見出し画像

⛩皇大神宮内宮を起点とする神風串呂 (№110)

このオンラインブックは、神皇正統家しんのうしょうとうけ極秘伝ごくひでん 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢もといせ伝承で皇祖神・天照大御神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護こうじょうしゅご結界けっかいのことだといわれて来ましたが、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

三浦芳聖師が生涯の精魂せいこんを込めて解明した串呂によって、元伊勢クシロとは、皇統正史こうとうせいしを我が国の国土に埋め込んだ地文学「神風串呂」であることが判明したのです。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問(皇霊学)が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

ここでは、「皇大神宮内宮と神風串呂について」ご紹介しています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神・天照大御神からの神妙なる息吹を体感体得たいかんたいとくすることができるでしょう!

串呂主宰神かんろしゅさいしん(天照大御神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助てんゆうしんじょにより日本民族本来の力を発揮はっき出来るようになります。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に、無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


1、⛩皇大神宮内宮と神風串呂

皇大神宮内宮は、皇祖天照大御神をお祭りするわが国二所の宗廟の一つで、八大串呂起点(超重要基点)のひとつです。

天照大御神様が、神風串呂の主宰神であることは、下記に詳述しました結界(元伊勢クシロ)を構築された御事績や、皇大神宮内宮を起点とした重要な串呂が解明されていることからも明らかです。

天照大御神様は、神風串呂を構築することに依って、神皇正統の天皇が誰であるかを明らかにされ、武力や謀略に依らず平和裏に、天照大御神様の嫡皇孫が高御座に登極されることを望んでおられるのです。

神風串呂は、天照大御神様からの、日本民族への目に見えるメッセージでありますので、皇祖皇宗の天佑神助のもと、日本民族の真価を発揮して世界に貢献する為には、神風串呂を無視あるいは敬遠することは許されないと確信しています。

2、崇神天皇、三種の神器を奉遷

三輪義熈 著『神皇紀』によれば、第10代崇神天皇の御代、「阿祖山太神宮」に納められていた「三品の大御宝」を大和朝廷に奉遷(移動)した事蹟が詳細に語られています。

大神神社

 崇神天皇の5年3月3日、勅使を富士高天ヶ原に派遣して神器を拝受し、大和国笠縫の里に建てた天照大神の新宮に納めたのが4月9日で、皇女豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)命をして祀らせ、6月7日より神宮の庭前に祭壇を設け、天下の名工を召して阿祖山太神宮に伝わる「三品の大宝」に倣い、新しい「三品の大宝」を作製させて皇城の奥殿に納め天皇代々守護の大御宝と定めた。神代より富士高天ヶ原に伝承されてきた「三品の大宝」は、笠縫の里の天照皇太神宮にその神霊として納められた。
   (加茂喜三著『富士王朝の滅亡』30~31頁要約)

 神器の奉納について、「富士古文献」の記述は極めて穏やかに大和朝廷の指示に従って進められたように記されているが、それは表面のことで実際には無事に済まされてはいなかった。
 「日本書紀」によると、崇神天皇の五年、「国の内に疾疫多く民の死亡甚だ多し。六年百姓流離、或は背叛するものあり、その勢い仲々治め難し。」とある。明らかに反乱のあったことを明記している。
 (加茂喜三著『富士王朝の滅亡』31~32頁)

阿祖山太神宮に伝わる「三品の大宝」を大和朝廷に奉遷後、崇神天皇の御代がどのようであったかは、日本書紀に詳しく出ています。『ウィキペディア』崇神天皇には下記の様に出ています。

 即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。
 即位7年、崇神天皇は、大田田根子に大物主神を市磯長尾市に倭大国魂神(大和神社祭神)を祭らせれば国は治まると云うお告げを受け、実行したところ、お告げ通りに国が治まった。(後半要約)

この「大物主神」「倭大国魂神」は、一体如何なる神かと云うと、富士高天ヶ原の阿祖山太神宮大宮司職で、神皇ともいうべき地位にいた大国主命の後裔であったのである。(加茂喜三著『富士王朝の滅亡』36頁要約)

以上の資料を総合して考察すると、崇神天皇の御代、富士阿祖山太神宮に納められていた「三品の大御宝」を大和朝廷の皇城に奉遷したところ、疫病が流行して人口の半ばが失われたので、「三品の大御宝」を皇城外に出すことにし、宮中には模造品を作製して納めた。

天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、大田田根子に大物主神を市磯長尾市に倭大国魂神(大和神社祭神)を祭らせたところ国は治まった。大物主神、倭大国魂神は、阿祖山太神宮大宮司職で、富士王朝の神皇格の神であった。

「記紀」だけでは、崇神天皇の御代になぜ疫病が発生して人口の半ばが失われたのか、なぜ天照大神を笠縫邑にお移ししたのか根本原因が分からない。「記紀」には大和朝廷に都合の悪い事は記録されていないからだ。

崇神天皇の御代に起きた凶事の根本原因は、崇神天皇が富士阿祖山太神宮に納められていた「三品の大御宝」を、天照大神の遺勅を無視し、権力を行使して大和朝廷にお移しした事だと理解する事は、その後の日本史を理解する上で重要であると思う。

3、串呂の構築と元伊勢クシロ

元伊勢伝承の皇祖神・天照大御神の各地巡行は、神風串呂構築の旅であり、各地の産土神うぶすなしん地霊ちれい)に神風串呂構築の協力を呼び掛ける遊説ゆうぜいであった。元伊勢クシロは神風クシロである。天照大御神が、伊勢にお鎮まりになったのは、串呂の超重要起点(基点・根拠地)をここに置くためだった!

福知山市内宮
京都府福知山市大江町内宮

元伊勢伝承を長年研究した山田雅晴氏によれば、天照大御神が、各地を巡回したのは、元伊勢神宮による結界を張るためで、古神道では結界のことをクシロといい、「元伊勢クシロ」という皇室守護の結界を張るためだったと述べています。(『続・太陽の神人黒住宗忠』146頁、たま出版)

この「クシロ」は串呂(くしろ)であり、当時の人々に串呂と言っても理解させることが難しかったのと、極秘で構築していた為、皇室守護の結界を張るためと言っていたのです。

第11代垂仁天皇の第4皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が、八咫鏡を奉戴して、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を巡回する道中で、京都府福知山市大江町の「内宮」(元伊勢神宮)、三重県三重郡菰野町の「御在所山」「田原市日出町・神戸町」などの重要な地文が命名された事蹟が明らかになっている。

また、重要串呂地文である滋賀県高島市の白鬚神社の社記によると垂仁天皇の25年(第11代・2000余年前)、皇女倭姫命が社殿を御創建(御再建とも)されたと伝承されている。

このように、倭姫命の各地巡行は、皇室守護の結界を張るためだけでなく、神風串呂を構築する為だった事は、倭姫命が、近畿地方のみならず、愛知県三河地方を巡回されたことからも明白と思われます。

愛知県岡崎市幸田町高力熊谷の「高力神明宮」の社伝には「垂仁天皇の御世・倭姫命が天照大御神を奉じて三河路巡幸の際、この地で休息された。その跡地に天照大御神を創祀した古社なり」とあります。

また、田原市神戸町の神明社の由来記には神明社の次に「遠江国浜松へ遷幸された」と記されています。天照大神は、倭姫命と共に各地を巡回して、地方の神々に串呂構築への協力を要請されたのだと推察致して居ります。

神戸神明社
田原市神戸町の神明社の由来記

愛知県田原市 神戸の神明社(ゆるり♪のぼちぼちゆこう〜ꕤ*。゚)

以上の事から、神風串呂には、天照大御神を始めとする日本神界の神々が大きく関与(主宰)していることは明らかでありますし、神風串呂の構築が開始されたのは、今、分かっているだけで、この天照大御神の各地巡行の頃であると言えるかと思います。(およそ2000年も前の事です!)。

4、串呂の淵源「佐久クシロ」

この件については、下記を参照ください。

皇大神宮内宮から「佐久」を鑑る! (№6)

5、皇大神宮内宮を起点とする神風串呂


内宮の南側の神域である伊勢市宇治今在家町の神路山かみじやまの神路は、「かむろ」と読むことが出来ます。

神路=かむろ=串呂です。

神路山(かみじやま)は三重県伊勢市宇治にある山域で、南方面から伊勢神宮の内宮(皇大神宮)へ流れる五十鈴川上流域の流域の総称である。

『神路山- Wikipedia』

皇大神宮内宮は、串呂の一大拠点でありますので、串呂を別の言葉で表わした神路山が存在するのであります。

「御鏡は石鏡だった事を昭示する神風串呂(№17)」(Google地図)


(三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」50頁)

(1)二所の宗廟から牧平大門を鑑る!藤太夫島 と佐久島(№4)
 (ア)内宮と牧平大門との神風串呂(№4-1) 
(2)皇大神宮内宮から藤太夫島を鑑る! (№5)
(3)皇大神宮内宮から「佐久」を鑑る! (№6)
(4)御鏡は石鏡だった事を昭示する神風串呂(№17)
(5)北陸朝廷の存在を昭示する神風串呂 (№20)
(6)玉置山 伊勢の内宮 串すれば 我が日の本の 元ぞ知らるる(№27)
(7)皇大神宮内宮と応神天皇御陵とを結ぶ神風串呂(№34)
(8)縦横無尽にリンクしている神風串呂の世界(№35)
(9)「内宮」「外宮」「白鬚神社」の神風串呂 (№46)
(10)皇大神宮内宮と興国天皇御陵の神風串呂 (№59)
(11)皇大神宮内宮と船山御陵の神風串呂(№63)
(12)皇大神宮内宮と妙覚塚の神風串呂(№73)
(13)皇大神宮内宮と松良天皇御陵の神風串呂(№91)
(14)皇大神宮内宮と綾子姫命御陵の神風串呂(№96)
(15)武雄神社と皇大神宮内宮との神風串呂(№97)
(16)皇大神宮内宮と萩村寓居の神風串呂(№104)
(17)八尺鏡野と皇大神宮内宮との神風串呂(№111)
(18)運命の赤い糸・三浦芳聖結婚の神風串呂(№137)
(19)内宮と後村上院御陵とを結ぶ神風串呂(№187)
(20)天照と皇大神宮内宮の神風串呂(№223)
「天照」-「⛩松尾大社」-「⛩皇大神宮内宮
(21)新発見-⛩元伊勢内宮と⛩皇大神宮内宮の神風串呂!(№373)
「豊岡市竹野町」-「久美浜町神谷」-「⛩元伊勢内宮」-「南丹市日吉町」-「⛩上賀茂神社」-「甲賀市信楽町」-「⛩皇大神宮内宮」-「的矢湾」

6、浅野和三郎の天照大御神宇宙神説

 私は超物質界の居住者を二種類に分類し、「自然霊」「帰幽霊」と呼び分けている。前者は一度も肉体をもって物質界に生まれたことのないエーテル的存在。後者は物質的肉体を捨てて帰幽した人霊その他である。取り扱い上かりにそう決めたまでであるが、大体において当を得ていると思う。
    むろん私自身も「自然霊」という用語の内容が非常に広汎にわたっていることを知らないわけではない。が、心霊知識の普及していない現在において、しばらく分類をこの程度に止めておくことが賢明と考えたのである。
 ところが、マイヤースの通信を紹介するには、そろそろこの分類だけでは不十分になってきた。何となれば、彼は死後、自然霊の世界を探って、そこに二つの別種の存在を突き止めたからである。その一つを彼は「日界人」(ソーラマン)と呼び、もう一つを「原素霊」と呼んでいる。これらの用語が妥当であるか否かは別問題として、その通信内容が私の研究結果とほとんど完全に一致していることは事実である。
 マイヤースのいう「日界人」とは、太陽をはじめとする恒星の内的世界に居住する第一エーテル的存在で、古神道にいう「天津神」(あまつかみ)であろう。私はその世界を太陽神界と呼んでおり、その主宰神である天照大御神は、人間から言えば事実上の宇宙神なのである。次に「原素霊」というのは地球をはじめとする遊星の内面に居住する第二エーテル的な存在で、古神道で「国津神」(くにつかみ)というのはこのことであろう。国津神を地上の物質的存在、つまり原始人と見做すことはとんでもない勘違いで、すぐれた第六感的能力者には、そうした存在がはっきりと認識されていたのである。私はこの世界を地球神界と呼んでいる。(後略)
(『スピリチュアリズムと宇宙哲学』近藤千雄116頁、浅野和三郎抄訳『個人的存在の彼方』(マイヤース著)の評釈より

7、参考資料

皇大神宮内宮

神路山(かみじやま)、島路山(しまじやま)の麓、五十鈴川のほとりに鎮座する皇大神宮は、皇室の御祖神であり日本人の大御祖神である天照大御神をお祀りしています。

今から2000年前、皇位のしるしとして受け継がれる三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)をご神体として伊勢の地にお祀りし、国家の守護神として崇める伊勢信仰は平安末期より全国に広がりがみられました。現在でも全国の神社の本宗として特別に崇敬を集めます。

皇大神宮内宮の画像 
『ウィキペディア(Wikipedia)』皇大神宮

8、御在所山の名の由来  文 郷土史家 佐々木

広報こものトップ  歴史こばなしバックナンバー 第290回

 古くから御在所山の名のおこり、いわれには次のようなはなしが伝えられています。
 垂仁天皇の皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が 天照大神の神霊を奉じて、大和の笠編 (かさぬい) の宮から伊勢の五十鈴川の川上へお遷しする とて長い旅をされました。そのとき桑名の野代 (のしろ) から亀山へと向かわれる途中、 菰野あたりで一時、仮の屯宮を設けられたことから御在所、 すなわち御在所山とよばれるようになったと。
 これは菰野の里に伝わる単なるはなしですので、その大本 (おおもと) の神宮に伝わる「倭姫命世記」と 「神宮儀式帳」から、倭姫命の歩まれた巡幸の道すじをたどって見たいとおもいます。
 初代の神武天皇から三十二代目の崇峻天皇までは神話の時代で、 三十三代推古天皇からが日本の有史のはじまりと言われています。 その倭姫命は第十一代の垂仁天皇の皇女ですので、二千年も昔のはなし になります。
 まず最初の大和の①御諸 (みむろ) の宮は、いまの桜井市三輪山の麓、 檜原神社といわれ、そのあたりに皇居もあったようです。 ②宇陀の阿貴 (あき) の宮、そして初瀬街道を歩まれて、榛原の③佐々波多 (ささはた) の宮、そして伊賀の④穴穂の宮、 ⑤柘植 (つみえの) 宮、伊賀から近江へ向われて⑥ 淡海 (おうみ) の坂田の宮、そして関ヶ原は不破の関を越えられて美濃国の ⑦伊久良 (いくら) の宮へ。 ここからは川舟を使われて、伊勢国へ⑧桑名の野代の宮へ上陸されました。そして伊勢の野 を進まれて⑨小山 (こやま) の宮へ。 それからは伊勢路を⑩藤方片樋 (ふじかたかたひ) の宮、 ⑪飯野の高宮、⑫多気の佐々牟江 (ささむえ) の宮、 ⑬磯 (いそ) の宮、⑭家田田上 (やだのたがみ) の宮、⑮度会 (わたらい) の五十鈴川上の宮と進まれています。
 このほか甲賀の日雲の宮、尾張の中島の宮、 多気の滝原の宮との異説もありますが、おおよそ十五ヶ所の順に旅を経られて、 今の五十鈴川のほとり神路山に宮居を定められました。
 この巡幸の経路においても鈴鹿山地の近江の 坂田の宮から、伊吹山の麓、不破の関を 通り、美濃の伊久良の宮ではこの国の国造 や県主から舟二隻の献上を受け、ここから揖斐の 大河を舟で川下しもの桑名まで下り、野代に上陸されたよ うであります。 太古の昔は野代まで伊勢の海が進入していたようです。
 野代の宮からは御衣野(みその)、古浜、笹尾、鳥取、北大社、 南大社、市場、中野、川北、下村、宿野と歩まれて、そ れからは三滝川沿いに上られ、いまの湯の山駅西の江田の 神明あたりに足をとめられて仮屯宮を設営されたように思われます。 その屯宮跡か、江田神明社が明治末までありました。 宮の前の三滝川は御幣川とよばれたこともあり、この辺の 景色は倭姫命の時代と、今もそう変わりはないはずです。
 菰野からは宿野峠を越えて坊主尾、青木、伊舟、川崎、岩森、椿世 (つばいそ)そして亀山の野村、 鈴鹿川の北岸に足を止められて、仮屯宮をされたようです。 その跡がいまの忍山神社です。
ここから西へ登れば鈴鹿の関、そして天下の険の鈴鹿峠、 千年の昔もいまも変らぬ交通の要所です。
 地図を広げていただくと、桑名の野代の宮から亀山の忍山宮の 関に間に、わが菰野の里がちょうど中間に位置しています。 そして西の国と東の国に背で分ける鈴鹿山地の中心に、 御在所山はどっかりと鎮まっています。
 なお、倭姫命が最も愛された甥の日本武尊が東国出征から帰り、 鈴鹿の能褒野で亡くなられたという物語も、なにか繋がりが あるように思われます。

9、神明神社 旧鎮座跡

神明神社 旧鎮座跡【5】記録に残しておきたいメモ書き|福井県 (tukinohikari.jp) より転載

記録に残しておきたいメモ書き

「丹波の国から・・」という伊勢神宮遷宮伝承が残されている・・

 穴馬の伝説と民話のコンテンツからの引用です。
 ↓一番よく伝承がまとめてあると思います。

伊勢三ケ村

九頭龍川の支流伊勢川の谷間にある。「越前国名蹟考」に「上中下三カ村本枝不知」とあり、三村に分かれていた。

 上伊勢、中伊勢、下伊勢と通称される。

西の伊勢峠を越えて西の谷(現大野市)に通ずる穴馬道沿いにあり、峠下集落の機能を持っていた。

上流の字大伊勢にある神明社(祭神 天照皇太神)は、伊勢神宮が今の地に移る前に、一時この地にあったと伝え、村人は(皇太神宮)と呼ぶ。

本殿の神体は十一面観音で、室町後期の作であると云う。村は浄土真宗の門徒で、上伊勢、中伊勢、下伊勢に各道場があった。

そのうち下伊勢道場には天文六年(1537)八月付の画像本尊が伝えられた。

下伊勢には天正九年(1581)の教如書状があり、伊勢、下伊勢などの名が見えるが、偽文書との見方も多い。

中伊勢からは、縄文時代中期から後期に属する遺跡が発見され、磨製石斧、石棒、土器などが検出されている。

 (伊勢皇太神宮にまつわる伝承)
► 昔、丹波の国からここへお伊勢さんが移って来た。そして全国の人が御参りに来た。当時は三十六社(又は46社)あって栄えていた。その後本社が三重の伊勢に移り、ここに奥の院、八幡様、薬師如来の三社が残った。
その他にも末社があったが、だんだんさびれたので、末社の神様は、お祓い杉の根元に埋めた。百年ほど前は、壊れたご神体を拝むことが出来たが、今はふさがって見えない。

► お伊勢さんには別伝がある。
ヤマトタケルのミコトの時代に、ヤマトヒメノミコトが戦乱を避けて五十年日本中を逃げ歩いていた。その時穴馬の伊勢にも数年滞在した。

► 明治維新までは、三重県の伊勢から二-三十年毎に大太夫がお参りに来た。大太夫は供を七人連れて来て、庄やの岸名(高橋次郎)の家に泊まった。宿にはチリメンの幕をはり、宿からお宮さんに参る道にはバラス敷き(あるいは盛砂をして)両側にアサガラを植えて、シバガキを作った。その道を大太夫は衣冠束帯で参拝、太夫(村にいる神主)達はエボシ姿で案内した。拝殿を昇り、奥の院の前の四角石、これを拝石という。その石の上にコモを敷き、その上に座ってノリトする。

拝石の上には他の人は昇らせない。今でも普通の人が、ここに座るとバチが当たるという。その夜はアワモチをついて、太夫やお供に祝いした。岸名には、今でも大太夫をごちそうした時のお膳がある。

► お宮さんには神様の御用金がいけてある。その場所は、歌で示されている。
「立てば前、座ればうしろ、朝日もさすが、夕陽もさす、白いつつじの下にある。」
どこにあるか夢にでも見たいと村の人が思うがなかなか見つからない。ある人が夢に見て、堀に言ったが何も出なかった。 朝日さし、夕陽さすところとあるから、山の手に違いない。
座れば後ろというのだから、斜面になったところだろう。

► 下伊勢の神田(しんでん)と云う所は、松原で、昔は神社がたくさんあったらしい。和泉式部が、ここに参って乳をしぼった。  
その跡が(式部田)と云う田になっている。この田の稲株を煎じて飲むと、女の人の乳が良く出るようになる。

 ↑以上が穴馬の伝説と民話のコンテンツからの引用でした。

元伊勢伝承が残されている・・
元伊勢の原像(一) -廃村に立つ石碑-からの引用です。

どうやら倭姫命が日雲、坂田宮の後に遷幸されたとする美濃国の「伊久良河宮(いくらかはのみや)」の比定地のようだ。このような山間部に元伊勢伝承が残されているとは思いもよらなかった。


💌読者の皆様方の御支援をお願いします!

串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により調査研究・執筆活動が維持されています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方の絶大なるご支援に感謝しています!


🔴神風串呂を学びましょう!


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
・・・・・
🎀皇祖神からの伝言-神性敬遠の二千年(鈴木超世志著)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
💟開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道(鈴木超世志著)
🎀串呂文庫 コピーサービスのお知らせ(🌷新着)


🟡バックナンバー(総合)

🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

*******************
🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
*******************

串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により活動が維持されています。理解しやすい記事作成のために諸般の費用が掛かります。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方のご支援に感謝しています!