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松良天皇(正良)

このオンラインブックは、神皇正統 第九九代 「松良天皇(正良まさよし親王)」について述べたものです。

松良天皇(正良親王)は、下記の略系図のように、明治天皇(睦仁)の遠祖である「光良みつなが親王」の父親に当る皇祖神であります。

神皇正統の皇統略系図『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 序文

🟢串呂について初めての方は下記を参照下さい。



1、概説

松良天皇、諱は正良(まさなが・まさよし)号成龍、神皇正統嫡皇孫三浦芳聖の遠祖で、神皇正統第99代の天皇・三浦皇統家第4代の天皇。

正平19年(1364年)8月8日生- 応永24年(1417年)5月24日崩(54才)
在位・文中2年(1373年)5月26日 - 応永17年(1410年)
父・小松天皇(興良)、母・興国天皇第二皇女・小室門院元子内親王。皇后・長慶院法皇王女綾子姫。

山梨県都留市法能の「富士の皇居」で降誕。元中5年(1388年)に足利義満自ら率いる15万の大軍の猛攻に遭い、富士の皇居が落城したため、遠州京丸へ落ちた。以後、遠州・三州各地に潜行、応永12年(1405年)頃、愛知県豊川市萩町に隠棲。

応永17年(1410年)長慶院法皇の崩御を知り、第一皇子美良親王に譲位。愛知県豊川市御油町西沢の萬松山大通寺薬師堂を開基、成竜法皇となる。応永24年(1417年)5月24日、行方不明。

御陵は遺品を納めた愛知県豊川市御油町筑前谷御坊塚(おんぼうづか)。

2、生涯の歩み

(1)富士の御所にて御降誕

松良天皇は、正平19年(1364年)甲辰年8月8日、富士の御所(山梨県都留市法能)にて御降誕、御父 小松天皇(興良)と御母 興国天皇皇女 小室門院元子内親王。第二皇子。幼名は佐山宮正良親王。             
(三浦芳聖『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』228頁)

【参照資料】鶴=都留市
寄郡祝 
君が代の千世の日嗣の行末は鶴の郡の民や知るらん(藤原政為/碧玉集)
「南朝史の研究」(神原信一郎)

法能

串呂哲学上の符号は「和田」。別称、尊聖、成徳、玉川宮、佐山宮、成龍法皇。明光院成徳大士。

文中2年(1373年)5月26日、小松天皇より譲りを受けて践祚。10歳

父・小松天皇(興良)が秋葉城の戦いに敗れ、今川氏の手の者により捕えられ京都に連れ去られた後、獄中にて崩御されたので、南朝副統・長慶天皇(寛成)が小松天皇の名代として松良天皇の摂政に就任、養父となった。

松良天皇は寛成親王に「太上天皇」落飾後は「長慶院法皇」の尊号を贈った。

文中2年(1373年)8月、長慶院法皇と伊予国に渡る。(日本史蹟)10歳

 文中二年八月、賊将山名氏春南山を犯したてまつる。長慶天皇難を避けて紀州高野山にみゆきせさせ給ひ、御飾おんかざりおろして覚理かくり法皇ととなへさせ給ふ。当時新田氏は既にほろび、楠木正儀は法皇に服し奉つらず、天下に頼らせ給はんもの唯征南、征西両将軍のはすのみ。
 西南将軍満良みつなが親王は四国にはし、征西将軍懐良かねなが親王は肥後にはします。両親王ともに法皇の御叔父なり、法皇すなわち両親王に頼りて南朝の恢復を計らせ給はんとおぼし召し、高野聖僧行人と称して伊予国いよのくに越智郡神戸郷高野玉川の里御旗寺みはたでらに着かせ給ふ。
 供奉の人々は御きさきならびに御子尊聖親王を始め奉つり、日野従一位、北畠前関白、四條前内大臣、洞院中将、門脇中納言、武士には楠木正勝、おなじく正秀、河野通政、おなじく通定等の面々亦僧衣をまとふて従い奉つる。

(日本史蹟 地の巻 466~467頁、句点を補い新漢字に改めた)

天授2年(1376年)~天授5年(1379年)頃、長慶院法皇、小室門院元子内親王と共に三河の御所(豊川市国府町地内・望理原)に行在したと思われる。但し、正良親王の東宮御所は三河玉川御所、豊橋市石巻町嵯峨「春興院」(藤原石山)13歳~16歳

天授4年(1378年)5月2日、長慶院法皇、吉野朝を出で全国遊説の旅に出る。(『後太平記』)18歳。

松良天皇もこの長慶院法皇の遊説に同道していたようで、越後国寺泊(長岡市寺泊)に逗留中に当地の豪族の姫との間に皇女が生まれたようだ。
(三浦芳聖)
(豪族には五十嵐・池・風間氏がいる)

天授5年(1379年)9月20日、後醍醐天皇皇女・宣政門院懽子内親王が玉川宮で長慶天皇の身代わりとして自刃され長慶門院と尊称した。
(和歌山県九度山町明野宮の伝説・藤原石山)。
【参照】懽子(きんし・よしこ)内親王。

これは、小室門院元子内親王が三河の佐脇の御所(宝飯郡御津町)に行在せられ、北朝方の攻むるところとなり、豊川市国府町小田淵付近の王田殿に於いて懽子内親王が身代わりとなり薨くなられたことを伝えるものである。小室門院には天授五年九月三河で崩御した如く世間に見せひそかに富士谷の隠れ城に移ったのである。
 (藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』11頁)

天授5年(1379年)9月、三河の御所が崩壊後は、富士谷の御所(山梨県富士吉田市大明見)に移り行在した。(藤原石山)19歳

天授6年(1380年)1月6日、青木和田尉盛勝戦死。和田城(三河国)落城。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』)

天授6年(1380年)5月9日、楠正儀、三河赤坂落合城の合戦で戦死(51才)法名「明徳院光全大士」。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』)20歳

元中2年(1385年)9月10日、長慶院法皇が高野山丹生社に宸筆の「雌雄」願文(国宝)を奉納する。22歳

元中5年(1388年)、富士谷御所粉砕される。

三浦芳聖は、三浦家の系図に、「小室門院桑年の御時(48才)、富士の皇居は、足利義満自ら率いる15萬の大軍に乾皮無きまでに粉砕された」と記録されていたと述べています。

室町幕府の第三代将軍足利義満が、元中5(1388)年、駿河で富士山を遊覧したという記録があります。

・・・元中5年/嘉慶2年(1388年)には駿河で富士山を遊覧し・・・
  (『ウィキペディア』足利義満#家督・将軍職相続

三輪義凞著『長慶天皇紀略』には、同じ年の元中5(1388)年、義満が武運長久祈願と称し富士谷に下向したと、下記の様に記されています。

元中五戊辰〔1388〕年六月四日、足利将軍義満、武運長久祈願と称し、富士谷に下向す。是より先、南北両朝に偏倚〔へんい〕せずと称したりし、富士神宮の大宮司、三浦越中守義勝の、新田義宗等を指呼して、足利氏と戦ひ、戦死せし以来、足利氏、深く富士谷を疑ひ、常に間諜を縦〔はな〕ちて、之を詗〔うかが〕はしめ居たりしが、今や、其疑ふべきもの多かりかるけるにや、義満自ら大軍を率いて来る。六月二日、義満来ると告ぐるものあり。谷谷の上下、沢々の貴賤、皆な色を失ふ。測ち、畏れ多くも、院は皇太后及び諸皇子と、前関白藤原師基・三条景家・藤原隆家・児島高徳入道志純・名和長重・其弟長生・得能通信等を、召し具して、御祖代山の桃沢の風泉池の宮を出御あらせられ、更に、奥深き沢へ潜幸なる。富士谷の諸将、争うて衛護し奉る。(三輪義凞『長慶天皇紀略』71~72頁、〔 〕内、編集者)

(2)吉野朝の皇太子に就任

元中7年(1390年)、正良親王、吉野朝の皇太子に就任。(『長慶天皇紀略』73頁)。院は長慶院法皇、天皇は後亀山天皇。両朝合一、ご講和の準備かと思われる。

正良親王が後亀山天王の皇太子に就任したことについては、三輪義熈『長慶天皇紀略』に下記の記録が有ります。

元中7年(1390年)
四月二十五日、吉野より、勅使藤原為忠、富士谷に下向して、院の第一皇子、正良親王を立てて、皇太子と為さむとの密旨をぞ伝へける。是より先、院の位を天皇に禅らせ給ひけるとき、自後、吾兄弟の子孫、互に更立をなさむことを約し給ひにき。故に、今や、天皇、位を院の皇子に禅らせ給はんととして、斯く勅使をして、皇子を迎へしめ給ふ。院、乃ち、皇子の傅、楠木二郎正光を、楠木二郎太夫佐正光と、其男五郎丸を、楠木五郎正道と改め賜ひ、共に、皇子正良親王を衛護して、勅使に従ひ、伊豆の三島浜より、海上御船にて吉野にぞ上らせ奉りける。尋て、立てて皇太子とぞなさせ給ひける。(三輪義熈『長慶天皇紀略』73頁)

上記の正良親王が吉野朝の皇太子に就任した件について、私の見解を述べてみます。

長慶院法皇は、南朝に「吉野朝」と「内伝の北陸朝廷」の二つの流れが有る事について、速やかにこれを一本化しなければならないとお考えになられた。その為には、三種の神器を継承している「内伝の天皇・正良親王」が吉野朝の天皇に就任する事でそれが可能であるとお考えになられたものと思います。

この方針を実行に移すには、後亀山天皇と長慶院法皇の流れが一代置きに皇位に就くことで解消できるとお考えになられたと推察致します。

元中9年(1392年)29歳
1月18日?  楠木正勝・正元が河内千早城で畠山基国と交戦するも敗走する。
10月13日 、将軍足利義満が阿野実為へ請文を送り、南北朝講和の条件を提示する。10月28日、後亀山天皇と廷臣・武士らが三種の神器を奉じて吉野行宮を出立する。閏10月2日、後亀山天皇が京都に還御し、嵯峨大覚寺に入る。
閏10月5日、後亀山天皇が譲位し、北朝が三種の神器を接収する(南北朝合一)。(『ウィキペディア』元中

(3)皇太子・正良親王和睦に応ぜず

元中9年(1392年)、吉野朝の後亀山天皇と足利義満との間で、南北両朝の和睦の話が進められる中、長慶院法皇の遠謀深慮に依って当時、吉野朝の皇太子であった正良親王は、ご講和(明徳の和約)に応じず、後亀山天皇と共に京都に赴くことに反対したため皇太子を廃されています。(小倉の宮伝)29歳

【参照】8、古文書・資料(3)小倉宮伝記(南北朝和睦秘史)

(4)京丸、萩町など各地に潜行

元中5年(1388年)、足利義満みずから率いる15万の大軍の猛攻に遭い、富士の皇居が落城した。25歳。

それ以降に、静岡県浜松市天竜区春野町小俣京丸などの安全な場所に移り隠棲していた。年月日不明。(三浦芳聖・大著240頁)

応永元年(1394年)には、京丸にて第一皇子・美良親王が降誕。31歳(三浦芳聖・大著244頁)

京丸にも危険が迫ったため、それぞれ各地へ落ち延び、松良天皇は樵夫に扮して山から山へ逃走し、各地に潜行。(三浦芳聖・大著244頁)

富士谷の隠城も北朝方の探知するところとなり、足利軍の猛攻に遇い皇子、皇女は逃れてしばし遠州京丸の山中に隠遁した。程経て山麓の気田に下り、秋葉城を経て浜松荘の長上村天王や入出城を廻り終いに三河に逃れ、渥美半島の神戸や設楽郡額田町の山中に亡命した。
 (藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』2頁)

応永12年(1405年)頃、三州萩(愛知県豊川市萩町)に隠棲。42歳
(三浦芳聖・大著244頁)

京都に倣って山陰川の上流と下流に上賀茂神社と下賀茂神社を建立した。(三浦芳聖・大著246頁)

大江氏が第四皇子・光良親王を奉戴して長州へ落ち、萩と命名。
(三浦芳聖)

応永16年(1409年)秋、養父・長慶院法皇崩御。(三浦芳聖・大著249頁)

応永17年(1410年)、三州萩に隠棲中、勤皇の士を募るために高野聖僧上人に扮して全国を行脚していた長慶院法皇が、応永16年(1409年)秋、駐留していた播磨国の城山で地元の武士団の襲撃を受けて殺害され、兵庫県河西市青野町西山で崩御したとの河野左衛門尉の注進に接し、もはや朝廷の回復覚束なしと、第一皇子・美良親王(大宝天皇)に譲位。成龍法皇となり、愛知県豊川市御油町西沢に萬松山大通寺薬師堂を開基して隠棲した。47歳
(三浦芳聖・大著250頁)

落飾後、河野左衛門尉に案内され墨染めの僧衣姿となって播州西山まで行脚し、長慶院法皇の菩提を弔った。(三浦芳聖・大著250頁)

長慶院法皇の御遺詔
ああ、朕惟(おもいみ)るに、楠藤富の三将は、天下四州無双の忠臣なり、朕国大日本国は、天照太御神の御国なり、朕祖々代々、三品の大御宝を添え、守護司居しおる処明らかなり、北朝は、国賊なり、足利は賊臣なり、四海皆兄弟なり、四州の忠臣の子孫は、皆三将の子孫と、供に国賊を亡ぼし、退治し、天照大御神を安堵に鎮座させまして、良民を助け、衰民を哀愍し、安穏致す事、伸べ望み畢んぬ  穴賢穴賢  天授五己未年九月十日 

( 『長慶天皇紀略』56頁、送り仮名を補い、新漢字、新仮名遣いに変換した。)

(5)成龍法皇、萬松山大通寺薬師堂を開基

三浦家墓地 (2)

応永17年(1410年)、皇位を第一皇子の大宝天皇に譲って成龍法皇となり、愛知県豊川市御油町西沢に萬松山大通寺薬師堂を開基された。47歳。
(三浦芳聖)

応永18年(1411年)、豊川市八幡町上宿の船山古墳に、父・小松天皇と養父・長慶院法皇の船山菩提陵を建立。48歳。(三浦芳聖)

萬松山大通寺薬師堂に隠棲中の応永24年(1417年)5月24日、三州平原(愛知県西尾市)に出張中、何者かにおびき出され、三州高浜の衣浦湾(愛知県高浜市)にて暗殺され崩御(54歳)。(三浦芳聖)

大宝天皇により、ひそかに葬礼が取り行われ、大宝山西明寺(豊川市八幡町寺前)に「明光院成徳大士」の位牌が残っていた(現在は御油の中西家で保管)。(三浦芳聖、藤原石山)

御陵は三州五井美吉原筑前谷(愛知県豊川市御油町筑前谷)御坊塚(おんぼうづか)。榎の大樹がそびえている。現在は三浦家墓地。

3、御油の地名と松良天皇

松良親王は長慶天皇の第一皇子にして。御山陵を拝し得る浄地を撰んで結庵し。薙髪法名成龍と號し給ふ。薬師寺を御建立遊ばされ。御山陵と薬師寺との中間貫線上なる永心庵の前庭に。消えずの御燈明を挙げ奉る。依て三河武士御油の料を献ず依て御油の地名の出ずる因となる。(中略)松良親王御坊に薨し給ひ筑前谷の御坊塚に葬り奉るに當り。船山と菩提院の貫線上に納め奉りしものなり。(山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』48頁)御山陵=船山陵

4、松良天皇御製

高き屋に煙をのぞむいにしへに 立ちも及ばぬ身をなげきつつ
浮島につもる思ひは深き江の 浪に漂ふ身のよるべなし

この松良天皇の御製は、『歴代御製集』(大政翼賛会施設部 編、1943年)の97頁に、長慶天皇の御製のひとつとして出ています。これは、三浦芳聖が、大政翼賛会の愛知県支部の錬成部長という要職にあったために、実現したものと思われます。

この『歴代御製集』の長慶天皇の御製は、13首掲載されています。この13首の中に、「九重のみどりをめぐるみかは水すみこし末はたえじとぞ思ふ」という御製が掲載されています(98頁)。「みどり」は、「みぎり」の誤植です。

大宝天皇の御製は、二首残っていまして、その御製の内の一首は、昭和6年(1931年)文部省から『歴代天皇御製集』が発行されることになった時、三浦芳聖が元宮内大臣の田中光顕伯爵に嘆願して「長慶天皇の御製」として掲載されたという経緯があります。

その御製は「九重ここのへみぎりをめぐる三河水住み越し末は絶えじとぞ思ふ」という御製です。

5、松良天皇の御陵と御油の松並木

松良天皇の御陵は豊川市御油町の松並木の南方の畑中にある。この御油の松並木は弥次さん、喜多さんで有名な「東海道中膝栗毛」の舞台になった所で、御油宿と赤坂宿の間に約600mにわたって茂っている。

昭和19年「国の天然記念物」に指定され、現在、約300本の松の大木が並んでいる。また近くに「御油の松並木資料館」があり、まるで松良天皇の御陵の存在をアピールしているかのようだ。

【参照】松良天皇御陵については、こちらをご覧下さい。

6、松良天皇の神風串呂

7、皇后綾子姫

松良天皇の皇后綾姫に就ては下記をご覧ください。

🟠綾子姫命(松良天皇皇后)

8、古文書・資料

(1)青木文献の松良親王

青木文献(別名千種文献)とは、豊川市御油町欠間の中西家に伝わる、南朝忠臣千種忠顕の子孫「青木平馬」が応永30年(1423年)と31年(1424年)に書き残した覚え書。

中西久次郎著『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』より、松良天皇に関係した箇所を抜粋。

寛成親王皇子松良親王三洲五井美吉原落給薬師寺建立開基成成龍号給成龍応永二十四年五月御坊崩

「寛成親王の皇子松良親王は三州五井美吉原に落ち給う。薬師寺建立の開基成り。成龍と号し給う。成龍は応永二十四年五月、御坊に崩ず」

松良親王 五井御坊塚ニ納ム

この「御坊」は、「おんぼう」と読むようだ。

『三河国宝飯郡誌』御油町雑項に〝遠夫塚 村の西方赤坂堺ニ近キ処、字筑前ヶ谷ニ■土俗「ヲンボサマ」トテ石祠の苔ニ覆ハレタルアリ。遠夫塚トハ是ナリ。然レドモ其由来詳ナラズ。現今細井五平ノ所有墓地ナリ。伝ヘ云フ、五平ノ先賀州ヨリ移ルノ時■白山の神ヲ負ヒ来レリ。故ニ「ヲンブ」ト云フ。「オンボ」ハ其ノ訛言ナリト。〟又『三河国名所図会』中巻宝飯郡の部に〝遠夫塚■当駅と赤坂の間並に松樹の南半町許にあり由縁未詳ならず〟とある。(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』46頁)(■は空白)

(2)西明寺の御位牌

豊川市八幡町西明寺に菊花紋の下に〝金剛心院皇夫大士〟〝明光院成徳大士〟と刻銘ある二基の古い位牌が現存する。長慶天皇と皇子松良親王の位牌と伝える。(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』47頁)

現在は豊川市御油町欠間の中西家で保管中。

(3)小倉宮伝記(南北朝和睦秘史)

皇太子正良親王御講和に応ぜず

文献的史料『小倉宮伝記』には、次のような記事が出ています。

 「元中九壬申年、北朝征夷大将軍足利義満、大内義弘、六角満高に命じて、南朝に申込みあり、(註、御講和)南朝の義士一決せず、亦北畠顕泰を以て南北両朝の血統伴天に御位に即く事(註、両統迭立)にて漸く評議決すれども、皇太子正良親王(註、長慶天皇の第一皇子)応ぜず、依つて北畠顕泰の取計いに依つて広成親王替て皇太子に立つことに一決し、日野右少弁邦氏を勅使として北朝に申伝うる処、足利将軍義満申して曰く、
 『我祖父尊氏、帝は大日本国の諸人民の司なるに依つて帝の諱は仁の一字を天皇代々に附け給ふ事に定め置くに依つて皇太子殿下の諱を改め実仁親王殿下としたる上、南朝陛下と共に京都に登り、北朝の帝に三種の神器を御授け給ふ上は御和睦仕る』
 と答へ給ふに依つて勅使は吉野に帰り、右の次第を言上し給ひ、御評議の結果和睦調ひ、京都に還行座まして、北朝幹仁天皇(後小松)に同年閏五月五日、三種の神器を授け給ひ御即位の式を行わせらる。依つて広成親王諱を実仁親王と改め、皇太子とならせらる。」(吉田長蔵著『新天皇論-菊のカーテンを開く』163頁/千代田書院/1952年)

この日記には「皇太子正良親王」(三浦皇統家系図では神皇正統の天皇)は、長慶院法皇の「徹底抗戦主義」の精神を守って、北朝(武家方)との和睦(実質降参)に賛成しなかったので、広成(良泰)親王が替わりに皇太子に立ち、後亀山天皇に付いて京都へ行ったことが書かれています。

後亀山天王御陵・勅使三串の神風串呂
京都市右京区の「後亀山天王御陵」には下記の串呂が解明されています。

【参照】後亀山院(熈成王)勅使3串の神風串呂(№185)

後亀山御陵勅使三串
(三浦芳聖著『串呂哲学(第一輯)-絶対真理の解明』1956年、15頁)

「小倉」-「勅使」-「東勅使」-「小倉」-「宮代」-「後亀山院御陵」-「勅旨」-「野村」

この串呂は南北朝時代の実に重大な「秘史」を語っているように思います。

南北和睦の件は、これを串呂の世界(天地神明)は、後亀山天王を勅使(天皇の使い)だと云うのですから、神皇正統の「正良天皇」が、「そんなに和睦したいのなら、偽の神器を持っていって、どんな結果になるかやって見よ」と心の中でご命令になったということであります。

その結果については、いまさら言うまでもないことですが、逆賊・足利義満一味の謀略に掛かり惨憺たる結末を迎えたのでした。
明徳の和約を参照のこと。)

(4)三州萩と長州萩 (明治天皇、松良天皇皇胤説)

三浦芳聖によると、松良天皇が隠棲していた三州萩から松良天皇第四皇子「光良親王」が大江氏に奉戴され、大内氏を頼って長州へ落ちて行き、出身地を忘れないため長州の方も萩と名づけたことや、3年に一回は連絡をとりあっていたという。
(三浦芳聖著『神風串呂』第140号1~2頁要約、1967年7月2日発行)

この『神風串呂』の記事を裏付ける資料が、愛知県豊川市萩町の下賀茂神社から発見されました。

下賀茂社の応永十六年の棟札に「地頭大江高広」の名があり、「姓氏家系大辞典」には、これを大江忠成の六世の孫であろうとしている。この高広のあとの大江氏の事跡がこの三州萩でぷっつり消えていて、どうやらこの高広が光良親王の長州落ちに関与していた如くである。

加茂喜三著(『富士〝隠れ南朝〟史』富士地方資料調査会288頁)

昭和4年(1929年)、田中光顕は「明治天皇は後醍醐天皇の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の先祖即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々萩に於て、この御王孫を守護してきた」と三浦芳聖に語ったという。

この満良親王が光良親王のことだとすると、明治天皇は松良天皇の皇胤ということになる。(この件は神風串呂で証明されています。)

(5)三浦皇統家系譜

「松良天皇」に就いて「しばし京丸に御駐留、皇太后崩御」とありましたが、「松良天皇」の皇太后は「小室門院元子媛命」で遠州榛原郡相良町大寄に御陵がありますから、京丸で崩御されたのは実際は「興国天皇」の中宮「藤原茂子」と思われます。
(三浦芳聖『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』240頁/小室門院元子媛命の御陵は、静岡県牧之原市大寄部ヶ谷台上の「妙覚塚」)

(6)纂輯御系図

長慶院 僧尊聖 母不詳、一云、長慶院猶子

(7)こうにん(皇人)太子伝説

 浜松市入野町竜雲寺に伝えられる「こうにん太子」は、松良天皇のことであると藤原石山氏が考証している。(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』15~16頁)
    豊橋市の杉山町の長慶寺にも「こうにん太子」の伝説があって、この王子も康仁親王ではないかとも云われた。長慶寺では弘仁太子を開基と伝え「月照院殿和光道泉大居士神儀」の位牌が安置されており、境内の椎の古木の根元に弘仁太子の墓と伝える室町期の五輪塔が現存し、地名を孝仁と書き杉山の八幡社に南朝王子光仁太子として合祀されている。この社の旧社地にも古木の椎の木があった。当時は文字はあまり用いず、言葉の音で伝えたもので、文字の意味を考えず当字でいろいろな字が使われ、書く人によってそれぞれ異なった字で書かれたのである。
    長慶寺の「こうにん太子」は、最近民俗資料を参考として考証の結果、長慶天皇の皇子と伝える松良親王に相当することが明らかとなった。(『渥美神戸久丸神社寝祭り考』参照)
 浜松市天王町は、昔長上村と云って昔から南朝王子の伝説が伝えられている。竹山家の伝えによると長慶天皇が天竜川を下ってこの地に移られ、青木御所に住まわれたと伝えている。天王町の大歳神社の社伝に合祀皇人と誌されている。(『静岡県神社誌』)
 入野の「こうにん太子」の伝説も松良親王の流浪を伝える伝説で、京丸を下った松良親王が御生母の小室門院元子内親王と妃宮梅子内親王と共に浜松荘長上村に身を寄せ、又入野城(竜雲寺境内)にも滞在になったものであろう。(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』16頁)

9、秘境遠州京丸

松良天皇の隠棲地のひとつに遠州京丸(静岡県浜松市天竜区春野町小俣)がある。この京丸については下記を参照ください。

【参照】遠州京丸について

10、松良親王と正良親王について

実は、松良天皇には贈名が有りません。『青木文献』には「寛成親王皇子松良親王」と記載され、『長慶天皇紀略』には、正良親王(尊聖)と記載されています。

まず、この松良親王(成龍法皇・明光院成徳大士)と正良親王(尊聖)が同一人物であるかどうかについてですが、下記の三点から同一人物と断定します。

(1)松良も成龍も正良も「しょうりょう」と読めること。
(2)松良親王が尊聖親王であることが判明している(下記資料)。
(3)松良天皇の神風串呂に、正良(まさよし、しょうりょう)を表わす、正善寺(しょうぜんじ・№29)、正吉(まさよし・しょうきち・№80)、善祥寺(ぜんしょうじ・№85)、正島(しょうじま・№89)、正法寺(しょうほうじ・№89)があること。

  松良親王の法号
 長慶天皇やその流れの王子を玉河宮と尊称することは史家の認めるところである。豊川市八幡町の西明寺に安置されている松良親王の霊牌の戒名に〝明光院成徳大士〟とある。この〝成徳〟は、成徳法印のことで、青森県中津軽郡相馬山の紙漉沢は長慶天皇並に皇子の尊聖親王がこの地に巡歴せられ、この皇子を成徳法印と伝えている。(熊田葦城著『日本史蹟』、尾上金城著『長慶天皇御陵考』)
 西明寺の松良親王の位牌の戒名に見える〝成徳〟は、尊聖親王の成徳に相当し松良親王が尊聖親王であることを証するものである。
豊川市豊川町の進雄神社の神宮寺であった徳城寺や一宮村西原の成徳寺を松良親王の遺蹟と考えることは、続編に詳説する。

(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』64頁)

尊聖(そんしょう)1375-1432 南北朝-室町時代,長慶天皇の皇子。
永和元=天授元年生まれ。真言宗勧修寺(かじゅうじ)の興胤(こういん)について出家。興継より灌頂(かんじょう)をうける。正長(しょうちょう)元年同寺長吏となった。大僧正。永享4年7月4日死去。58歳。佐山宮とよばれた。

下記の記録を見る限りは、勧修寺の尊聖権大僧正は、陽動作戦の為に立てた身代わりの方のようです。

この「身代わり」の件を理解するヒントとして、『長慶天皇紀略』では、正良親王と広成親王が同じ天授6(1380)年に生まれたことになっています。

天授6年(1380年)
三月十日、富士勝山谷の玉川の宮に於て、皇子誕生。母は、皇太后小室門院。其産室を、宝野の宮と称す。皇子を正良親王と名づけさせ給ふ。
(三輪義熈『長慶天皇紀略』62頁、旧漢字は新字体に改めました。)

前皇太子正良親王、時勢の推移を悟り、乃ち落飾して、吉野吉水院に入らせ給ふ。後、応永五年勧修寺に移り、同十一年、同寺の座主となり、尊聖権大僧正と号す。五十三才にて入寂。法名教尊大僧正と諡し奉る。
(三輪義熈『長慶天皇紀略』76頁、旧漢字は新字体に改めました。)

後醍醐天皇の聖旨を遵守し、長慶院法皇の薫陶を尊重して両朝合一に応じなかった正良親王が、「時勢の推移を悟り、乃ち落飾して」出家などするはずはありません。勧修寺に移ったのは「身代わり」に相違ありません。


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この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

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神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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串呂哲学研究会 鈴木超世志
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