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牧平町大門(愛知県岡崎市)


1、大門とは

大門(だいもん)は、「おおみかど」と解読します。大御門(おおみかど)=大帝(おおみかど)=天皇(または皇居)という意味と解釈します。

2、愛知県岡崎市「牧平町大門」について

(1)天照大御神のご神諭により牧平大門に移住

 大宝天皇は、永享10年(1438)戊午、愛知県岡崎市切越町に隠棲し、大般若600巻を念書し、後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良、五皇一体の八幡大明神を降誕せしめて必ず天下を平定し給わん事をと、皇威回復を熱祷祈願されました。

満16年間にわたる大般若600巻の写経が満願に達した享徳3年(1454)、その至誠が天照大御神の御心に達し、天照大御神の御神諭のまにまに、大宝天皇は愛知県岡崎市牧平町大門に移住されました。

(2)神定の日本天皇蒙塵の地

 大宝天皇は、満16年間の行願満ちて至誠通神、図らずも天照大御神より「後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良五皇一体の八幡大明神を降誕せしめ、必ず天下を平定せしめるから、今は三種の神器を地下深く埋蔵して天の岩戸篭りとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗りて三浦藤太夫と称し、牧平大門に移住して、子々孫々天運循環の時を待て」という主旨の御神諭をこうむられました。

三浦家の系図によれば、大宝天皇は、享徳3(1454)年、天照大御神の御神諭のまにまに、牧平大門に移住し、三種の神器を地下深く埋蔵して、皇后三浦佐久姫(建武の中興で活躍した富士大宮司家、三浦氏の嫡女)の姓を名乗り、三浦藤太夫と称し純然たる百姓となられました。

(3)五皇一体の八幡大明神の降誕予定地

牧平町大門は天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵(もうじん)の地」であり、大宝天皇以降、三浦家累代 450年間の住居であります。

明治37(1904)六白金星甲辰9月17日、神武、応神、後嵯峨、後村上、松良、五皇一体の再現・八幡大明神、三浦芳聖の降誕地であります。

(4)皇大神宮内宮から45度の方角 

不思議なことは、天照大御神をいつきまつる皇大神宮内宮から、天照大御神の神定の地「牧平大門」への方角は、経線緯線に対し、45度の角度であることです。

測量技術がまだ未発達の享徳3年(1454)に寸分違わず罫線緯線に対し45度の角度の位置にある牧平町大門に移住したのであります。この事からも天照大御神の御神諭があった事を確信できます。

(5)五軒小屋(男系相続維持対策)

大宝天皇は牧平大門に移住したのち、牧平大門に5人の皇子を住まわせて、どの三浦家も男系相続であることを掟とされました。これを神風串呂では、五軒小屋(ごけんごや、長野県下伊那郡平谷村)という地名で表わしています。

すなわち男子孫が絶えた時には、この5軒の三浦家の中から養子をもらって大宝天皇の男性遺伝子を継承することができるように配慮されたのです。

この掟は明治37年(1904)9月17日、三浦芳聖が降誕するまで続いていました。【参照】吹嵐の中、昼神・神明降誕の神風串呂 (№112)

五軒小屋2
長野県下伊那郡平谷村

3、牧平町大門に関する神風串呂

岡崎市牧平町大門に関する神風串呂は下記を参照下さい。

4、豊富神社 

御祀神・【猿田彦命】【天照大御神】
【建御名方命】【豊受姫命】【大山祇命】
【須佐之男命】【仁徳天皇】7柱
崇徳天皇御代、永承3年(1134)12月18日・近江国(志賀県)三井寺の住僧光件、近江国滋賀郡小松村鵜川より、白髭神社を当村深沼(暮田)に勧請し尊号を深沼大明神(白髭大明神の別号なり)と称し、神職を立て神領を納め同時に神宮寺を建てて自ら別当となる。後、明応2年(1493)3月・神宮寺、浄心阿闇梨(あじゃり)男川の辺りに遷座し奉る。後、男川の辺りは水音高く水難多き故に、明暦4年(1658)2月29日・三浦長太夫助廣、現今の所に遷座す。其の後、氏子中に闘争起り鹿勝川・細野・光久など地を分かつ事7ヶ所、当村即ち牧平には本社を残すのみ。後また明和7(1770)年・再建す。
明治5壬申歳10月12日・村社に列せられる。祭神・猿田彦命は社口社と称して奉祀しありしを、明治11年3月・当社合殿に祀れり。
明治24年11月24日・午前3時に籠屋から出火し同4時40分鎮火す。此際畏くも本殿に延焼し、社殿は遂に鳥有に帰したり。幸いに御靈代(みたましろ)・古文書などは焼失の難を免れ鳥居及び境内神社(世々子見堂と称す)等、また類焼の難を免れたり。仝年12月1日・氏子一同、本殿再建の議を決し直ちに金穀(きんこく)・木材等を寄附し、仝月14日・起工式を行ひ、明治25年3月・本殿及び雨覆(あまおおい)等、竣工したるを以て、4月27日・御靈代を神殿に遷座し奉り、仝年8月14日・拝殿新築の工を終わる。
祭神「天照大神」「大山祇命」は仝村大字鹿勝川字宮越に村社神明宮、仝合殿・山神社と称し、祭神「建御名方命」「須佐之男命」は仝村字鹿勝川字辻に無各社・諏訪社と称し、「天照大神」は仝村大字鹿勝川字宮下に無各社・神明社と称し、豊受姫命は仝村大字牧平字大崎に無各社・御鍬社と称し、各々鎮座の處、明治41年3月3日・許可を得て仝月15日・合祀の上、豊富神社と改称す。
明治44年12月27日・神饌幣帛料供進の神社に指定せらる。大正3年7月25日・許可を得て境内神社若宮八幡社(祭神・仁徳天皇)を合殿・社口社と共に本殿に合祀す。
額田郡神社誌によると、
境内神社として八柱社が鎮座していましたが、今は見当たりません。
「神社とおいちゃん」岡崎市と神社「豊富神社」


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串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
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