三浦芳聖伝 57、長慶院法皇と御鏡(串呂哲学研究ノート№180)
長慶院法皇と御鏡
1、戸田さんご夫妻のこと
秋田県横手市弥勒出身で、昭和33年に千葉県鎌ヶ谷町に住んでいた戸田宗弘氏(1890年生れ)・益江さん(1892年生れ、横手市鍛冶町の金家の子孫)というご夫妻がおられました。
大正時代の初め頃、横手市弥勒に住んでいた戸田さんご夫妻が、数百年来お祀りして来た宮塚を開いたところ「御鏡」が出て参りましたので、部屋に置いておいた所、ある夜、その御鏡がまるで生き物のように8畳の間を勢いよく回り出し、この御鏡の霊が戸田さんご夫妻に「この鏡を持って全国を行脚せよ!」と霊示があったと云うのです。
爾来30数年間、戸田さんご夫妻は、この御鏡を背負って全国を行脚して回り、昭和21年、青森県津軽半島の突端まで行脚した所、御鏡の霊は気が済んだのか、「行脚を終え千葉県鎌ヶ谷に住むよう」に霊示があったので、
戸田さんご夫妻は、同県鎌ヶ谷村愛国ヶ丘(現・鎌ケ谷市東中沢4丁目)に、バラック建ての小屋を建てて定住し、神祠を設けて御鏡を御祀りして来たと云うのです。
このような状況の中で、昭和33年(1958)8月21日、三浦芳聖の元に、千葉県松戸市の門人・成川氏の知人で、東京都杉並区天沼2丁目在住の長谷川清さんから
という内容の手紙が届いたので、芳聖は、同年10月28日、門人2名と共に、鎌ヶ谷町愛国ヶ丘(現・鎌ケ谷市東中沢4丁目)の戸田さんご夫妻を訪問し、ご夫妻の特別のお計らいで、神祠から御霊代(御鏡)を出して頂き、手に取って拝ませて頂いたところ、
三浦芳聖伝 25、西山聖地を発見(№140)でご紹介した、芳聖が昭和8年(1933)8月16日、播州西山で霊視した時と同様の、長慶院法皇が賊徒の為に傷つき給いて、正に崩御されんとする御悲惨なる竜顔を拝し奉るや、たちまち一陣の風が吹き来たり、にわかに気温が下がって、みぞれが降って来ました。
芳聖は、この御鏡が長慶院法皇の御霊代であることを霊感し、悲涙禁ずる能わず、感慨無量の心地がして拝し終わり奉り、御鏡を神祠に納め奉って帰宅したのでありました。
芳聖は、帰宅するや、戸田さんご夫妻の長年の労苦に報いるため、先ず一番に戸田さんご夫妻に「戸田旨彦」「戸田晴子」と改名して差し上げ、
更に12月1日、門人3名を随行せしめて戸田さん宅を訪問し、一泊二日に渉り衣冠束帯を着して正式に慰霊祭を実施したところ、芳聖の遠祖を想う至誠が通神し、両日とも一点雲なき快晴裏に祭祀が厳修できました。
下記は、この時の串呂の実証(要点のみ)です。
長慶院法皇は神皇正統の天皇に味方する武士を募るため、全国を遊説していた応永16年(1409)秋、播州に駐留中、賊徒の為に傷付かれ、兵庫県加西市青野町西山で崩御されたので無念の思いが残り、およそ500年後に戸田さんご夫妻と共に全国を行脚し、その思いを果たしたという訳です。
これだけでも驚くべき事ですが、上記のような串呂まで用意されているとなると、何と表現していいのか分かりません。
戸田さんご夫妻は、長慶院法皇が御鏡を奉戴して全国を遊説しておられたご事績を生涯かけて証明されたのです。(尊い御使命を果たされました!)
(三浦芳聖著『学会未発表の長慶天皇の研究』33頁/1959年1月、『神風串呂』30頁/1963年6月発行、『神風串呂』第137号17頁/1967年2月発行)
2、青森・横手市調査旅行
昭和34年(1959)4月24日、三浦芳聖は、戸田さんご夫妻の要請に応えて青森・横手市に調査旅行に出かけました。
午前中に、戸田さん夫妻が昭和21年全国行脚を終えた、最後の地・津軽半島の北端を見届け、夕刻、横手市に到着、鍛冶町の金家館跡の戸田晴子さんの姉「栗谷千代」家に宿泊しました。
ここは、往昔、天皇が数年間駐留され、金家の姫を妃とし二人の皇女を儲けたと伝う金家館跡で、芳聖は栗谷家に宿泊中、霊夢を見、騎馬武者に追いかけられて高い建物の床下に隠れ、出てきて着物を着換える処で目が覚めました。午前4時30分頃でした。
芳聖が午前七時起床洗面して、金家の泉水池のあった所と伝う栗谷家の裏の広場に出ると、往昔天皇を祀ったと伝えられる小社あり、強き霊感があって50才位の興国上皇が霊視されたので、神勅を唱えた後、写真を撮ると「神霊写真」が撮影出来ました。
(三浦芳聖著『学会未発表の長慶天皇の研究』33頁/1959年1月、『神風串呂』30頁/1963年6月、『神風串呂』17頁/1967年2月)
【参照】下記「興国天皇」の記事を参照ください。
3、長慶院法皇と御鏡
三浦芳聖に依りますと、長慶院法皇は、文中4年(1375年)5月、皇大神宮内宮に参篭され、「今日のように南北朝の争いがおこるような事態になったのは、宝鏡を同床同殿にお祀りしないからだ!」とお考えになり、
宝鏡を拝受して常に奉戴されるようになったので、文中から天授(天から宝鏡を授けられたを表わす)に改元されたと云うのです。
下記は、長慶院法皇がその間の事情をお詠みになった御製です。
星うたふ聲にもしるし千早ぶる神の鏡はただここにます
三浦芳聖に依りますと、長慶院法皇は、応永16年(1409年)秋、播州に駐留中に賊徒の為に傷付かれ、兵庫県加西市青野町西山で崩御されたので、奉戴しておられた「宝鏡」が、この西山に存在していたというのです。
三浦芳聖が、長慶院法皇終焉の地「西山」を「西山聖地」と称した理由は、この地に「天照大御神」が御降臨になられるなど、奇跡的な超常現象が起きた霊地であったからです。
このことを記録した貴重な文献として、瀧川宗勝著『勅語信仰の体験』(昭和10年/1935年、廣文堂書店)があります。
この本は、御鏡を拝んだ体験談が書かれている希書で、京都府立図書館で読むことが出来ます。御鏡の御稜威によって、御鏡を拝むだけで、霊能が開けるようです。
4、神の鏡はただここにます
長慶院法皇が、宝鏡を奉戴していた事を昭示する御製の詳しい解説付きのサイトが有りましたのでご紹介します。関連個所のみ引用させて頂きました。
第九十八代・長慶天皇
星うたふ聲にもしるし千早ぶる神の鏡はただここにます
長慶天皇は後村上天皇の第一皇子、み位におつきになったときは、後醍醐天皇が吉野にお入りなってから、すでに三十年を超える月日がたち、南朝はいよいよ苦境に立っていたが、天皇としてのご自覚は微動だにすることなく帝位をお守りになった。この二首はともにその峻烈な思いをお詠みになったもの。
一首目、「星うたふ馨」とは、いま賀名生の皇居の庭で歌われている神楽歌(宮中で神をまつられるときに奏する歌)「明星」のこと。その「明星」の中に「『今夜の月』はただここにます」という歌詞があるが、
天皇はその「今夜の月」を「神の鏡」と入れ替え、「『神の鏡』はただここにます」として、三種の神器の「八咫鏡」はほかならぬこの賀名生の皇居にまつられている、ここにこそ日本における正統の天皇のみ位がある、ということをあきらかにされた御製である。
天皇は神楽歌の奏されているなか、東の空に輝きはじめた明星を仰ぎながら、このお歌をお詠みになったのであろう。
【参照】1分で読む日本の名歌(20) 長慶天皇 ~ 星うたふ聲にもしるし
串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)
情報拡散のお願い
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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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