めました。)

文中3年(1374年)11月、長慶院法皇、吉野朝の皇位を熈成親王に譲る。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』37頁)

内伝の天皇・正良親王(当時11歳)の養父・摂政となり、三種の神器を継承した北陸朝廷の継承者小室門院元子内親王の後添え皇夫となったくらいですから、内伝の天皇に関する極秘事項をよく承知しておられた事と思います。

それは、自ら定めた長慶という院号に内伝の天皇(守永親王)を尊重する意味が込められているのを見れば明らかです。

長慶とは、「長=なが=永(守永)=良(興良・松良)を慶賀する」という意味ですから。

こうした状況の中で、文中2年(1373年)、内伝の天皇・興良親王が、遠州秋葉城(静岡県浜松市天竜区)の戦いに敗れ落城後、逃走中に今川氏の手の者に捕らえられ、京都に連れ去られるという事件が起きたので、

長慶院は、文中3年(1374年)内伝の天皇・正良親王(当時11歳)の養父・摂政となり、太上天皇の尊号を蒙り、小室門院の後添え皇夫となりました。(三浦芳聖・大著142頁、144頁)

文中3年(1374年)1月21日、松良天皇の摂政となり太政天皇の尊号を蒙る。

富士の隠れ城に行在中の小室門院元子内親王の後見(後夫)となり、神皇正統第99代松良天皇の養父となる。(三浦芳聖・大著144頁)

🔴天授元年(1375年)、伊勢神宮参拝。御鏡を拝受して天授と改元。

若年から和歌に優れ、天授元年(1375年)の『五百番歌合』、同2年(1376年)の『千首和歌』(322首が現存)がある他、『新葉和歌集』に「御製」として53首が入集している。その歌風は平明で、大覚寺統伝統の二条派に属する。著作には先述の『仙源抄』がある他、『孟子集註』・『雲州往来』・『台記』などの研究も行った。(『ウィキペディア』長慶天皇

天授2年(1376年)、愛知県豊川市国府町に王田殿を建立し、小室門院と行在。(青木文献)

藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』より

天授3年(1377年)、足利氏の崩壊作戦で畠山基国が叛き、吉野から楠正儀も天授三年と同四年再度来援したが、信州勢の援軍のため南軍は十重、二十重の状態となり多勢に無勢終いに天授五年三河吉野朝は崩壊した。
(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』2頁)

天授4年・永和4年(1378年)、落飾法衣を着し諸国行脚に出立。(後太平記)

「なお、天皇は譲位後に南朝勢の協力を求めて、各地を潜幸したという伝説があり、全国に御陵伝説地が点在する。南部煎餅の祖とする伝承もある。」(『ウィキペディア』長慶天皇

北山交書に尊熈王は文明十三年三月相馬満胤水木某等に奉ぜられて西南の山間相馬(中津軽郡の大字)に遷らせ給ふ。此地は長慶院法皇が天授の頃駐輦ましませし旧蹟なれば主従共に往時を偲びて涙に袖を沾ふしけるとぞ。
「長慶天皇御陵及び南朝皇孫御墳墓」(1頁、北山清江/昭和10年)

【参照】三浦芳聖伝 57、長慶院法皇と御鏡(№180)

三河吉野朝崩壊。長慶院法皇、小室門院と富士谷に移る。(藤原石山)(長慶天皇紀略)

天授5年(1379年)8月15日、摂津國浪花港より、海路伊勢に渡幸。9月5日、前帝長慶院、皇太后と陰に富士谷に潜行。(長慶天皇紀略)

天授五己未年九月五日、前帝長慶院、皇太后と陰に富士谷に潜行なる。是より先、八月十五日の夜、院は密に、楠木左馬頭正儀・和田和泉守正武等と議り、正儀の嫡男太郎正興、正武の三男三郎正久等に、衛護せられ、楠木二郎正光を嚮導として摂津國浪花港より、海路伊勢に渡幸なる。北畠伊勢守顕能の舘に入らせ給ふ。数日の後、又航して、駿河國吉原濱の、浮島沼に着御あらせられ、先づ、大宮驛に一宿し給ひ、旦日富士谷小室城宮下の舘に入御あらせらる。(『長慶天皇紀略』55頁)

天授5年(1379年)9月10日、「国賊退治」の院宣下る!

長慶院法皇の御遺詔(原文は全部漢字) 『長慶天皇紀略』56頁
ああ、朕惟(おもいみ)るに、楠藤富の三将は、天下四州無双の忠臣なり、朕国大日本国は、天照太御神の御国なり、朕祖々代々、三品の大御宝を添え、守護司どる処明らかなり、北朝は、国賊なり、足利は賊臣なり、四海皆兄弟なり、四州の忠臣の子孫は、皆三将の子孫と、供に国賊を亡ぼし、退治し、天照大御神を安堵に鎮座させ、良民を助け、衰民を哀愍し、安穏致す事、伸べ望み畢んぬ  穴賢穴賢  天授五己未年九月十日

天授5年(1379年)9月20日、後醍醐天皇皇女・宣政門院懽子内親王が玉川宮で長慶天皇の身代わりとして自刃され長慶門院と尊称した。

(和歌山県九度山町明野宮の伝説・藤原石山)。
懽子(かんし・よしこ)内親王。

これは、小室門院元子内親王が三河の佐脇の御所(宝飯郡御津町)に行在せられ、北朝方の攻むるところとなり、豊川市国府町小田淵付近の王田殿に於いて懽子内親王が身代わりとなり薨くなられたことを伝えるものである。小室門院には天授五年九月三河で崩御した如く世間に見せひそかに富士谷の隠れ城に移ったのである。(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』11頁)

天授5年(1379年)9月、

天授2年(1376年)7月、興良親王が京都で薨くなられたので、寛成親王が正統の皇女小室門院の皇夫の宮となられたが、この年三河吉野朝の朝廷を守護する南軍は、足利方の信州勢の猛攻に遇って吉野から楠正儀も再度来援したが、終いに天授5年9月三河の吉野朝は崩壊した。
(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』53頁)

愛知県豊川市八幡町の「西明寺」に伝えられた寛成親王(長慶院法皇)の位牌が「金剛心院皇夫大士」となっていることから、実質的には小室門院元子内親王が三種の神器を継承した日嗣の御子(天皇)だったようだ。

天授6年(1380年)1月6日、青木和田尉盛勝戦死。和田城(三河国)落城。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』)

天授6年(1380年)5月9日、楠正儀三河赤坂落合城の合戦で戦死、法名「明徳院光全大士」51才。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』)

弘和元年/永徳元年(1381年)10月に宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集とした(『新葉和歌集』)。また同年、『源氏物語』の注釈書である『仙源抄』を著している。(『ウィキペディア』長慶天皇

弘和3年(1383年)10月27日付の綸旨が在位を確認できる最後の史料と目され、この後程なく弟の東宮(後亀山天皇)に譲位したと考えられている。(『ウィキペディア』長慶天皇

元中2年(1385年)9月10日宸筆御願文あり。紀伊の天野行宮に於て丹生明神に戦勝を祈願。「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めた。

譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めたが[注釈 7]、翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。(『ウィキペディア』長慶天皇

(前略)元中二年八月賊将細川氏春吉野を犯したので長慶天皇難を玉川に避けられ、供奉の人々は皇后、皇子尊聖親王を初め日野侍従、北畠前関白、四条内大臣、洞院中将、楠正勝、正秀、通政、通高の人々で何れも僧衣をまとうていた。此の時に当り、陸奥の国司北畠守親使を遣はして御潜行を要請した。天皇には守親の要請を容れ皇弟熈成親王へ位を譲り高野へ入りて髪を剃られ覚理僧正と変名され、守親の使臣を随え密かに泉州より船を召され、海路陸奥の外が浜に下られた。長慶天皇玉川宮を去るに先立ち足利滅亡の発願文を高野山に送った。時に元中二年九月十日であった。天皇当地に崩御になられ、有末光塚がこれである。
 (尾上金城『長慶天皇御陵考』歴史公論第三巻三号)藤原石山

元中8(1391年)年頃には後征西将軍宮・良成親王でさえ、上皇の所在がわからなかったという。(五条家文書)

応永16年(1409年)年秋、崩御(67歳)、河野左衛門尉こうのさえもんのじょう法皇を兵庫県播州西山(兵庫県加西市青野町)に葬る。

西山聖地
兵庫県播州西山(兵庫県加西市青野町)にて三浦芳聖

松良天皇三州五井一本木納遺品為陵。(三浦家系譜)

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船山古墳(愛知県豊川市八幡町上宿)

御陵は、御尊体三州五井一本木万福寺跡(愛知県豊川市八幡町上宿の船山古墳)。(青木文献)

船山菩提陵(ふなやま ぼだいりょう)は、応永18年(1411年)小松天皇37回忌・長慶院法皇3回忌に松良天皇が制定した菩提陵で、松良天皇の隠棲地「萬松山大通寺の薬師堂」から見渡せる位置にあります。俗称「天皇山」「船山」。

この菩提陵は、船山古墳という古代古墳跡を利用して建立されたものであり、この船山古墳の後円の部分が上宿(うえじゅく)神社=天皇神社で、小松天皇と長慶院法皇の二基の墓石が残っています。

地元では春秋二季「天皇神社」の幟旗を掲げて祭礼を行う慣例になっていましたが現在はしていないようだ。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』143頁)。

天皇山(船山御陵)を囲繞して修験宗十三ヶ寺ありしを証する古帳簿を保有す。(山口保吉『三河吉野朝の研究』34頁/山口究宗堂/1940年)

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愛知県豊川市八幡町 上宿神社

【参照】船山古墳(愛知県豊川市八幡町上宿33)

上宿(うえじゅく)は、神宿(かみじゅく)の諺文。地元では、この古墳(丘陵)は平安朝時代に三河守であった大江氏が姫の遊場に築造したものと伝説しています。(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』143頁)。

船山は佛説より起因し神代の天の浮橋の義なり。世界を済ふの道は彼岸に達せざるべからず、船なくして聖徳を普く弘通する能わず。依て天皇の御功徳は佛徳と同ふし釈尊に喩へしを以て。鎮寿し奉り御山を船山と尊称し奉る。
(山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』86頁)

大正15年(1926年)10月21日に皇統に加列される。

朕󠄂惟フニ、長慶天皇在位ノ事蹟ハ史乘ノ記述󠄁審ナラサルモノアリ、今ヤ在廷ノ臣僚ニ命シ、深究精󠄀覈セシメ、其ノ事蹟明󠄁瞭ナルニ至レリ、乃チ大統中同天皇ヲ後村上天皇ノ次󠄁ニ列ス、茲ニ之ヲ宣示ス、
  御名 御璽
    攝政名
      大正十五年十月󠄁二十一日                   

(『ウィキペディア』長慶天皇)

宮内庁の制定した御陵は、京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町の嵯峨東陵(慶寿院跡)。

 長慶天皇(ちょうけいてんのう、1343年〈興国4年/康永2年〉- 1394年8月27日〈応永元年8月1日〉)は、日本の第98代天皇および南朝第3代天皇(在位:1368年〈正平23年/応安元年)〉3月- 1383年〈弘和3年/永徳3年)冬〉)。諱は寛成(ゆたなり)。
 南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、1911年(明治44年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、大正時代に入って、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。これを受けて宮内省の調査が行われ、1926年(大正15年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。

(『ウィキペディア』長慶天皇)

2、系譜

神皇正統の皇統略系図『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版

三浦皇統家 系図
後醍醐天皇
-尊良天皇-興国天皇-小室門院¬
-宗良親王――――――小松天皇-松良天皇-大宝天皇-----三浦芳聖
-義良親王――――――寛成親王-綾子皇后-大宝天皇

富士古文(『長慶天皇紀略』など)
長慶院法皇(寛成親王)
-勝良親王  早世 母小室門院藤原玉乃江、藤原前関白経家之三女也
-尊良親王  上野宮 母玉子局藤原前関白師基之五女也
-梅子内親王 梅宮、後亀山天皇皇太子小倉宮廣成親王室
       母皇后小室門院
-正良親王  立後亀山天皇之皇太子、南北両朝講和後落飾、
       号尊聖法親王、諡教尊大僧正 母同上
-元良親王  称川上大和守秀信
       母、桜姫、新田相模守義宗之女也
-松三親王  称宮下山城守正信 母、同上
-竹三親王  称宮下河内守良信、母、同上
-梅三親王  称小佐野和泉守景信、母、同上
-玉子内親王 落飾、号禅心尼、母、小室門院
-山口親王  早世、母、玉子局
-菊叟法親王 幼名菊王丸、母、若桜姫、
       和田太郎左衛門尉忠盛之女也

3、西山聖地について

三浦皇統系に伝承される、長慶院法皇の終焉の地とされる「播州西山」については、下記を参照ください。

4、長慶院法皇の神風串呂

長慶院法皇の神風串呂は、こちらをご覧下さい。

5、青木文献

(長慶天皇に関する部分のみ抜き書き)

青木文献(別名千種文献)とは、愛知県豊川市御油町欠間の中西家に伝わる、南朝忠臣千種忠顕の子孫「青木平馬」が、応永30年(1423年)と31年(1424年)に書き残した覚え書のことです。(三河吉野朝の研究書『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』中西久次郎、家田富貴男・1940年)

長慶天皇
 諱寛成後村上帝第一子也未詳出所正平二十三年三月後村上帝崩御天皇即位
 於行宮
 薙髪法名覚理号長慶院法皇崩王田殿天授五年九月二十日法名金剛心院皇夫
 大士

寛成親王妃
 檜御前 王田淵馬込川南ニ崩御
寛成親王ノ御馬 弓引之松ニ納ム
寛成親王金剛心院皇夫大士
 天授五年九月二十日崩御
 青木和田尉盛勝三河国王田淵王田天神御祀

赤松氏三女玉己寛成王子母五井美吉原隠沢城口全柵天皇山明燈院明頓院二寺有明燈院於玉己女寛成王子生給康永壬午元年八月十三日隠沢於御年六歳迄居城明燈院細川貞海和尚共吉野上太子位就給数年後吉野宮下三州御所宮在位覚理法皇成望理原於明燈院移錦門御堂住給東西四百五十間南北五百三十間王地南檜殿北長勝寺西高前寺東馬込殿成

長慶院法皇崩御 青木和田尉盛勝王田天神祀 御尊毛納王田天神
御尊体五井一本木納萬福寺

寛成親王妃檜御前檜殿崩御藤原氏四女檜姫
 馬込女竹本与四郎二女也寛成親王御子
義良国仁成良時仁
 義良国仁王北畠共落陸奥成良王細川共落四国時仁王新田共落加賀

寛成親王皇子松良親王三洲五井美吉原落給薬師寺建立開基成成龍号給成龍応永二十四年五月御坊崩

「寛成親王の皇子松良親王は三州五井美吉原に落ち給う。薬師寺建立の開基成り。成龍と号し給う。成龍は応永二十四年五月、御坊に崩ず」

寛成親王息女綾姫宮路左太夫遠洲光明寺村落給

寛成親王の息女綾姫は宮路佐太夫と遠州光明寺村に落ち給う

6、長慶院命名の由来

三河国の長慶院と長慶寺
卍山長慶院は宝飯郡国府町大字国府字印辺にありし御堂にして。後醍醐天皇を斎き祀れる豊川天王社と。後村上天皇を斎き祀る兎頭大明神並に香華院観心寺の貫線上に創建遊ばさる。文中二年五月八日御生母崩し給ひ御不例に依りて。御弟宮熈成親王に御譲位の上只管両天皇並に御母為菩提。宗風線呂の浄地を撰んで御供養寺を建立遊ばされ長慶院と号し給ふ。依て長慶院法皇と尊称し奉る。

(「芳花鶴水園の聖地」43頁~44頁/山口保吉/山口究宗堂/1943年)

御堂山観心寺(蒲郡市)ー⛩兎頭大明神(蒲郡市相良町)ー卍山長慶院(国府町印辺)ー⛩豊川天王社(豊川市千歳通り)

当国内に長慶寺五ヶ寺あり。杉山には布金山長慶寺あり。金沢には吉祥山長慶寺あり。当古には富当山長慶寺あり。岩倉には吉谷山長慶寺あり。六木には六木山長慶寺ありて。宗風線路を正しうして其の真相を物語るところなり。三河国に鎮座し給うが故に斯くも多くの長慶寺が存するのである。これ天地に連なる圣にして孚の義なり十分の考証を要するところなり。

(「芳花鶴水園の聖地」44頁/山口保吉/山口究宗堂/1943年)

布金山長慶寺(豊橋市杉山町字孝仁)
吉祥山長慶寺(豊川市金沢町藤弦)
富当山長慶寺(豊川市当古町東新井)
吉谷山長慶寺(豊田市岩倉町吉ヶ入)
六木山長慶寺(豊田市松平志賀町横)

吉谷山長慶寺(豊田市)-⛩兎頭大明神(蒲郡市)-布金山長慶寺(豊橋市)

布金山長慶寺🟡(豊橋市)-御津府御所-卍山長慶院🟡(国府町)-船山御陵-上賀茂神社(萩町)-萩原🔴(岐阜県瑞浪市稲津町)-萩原🔴町(岐阜県下呂市)-萩原🔴(富山市)-法羅陀山長慶寺🟡(富山市)-打呂(石川県珠洲市宝立町)-宝立山(石川県珠洲市)

(「芳花鶴水園の聖地」山口保吉/山口究宗堂/1943年)

7、古本本朝皇胤紹運録

古本本朝皇胤紹運録上
古本本朝皇胤紹運録下
南帝・本朝皇胤紹運録」より引用・転載

上記の「古本本朝皇胤紹運録」では、義良親王について「南方偽朝に於て君主と称し後村上天皇と号す」と、吉野朝は南朝の正統の朝廷ではなく、陽動作戦上の見せかけの偽朝(副統・前衛・代理)であると看破している。

寛成親王については「南方に於て自立、長慶院と号す」と皇位に付いていた事を認めているが、熈成王については、「熈成、吉野より降りて後、太上天皇の尊号を蒙(こう)むる」と、親王でもなく、皇位に付いていた事を認めていない。

以上のことから、元中9年/明徳3年(1392年)の「明徳の和約」に於て、武家方(足利義満)は、吉野朝(熈成王)が南朝正統の天皇でない事を承知の上で、世間を騙すための大芝居を演じた事が分かるのである。
(三浦芳聖、藤原石山)

吉野朝が偽朝で北朝が正統なら「講和する」必要はないのであり、偽朝であるの吉野朝を世間には正統の朝廷と見せかけて南北講和という大芝居を演じたのである。

元中9年(1392年)の明徳の和約が進められていた時期、南朝正統家の大黒柱であった「長慶院法皇」は、味方をしてくれる武士を募るため、御鏡を奉持して全国を遊説していた。

現在と違って連絡がうまく行かず、生死のほども不明であったため、その間隙をついて、後亀山院とその取巻きが講和を強行したと思われる。

 吉野の朝廷を南方の偽朝とする
  『本朝皇胤紹運録』の資料価値
 日本の皇系譜として最も信憑性のある『本朝皇胤紹運録』に長慶天皇の実父に当たる、義良親王を〝南方偽朝に於て君主と称し、後村上天皇と号す〟とある。従来この偽朝と云う意味を北朝系の人が書いたところから、京都の朝廷が正しい朝廷で、吉野の朝廷は偽朝であると解釈してきたが、この解釈は誤りであって南朝には、正副二統の皇統があって吉野の朝廷は南朝の偽朝即ち副統で義良親王は、後醍醐天皇の正統を継承した尊良親王の王子の俗に尹良王と伝える守永親王の身代わりの天皇であったと見るのが正しいものと考える。
 『本朝皇胤紹運録』『本朝皇系譜』『本朝皇胤紹運図』『日本紹運図』『帝王系図』『日本帝皇系図』等と題し、いずれも皇室の御系統を順次書き継がれて広く流布されている。
 この系図は、応永三十三年五月内大臣洞院満秀が、後小松天皇の仰せを奉じて作製したもので、この年は、後亀山天皇が崩御なさってニ年の後に当り、南朝の皇子や近臣も生存しており、これら皇子や近臣に聞き糺した上で書き上げ、後小松天皇も御承認になって題名を宸書なされたほどのもので、これが資料価値は論ずるまでもなく、おそらく南方の皇系譜として最も古い『古本大系図』の記事をそのまま引用したものであろう。
 従来は、義良親王を〝南方偽朝称君主〟又は〝熈成王自吉野降参〟と記せる意を誤解されていた。然し当時既に公に承認されていた最も有力な史料で、これが歴史の事実であることは一点の疑もないところである。(後略)

(藤原丸山著『続南朝正統皇位継承論 尹良親王の伝説』14~15頁/1971年/南朝史学会、誤字を訂正した=8行目義長→義良、9行目守良→守永)

【参照】『ウィキペディア』本朝皇胤紹運録

8、神の鏡はただここにます

長慶院法皇が、宝鏡を奉戴していた事を昭示する御製の詳しい解説付きのサイト「1分で読む日本の名歌(20) 長慶天皇 ~ 星うたふ聲にもしるし」が有りましたのでご紹介します。

関連個所のみ引用させて頂きました。

第九十八代・長慶天皇
星うたふ聲にもしるし千早ぶる神の鏡はただここにます

長慶天皇は後村上天皇の第一皇子、み位におつきになったときは、後醍醐天皇が吉野にお入りなってから、すでに三十年を超える月日がたち、南朝はいよいよ苦境に立っていたが、天皇としてのご自覚は微動だにすることなく帝位をお守りになった。この二首はともにその峻烈な思いをお詠みになったもの。

一首目、「星うたふ馨」とは、いま賀名生の皇居の庭で歌われている神楽歌(宮中で神をまつられるときに奏する歌)「明星」のこと。その「明星」の中に「『今夜の月』はただここにます」という歌詞があるが、

天皇はその「今夜の月」を「神の鏡」と入れ替え、「『神の鏡』はただここにます」として、三種の神器の「八咫鏡」はほかならぬこの賀名生の皇居にまつられている、ここにこそ日本における正統の天皇のみ位がある、ということをあきらかにされた御製である。

天皇は神楽歌の奏されているなか、東の空に輝きはじめた明星を仰ぎながら、このお歌をお詠みになったのであろう。

1分で読む日本の名歌(20) 長慶天皇 ~ 星うたふ聲にもしるし

9、三河吉野朝とは

インターネットで「三河吉野町」について検索していたら、下記の記事が出ていたので転載させて頂きました。

豊川市の「市勢要覧 昭和28年版」からの引用だそうで、よくまとまっています。

三河吉野朝について
 南朝三世四世代即ち第96代後醍醐天皇から後村上、長慶、後亀山天皇にいたる57年の都が大和吉野のみでなく、そのうちの12年が三河南朝であったことが明らかとなって三河吉野朝と名付けられたのである。
 大正15年10月21日第98代に登録せられた長慶天皇は興国3年後村上天皇の節一皇子として三州丹野で御出生になり、御油隠れ沢天台宗明燈院で御成人、正平23年3月11日御父後村上天皇の崩御によって三河御津の御所宮〔御駒〕に践詐、時に御齢27才であらせられた。御在位5年、文中2年8月異母皇太弟後亀山天皇に御譲位になって、御油隠れ沢の明燈院を望理原王田淵〔市内小田淵町〕に移築して遷御せられ、天授5年9月20日御齢38才で崩御にいたるまで7年間院政を御執りになった。
 此の御所宮在位5ヶ年と小田淵仙洞御所世に云う王田殿院政7ヶ年計12ヶ年が三河吉野朝の時代であり、三河は今から五百数拾年の昔南朝終焉の地であった。
 尚豊川市及び宝飯郡には「御」のつく字を始め、尊貴の地名が数多く残されており、皇居が此の地に在ったことを裏付けている。即ち御油、御所宮、御所川、仙路、都、つるぎ、玉袋、かがみ、院内、院之子、三尊子、天皇山などそれで、前に記した王田殿も小田淵の御殿の意で、小田淵もと王田淵でみかどが御住いになったので王田の名が生れ、市内森町に日落〔ひおち〕の地名があるが、天子の崩御即ち日落つの意味であろう。

 (「水石の美を求めて 東三河の秦氏  その64  持統上皇東三河行幸の謎」仮名遣いを現代仮名遣いに改め、数字をアラビヤ数字に変換しました。)

10、月と長慶院法皇

山口保吉著『 芳花鶴水園の聖地』71頁に、興国3(壬午)年11月15日の満月の日に降誕の故を以って長慶院法皇を「月」で表わす。また、同頁に午年生まれの守り本尊が月天子(勢至菩薩)であることから、長慶院法皇を「月」で表わす。と出ています。

青木文献(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』)では、興国3(壬午)年8月13日生まれと記録されていますが、長慶天皇の仙洞御所が「望王里原もおりはら」(望理原/現在の豊川市森町付近)にあったことから、15日が正しいのではないかと思います。

望=満月=15日
生まれた月は11月か8月か、どちらかは分かりません。

「月」は、全国で2ヶ所しかない地名で、神風串呂では、愛知県北設楽郡東栄町「月」は、南朝副統の天皇であった長慶院法皇を表わす地文です。

長慶天皇は、小室門院元子内親王(後醍醐天皇の曽孫で三種の神器を内伝に継承した実質的女性天皇・南朝正統99代小松天皇皇后)の後添え皇夫ですので、女性天皇=太陽、後添え皇夫=月という原理です。

🟢神風串呂では、下記の様に明瞭です。
西山聖地(長慶院法皇崩御埋葬地/兵庫県加西市青野町)-御在所山(三重県)-(東栄町)

青野町の青は「」です。
(西山のぬしは月であることを表わす地文)

【参照】大宝天皇の御製を昭示する神風串呂 2

神風串呂では、神皇正統の天皇は天津嗣ゆえ「大」「大山」「向」などで表わされ、皇子は「星」で表わされる。睦仁親王を表わす地名は、岡山県 井原市「美星町明治」です。

月という地名は、現在2ヶ所確認しています。
🟢静岡県浜松市天竜区「月」

山口保吉 著
『三河吉野朝の研究』 山口究宗堂 昭和15年
『芳花鶴水園の聖地』 山口究宗堂 昭和18年
中西久次郎・家田富貴男 共著
『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』


💟串呂クシロ(かんろ)とは

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。

串呂は、内伝極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


🎀元伊勢伝承とは

元伊勢伝承の皇祖神・天照大御神の各地巡行は、神風クシロ構築の旅であり、各地の産土神うぶすなしん地霊ちれい)に神風クシロ構築計画への協力を呼び掛ける遊説ゆうぜいでありました。元伊勢クシロは神風クシロです。天照大御神が、伊勢地方にお鎮まりになったのは、串呂の超重要起点(基点・根拠地)をここに置くためだったのです!


🟢串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。


💟皆様方の御支援に感謝しています!

読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。


🔴神風串呂を学びましょう!


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)


🟡バックナンバー(総合)

🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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