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内宮と牧平大門との神風串呂


💟ご挨拶

串呂哲学研究会 鈴木超世志

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。

串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。 地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

ここでは、伊勢の皇大神宮内宮大和朝廷蒙塵もうじんの地・牧平大門の串呂をご紹介しています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


1、神定の蒙塵の府・牧平大門

天照大御神の御神諭に基づき、神皇正統第百代・大宝天皇(美良)が、五皇一体の再現・八幡大明神・三浦芳聖降誕までの神皇正統家蒙塵の府と定めた牧平町大門を、我が国二所の宗廟のひとつ、皇大神宮内宮の神様に鑑定して頂く神風串呂をご紹介します。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第七章

三浦芳聖の著書によれば、「最後の内伝の天皇である大宝たいほう天皇(美良よしなが親王)は、応永元 年(1394)、遠州京丸に於て松良天皇とその皇后綾子姫の第一皇子として降誕し、応永17 年(1410)、三州萩に於て松良天皇より譲りを受けて践祚、永享えいきょう10戊午年(1438)、三州切越に隠棲し、爾来じらい16年間、大般若六百巻を念書し、至誠通神、享徳3年(1455)、天照大御神から御神諭を賜って牧平大門に移住し、三種の神器を地下深く埋蔵して天之岩戸籠りとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗って三浦藤太夫と称した」とあります。

 (三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』要約)

2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。


3、内宮と牧平大門との神風串呂

三浦芳聖は、三重県伊勢市の内宮と岡崎市牧平町大門とを串呂すると下記のようになると述べています。

内宮と牧平大門との神風串呂

⭕地文の住所は上記の串呂図でご覧ください。

【地文のみ掲載】
⛩皇大神宮内宮-二見浦夫婦岩-佐久島-天子蒙塵の地・牧平大門

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)⛩皇大神宮内宮(こうたいじんぐうないくう、三・伊勢市宇治館町)

皇大神宮内宮
三・伊勢市宇治館町 皇大神宮内宮(地図マピオン)

皇祖・天照大御神をお祭りする我が国二所の宗廟の一つ。超重要串呂起点。串呂主宰神をお祀りする神風串呂の基点です。 神宮HP

『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されています。

その「皇大神宮内宮」の皇祖天照大御神に「天子蒙塵の地・牧平大門」(愛知県岡崎市牧平町)を鑑定して頂くという設定での神風串呂です。

【参照】皇大神宮についての詳細はこちらを参照ください。

(2)二見浦夫婦岩(ふたみがうらみょうといわ、三・伊勢市二見町江)

二見浦夫婦岩
夫婦岩
三・伊勢市二見町江 (地図マピオン)

二見浦は「ふたみうら」とも言う。「ふたみうら」「みょうといわ」で、見浦(三浦)と夫婦になった(婚姻関係を結んだ)と解釈する。正統天皇が三浦氏と婚姻関係を結んで三浦の姓を名乗っていることをあらわす。

二見という地名は、伊勢神宮(内宮)から流れてくる五十鈴川が、二見を挟むように東西二手に分かれて伊勢湾に注いでいることから、「二水」に由来すると言われている。それが景勝地ゆえに二度も振り返る「二見」に変わり「倭姫命がその美しさに二度振り返りご覧になったため」と言われるようになった。「二見について(賓日館)より」

(3)佐久島(さくしま、愛・西尾市一色町)

佐久島
愛・西尾市一色町(地図マピオン)

大宝天皇の皇后「三浦佐久姫」を表す地文。

天子蒙塵の地(牧平町大門)は、享徳3年(1454)、大和朝廷の嫡皇孫・大宝天皇(三浦藤太夫)およびその皇后三浦佐久姫によって開基された住居であります。

佐久島は、その際、物心ともに三浦佐久姫の支援が大きかった事を表わします。牧平大門は文字通り、三浦佐久姫の島(しま)です。

【参照】三浦佐久姫についての詳細はこちらを参照ください。

(4)牧平町大門(まきひらちょうだいもん、愛・岡崎市牧平町大門)

牧平大門
愛・岡崎市牧平町大門 (地図マピオン)

大門だいもんは、「おおみかど」と解読します。
大御門おおみかど大帝おおみかど=天皇(または皇居)という意味と解釈します。

三浦家の系図によれば、天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵もうじんの地」であり、大宝天皇以降、三浦家累代460年間の住居です。

ア、大宝天皇蒙塵の府、享徳3年(1455)、切越町から移住。
イ、三浦芳聖降誕地、明治37年(1904)9月17日。
ウ、五軒小屋(男系相続維持対策) 
エ、内宮から経線緯線に対し45度の方角にある。
オ、豊富神社(白鬚大明神)を奉祀

【参照】牧平町大門についての詳細はこちらを参照ください。

4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

[皇大神宮内宮]-[二見浦夫婦岩]-[佐久島]-[天子蒙塵の地・牧平大門]

皇大神宮内宮から天子蒙塵の地(牧平町大門)への串呂線上に、二見浦夫婦岩、佐久島が存在することは神風串呂がいかに的確なるものかを物語っています。

二見浦夫婦岩(ふたみうらみょうといわ)は、大宝天皇が見浦(三浦氏)と婚姻関係を結んで三浦と名乗った事を表わしています。

「佐久島」は大宝天皇の皇后三浦佐久姫を表す地文です。この串呂から、神皇正統家の天の岩戸篭りに当って、三浦佐久姫が、物心共に大きな働きをしたであろうことが想像できます。[天子蒙塵の地・牧平大門]は、正に「三浦佐久姫の島」であります。

驚くべき事には、この串呂が経線緯線に対し、45度の角度であることです。測量技術が未発達の享徳3年(1454年)に、寸分違わず罫線緯線に対し45度の角度の位置に天子蒙塵の府(牧平町大門)が立地しているのです。

三浦家に伝承された古記録が正しいことを証明する神風串呂です。

【参照】南朝正統皇位継承論11 富士谷の伝説2
1、崇神天皇、三種の神器を奉遷
2、天照大神の両朝融和計画と元伊勢クシロ
3、両朝融和計画の起動


🟡バックナンバー

🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№4)
🟢次号(№4-2)

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串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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