⛩皇大神宮内宮から藤太夫島を鑑る!
💟ご挨拶
串呂哲学研究会 鈴木超世志
このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂(カミカゼクシロ)について記述したものです。
神風串呂(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。
串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。 地名(地文)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。
ここでは、「⛩皇大神宮内宮」を起点とし、神皇正統第百代 大宝天皇を表わす串呂地文「藤太夫島」とを結び、この地文を鑑定する神風串呂をご紹介し、詳しい解説をしています。
神風串呂(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!
串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺の末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。
神風串呂(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、群雄割拠の戦国時代(120年以上)に無辜の民が味わった塗炭の苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。
1、皇大神宮内宮から藤太夫島を鑑定する
「串呂哲学研究ノート№4」では、二所の宗廟(⛩皇大神宮内宮と⛩石清水八幡宮)から天子蒙塵の府・牧平町大門を鑑定する下記の神風串呂をご紹介しました。
(1)⛩皇大神宮内宮から牧平町大門への神風串呂
⛩皇大神宮内宮ー二見浦夫婦岩ー佐久島ー天子蒙塵の府・牧平町大門
(2)⛩石清水八幡宮から牧平町大門への神風串呂
龍子ー⛩石清水八幡宮ー牧平町大門ー佐久ー藤太夫島ー⛩安房大神宮
今回はこの「⛩皇大神宮内宮」から「⛩石清水八幡宮と牧平大門の串呂」線上の「藤太夫島」を鑑定するという視点での神風串呂をご紹介します。
上記二本の神風串呂が「論証の神風串呂」であるのに対し、この「皇大神宮内宮」から「藤太夫島」を鑑定する串呂は、いわばダメ押しの関連リンクを念のため確認するという串呂ですので、傍証の神風串呂といいます。
詳しくは「串呂哲学とは(2) 串呂哲学研究ノート№2 」の「串呂哲学の解読法4、実証・論証・傍証の串呂」を参照ください。
2、串呂哲学の理解を助ける予備知識
初めての方はこちらをご覧下さい。
3、皇大神宮内宮と藤太夫島の神風串呂
三浦芳聖は皇大神宮内宮(伊勢市宇治館町)と藤太夫島(静岡県藤枝市本郷)とを串線すると、次の様になると述べています。
⛩皇大神宮内宮-高松町-〽蔵王山-小松原町 -和田地区-小松-小松天皇御陵-藤太夫島-松長-〽聖岳-〽前聖岳
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第4章144頁、現住所に改め、三浦芳聖の別の著書により蔵王山を追加した。詳細後述)
【串呂の解釈】
八大重要串呂起点である⛩皇大神宮内宮から「藤太夫島」(あるいは小松天皇御陵や松長などの地文)を鑑定して頂くと云う視点の神風串呂です。
この神風串呂には、小松天皇を表す「小松」「小松原」「小松天皇御陵」、松良天皇を表す「和田」「松長」、大宝天皇を表す「藤太夫島」と後醍醐天皇以降の皇位を継承した内伝の天皇を表す地名や、その嫡皇孫である三浦芳聖の符号「高松町」が串線し、天皇を表す国内三ヶ所しかない「聖岳」の一つが寸分違わず串線している神秘的な神風串呂です。
【参考】後醍醐天皇以降の皇統について三浦家の系図では興国天皇(守永)、小松天皇(興良)、松良天皇(正良)、大宝天皇(美良)と書かれていたが、神霊界からの霊示やその後の神風串呂の研究で三浦芳聖は、後醍醐天皇から皇位を継承したのは東山天皇(尊良)であると述べています。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』11頁)
【地文の解釈】地名に地図がリンクしています。
(1)⛩皇大神宮内宮(こうたいじんぐうないくう、三・伊勢市宇治館町)
皇祖天照大御神をお祭りする「わが国二所の宗廟」の一つで、八大串呂起点のひとつ。
天照大御神は、神風串呂の主宰神。
【参照】詳細はこちらをご覧ください。
(2)高松町(たかまつちょう、愛・田原市)
下記の地図にも出ていますが、この高松町には「大日川」が流れています。大日とは太陽であり、天照大御神の御神徳を表わします。
この串呂では、
皇大神宮内宮-高松町・大日川-「小松天皇御陵」-聖岳ー前聖岳
で、小松天皇が天津日嗣である事を表わします。下記略系図を参照下さい。
(ア)下記の高松三串の神風串呂により「高松」は、三浦芳聖の串呂哲学での符号とされています。
「弥勒」(長・伊那市高遠町長藤)-「高松」(長・飯田市)-「高松」(新城市作手)-「三浦芳聖晩年の住居」(豊川市諏訪2丁目)-「高松町」(愛・田原市)の高松三串の高松のひとつです。
(イ)高松(たかまつ)=尊良(たかなが)+松良(まつなが)で、尊良天皇、松良天皇、再現・三浦芳聖の串呂の符号です。
尊良天皇・松良天皇・三浦芳聖は三人とも甲辰年陰暦8月8日の降誕ゆえ。
三浦芳聖の母親「元子」は、尊良天皇の第二皇子「河合良玄法親王」の嫡孫で、後醍醐天皇が自ら彫った観音像に祈念を込め、尊良天皇降誕600年目の明治37年(1904年)9月17日(陰暦8月8日)に、三浦芳聖を出産しました。
神武・応神・後嵯峨・後村上・松良、五皇一体の再現・八幡大明神としては、主に松良天皇の人生の追体験(数えの10歳で父親と死別、僧籍に入る、豊川市萩町への疎開など)をさせられたようです。
【参照】高遠町弥勒と三浦芳聖晩年の住所との神風串呂 (№98)
(3)〽蔵王山(ざおうざん、愛・田原市)
この地文の串呂哲学上の解釈は「王が蔵(かく)れた」である。蔵(くら)は大事なものをしまっておく場所である。
この地文は、神皇正統の天皇が民間に隠れたことを表わす。また、極秘で皇位を継承した「内伝の天皇を表わす」という解釈も成り立つ。
三浦芳聖著の別の著書にはこの蔵王山が記載されてあるが、『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』には、この〽蔵王山が記載されていない。
その理由は、この串呂が山巓の標高点の真上を串線していないから除外したのだと思う。しかし、蔵王山は南北1.5km東西2.5kmあるので、串呂しているとしても良いと思う。
【参照】正統天皇が天の岩戸篭もりし三浦と名乗った!(№3)
〽蔵王山-大門-〽宮路山-大門-卍寺野薬師堂・大楠-吉良見-大門-〽三浦山-〽大日岳-朝日町
🟡下記の地図の左上の表記はシステムエラーで「山形県」となっていますが、地図は愛知県の蔵王山です。
(4)小松原町 (こまつばらちょう、愛・豊橋市)
小松原町は、神皇正統第99代小松天皇をあらわします。(5)小松と(6)小松天皇御陵とで小松三串の絶対確証の神風串呂となります。
(5)和田地区(わだ地区、静・浜松市西区庄和町)
和田は松良天皇の隠文・符号。静岡県浜松市西区庄和町に改称された。地図検索では「和田排水機場」に「和田」の地名が残っている。和田が松良天皇の串呂上の符号であることは下記を参照ください。
藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』(南朝史学会、1979年、64頁)には、長慶院法皇・松良天皇の「三河玉川御所」が、豊橋市石巻本町の和田地内に存在したことを考証している。
また、当時、長慶院法皇・松良天皇を奉戴していたのは、千種忠顕の子孫「青木和田尉盛勝」であることも記されている。
【参照】『青木文献- Wikipedia』
この石巻本町には、現在も「御所、嵯峨、枇把、広福、出口、玉川、若宮、宮前、太夫橋、東家門、西家門」などの地名が残っている。
また、玉川小学校がある。以上のことから、松良天皇と「和田」の地名とは、このように歴史的に深い関連性が存在していることが分かるのである。
【参照】山崎町御名と木曽岬町松永の神風串呂 (№84)
和田-和田-天王-和田北-定宗-多賀-御名-松永-京丸
【参照】多賀大社と松良天皇御陵の「和田四串」の神風串呂(№29)
和田野-正善寺-和田-阿弥陀山-多賀大社-松永-天皇-上地八幡宮-願成寺-松良天皇御陵・三浦家墓地-三浦芳聖晩年の住所-和田辻-和田地区
(6)小松(こまつ、静・浜松市浜北区)
浜松市浜北区小松は、小松天皇(興良)の行宮のあった所で遠州小松といいます。
小松天皇の行在所のあった、ゆかりの地ゆえ、この串呂は実証の串呂でもあります。小松天皇の贈名(おくりな・諡号)は、ここから来ています。小松原町、小松天皇御陵とで小松三串になります。
この「小松」(静岡県浜北市浜北区)について、加茂喜三氏は次のように述べています。(『富士〝隠れ南朝〟史』富士地方資料調査会307 頁)
歴史上、小松天皇は不在ですが、後小松天皇(1377年8月1日〈天授3年6月27日〉 - 1433年12月1日〈永享5年10月20日〉)が存在する以上、「小松天皇」がいなければならないわけで、いかに官製の歴史がいい加減なものかがここからもお分かりになるかと思います。
(7)小松天皇御陵(こまつてんのうごりょう、静・磐田市神増)
「小松天皇御陵」(静岡県磐田市神増原台上)は今からおよそ六百年前に築造された瓢箪型をした山陵であるが、それこそ、測量術もなかった時代に、このようにピシンと串呂している事は、神秘的としか言いようがありません。小松天皇御陵と小松原町と小松とで小松三串となります。絶対確証の神風串呂です。
加茂喜三氏は「小松天皇御陵」について下記のように述べています。
三浦芳聖の著書には、「小松天皇(興良)は、秋葉城の戦いで敗れ、逃走中に今川氏の手の者に捕らえられ、京都で獄死したため、崩御埋葬の地は不明である」と書かれている。この神増原台上の御陵は遺品を納めて築造した菩提陵である。
(8)藤太夫島(とうだゆうじま、静・藤枝市本郷)
大宝天皇の後称「三浦藤太夫」を表わす地文。
【参照】富士市の歴史研究家である加茂喜三氏は、『富士〝隠れ南朝〟史』(富士地方資料調査会・320頁)に、「静岡県藤枝市に藤太夫島の地名が残るが、これは藤太夫と変名した大宝天皇が遠江から駿河の隠れ南朝の遺臣を訪ねた由緒によるという。」と述べています。
この遠江は三遠地方からという意味だと思いますが、地元にそのような伝承があるのかどうか分かりませんが、今から550年以上も前の地図も無い時代のことで、串呂を意識して人為的に「藤太夫島」と名づけたとは考えられず、このような珍しい地名が現在も残っていること自体実に神秘的な現象であると思います。
この地名は、面積が小さいからか、地図検索で探しても簡単には見つかりませんでした。それだけに、今こうして紹介できることは感慨無量です。
大宝天皇以降三浦芳聖に至る三浦家当主の氏名(号)は次の通りです。
第53世・三浦藤太夫(宗心) *大宝天皇
第54世・三浦藤太夫(良之助)
第55世・三浦国太夫
第56世・三浦藤太夫(元春)
第57世・三浦藤太夫(春若)
第58世・三浦藤太夫(時晴)
第59世・三浦藤兵衛
第60世・三浦藤兵衛
第61世・三浦藤兵衛
第62世・三浦藤兵衛
第63世・三浦藤兵衛
第64世・三浦藤兵衛
第65世・三浦藤兵衛(自得)
第66世・三浦藤九郎(忠務)
第67世・三浦藤七郎(清心)
第68世・三浦熊次郎(道雄)
第69世・三浦市次郎(宗心)
第70世・三浦芳聖 (神龍)
*出典は、『弥勒大菩薩(世界大救世主)出現を立証する神風串呂-元海軍大将山本英輔先生序文』(三浦芳聖、1956年、11~12頁)
(9)松長(まつなが、静・沼津市)
松長は、神皇正統第99代松良天皇をあらわす地文です。
松長(まつなが)=松良(まつなが)。同音異字語の隠文です。
(10)聖岳(ひじりだけ、神・小田原市米神)
聖岳は「天皇」を現す地文(隠文)です。漢和辞典を引くと聖には天子の意味があると出ています。聖運、聖駕、聖皇など数え上げれば枚挙に暇がないほどです。
国内の聖岳は、静岡市葵区と長野県飯田市の境界に位置する標高3013mの聖岳と静岡県小田原市米神の標高836mの聖岳と佐賀県多久市南多久町大字花祭の標高412mの聖岳の三山を確認しています。
国内「聖岳」一覧
静岡県葵区田代 聖岳(飯田市との境界/標高3013m)前聖岳ともいう。
神奈川県小田原市米神 聖岳(標高837m)
佐賀県多久市南多久町大字花祭 聖岳(標高412m)
・・・・・
長野県飯田市 奥聖岳(標高2982m)
長野県飯田市 小聖岳(標高2662m)
神奈川小田原市米神 前聖岳(標高669m)
4、この神風串呂の哲学的考察
一本の串呂に神皇正統家三代にわたる小松天皇、松良天皇、大宝天皇を表す地名や小松天皇の行宮、小松天皇の神増原台上の御陵、三浦芳聖の串呂上の符号高松、天子蒙塵を表わす蔵王山が、一直方角線上に存在する神秘的かつ驚異的な神風串呂です。
もし、このようなことを人為的に行うとしたらできるでしょうか。測量術の発達した今日でも不可能だと思います。
串呂が構築された目的については、下記で詳述しています。ぜひご一読ください。
【参照】串呂哲学とは (1)串呂哲学概説
💖バックナンバー(総合)
🔴情報拡散のお願い
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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