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三浦芳聖伝 25、西山聖地を発見(№140)

西山聖地を発見

1、天照大御神は酒は用いない!

昭和8年春のある朝のことです。東海郷軍同志会の結成の為に第三師管内(愛知・岐阜・静岡)を東奔西走する傍ら、自宅での神道祭祀に打込んでいた芳聖に、天津神(あまつかみ)を祭るお社(やしろ)から「天照大御神は酒は用いない!」という霊示がありました。

その霊示の内容が意外であったため、三浦芳聖は、三回聞き直したが、三回とも同じ霊示であったため、それまで神棚にお神酒(みき)を供えて晩酌をしていたが、この時の霊示を境に「以後、禁酒いたします!」と神様に禁酒を誓約し、以後、一切飲酒しませんでした。その徹底ぶりは軍隊の恩賜の酒でも飲みませんでした。

2、日月の滝での参篭禊祓い

遠祖、長慶院法皇の終焉の地「播州西山」を探索する為に、陸地測量部発行の五万分の一の地図を頼りに、西山と名の付く場所へは全て足を運んだが、手掛かりすら掴めなかった芳聖は、通常の方法では探すことは不可能だと観念しました。

そこで、三浦芳聖は、昭和5年(1930年)4月~10月、土佐の仏岳山にて神仙道の修行を敢行して初歩の霊感・霊通を得、続いて昭和6年(1931年)2月、加古川の上流千ヶ峯の中腹に日月の滝を発見しました。

日月の滝

昭和6年(1931年)から毎夏一ヶ月ほど参篭して滝行を実施し、長慶院法皇崩御埋葬の地「西山」へお導き下さいと一心に祈念した処、3年目の夏の参篭中に神霊のお導きがあり、昭和8年(1933年)8月16日、兵庫県加西市青野町に「長慶院法皇崩御埋葬の地西山」を発見するに到りました。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』279頁)

3、明治天王(睦仁)の神霊に導かれる

昭和8年(1933年)8月15日、午後4時頃、芳聖が、日月の滝での参篭禊祓いの水行を終了して帰途につこうとしていると、白馬に乗った明治天王(睦仁)の神霊が、日清戦争頃の肋骨型の軍服に大勲位の略綬を掲げた姿で現れました。(【参照】明治時代の陸軍将校服

芳聖は、はじめ狐狸霊のいたずらかと疑いましたが、「只今から皇祖大神の御神命に依りまして長慶院法皇の崩御埋葬の地へ御案内を申上げますから、私について来て頂きたい」と実に丁寧に言われたので、

奇異の感に打たれながら、明治天王の神霊と会話しながら、ついて行くと、夜通し歩いて少しも疲れを感ぜず、翌16日午前8時、兵庫県河西郡多加野村大字青野(現、加西市青野町)の西山へ到着しました。

【参照】参考の為に申し上げますと、約60キロの距離を16時間で歩いたことになります。平均時速3.75キロです。日月の滝からは山道を下るわけですから、こんなものでしょう。

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下記は三浦芳聖の著書からの引用です。資料として記載しておきます。

 昭和六、七、八年と三ヶ年、毎年夏期に播州の深山の瀧(此処を日月の瀧と命名)へ一ヶ月程参篭して修行し、傍ら「長慶院法皇(吾が三浦皇統家第五代大宝天皇の外祖父)崩御埋葬の地へ御導き下され」と祈念致しました。至誠通神、昭和八年八月十五日午后四時、「日月の瀧」へ「明治天皇」の御神霊(霊眼では日清戦争頃の肋骨型の軍服に大勲位の略綬を掲げられたお姿、最初は狐狸の類の仕業かと疑う)が来られて、「只今から皇祖大神の御神命に依りまして長慶院法皇の崩御埋葬の地へ御案内を申上げますから私について来て頂きたい」いとも御丁寧に仰せになるので、奇異の感に打たれ乍らお供した処、夜通し歩いて少しも疲れを感ぜずに、翌十六日午前八時、兵庫県河西郡多加野村(現在は青野町)大字青野の山へ到着致しました。
(三浦芳聖著『日本歴史の誤謬を正す』第八章11頁、編集者が、旧漢字・旧仮名遣いを改めたり、改行、句読点を補うなど編集しましたことをお断りいたします。)

4、天照大御神の御神霊と対面

芳聖が、西山の聖域内に入ると、霊眼に見えたのは、周りには、菊のご紋章の付いた紫色の幕が張り巡らされ、中央に、天照大御神が、その両脇に歴代皇霊が居並ぶ神々しい光景でした。

この時、芳聖は、初めて天照大御神をはじめとする歴代皇霊と対面することが出来ました。仙人の行、日月の滝での禊祓い、禁酒などの精進の賜物でした。

なぜ、この地に於て、このような神秘的な霊的現象が起きたかと言いますと、南北朝時代(天授元年/1375年)に伊勢神宮に御幸された「長慶院法皇」が、神宮に参篭されて、御鏡と対面された後、密かに御鏡を頂戴し、その御鏡を奉戴して全国を遊説しておられ、応永16年(1409年)秋、この地で崩御されたからであります(天授とは天から授かったという意味です)。

長慶院法皇が、御鏡を頂戴し、御鏡を奉戴して全国を遊説しておられたことは、次の御製を読めばご理解いただけるのではないでしょうか。

星うたふ  声にもしるし ちはやぶる 神の鏡は ただここにます      

「南朝五百番歌合・天授三年」

三浦芳聖が、長慶院法皇終焉の地「西山」を「西山聖地」と称していた理由は、以上の経緯からご理解いただけるかと思います。

この西山についての唯一の文献である、瀧川宗勝著『勅語信仰の体験』(昭和10年/1935年、廣文堂書店)には、

「誠に畏(おそれおお)い事でございますが、この松の木の下に、勿体なくて人に語ることの出来ない宝物が埋まって居りますか。(31頁~32頁)」とか、「私は礼拝場で松の木の根本を見当に拝んで居ると、其処から出ている直径八寸位の紫光色の玉に、人の座像が映じて居ります。(40頁)」など、ここに御鏡があることを仄めかす記事が数ヶ所出ています。

5、長慶院法皇最期の映像を拝す

天照大御神の御神霊と対面した後、芳聖の霊眼には、次のような光景が見えました。それを一言で申し上げるなら「長慶院法皇最期のご様子」です。

下記は、芳聖の著書からの引用です。

あたかも今日の映画かテレビを見る如くに、快晴旭日輝く中で、長慶院法皇の御一行が、足利方の差遣した覆面の武士多数に襲撃されて、皆僧衣の姿をした、四條前内大臣・二條前関白・洞院実世・中院中将・門脇中納言等皆戦死し、

強力に姿を窶(やつ)したる河野左衛門尉は、傷つき給いてグッタとならせられたる法皇を背負い奉って、敵の眼を逃れてこの山に隠れ、御介抱申上げたが御創傷は殊の外に深く、

法皇には『此の様を「松良天皇」に告げ奉りて、たとえ百代の末までかかるとも後醍醐天皇の聖旨を奉戴して、まつろわざる弓削の者共をば打平らげて、四海の波を静めて萬民を安堵せしめ給わん事を・・・』と河野左衛門尉に御遺言を託し給い崩御在らせ給う。

 河野左衛門尉は、賊に法皇の玉骸(ぎょくがい)を恥かしめらるるを恐れて、民家の在る処に至って鍬を持ち来たり、至極雑木の密集林立する中へ玉骸を埋蔵し奉り、此の事の由を「松良天皇」に告げ奉るべく此の山を去る。

代って覆面の武士多勢此の山に入り来って、土の香新しき法皇の埋まりませる所を掘返し、み骸(むくろ)を確かめて何やらを持出し、再び穴を掘って玉骸を埋む。 

之にて霊眼消え我にかえって、無念の悲涙禁ずる能わず、一夜此の山に籠って只管に大祓詞を宣る。

(三浦芳聖著『日本歴史の誤謬を正す』第八章11頁、旧漢字・旧仮名遣いを改めたり、改行、ルビ、句読点を補うなど編集した事をお断り致します。)

【参照】芳聖は、この日、この西山で一夜を過ごし、大祓詞(おおはらえのことば)を唱えたと述べています。この時、超常現象が起きまして、茣蓙の上に正座していた芳聖の体が、そのまま空中高く上がって行きました。

こうした超常現象については、この西山についての唯一の文献である、瀧川宗勝著『勅語信仰の体験』(昭和10年/1935年、廣文堂書店)にも同様の超常現象が起きたことが記載されています。

瀧川宗勝氏の場合は、正座したまま、体が2尺(約60センチ)ほど宙に浮いたと書かれています。(32頁8~9行)

勅語信仰32頁

6、松良天皇、西山に長慶院法皇を弔問

長慶院法皇から、松良天皇に、西山での最後の様子をご注進することを託された河野左衛門尉(四国・河野氏の子息、通政、通定兄弟のいずれか)が、「富士の皇居」へ行った所、富士の皇居は、既に賊軍により焼き払われていて、松良天皇に会うことが出来ないばかりか、何処へ落ちていかれたか皆目分かりませんでした。

河野左衛門尉は、非人・乞食に身をやつして、あちらこちらを捜し歩き、翌、応永17年(1410年)、三州萩(愛知県豊川市萩町)に隠棲中の松良天皇に邂逅する事が出来ました。

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もうこれは奇跡としか言いようが有りません。何としても松良天皇にお会いしてご報告申し上げたいという、河野左衛門尉の忠烈無比の一念により、天佑神助があったのです。

松良天皇は、河野左衛門尉から長慶院法皇の最期のご様子をお聞きになって「最早、朝廷の回復覚束なし!」と第一皇子の美良親王(大宝天皇)に譲位され、河野左衛門尉に案内されて、西山に向かわれました。

芳聖の霊眼には、落飾剃髪して墨染めの衣に身を包んだ乞食坊主の姿をした松良天皇と、非人・乞食に身をやつした河野左衛門尉とが、後になり、先になって街道を歩く姿が霊視されました。

松良天皇が西山に到着された時の状況を芳聖の著書から引用します。

又霊眼あり、さきの河野左衛門尉非人乞食の姿にて、「松良天皇」は「大宝天皇」に御譲位の後、落飾された「聖龍法皇」(乞食坊主の御姿)を御案内して此の山に入り来り、当時の有様を詳に告げ奉れば、「聖龍法皇」号泣悲涙嗚咽し給い、その時「長慶院法皇」山伏姿の御神霊スゥーと顕れ給い「聖龍法皇」に御対面在らせ給う。
(三浦芳聖著『日本歴史の誤謬を正す』第八章11頁、旧漢字・旧仮名遣いを改めたり、改行、ルビ、句読点を補うなど編集した事をお断り致します。)

戦後になって、この時の「長慶院法皇が傷ついて河野左衛門尉に背負われて入山し給いし時の御姿と山伏姿にてスゥーと顕れ給いし時のお姿」が、神霊写真として撮影されています。

西山聖地についての詳細は、下記を参照ください。

7、西山聖地の神風串呂

大宝天皇の御製を昭示する神風串呂 2(№10)
西山聖地」-「歌垣山」-「西明寺」-「御在所山」-「福江町」-「栄」-「月」-「日向」-「松長」-「岩戸山」

小松天皇御陵と播州西山との神風串呂(№66)
西山聖地」-「広野」-「青野川」-「青野ダム」-「小松」-「神戸」-「船山御陵」-「小松天皇御陵」

西山聖地と光明寺と三浦芳聖降誕地を結ぶ神風串呂
西山聖地」(兵庫県加西市青野町)-「西山浄土宗総本山光明寺」(京都府長岡京市粟生)-「三浦芳聖降誕地」(愛知県岡崎市牧平町大門)

西山聖地と八尺鏡野を結ぶ神風串呂
西山聖地」(兵庫県加西市青野町)-「神通」(和歌山県紀の川市)-「八尺鏡野」(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)


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🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

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出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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串呂哲学研究会 鈴木超世志
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