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大宝天皇の御製を昭示する神風串呂(№8)

この記事は、神皇正統家極秘伝神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。

串呂クシロ(かんろ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

神風串呂は、地文ちもん(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学しんとうこうれいがくで、神国日本再建のために皇祖神によって構築されました。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。

ここでは、「大宝天皇の御製の串呂」をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!


1、串呂に昭示されている大宝天皇の御製

神皇正統第百代・大宝天皇は、神皇正統家の最後の天皇であるためか串呂に昭示されていると思われる御製(大御歌)が二首ある。

この御製の内の一首は、昭和6年(1931)文部省から『歴代天皇御製集』が発行されることになった時、三浦芳聖が元宮内大臣の田中光顕伯爵に嘆願して「長慶天皇の御製」として掲載されたという経緯がある。

その御製は「九重ここのへみぎりをめぐる三河水住み越し末は絶えじとぞ思ふ」という御製で、今回は、この大宝天皇の御製に関わる神風串呂をご紹介します。

2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。

3、大宝天皇御製の神風串呂(1)

大宝天皇は、応永17(1410)年、愛知県豊川市萩町に於て御父松良天皇より譲りを受けて践祚。その後、宮路山(豊川市)、三州作手(新城市)、桜井寺(岡崎市)、寺野(岡崎市夏山町)などに潜行。

永享10年(1438)、岡崎市切越町に隠棲され、満16年間大般若6百巻を念書、至誠通神、ご神諭のまにまに、享徳3年(1454)、牧平町大門に移住され、皇后佐久姫の姓を名乗って三浦藤太夫と称し、純然たる百姓になられました。

三浦芳聖は、『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(282頁)で、三浦家の系図に大宝天皇の御製として「九重の砌をめぐる三河水住み越し末は絶えじとぞ思ふ」という歌が記されてあり、その御製を昭示すると思われる下記の串呂を解明しています。

大日山(和歌山市)-九重(橋本市)-切越町(岡崎市)-卍寺野薬師堂(岡崎市)-御正体山(都留市)-卍新井薬師(中野区)

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第七章

【地文のみ掲載】
大日山-九重-切越町-卍寺野薬師堂-御正体山-卍新井薬師

【串呂の解釈】
「九重の砌をめぐる三河水住み越し末は絶えじとぞ思ふ」という大宝天皇の御製が「九重」「切越町」の地名の中に織り込まれているというのである。

御製の「砌」の石偏をとると「切」、「住み越し」の「越」と合わせると、地名の「切越」となる。三河水とはこの切越町の回りを流れる大平川、豊川、矢作川の三つの河川を指す。

「九重の砌(みぎり)をめぐる」の「九重」は「宮中または宮中のある所」砌は「場所、庭」の意味である。切越町は、大宝天皇の行在所(隠棲地)でありいわば九重(宮中)である。

寺野薬師堂は、御父・松良天皇を隠祀した薬師堂であると共に大宝天皇の行在所(写経の場)である。大日山は天皇を表わすので、ここでは大宝天皇を表わす地文。

「御正体山」は、その正体は何かを鑑定する重要串呂起点である。ここでは「寺野薬師堂」は、建物の規模は小さいけれども、大宝天皇が建立した勅願寺ですから、その正体は、東京都中野区新井の新井薬師(新井山梅照院薬王寺)のように堂々たる薬師堂であると解釈します。

【参照】この御製について、同上著(282~283頁)で、三浦芳聖は次のように解説しています。(  )内編集者。

 この御製の年号は(系図に)記してありませんので解りませんが(大宝天皇が)牧平大門にお移りになってからの御製であるかも知れません。「九重の砌」の「砌」と云う字の「石ヘン」を取ると「切」であり、「住み越し」の「越」とで「切越」となりますから切越の時の御製と思われますが、「牧平大門」は「大平川」を「玉」に例え、「豊川」を「鏡」に例え、「矢作川」を「剣」に例え、前は三河湾で「大平川」は「矢作川」に流れ、「矢作川」は三河湾に注ぎ、「豊川」もまた三河湾に注いでいますから、丁度「大門の皇居」即ち「九重の砌」をめぐっています。これを以てみると牧平大門での御製とも思われます。
 これは文部省が昭和六年に発行した「歴代天皇御製集」に「長慶天皇御製」としてあります。
 これは、実際は、(昭和4年2月)私が田中光顕伯と山口鋭之助先生に三浦皇統家の系譜を見て頂き、田中光顕伯から明治天王が松良天皇第四皇子「光良親王」の御子孫であることを聞かされて、『よく解りました。明治天王が松良天皇第四皇子の御子孫であることが解れば我また何をか言わん。然しながら何卒三河へ神皇正統の天皇が蒙塵(もうじん)されたことだけでも顕らかにして頂きたい。それが出来なければせめて大宝天皇の御製だけでも発表して貰いたい。』とお願い致しましたが、「大宝天皇」と云うことでは出来ないと云うことで、『それならば、長慶院法皇寛成親王には、大正十五年十月廿一日、大正天王の勅語を以て代からはずれていたと云うことで第九十八代におなりになったのだから、此の方は大宝天皇の外祖父であるから、長慶天皇の御製と云うことで載せて頂きたい。皇孫としての私がせめてその当時の大御心を安んじ奉る為に載せて頂きたい。』と涙をこぼしてお願いして、昭和六年文部省から出された「歴代天皇御製集」(335頁)に初めて載ったのであります。決して長慶院法皇が三河へおいでて切越にお隠れになったのではないのであります。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(282~283頁)

三浦芳聖が田中光顕に頼んで、文部省発行の『歴代天皇御製集』(335頁)に長慶天皇の御製として載せて貰ったという大宝天皇の御製「九重の砌をめぐる三河水住み越し末はたえじとぞ思ふ」は、『歴代天皇御製集』には「寄水祝」の題で「九重のみぎりをめぐるみかは水すみこし末はたえじとぞ思ふ」(天授二年・千首和歌)となっている。

【地文の解釈】(地名に地図がリンクしています。)
(1)大日山(だいにちざん、和歌山市井辺)

和歌山市大日山
和歌山市井辺 大日山(地図マピオン)

大日山は、天皇をあらわす。あるいは天皇に関する串呂を表わす。
大日は仏教の大日如来のことで、『天皇の本』(学習研究社・136頁)に

明治に神仏分離令が布告される以前、日本では、すでに大日如来は天照大御神と同一視されていた。天照大御神が太陽神であると同じく、無限無量の光を三千世界に照り放つ大日如来もまた太陽神であるから、両者は同じ神だという

とある様に「大日如来=天照大御神」は神仏習合の世界の常識である様です。

霊的には天照大御神と天皇は一体であるという解釈も成り立つので「大日=天照大御神=天皇」と解釈することも出来ます。

三浦芳聖は、大日を天皇と解釈していますが、大日=天照大御神で「天照大御神のご神諭により」切越町から牧平町大門に移住したと解釈することも出来ます。

(2)九重(くじゅう、和歌山県橋本市高野口町)

高野口町九重
和歌山県橋本市高野口町 九重(地図マピオン)

皇室、宮中、禁中をあらわす。ここでは大宝天皇の皇居(行在所)の意味。

(3)切越町(きりこしちょう、愛知県岡崎市)

切越町
愛知県岡崎市切越町 (地図マピオン)

切越町は、永享10年(1438)より16年間の大宝天皇の隠棲地。切越町中ノ坪地内山中にある御座所跡に遺跡(8基の石製の多層塔)があり、ここで大宝天皇の神霊写真の撮影が行われている。

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(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』286頁2の写真版より)

また、その麓には昭和27年現在、大宝天皇に扈従していた臣下の子孫と思われる兵頭、青山、本間を名乗る10戸余の人々が住んでいたという。
(藤原石山著『南朝正統皇位継承論』1988年版所収「三河南朝遺臣潜居史考」88頁「大宝天皇隠棲の地と伝える切越の多層塔」)

(4)寺野薬師堂(てらのやくしどう、愛知県岡崎市夏山町

夏山町寺野
愛知県岡崎市夏山町 寺野薬師堂(地図マピオン)
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寺野薬師堂(愛知県岡崎市夏山町)

寺野の大クス、薬師堂より転載

寺野の薬師堂は大宝天皇の行在所、樹高で愛知県一の大楠で有名。地元の古老は、お参りすると母乳がよく出るようになるので、「寺野のちち薬師」と呼んでいますが、

三浦家に伝承された記録には「大宝天皇」が御父松良天皇が陰暦8月8日(お薬師さんの正当日=縁日)の降誕ゆえ、薬師如来とし、皇后を毘沙門天として隠祀したので「父薬師」と称したと記されてあったそうです。正面のお扉に十六弁の菊花紋がついています。

『天皇の本』(学習研究社137頁)には「阿弥陀如来の西方極楽浄土を仏教発祥の地であるインドに見立てると、極東にある日本こそ薬師如来のつかさどる東方浄瑠璃世界ということになる。こうしたことから、日本では天皇がそのまま薬師如来に対応するとされた」とあり、薬師如来=天皇という解釈が成り立ちます。

(5)寺野薬師の大楠(愛知県岡崎市夏山町)

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(「寺野の大楠」より転載)

寺野の大楠より転載)

不思議な事に、この「寺野ちち薬師」には、樹高では愛知県第一位の大楠が聳え立っています。この大楠は、額田町を紹介するホーム頁に「薬師堂の屋根や村の家々を見守るかのように、それはそれは大きな枝を中央にかざし、巨大な根張りが雄大怪異で崖面に露出している。昭和43(1968)年11月4日に愛知県の天然記念物に指定された。樹齢千年、幹囲12メートル、根囲27メートル、樹高は何と36メートルあり、根元に立てばまさに霊感を覚える」と出ていました。

寺野薬師堂の大楠(「オカトピ」より転載)

楠は、南朝大忠臣大楠公の楠であり、木偏を取れば南で南朝方のシンボルでもあります。大宝天皇が皇威の回復を祈って切越町で大般若六百巻を念書した話は、串呂哲学とは(1)で述べましたが、切越町に近いこの寺野薬師堂でも熱祷祈願されたことと拝察いたします。 【参照】寺野の大楠

(6)御正体山(みしょうたいやま、山梨県都留市大野)

御正体山
山梨県都留市大野 御正体山(地図マピオン)

御正体山は、その正体を鑑定する重要串呂起点で、御正体山という名の山は日本で唯一、ここだけです。

ここでは「寺野薬師堂」は、建物の規模は小さいけれども、実際、大宝天皇が建立した勅願寺ですから、その正体は、霊的には東京都中野区新井の新井薬師(新井山梅照院薬王寺)のように堂々たる薬師堂であると解釈します。

(7)新井薬師(あらいやくし、東京都中野区新井)

新井薬師
東京都中野区新井 新井薬師(地図マピオン)

新井薬師は、薬師如来を祀る「新井山梅照院薬王寺」のこと。毎月8の日の縁日 は、大勢の人でにぎわう。10月下旬(28日頃)には大般若経六百巻転読法会が行われる。寺野薬師堂が大宝天皇が建立された由緒ある勅願寺であることを表わす。

4、この神風串呂の哲学的考察

この串呂は「九重」「切越町」の地名が、大宝天皇の御製「九重の砌をめぐる三河水住み越し末は絶えじとぞ思ふ」を昭示するとともに、大宝天皇の写経の道場であり、行在所であった寺野薬師堂の本質(正体)が、規模は小さいけれども霊的には堂々たる勅願寺であることを昭示しています。

その寺野薬師堂を守護するがごとく聳え立つ大楠は、樹高36メートル、幹周りは12メートルで愛知県内第3番目の大きさである。神々が、こうまでして神皇正統家の顕彰に努めていることの重大性を認識することが串呂哲学の要諦であると思います。

🔴バックナンバー(総合)

🟡情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№7)
🟢次号(№9)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。