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⛩皇大神宮内宮と船山御陵の神風串呂(№63)

この記事は、神皇正統家極秘伝神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。

串呂(クシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した元伊勢クシロの事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。

ここでは、「皇大神宮内宮と船山御陵の神風串呂」をご紹介し、詳しい解説をしています。船山御陵とは、小松天皇と長慶院法皇の菩提陵のことです。地元では、船山一号墳、⛩上宿うわじゅく神社と呼ばれています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


1、三河吉野朝の建都と神風串呂

愛知県蒲郡市大塚町大字相良に「天皇山」という丘陵がありました。

昭和18年(1943)発行の山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』によると、後醍醐天皇亡き後、南朝の宮廷は、三河吉野朝建設時に「熊野本宮」と「皇大神宮」とを結んだ線上の丘陵に「後醍醐天皇の御剣と法華経巻」を納めて「後醍醐天皇の副陵」とし「天皇山」と名付けたと出ています。

これが事実なら、南朝の宮廷は、新都建設に当たって方位学(串呂のこと)を意識していた事が明瞭ですし、また「延元」の次に「興国」と改元したのは、「三河に新都を建設して新国家を興す」という意味が込められていたように思われます。

残念なことには、この「天皇山」という名の丘陵が、戦後になって削り取られて消滅し、今は住宅地になっている事です。なんという事でしょうか!

本来なら重要史跡として保存されなければならない貴重な遺蹟が消滅してしまったのです。これは、まことに由々しき事態で、民族の「根」が切り崩されている事に気づかなければなりません。

この悲劇は、高度経済成長という幻に眩惑げんわくされた国民全員の責任でありますが、外国軍による占領支配を許し、日本民族に取って重要な遺跡の保存を放棄してきた日本国政府には大きな責任があると思います。

今回は、「皇大神宮内宮」と「幻の天皇山」および小松天皇と長慶院法皇の菩提陵「船山御陵」を結ぶ神風串呂をご紹介します。


2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。


3、⛩皇大神宮内宮と船山御陵の神風串呂

三浦芳聖は、「皇大神宮内宮」(伊勢市)と、小松天皇と長慶院法皇の二人の菩提陵「船山御陵」(愛知県豊川市八幡町上宿)とを串呂すると、次の様になると述べています。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第四章

三浦」(紀北町)-「皇大神宮内宮」(伊勢市)-「廟社神明宮」(蒲郡市)-「大塚町天皇山」(蒲郡市)-国府町(豊川市)-「船山御陵」(豊川市)-「市川大門」(市川三郷町)-「川浦」(市川三郷町)-「日之出」(笛吹市)-「」(小山市)
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第4章146頁、現住所に改め一部研究の成果を盛込んだ。)

【地文のみ掲載】
三浦-皇大神宮内宮-廟社神明宮ー大塚町天皇山-国府町-船山御陵-市川大門-川浦-日之出-鏡

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)三浦(みうら、三重県北牟婁郡紀北町)

三浦皇統家をあらわす地文。串呂哲学の世界では、「後醍醐天皇の御名は三浦(紀北町)である」という設定になっていまして、後醍醐天皇以降の神皇正統の天皇の重要串呂上に「三浦」という地文が出て参ります。

この紀北町の「三浦」は、三野瀬の三浦といいますが、三浦皇統家や三浦芳聖に関連した串呂上の重要地文です。

【参照】「三浦」についての詳細はこちらをご覧ください。

(2)皇大神宮内宮(こうたいじんぐうないくう、三・伊勢市宇治館町)
皇祖天照大御神をお祭りする「わが国二所の宗廟」の一つで、八大串呂起点のひとつ。天照大御神は、神風串呂の主宰神。ここでは、「天照大御神」に「小松天皇船山菩提陵」を鑑定して頂くという設定での神風串呂です。

皇大神宮内宮
皇大神宮内宮(三・伊勢市宇治館町)(地図マピオン)

【参照】皇大神宮内宮の詳細はこちらをご覧ください。

(3)廟社神明宮(びょうしゃしんめいぐう、愛・蒲郡市大塚町)
愛知県蒲郡市大塚町西屋敷74番地に在る神社で、現在は、神明社という。祭神は天照大御神、豊受皇大御神。

【由緒】大墓、大草、御園の地に興った古い神明社である。天文10辛丑年(1541)大塚、城主岩瀬河内守氏安が再建という。社蔵の棟札に元和8年(1622)12月23日、奉造営神明社廟社、祢宜小林五良大夫とある。

「神鳳抄」の神宮御厨の地の神明社で榊、神田、神田川という地名が残っている。明治5年2月、神明宮を神明社に改められ、同9年6月13日、村社に列し、同40年10月26日、指定社となる。昭和10年5月社殿を造営、同16年5月、幣殿、神庫を改造した。神明社(大塚町)

蒲郡市大塚町神明社
廟社神明宮(愛・蒲郡市大塚町)(地図マピオン)

(4)天皇山(てんのうざん、愛・蒲郡市相良町
愛知県蒲郡市大塚町大字相良に在った丘陵。現在は蒲郡市相良町(住宅地)になっている。串呂哲学上の地文としては「大塚町」で、大きな墓(天皇の墓)を表わす。

この天皇山は後醍醐天皇の副陵で、そのため地名が「大塚」(大きな墓=後醍醐天皇の御陵)と名付けられ、廟社神明宮は、熊野本宮、伊勢神宮とこの天皇山を結んだ線上にあるので、俗称「大墓御薗神明宮」と言ったという三河吉野朝の資料を掲載しておきます。(下記の神線・神風線呂は、この神風串呂のことです。)

下記資料から分かることは、興国元年(1340)以降の三河吉野朝の建設時に、串呂(神線・神風線呂)が考慮されていたこと、そしてその内容が口碑として昭和時代まで伝承されていたということです。

神線とは未だ世間に知らざる人あらんを虞れ、其の意義を略述せんとす。吾皇室は天照大御神を第一に崇拝あらせ給へるは既に諸賢の知悉する所なり。大日本は神國なりと記せし通り。皇室の非常時に當り御遷都を定め給へるは大神と大神との貫線に定め給ふものである。これが皇国の神風線呂にして紀伊の熊野本宮と伊勢の神宮との一直線上の延線は三河國宮内荘の天皇山に當る。 後醍醐天皇吉野の行宮に崩御し給ひ塔尾陵へ納め奉り、御剣と法華経巻とは三河の天皇山に納め奉り、吉野町の中心地の宗神となし、都を神線上に定め給ふ。されば正平十四年四月二十九日新待賢門院御津府に崩し給ふや。例の天皇山下大原陵に納め奉つれるも右の神線に副ひ奉つれるなり。伊勢の神宮と天皇山の貫線に當る地点に廟社の存在は、天皇山の廟社にして俗称大墓御薗神明宮之なり。依て現今大塚と唱ふるは天皇山の存在による。其後吉野朝の皇陵の廟社となり。宮内荘に於ける異彩を放つ神明宮である。廟社と本宮山の中間貫線上は即ち天皇山と天龍寺に當りて 後醍醐天皇の奥院を神示する所なり。(山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』90頁)

蒲郡市相良町
愛・蒲郡市相良町(地図マピオン)

(5)国府町(こう町、愛・豊川市)

豊川市国府町
国府町(愛・豊川市)(地図マピオン)

国府は、国の府で朝廷を表わす地文。国府(こう、こくふ)は、日本の奈良時代から平安時代に、国司が政務を執る施設が置かれた場所や都市があった所です。串呂では「国家の政務を執るところ=朝廷=皇居」と解釈します。

*船山古墳(御陵)の南西に国府町が串呂していますので追加しました。この国府町地区(豊川市森、小田渕町)に長慶院法皇の仙洞御所「錦門御堂」(王田殿)がありました。森は望理から、小田渕は王田渕から来ています。

【参照】
仙洞の御所は総社と御所との中間に在りしものならん。右の貫線上に日落、行歴、印辺、菰敷の地名現存して其名残りを止む。御所の所在地に総持院あり、総社と対して朝廷御勅裁の寺院なりしと伝えらる。

『三河吉野朝の研究』43頁 山口究宗堂 昭和15年/1940年
新漢字・新仮名遣いに変換し句点を補った。

(6)船山御陵(ふなやま御陵、愛・豊川市八幡町上宿)俗称「天皇山」

豊川市船山
船山御陵(愛・豊川市八幡町上宿)俗称「天皇山」(地図マピオン)

船山御陵(ふなやま ごりょう)は、応永18年(1411)小松天皇37回忌・長慶院法皇3回忌に松良天皇が制定した小松天皇(実父)と長慶院法皇(養父)の二人の菩提陵で、松良天皇の隠棲地「萬松山大通寺の薬師堂」から見渡せる位置にあります。俗称「天皇山」「船山」。

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船山御陵のある上宿神社

この菩提陵は、船山古墳という古代古墳跡を利用して建立されたものであり、この船山古墳の後円の部分が上宿(うわじゅく)神社=天皇神社で、小松天皇と長慶院法皇の二基の墓石が残っています。

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船山古墳の二基の墓石

地元では春秋二季「天皇神社」の幟旗を掲げて祭礼を行う慣例になっています。(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』143頁)。

天皇神社幟小

山口保吉著『三河吉野朝の研究』巻頭写真

船山古墳(愛知県豊川市八幡町上宿33)

上宿(うわじゅく)は、神宿(かみじゅく)の諺文(隠文)。地元では、この古墳(丘陵)は平安朝時代に三河守であった大江氏が姫の遊場に築造したものと伝説しています。(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』143頁)。

船山は佛説より起因し神代の天の浮橋の義なり。世界を済ふの道は彼岸に達せざるべからず、船なくして聖徳を普く弘通する能わず。依て天皇の御功徳は佛徳と同ふし釈尊に喩へしを以て。鎮寿し奉り御山を船山と尊称し奉る。
(山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』86頁)

(7)市川大門(いちかわだいもん、山・西八代郡市川三郷町)
「大門」(だいもん)と同文同種の地文で「おおみかど」と解読し、大御門(おおみかど)=大帝(おおみかど)=天皇(または皇居)という意味と解釈します。ここでは、小松天皇が神皇正統の天皇であったことを昭示する地文。

(8)川浦(かわうら、山・西八代郡市川三郷町上野)
川浦は、「三浦」の諺文、符号。川を横にすると「三浦」となる。

(9)日之出(ひので、山・笛吹市石和町四日市場)
天津日嗣をあらわす地文。ここでは、小松天皇が神皇正統の天皇であったことを昭示する地文。

(10)(かがみ、栃・小山市)

三種の神器のひとつである「御鏡」を昭示する地文で、「鏡神社」があります。この小山市の「鏡」は、串呂哲学上、超重要な地文です。下記の神風串呂を参照ください(旧住所は下都賀郡間々田町でした)。

【参照】鏡を基点とする神風串呂

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第三章

三浦(十津川村)と守義との神風串呂 (研究ノート№57)
「三浦」(十津川村)-「守義」-「中田」-「聖岳」-「鏡」(小山町)

三浦」(紀北町)-「⛩皇大神宮内宮」-「」(小山町)

現在地図検索で確認できる「」という地名は以下の4ヶ所です。
(1)滋賀県蒲生郡竜王町大字
(2)栃木県小山市大字
(3)長野県北安曇郡松川村
(4)佐賀県唐津市

御在所山と在りし日の三浦芳聖家との神風串呂 (№30)
倭文神社」-「御冠山」-「由良」-「」(竜王町)-「御在所山」-「在りし日の三浦芳聖家」

4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

三浦-皇大神宮内宮-廟社神明宮-大塚町天皇山-国府町-船山御陵-市川大門町-川浦-日之出-鏡

皇大神宮内宮の天照大御神が、「小松天皇船山御陵」は神皇正統の天皇の菩提陵であり、その直系の皇孫は三浦と名乗っていることを立証している。

「三浦」-「⛩皇大神宮内宮」-「小松天皇船山御陵」-「鏡」の神風串呂です。三種の神器の象徴である「御鏡」は、小松天皇が継承し、その嫡皇孫は三浦であることを昭示する非常に重要な神風串呂であります。

この神風串呂は、昭和18年10月15日発行の山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』巻頭の「船山の聖地と長慶寺九ヶ寺略図」に下記のように出ています。
「⛩伊勢の大神宮」-「⛩廟社」-「天皇山」-「船山」-「本宮山」-「宇連山」-「聖山」(甲斐)-「卍長慶寺」(甲斐)

下記神風串呂(№28)とは、国府町(豊川市)でリンクしています。

三浦-皇大神宮内宮-廟社神明宮-大塚町天皇山-国府町-船山御陵-市川大門町-川浦-日之出-鏡

【参照】石清水八幡宮と三浦芳聖晩年の住所との神風串呂 (№28)
国府町地区-的場-天王-加賀美-大門-石清水八幡宮-国府町・天王山-玉垣町-国府町-三浦芳聖晩年の住所


🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
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🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№62)
🟢次号(№64)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。