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大宝天皇(美良)号宗心・後称三浦藤太夫(串哲№13)

この記事は、神皇正統家しんのうしょうとうけ極秘伝ごくひでん神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。

串呂クシロ(かんろ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

神風串呂は、地文ちもん(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学しんとうこうれいがくで、神国日本再建のために皇祖神によって構築されました。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。

ここでは、「神皇正統第百代 大宝天皇(美良)号宗心・後称三浦藤太夫」についてご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。



三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第7章


1、大宝天皇概説

大宝天皇、諱は美良(よしなが)号宗心、後称三浦藤太夫、神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の遠祖で、神皇正統第百代の天皇・三浦皇統家第5代の天皇。
別名、之良(これなが)親王、尹良(ゆきよし)親王。

応永元年(1394年)生 - 文明13年(1481年)3月15日崩(88才)
在位・ 応永17年(1410年)- 享徳3年(1454年)

父・松良天皇(正良)、母・綾子姫(長慶院法皇王女)、第一皇子。皇后・三浦佐久姫(建武の新政で活躍した富士大宮司・三浦義勝の五代孫、木花佐久耶姫の再現)。

遠州京丸(静岡県浜松市天竜区春野町京丸)にて降誕。懸賞つきで探索する幕府の追跡をかわしつつ各地を潜行し、永享10年(1438年)愛知県岡崎市切越町に隠棲。最後まで付き従った数少ない臣下に支えられ、皇威の回復を祈念して満16年間、大般若経六百巻を念書するなど修行に専念する日々を過ごした。

享徳3年(1454年)天照大御神の御神諭に従い、岡崎市牧平町大門に移住。三種の神器を地下深く埋蔵して皇后・三浦佐久姫の姓を名乗って三浦藤太夫と称し百姓となる。御陵は牧平小金山陵(岡崎市牧平町)。

【三浦皇統家 系図】
後醍醐天皇
-尊良天皇-興国天皇-小室門院¬
-宗良親王――――――小松天皇-松良天皇-大宝天皇-----三浦芳聖
-義良親王――――――寛成親王-綾子皇后



2、生涯の歩み

(1)遠州京丸にて御降誕

応永元年(1394)、遠州京丸(静岡県浜松市天竜区春野町京丸)にて御降誕。御父・松良天皇、御母・長慶院法皇の王女綾子姫の第一皇子。

隠棲中の遠州京丸にも武家方の探索が押し寄せた為、美良親王は、御父松良天皇と共に樵夫(きこり)に扮装して山から山へと落ち延びられ、応永17年(1410年)、愛知県豊川市萩町に於て御父松良天皇より譲りを受けて践祚されました。

永享7年(1435年)12月、浪合にて遭難、三州作手に逃れ、之良(尹良)親王と称す。(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』12頁)

大宝天皇は、武家(足利)方の追跡をかわしつつ、宮路山(愛知県豊川市)、三州作手(同県新城市)、桜井寺(同県岡崎市)などに潜行しておられましたが、武家方は、懸賞付きで南朝の後胤を探索し、見つけ次第殺害した為、

永享10年(1438年)、無二心忠誠の臣下に支えられ、三州河合村切越(愛知県岡崎市切越町)に隠棲され、爾来満16年間、大般若600巻を念書し皇威の回復を熱祷祈願されました。

【参照】大宝天皇御座所跡(切越町)と御在所山の神風串呂 (№9)

(2)皇威の回復を熱祷祈願・大般若600巻を念書

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大宝天皇が念書された大般若経600巻の一部
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』318頁2の写真版)

大宝天皇は、愛知県岡崎市夏山町の寺野に薬師堂を建立し、御父・松良天皇を隠祀して菩提を弔われ、切越町の行在所やこの薬師堂などで大般若600巻を念書され、後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良、五皇一体の八幡大明神を降誕せしめて必ず天下を平定し給わん事をと、皇威の回復を熱祷祈願されました。

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念書された大般若六百巻の大部分は、牧平大門の神宮寺に所蔵されていましたが、戦国時代の火災で焼失し、三巻のみが愛知県豊田市黒田町仲根の正寿寺に寺宝として現存しています。文字は一字の狂いもなく丁寧正確に念書されています。

享徳3年(1454年)、満16年間の行願満ちて至誠通神、その至誠が天照大御神の御心に達し、図らずも天照大御神より「後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良五皇一体の八幡大明神を降誕せしめ、必ず天下を平定せしめるから、今は三種の神器を地下深く埋蔵して天の岩戸篭りとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗りて三浦藤太夫と称し、牧平大門に移住して、子々孫々天運循環の時を待て」という主旨の優渥なる御神諭を被られました。

(3)天照大御神の御神諭により牧平大門に移住

大宝天皇は、享徳3年(1454年)、天照大御神の御神諭のまにまに、三種の神器を地下深く埋蔵して神皇正統家の天の岩戸篭りとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗り、三浦藤太夫と称して純然たる百姓となり、愛知県岡崎市牧平町大門に移住されまた。

大宝天皇は牧平大門に移住したのち、小松白鬚大明神(豊富神社)を勧請し、牧平町大門に5人の皇子を住まわせて、どの三浦家も男系相続であることを掟とされました。地文「五軒小屋」(長野県下伊那郡平谷村)。

すなわち男子孫が絶えた時には、この5軒の三浦家の中から養子をもらって大宝天皇の男性遺伝子を継承することができるように配慮されたのです。この掟は明治37年(1904年)三浦芳聖が降誕するまで続いていました。

五軒小屋2
長野県下伊那郡平谷村 五軒小屋

爾来、牧平町大門は、三浦家累代450年間の住居であり、三浦芳聖の降誕地でもあります。

牧平大門は天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵(もうじん)の地」であります。

【参照】吹嵐の中、昼神・神明降誕の神風串呂 (№112)

天照大御神をいつきまつる皇大神宮内宮から、天照大御神の神定の地「牧平大門」への角度は罫線緯線に対して45度の方角に当たります。測量技術の未発達な享徳3年(1454)当時、これは人為的には不可能なことだと思います。

(4)牧平町大門の神風串呂

牧平町大門に関連する神風串呂は下記を参照ください。

【参照】正統天皇が天の岩戸篭りし三浦と名乗った!(№3)

【参照】二所の宗廟から牧平大門を鑑る!藤太夫島と佐久島(№4)
(1)内宮と牧平大門との神風串呂(№4-1)
(2)石清水八幡宮と牧平大門との神風串呂(№4-2)

【参照】牧平大門と三浦名との神風串呂(№7)

その他の岡崎市牧平町大門に関する神風串呂は下記を参照下さい。

(5)御陵は牧平小金山陵

文明12年庚子(1480年)3月15日崩御(88歳)、牧平小金山陵に葬る。

牧平小金山陵(牧平城より)

3、大宝天皇の御製について

大宝天皇ご愛用の硯と、ご親筆の御製の短冊が愛知県豊田市黒田町仲根の正寿寺に寺宝として現存しています。

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大宝天皇ご愛用の硯と、ご親筆の御製の短冊 題 「真弓月」

大宝天皇ご愛用の硯と、ご親筆の御製の短冊 題 「真弓月」
ほのぼのと明けゆく空を眺むれば月ひとりすむ西の山かげ
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』318頁2の写真版)

九重の砌をめぐる三河水 住み越し末は絶えじとぞ思う
ほのぼのと明けゆく空を眺むれば 月ひとりすむ西の山かげ

この二つの御製の内、上の御製は、昭和6年(1931年)、文部省から『歴代天皇御製集』が発行されることになった時、三浦芳聖が元宮内大臣の田中光顕に嘆願して「長慶天皇の御製」として掲載されたという経緯があります。

この御製についての詳細は、下記を参照ください。
【参照】大宝天皇の御製を昭示する神風串呂 (№8)
【参照】大宝天皇の御製を昭示する神風串呂 2(№10)

4、皇后三浦佐久姫

 三浦佐久姫は、神皇正統第百代、大宝天皇(美良)の皇后。富士大宮司三浦家の第61世の嫡女、三浦義勝5世の嫡孫、楠木正成6世の孫。父は三浦宗明、母は楠木正親の女・冬子。

三浦義勝五世の嫡孫、楠木正成六世の孫
  三浦義勝-義利-宗正-宗明-佐久姫
  楠木正成-正行-正光-正親-冬子-佐久姫
(加茂喜三著『富士〝隠れ南朝〟史』318頁 富士地方史料調査会)

永享10年戊午(1438年)、大宝天皇(美良)が、愛知県岡崎市切越町に隠棲し、後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良、五皇一体の八幡大明神を降誕せしめて必ず天下を平定し給わん事をと、大般若600巻を念書して、皇威回復を熱祷祈願されるに当たり、三浦家の一族郎党を引き連れて、物心ともに大宝天皇を支えられました。

大宝天皇の満16年間にわたる大般若600巻の写経が満願に達した享徳3年(1454年)、大宝天皇と共に愛知県岡崎市牧平町大門に移住されました。

【参照】皇后・三浦佐久姫についてはこちらをご覧下さい。
【参照】皇大神宮内宮から「佐久」を鑑る!(№6)

5、寺野ちち薬師と大楠

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寺野のちち薬師の大楠

地元の古老は、お参りすると母乳がよく出るようになる「寺野のちち薬師」と呼んでいるが、三浦家の古記録には大宝天皇が、三州夏山(愛知県岡崎市夏山町)の寺野に薬師堂を建立し、父・松良天皇が陰暦8月8日(お薬師さんの正当日=縁日)の降誕ゆえ、薬師如来とし、皇后を毘沙門天として隠祀したので「父薬師」と称したと記されてありました。 (三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文5頁、本文271頁他)

不思議な事に、この「寺野ちち薬師」には、樹高では愛知県第一位の大楠が聳え立っています。この大楠は、額田町を紹介するホーム頁

「薬師堂の屋根や村の家々を見守るかのように、それはそれは大きな枝を中央にかざし、巨大な根張りが雄大怪異で崖面に露出している。昭和43年11月4日に愛知県の天然記念物に指定された。樹齢千年、幹囲12m、根囲27m、樹高は何と36mあり、根元に立てばまさに霊感を覚える」と出ています。

寺野薬師堂の大楠(「オカトピ」より転載)

【参照】寺野薬師堂(愛知県岡崎市夏山町寺野)
【参照】寺野薬師堂の大楠
【参照】寺野の大楠


6、藤太夫島とうだゆうじま(静岡県藤枝市本郷)

藤太夫島とうだゆうじまは、大宝天皇の後称「三浦藤太夫」を表わす地文です。

【参照】富士市の歴史研究家である加茂喜三氏は、『富士〝隠れ南朝〟史』(富士地方資料調査会・320頁)に、「静岡県藤枝市に藤太夫島の地名が残るが、これは藤太夫と変名した大宝天皇が遠江とおとうみから駿河の隠れ南朝の遺臣を訪ねた由緒によるという。」と述べています。

この遠江は三遠地方からという意味だと思いますが、今から550年以上前の測量術も地図も無い時代のことで、霊感霊通で「藤太夫島」と名付けられたと考えられます。また、このような珍しい地名が現在も残っていること自体、実に神秘的な現象(神様のご加護)であると思います。

【参照】皇大神宮内宮から藤太夫島を鑑る! (№5)

三浦藤太夫を初代とすると、三浦芳聖で18代目にあたる。       大宝天皇以降三浦芳聖に至る三浦家当主の氏名(号)は次の通りです。第53世・三浦藤太夫(宗心) *大宝天皇
第54世・三浦藤太夫(良之助)
第55世・三浦国太夫
第56世・三浦藤太夫(元春)
第57世・三浦藤太夫(春若)
第58世・三浦藤太夫(時晴)
第59世・三浦藤兵衛
第60世・三浦藤兵衛
第61世・三浦藤兵衛
第62世・三浦藤兵衛
第63世・三浦藤兵衛
第64世・三浦藤兵衛
第65世・三浦藤兵衛(自得)
第66世・三浦藤九郎(忠務)
第67世・三浦藤七郎(清心)
第68世・三浦熊次郎(道雄)
第69世・三浦市次郎(宗心)
第70世・三浦芳聖 (神龍)

*出典は、『弥勒大菩薩(世界大救世主)出現を立証する神風串呂-元海軍大将山本英輔先生序文』(三浦芳聖著、1956年、11~12頁)


7、桜井寺に残る古文書と伝承

愛知県岡崎市桜井寺町の桜井寺には、「そちらに南朝の皇子が落ち延びたと思うが、捕らえて届け出たものには12万石の寺領を与える」という内容の古文書が伝えられています。

藤原石山氏は「切越の近くにある真言宗の古刹桜井寺の寺伝に、南朝の王子をかくまったことがことがあるが、足利幕府の捜索があって切越の山中に隠したと伝える。」と述べています。
 (藤原石山著『南朝正統皇位継承論』1988年版89頁)


8、串呂上の符号、隠文、異名など 

大宝天皇の串呂上の符号は「宗心」「大久保」「長尾」です。隠文は、美良布、吉良見、吉永、藤太夫島など多数あります。尹良(ゆきよし)親王という異名を使っていたこともあったようです。

三浦芳聖は、第48代横綱の大鵬幸喜(たいほうこうき)は、大宝天皇が、尹良(ゆきよし)という異名を使っていたことを証しするために出てきたと述べています。幸喜が「ゆきよし」と読めるからです。

三浦芳聖の幼名は「幸喜智(こうきち)」といい、干支は六白金星甲辰年、大宝天皇は三碧木星甲戌年、大鵬幸喜は六白金星庚辰年です。辰と戌は子と午同様、裏表です。三浦芳聖と大鵬は、名前の幸喜と六白金星辰年が共通して、大宝天皇と大鵬関は、「たいほう」が共通しています。この三者にそれぞれ共通項があります。三浦芳聖が大鵬関を応援していたことは言うまでもありません。

三浦芳聖「幸喜知(こうきち)」六白金星甲辰年
大宝天皇「美良(よしなが)」 三碧木星甲戌年 たいほう ゆきよし親王
横綱大鵬「幸喜(こうき)」  六白金星庚辰年 たいほう ゆきよし

【参照】三浦芳聖伝 59、尹良親王の謎を解く(№182)
1、「尹良親王」 2、藤原石山氏の来訪 3、尹良親王の謎を解く
4、結語


9、大宝天皇の神風串呂


🟠明治天皇の神風串呂


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
💟開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道


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バックナンバー(総合)

情報拡散のお願い

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№12)     
🟢次号(№14)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。