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小室門院元子内親王

このオンラインブックは、南北朝時代の興国2年(1341年)に富士谷御所小室宮下こむろみやしたやかた(富士吉田市大明見)で降誕された「小室門院元子内親王」(神皇正統第九九代小松天皇皇后)について述べたものです。

小室門院元子内親王は、下記の略系図のように、第百代大宝天皇および明治天皇(睦仁)の遠祖である「光良みつなが親王」の御祖母に当る皇祖神であります。

神皇正統の皇統略系図『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 序文

🟢串呂について初めての方は下記を参照下さい。



1、概説

小室門院こむろもんいん 元子もとこ 内親王

興国2年(辛巳/1341年)ー応永元年(甲戌/1394年)。
父は神皇正統第97代興国天皇(守永)、母は花山院大納言師賢の女・藤原茂子。
神皇正統第98代「小松天皇(興良)」の皇后。(三浦芳聖)

神皇正統第97代「興国天皇」の天津日嗣の皇女として大明見小室宮下の館で降誕し、宗良親王の第一皇子興良親王(小松天皇)と結婚した。行在所は富士吉田市大明見、浜松市浜北区小松など。

興良親王(小松天皇)が、今川の手の者に捕らえられ京都で幽囚の内に崩御したため、南朝副統「吉野朝」の長慶天皇と再婚した。行在所は、富士吉田市大明見、浜松市浜北区小松、磐田市神増原、愛知県豊川市小田渕町、仝市国府町、仝市森6丁目付近、静岡県牧之原市大寄萩間など。

表向きは皇后であるが、実質は三種の神器を継承し奉持する女性天皇であったようで、三河の伝承では「東海の女王」「天照大神の再臨」と崇められた。(藤原石山)

一説によると「南朝正統第九八代長慶院小松天皇(小室門院元子内親王)と考証しています。(南朝正副二統身代り王子の皇系々譜/藤原石山)

元中5年(1388年)、足利義満率いる大軍に富士谷の御所(富士吉田市大明見)を急襲され、静岡県牧之原市大寄萩間へ落ち延び言語に絶する艱難辛苦に遭遇し、応永元年(甲戌/1394年)非業の最期を遂げた。

御陵は、静岡県牧之原市菅ヶ谷すげがや3208-1の通称「妙覚塚みょうがくづか」。(詳細後述)

神皇正統の皇統略系図『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版

【参照】天母妙覚の大神 小室門院元子媛命

2、実質的女性天皇だったと思われる

(1)皇大神宮内宮と小室門院御陵「妙覚塚」との神風串呂

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第五章

【この串呂の解釈】
鏡池かがみいけ(女性天皇)、大神おおが(天皇)、愛宕山あたごやま(皇后)、小松(興良おきよし天皇)、大己屋山おおこややま(大物)

小室門院は、小松天皇(興良)の皇后であったが、夫の興良天皇が京都へ連行されたあと、御子の正良まさよし親王が幼少だったため、中継ぎの天皇として登極したと、皇大神宮内宮の大神が証明していると解釈できる。

(2)『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第五章に記述された、小室門院御陵の串呂(24本)に下記の地文があることから、小室門院は皇后であったが女性天皇として登極したと考えられる。
🟡天皇を表わす地文
大神、大君、大串、天地、日隠山、大御神元村、始神、天竜院、大日、大日岳2個、天覧山、神殿、明神、神座、大社、神戸、神戸山、堀之内6個
🟡女性天皇を表わす地文
鏡池、聖一色、神母野、明神池
🟡皇后を表わす地文
愛宕山、皇后島
🟡小松天皇を表わす地文
小松2個

(3)父親の興国天皇から三種の神器を継承し奉持ほうじしていたと思われること。御子の正良親王(松良天皇)が継承した。

(4)妙覚塚の妙覚の意義が女性天皇を表わす「無上、最上位、最高位」であること。(前号を参照のこと)

(5)三河各地を踏査し口碑こうひによる民間伝承を収集した藤原石山の著書に、小室門院の事を「南朝正統第九八代長慶院小松天皇(元子内親王)」と記述し、日嗣の御子 天照大神の再現、東海の女王と尊崇されたと考証していること。
*「南朝正統皇位継承論」(1988年新版/藤原石山)
*「三河に於ける長慶天皇伝説考」(藤原石山)

(6)天授5年(1379年)9月20日、豊川市もり6丁目・小田渕おだぶち町地内にあった三河御所「望理原もうりはら王田殿おうだでん」で、長慶院の身代わりとして自刃したとされる宣政門院せんせいもんいん懽子よしこ内親王が女性である事。(藤原石山)

(7)小室門院が、最初の夫である興良親王亡き後、寛成親王(南朝副統九八代長慶天皇)と再婚していること。(三浦芳聖)、(長慶天皇紀略)

(8)寛成親王(南朝副統九八代長慶天皇)が、未亡人で一歳年上の小室門院を皇后(皇太后)としていること。(三浦芳聖)、(長慶天皇紀略)

(9)寛成親王は自分の皇子がいるのに興良親王と小室門院との間に出来た正良親王(松良天皇)を猶子ゆうしとし後継者としていること。

(10)四ヶ所の「堀之内」で縦横に交差している妙覚塚の串呂が存在すること。(四ヶ所の「堀之内」の結界が出来ている)。

3、生涯の歩み

興国2年(1341年)富士の皇居、小室城宮下の館(山梨県富士吉田市大明見)で降誕。(三浦芳聖)

正平11年(1356年)興良親王(小松天皇)と結婚。16歳。(三浦芳聖)

御父・興国天皇(守永)が宗良親王と共に行動していた関係で、宗良親王の皇子興良親王は、興国天皇(守永)の皇女・小室門院元子内親王のお婿さんに選ばれたと思われます。

正平19年(1364年)8月8日、正良親王(松良天皇)ご降誕(富士の皇居・都留市法能)(三浦芳聖)

【参照資料】鶴=都留市
寄郡祝 
君が代の千世の日嗣の行末は鶴の郡の民や知るらん(藤原政為/碧玉集)
「南朝史の研究」(神原信一郎)

正平23年(1368年)3月23日、興良親王践祚。(三浦芳聖)

文中2年(1373年)5月26日、松良天皇践祚。10歳。(三浦芳聖)

文中2年(1373年)、小松天皇は遠州秋葉城(静岡県浜松市天竜区春野町領家)の戦いで矢折れ弓尽きるまで奮戦したが、遂に城は陥落し逃走中に今川氏の手の者に捕らえられ、京都に連れ去られ拷問により幽囚の内に崩御した。(三浦芳聖)

文中3年(1374年)1月21日、長慶院法皇、吉野朝の皇位を後亀山天王に譲る。(『長慶天皇紀略』48頁)

文中3年(1374年)1月21日、長慶院法皇、松良天皇の摂政となり太上天皇の尊号を蒙る。(三浦芳聖)

元子内親王は小松天皇が京都に拉致され、幽閉中に崩御した後、寛成親王(長慶院法皇)と再婚。

愛知県豊川市八幡町の「西明寺」に伝えられた寛成親王(長慶院法皇)の位牌が「金剛心院皇夫大士」となっていることから、実質的には小室門院元子内親王が三種の神器を継承した日嗣の御子(天皇)だったようだ。

天授2年(1376年)7月、興良親王が京都で崩御されたので、寛成親王が正統の皇女で皇后の小室門院の皇夫の宮となったが、この年三河吉野朝の朝廷を守護する南軍は、足利方の信州勢の猛攻にって吉野から楠正儀まさのりも再度来援したが、いに天授5年9月、三河の吉野朝は崩壊した。
(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』53頁/要約)

長慶院法皇、天授年間、三河の望里郷もうりきょう(豊川市小田淵おだぶち町)に王田殿おうだでんを建立し、小室門院元子内親王と共に行在あんざいした。
(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』5頁)

天授2年(1376年)~天授5年(1379年)、小室門院元子内親王は、三河の御所(豊川市御津町佐脇の御所、豊川市もり6丁目・小田淵おだぶち町の望里郷もうりきょう王田殿おうだでん、豊橋市石巻町本町の玉川御所たまがわごしょ)に行在したと思われる。

望理原王田殿のあった「豊川市森6丁目と小田淵町」(地図マピオン)

天授2年(1376年)~天授5年(1379年)頃、三河の御所に行在し、檜御前、日嗣の御子、天照大神の再現として崇められ、東海の女王と称えられた。(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』5頁、12頁)

天授3年丁未年(1377年)、正月20日、皇太后小室門院、飯盛山梅の宮に於て、皇女誕生。梅子内親王と名づけらる。(『長慶天皇紀略』53頁1行)

天授三丁未年正月二十日、皇太后小室門院、飯盛山梅の宮に於て、
皇女誕生、梅子内親王と名づけらる。(『長慶天皇紀略』53頁1行)

天授3年(1377年)楠正儀、三州美吉原において山名氏清勢と対戦、三州赤坂、伊奈原、美吉原において甲斐の大軍を各所に破るも、多勢に無勢、美吉原において戦死す。
(小久保家古記録/藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』6頁)

天授4年(1378年)5月2日、長慶院法皇、落飾剃髪、諸国行脚に出立
(『後太平記』)。

天授5年(1379年)9月20日、後醍醐天皇の皇女、宣政門院懽子内親王(きんし/よしこ/ないしんのう)が身代わりとなって玉川宮で自刃し長慶門院と尊称した。
(和歌山県九度山町明野宮の伝説/藤原石山)

宣政門院懽子内親王という女性が身代わりに無くなっている事からも、三河御所の中心人物は、実質的女性天皇の小室門院元子内親王であったことが推察できる。

天授5年(1379年)9月20日、三河吉野朝崩壊。この頃、富士谷の御所(山梨県富士吉田市大明見)に移る。

「天授五年己未年前帝長慶院皇太后と陰に富士谷潜幸なる」
(『長慶天皇紀略』/藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』6頁)

天授6年(1380年)3月10日、富士勝山谷の玉川の宮に於て皇子誕生。母は、皇太后小室門院(『長慶天皇紀略』62頁9行/皇子誕生の年月日については諸説ある。)

天授六年三月十日、富士勝山谷の玉川の宮に於て、皇子誕生。母は、皇太后小室門院
(『長慶天皇紀略』62頁9行/皇子誕生の年月日については諸説ある。)

元中2年(1385年)3月3日、富士勝山谷の宝野宮に於て、皇女誕生。玉子内親王と名付ける。熊谷小三郎直郷、之がたり。(『長慶天皇紀略』64頁)

元中5年(1388年)、足利義満率いる大軍に富士谷の御所を急襲され、遠江国(静岡県牧之原市大寄萩間)へ落ち延び言語に絶する艱難辛苦を味わう。48歳。(小室門院48歳/桑年の御時、三浦芳聖)

上記の記述を裏付ける資料として、室町幕府の第三代将軍足利義満が、元中5(1388)年、駿河で富士山を遊覧したという記録があります。

・・・元中5年/嘉慶2年(1388年)には駿河で富士山を遊覧し・・・
  (『ウィキペディア』足利義満#家督・将軍職相続

また、三輪義凞著『長慶天皇紀略』には、同じ年の元中5年(1388年)、義満が武運長久祈願と称し富士谷に下向したと、下記の様に記されています。

元中五戊辰〔1388〕年六月四日足利将軍義満、武運長久祈願と称し、富士谷に下向す。是より先、南北両朝に偏倚〔へんい〕せずと称したりし、富士神宮の大宮司、三浦越中守義勝の、新田義宗等を指呼して、足利氏と戦ひ、戦死せし以来、足利氏、深く富士谷を疑ひ、常に間諜を縦〔はな〕ちて、之を詗〔うかが〕はしめ居たりしが、今や、其疑ふべきもの多かりかるけるにや、義満自ら大軍を率いて来る。六月二日、義満来ると告ぐるものあり。谷谷の上下、沢々の貴賤、皆な色を失ふ。測ち、畏れ多くも、院は皇太后及び諸皇子と、前関白藤原師基・三条景家・藤原隆家・児島高徳入道志純・名和長重・其弟長生・得能通信等を、召し具して、御祖代山の桃沢の風泉池の宮を出御あらせられ、更に、奥深き沢へ潜幸なる。富士谷の諸将、争うて衛護し奉る。
(三輪義凞『長慶天皇紀略』71~72頁、〔 〕内、編集者)

応永元年(1394年)、静岡県牧之原市大寄萩間(あるいは部ヶ谷へがや)に於て崩御(54歳)。
御陵は、静岡県牧之原市大寄おおより部ヶ谷へがや台上の「妙覚塚」。
(三浦芳聖/妙覚塚についての詳細後述。)

妙覚塚
昭和34年頃に建立された小室門院御陵のお社
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』186-2)

4、皇子女

皇子女に勝良親王(早世)、正良親王、玉子内親王、山口親王(早世)、梅子内親王他がいる。

正良親王は、「正平十九年(1364年)甲辰年八月八日御降誕」(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』225頁。「長慶天皇紀略」と降誕月日については相違がある。)

建徳二辛亥年(1371年)九月二十二日、吉野の行宮の産室、清泉宮に於て、皇子誕生。母は皇后小室門院。勝良親王と称し奉りしが、同年十一月二十二日、早世。(三輪義熈『長慶天皇紀略』47頁、旧漢字は新字体に改めました。三浦家の記録と降誕月日については相違がある。)

梅子内親王は、天授三(1377年)丁未年正月二十日、皇太后小室門院、飯盛山梅の宮に於て、皇女誕生、梅子内親王と名づけらる。(『長慶天皇紀略』53頁1行)

5、小室門院の御陵「妙覚塚」について

(1)小室門院元子内親王御陵

小室門院元子内親王は、天授5年(1379年)三河の御所が崩壊後、長慶院法皇と共に富士谷に移り、大明見おおあすみの御所に住んでおられました。

元中5年(1388年)、48歳の年、足利義満率いる大軍に富士谷の御所を急襲され、乾皮なきまでに粉砕され、辛くも此処を落ち延びられ、最後は遠江国(静岡県牧之原市大寄萩間はぎま)へ落ち延び、言語に絶する艱難かんなんの末、応永元年(1394年)静岡県牧之原市大寄萩間おおよりはぎままたは大寄部ヶ谷へがやに於て崩御されました。(54歳/三浦芳聖)

御陵は、静岡県牧之原市大寄おおより部ヶ谷へがや台上の通称「妙覚塚みょうがくづか」。

妙覚(みょうかく)とは、
1. 真の悟り、微妙(みみょう)・深遠な悟りのこと。また、仏の無上の悟りのこと。
2. 菩薩の五十二位・四十二地の最上位で、菩薩が修行して到達する最後の階位のこと。妙覚の位に達した菩薩は、煩悩を断じ尽くし、智慧を完成させるとされる。天台教義の六即と対応させると、別教の菩薩五十二位の最高位である「妙覚」は、円教の「究竟即」に相当する。一つ前の等覚の位にいる菩薩が、さらに一品(いっぽん)の無明を断じてこの妙覚位に入る。しばしば、仏の位と同一視される。 (『妙覚- Wikipedia』)

妙覚塚が、皇陵であることは、上記の「妙覚」の「無上最上位最高位」などの意義からも類推できると思います。「妙」の「女偏」は、被埋葬者が女性である事を表わし、「妙覚」=「女性天皇または皇后」の隠語であります。

小室門院が崩御した時代の制約により、このような仏教用語を用いて「隠祀」したのであります。

牧之原市大寄の近くに「東萩間」「西萩間」という地名があります。恐らく最初は、ここに隠棲されていたのではないかと思います。5万分の1の地形図で下記の串呂が有ります。

妙覚塚」(大寄町菅ヶ谷)-「東西萩間」(牧之原市)-「水呑」(牧之原市東萩間)-「本村」(島田市湯日)

神皇正統家の落ち行く先は、萩という地名を付けることになっていたようで、豊川市萩町は松良天皇の隠棲地です。山口県萩市は松良天皇の第四皇子・光良親王の隠棲地です。

富士谷の御所が落ちたら次は京丸に集結することになっていたようですが、何かの都合で小室門院元子内親王は京丸にたどり着くことが出来ませんでした。

それは、小室門院元子内親王の御陵の串呂が妙覚塚に予定されていたからだと思いますが、そうなると、串呂が先か、現実が先かという話になるかと思います。

タイムライン(過去、現在、未来)に関する知識が、高次元世界に住んでいる高級霊とは違いますので、真実はどうなのか分かりませんが。三次元の世界に住んでいる人間には、串呂が先のように見えます。

(2)御陵発見の経緯、霊眼に地図と串呂が映ず!

小室門院元子内親王の終焉の地は、三浦系図には記されてなく、全く手掛かりの無い状況の中で、神界からの三浦芳聖への霊示により発見されました。

三浦芳聖は、昭和23年(1948年)8月3日、静岡県磐田市の神増原台上にある小松天皇の御陵及び浜松市天竜区船明の第99代松良天皇皇后・綾子姫の御陵「上臈塚」に参拝後、静岡県磐田市惣兵衛下新田の門人M家に宿泊し、

午後9時頃から祭祀を開始したところ、芳聖の霊眼に極めて明瞭に、静岡県中部の5万分の1の地図が映じたかと思うと、その地図上に下記のように串呂が出現し、その交差点付近に塚(お墓)のようなものが霊視された瞬間、時計の振り子か止まる程の強い地震がありました。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第5章

(1)菊川市堀之内(菊川町)――塚――牧之原市堀之内(相良町)
(2)牧之原市堀之内(榛原町)―塚――菊川市河東堀之内(小笠町)
(3)島田市菊川松島――――――塚――牧之原市鬼女新田

上記の図は、小室門院元子媛の御陵発見時に、地震と同時に三浦芳聖の霊眼に映じた「妙覚塚」のおよその位置(*鈴木註)を表わす神風串呂図。国土地理院発行の5万分の1の地形図「掛川」と「御前崎」2枚で確認できる。串呂は実に的確なものです。

(*鈴木註/およその位置・・・太平洋プレートが日本列島の下に沈み込む関係で、日本列島が隆起したり沈降したり湾曲したりするので、時代によって位置が少しずれる場合もある。)

堀之内ほりのうちは御陵を表わす地文。鬼女新田きじょしんでんは、非業の御最期ごさいごを遂げたため、怨霊おんりょう(大蛇)になっていた事を表わす地文。

ただし、現在は、昭和23年(1948年)10月に厳修された三浦芳聖の秘法祭祀により浄霊され、御神徳の高い皇霊(大神)になっている。

静岡県牧之原市大寄部ヶ谷台上の「妙覚塚」

御陵発見の経緯の詳細は、下記をご覧下さい。
三浦芳聖伝 46、小室門院の御陵発見
三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第五章

(3)昭和23年9月「妙覚塚」を発見し浄霊に成功!

三浦芳聖は、昭和23年(1948年)9月、門人4名と共に、8月3日の門人M家での祭祀中に霊眼に映じた「塚」を探すために出発し、「妙覚塚」と呼ばれる塚を発見し、翌10月、この「妙覚塚」の神霊を浄化する事に成功しました。

この件については、下記をご覧下さい。
三浦芳聖伝 47、小室門院の浄霊に成功(№169)

(4)地元の史料

妙覚塚については、下記の地元の史料『さがらの伝説百話』第87話/妙覚塚の話(大寄)にも載っています。ただし、典拠とする資料が昭和33年以前のものであるため、被葬者名を綾子姫と誤認しています。

妙覚塚の被葬者の浄化が進むに連れ、神霊となった被葬者から霊示があり、串呂の解明により、小室門院元子媛命の御陵である事が判明したのです。

『さがらの伝説百話』第87話/妙覚塚の話(大寄)

6、小室門院元子内親王の神風串呂

小室門院元子媛命が、女性天皇であったことを表わす「大神」「鏡池」を通る皇大神宮内宮と小室門院元子媛命御陵「妙覚塚」との神風串呂

愛宕山あたごやまは皇后を表わす。大己屋山おおこややまは大物を表わす。小松は小松天皇を表わす。大神おおが・鏡は天皇を表わす。鏡池かがみいけは女性天皇を表わす。

🟡皇大神宮内宮と小室門院の御陵 妙覚塚との神風串呂

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版より

小室門院元子媛命の御陵が、中原ちゅうげんに鹿をう!中央政界を浄化(抜里ぬくり)する神事を厳修する聖地である事を昭示する「中原」三串 -🔴-🔴-🔴- の神風串呂(抜里=抜狸)。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第五章

小室門院元子内親王及び妙覚塚の神風串呂の詳細は、下記をご覧下さい。

7、富士谷の御所(大明見)についての参考資料

山梨県の富士谷には南朝秘密大本営があったと伝えられ、問題の宮下古文書が富士文庫に所蔵されている。富士谷の伝記によると、「天授五年己未年前帝長慶院皇太后と陰に富士谷潜幸なる」と誌るされている。
(『長慶天皇紀略』(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』6頁)

富士谷 長慶院仙洞御所略図』より一部を転載させて頂きました。

8、古記録、伝説より

「長慶天皇の御流れを玉川宮と称した。豊橋市石巻本町を昔は三河の玉川と云い、御所、別所、小野田、御殿という地名があり、長慶寺と称する寺院もある。石巻小野田町は昔入文郷と云ったことが、『和名抄』に見え、現在入文と呼ぶ部落もある。入文と云う意味は乳母から起きたもので伊文にも通じ、縁り池の旧蹟に泉式部の伝説があり泉塚と呼ぶ所があるところから考察して、玉川の御所に小室門院が御行在になり別所の御殿には懽子内親王が居住になったことを伝えたものと思う。」
(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』9頁)


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この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。
ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№69)  
🟢次号(№71)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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