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播州西山聖地(兵庫県加西市青野町)


💟ご挨拶

串呂哲学研究会 鈴木超世志

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。

串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。 地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

ここでは、長慶院法皇の最期の地「播州西山聖地」(兵庫県加西市青野町)をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


1、播州西山聖地とは

播州西山聖地(ばんしゅう にしやま せいち、兵庫県加西市青野町)

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兵庫県加西市青野町(地図マピオン)

兵庫県加西市青野町にある古代古墳跡地で、この山を信仰する人達の間で「西山」と呼ばれていた小さな山ですが、実は、長慶院法皇(寛成親王)の崩御埋葬の地です。

長慶院法皇の最期の様子は、三浦家の系図(古記録)には次の様に記されてあったと云います。
「長慶院法皇、応永十六己丑年秋、播州に崩御、寿六十七歳、河野左衛門尉播州西山に葬る。後、松良天皇、御父小松天皇と長慶院法皇共に、三州五井一本木に遺品を納めて陵となす」
(三浦芳聖著『日本歴史の誤謬を正す』第8章10頁、1968年)

三浦芳聖は、1924年(大正13年)に三浦家の系図・古記録を見た後、月の内10日間を御陵探しにあて、地図を頼りに調査したが、「播州西山」と書かれてあっただけの「長慶院法皇崩御埋葬の地」を探すのは困難を極めたと述べています。

通常の方法では、「播州西山」を探すことは不可能だと観念した三浦芳聖は、昭和5年(1930年)4月、土佐の仏岳山(ぶつがくさん)にて神仙道の修行を敢行して初歩の霊感を得、続いて昭和6年(1931年)2月、加古川の上流千ヶ峯の中腹に地元では「禊の滝」と呼んでいる「日月にちげつの滝」を発見し、毎夏一ヶ月ほど参篭して滝行を実施し、長慶院法皇崩御埋葬の地「西山」へお導き下さいと一心に祈念した処、3年目の夏の参篭中に神霊のお導きがあり、昭和8年(1933年)8月16日、兵庫県加西市青野町の「西山」を発見するに到ったという。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』279頁)

南北朝時代の動乱期に吉野朝の皇位を継承した長慶院法皇(寛成親王)は、史料の少なさから「近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり」「大正時代に入って、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価され」「大正15(1926)10月21日に皇統に加列された」と『ウィキペディア』長慶天皇に出ていますが、終焉の地についての確定的な史料が無く、全国に「長慶天皇御陵墓参考地」がたくさん有るようです。

三浦芳聖が、長慶院法皇終焉の地「西山」を「西山聖地」と称した理由は、この地に「天照大御神」が御降臨になられるなど、奇跡的な超常現象が起きた霊地であったからです。

このことを記録した貴重な文献として、瀧川宗勝著『勅語信仰の体験』(昭和10年/1935年、廣文堂書店)があります。

この山は、同上著(143頁)には「西山」と出ていますので、昭和10年(1935)頃には、この山を信仰する人達の間では既に西山と呼ばれていたようです。ただしこの小山が「西山」という名称であることは、一部の関係者以外、地元民は知らないと思われます。

三浦芳聖がこの小山を「西山聖地」と呼んでいたのは、ここに長慶院法皇が奉持していた御鏡がここに存在したからです。

これについては、瀧川宗勝著『勅語信仰の体験』を読めば理解できます。

著者の瀧川宗勝氏は、「第四 お山における靈感/16」で「西山」にお参りしたその日から、霊能力が開けた体験を詳細に記述しています。

2、長慶院法皇の最期

長慶院法皇最期のご様子については、三浦芳聖が霊視した状況が下記のように述べられていますのでご紹介します。
(三浦芳聖著『日本歴史の誤謬を正す』第八章11頁)

 昭和六、七、八年と三ヶ年、毎年夏期に播州の深山の瀧(此処を日月の瀧と命名)へ一ヶ月程参篭して修行し、傍ら「長慶院法皇(吾が三浦皇統家第五代大宝天皇の外祖父)崩御埋蔵の地へ御導き下され」と祈念致しました。至誠通神、昭和八年八月十五日午后四時、「日月の瀧」へ「明治天皇」の御神霊(霊眼では日清戦争頃の肋骨型の軍服に大勲位の略綬を掲げられたお姿、最初は狐狸の類の仕業かと疑う)が来られて、「只今から皇祖大神の御神命に依りまして長慶院法皇の崩御埋蔵の地へ御案内を申上げますから私について来て頂きたい」いとも御丁寧に仰せになるので、奇異の感に打たれ乍らお供した処、夜通し歩いて少しも疲れを感ぜずに、翌十六日午前八時、兵庫県河西郡多加野村(現在は青野町)大字青野の山へ到着致しました。
 と同時に、あたかも今日の映画かテレビを見る如くに、快晴旭日輝く中で、長慶院法皇の御一行が、足利方の差遣した覆面の武士多数に襲撃されて、皆僧衣の姿をした、四條前内大臣・二條前関白・洞院実世・中院中将・門脇中納言等皆戦死し、強力に姿を窶したる河野左衛門尉は、傷つき給いてグッタとならせられたる法皇を背負い奉って、敵の眼を逃れてこの山に隠れ、御介抱申上げたが御創傷は殊の外に深く、法皇には『此の様を「松良天皇」に告げ奉りて、たとえ百代の末までかかるとも後醍醐天皇の聖旨を奉戴して、まつろわざる弓削の者共をば打平らげて、四海の波を静めて萬民を安堵せしめ給わん事を・・・』と河野左衛門尉に御遺言を託し給い崩御在らせ給う。
 河野左衛門尉は、賊に法皇の玉骸を恥かしめらるるを恐れて、民家の在る処に至って鍬を持ち来たり、至極雑木の密集林立する中へ玉骸を埋蔵し奉り、此の事の由を「松良天皇」に告げ奉るべく此の山を去る。代って覆面の武士多勢此の山に入り来って、土の香新しき法皇の埋まりませる所を掘返し、み骸を確かめて何やらを持出し、再び穴を掘って玉骸を埋む。 之にて霊眼消え我にかえって、無念の悲涙禁ずる能わず、一夜此の山に籠って只管に大祓詞を宣る。
 又霊眼あり、さきの河野左衛門尉非人乞食の姿にて、「松良天皇」は「大宝天皇」に御譲位の後、落飾された「聖龍法皇」(乞食坊主の御姿)を御案内して此の山に入り来り、当時の有様を詳さに告げ奉れば、「聖龍法皇」号泣悲涙嗚咽し給い、その時「長慶院法皇」山伏姿の御神霊スゥーと顕れ給い「聖龍法皇」に御対面在らせ給う。
 大変な霊界物語になりましたが、終戦後、無ニ心忠誠の門人を連れて此山へ参拝し、「長慶院法皇」が傷ついて河野左衛門尉に背負われて入山し給いし時の御姿も、山伏姿にてスゥーと顕れ給いし時のお姿も、特にお願いして神霊写真に写さして頂いて居ります。此の神霊写真が門人に撮影して貰って明瞭に何人にも確認出来る様に写っているのですから断じて妄像ではありません。然かも真昼中太陽の赫々と輝いている所で撮影しているのですから正しく正真正銘の神通霊感神力であります。
(旧漢字・旧仮名遣いを改めたり改行、句読点を補うなど編集しましたことをお断りいたします。)

長慶院法皇は、応永16年(1409年)秋、駐留していた播磨国の城山で地元の武士団の襲撃を受けて殺害され、この地に埋葬されました。

昭和23年(1948年)11月16日、三浦芳聖がこの「西山」に於て長慶院法皇の540年祭を厳修した際、河野左衛門尉に負われて「西山」に入る長慶院法皇の神霊写真が撮影されています。

西山聖地白黒小
三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』280頁-3、クリックで拡大します。

その終わる所を知らぬ謎の天皇と云われた「長慶院法皇(寛成親王)」が、皇統譜に登載されたのは、大正15年(1926)10月21日の事であります。

南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、1911年(明治44年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、大正時代に入って、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。これを受けて宮内省の調査が行われ、1926年(大正15年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。(『ウィキペディア』長慶天皇

3、播州西山聖地の神風串呂

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兵庫県加西市青野町(地図マピオン)

(1)大宝天皇の御製を昭示する神風串呂 2(№10)
西山聖地」-「歌垣山」-「西明寺」-「御在所山」-「福江町」-「栄」-「月」-「日向」-「松長」-「岩戸山」

大宝天皇の御製との関係はと言いますと、長慶院法皇は和歌を作る天才で『ウィキペディア』長慶天皇に〔若年から和歌に優れ、天授元年(1375年)の『五百番歌合』、同2年(1376年)の『千首和歌』(322首が現存)がある他、『新葉和歌集』に「御製」として53首が入集している。と出ています。

上記「西山聖地」-「歌垣山」-「御在所山」の串呂は、長慶院法皇が和歌の天才であったことと関連しているように思います。

(2)小松天皇御陵と播州西山との神風串呂(№66)
西山聖地」-「広野」-「青野川」-「青野ダム」-「小松」-「神戸」-「船山御陵」-「小松天皇御陵」

小松天皇御陵(磐田市神増)、小松天皇と長慶院法皇の「船山御陵」(豊川市八幡町)、長慶院法皇崩御埋葬の地「西山」(加西市青野町)が一直方向線上に串呂する「青野三串」の実に神秘的な神風串呂です。

(3)西山聖地と八尺鏡野を結ぶ神風串呂(『神風串呂解明』第127号)
西山聖地」(兵庫県加西市青野町)-「神通」(和歌山県紀の川市)-「八尺鏡野」(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)

西山聖地に御鏡が存在していた時期に超常現象が起きたことを昭示する神風串呂です。この件は、西山聖地に関する唯一の文献、滝川宗勝著「勅語信仰の体験」に詳しく出ています。

西山聖地と光明寺と三浦芳聖降誕地を結ぶ神風串呂
西山聖地」(兵庫県加西市青野町)-「西山浄土宗総本山光明寺」(京都府長岡京市粟生)-「三浦芳聖降誕地」(愛知県岡崎市牧平町大門)

長慶院法皇崩御埋葬の地「西山聖地」と「西山浄土宗総本山光明寺」の住所が共に、青野(あおの)、粟生野(あおの)であることを昭示しています。青=主+月です。月と長慶院法皇については下記を参照ください。

【参考】山口保吉著『 芳花鶴水園の聖地』71頁に、興国4(壬午)年11月15日の満月の日に降誕の故を以って長慶院法皇を「月」であらわす。また、同頁に午年生まれの守り本尊が月天子(勢至菩薩)であることから、長慶院法皇を「月」であらわす。

光明寺
京都府長岡京市粟生(地図マピオン)

4、長慶院法皇と「月」について

東栄町月
愛知県北設楽郡東栄町(地図マピオン)

ここでは南朝副統の天皇であった長慶院法皇をあらわす隠語。全国で2ヶ所しかない地名。(つき、愛知県北設楽郡東栄町)

【参考】山口保吉著『 芳花鶴水園の聖地』71頁に、『興国4(壬午)年11月15日の満月の日に降誕の故を以って長慶院法皇を「月」であらわす。また、同頁に午年生まれの守り本尊が月天子(勢至菩薩)であることから、長慶院法皇を「月」であらわす。』と出ています。

山口保吉の著書
『三河吉野朝の研究』 山口究宗堂 昭和15年
『芳花鶴水園の聖地』 山口究宗堂 昭和18年 

月という地名は、現在2ヶ所確認しています。
静岡県浜松市天竜区 月

神皇正統の天皇は天津日嗣ゆえ「大日」「大日山」「日向」などであらわされる。皇子は「星」で現される。睦仁親王を表わす地名は、岡山県井原市「美星町明治」。

美星町明治
岡山県井原市「美星町明治」(地図マピオン)

5、長慶院法皇の神風串呂

長慶院法皇の神風串呂は、下記をご覧ください。


🔴バックナンバー(総合)

🟡串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。

🟡情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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