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富士谷御所(大明見)の神風串呂(№71)

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。

串呂(クシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した元伊勢クシロの事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。

ここでは、「富士谷御所(大明見)の神風串呂を2本」をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!


1、南朝正統家の隠れ城だった大明見!

南朝史学会の藤原石山氏は、山梨県の富士谷(桂川上流の富士吉田市や南都留郡の山中湖周辺)に、南朝正統家の隠れ城(富士谷御所)が存在したことを考証しています。

富士吉田市大明見(おおあすみ)は、国内唯一の地名ですが、その南朝正統家の隠れ城(富士谷御所)が存在したところです。

山梨県南都留郡に「忍野村忍草」(おしのむら しぼくさ)という地名があります。国内唯一のユニークな地名です。この地名は、小室門院元子内親王が、隠れ城(富士谷御所)に忍んで住んでいた事を表わす地文です。

今回は、富士吉田市大明見が神皇正統家の隠れ城(富士谷御所)であったことを昭示する二本の神秘的な神風串呂をご紹介します。

2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。

3、富士谷御所について(参考資料)

山梨県の富士谷には南朝秘密大本営があったと伝えられ、問題の宮下古文書が富士文庫に所蔵されている。
富士谷の伝記によると、
「天授五年己未年前帝長慶院皇太后と陰に富士谷潜幸なる」
と誌るされている。
(『長慶天皇紀略』(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』6頁)

山梨県都留市桂川上流である山中湖の周辺は、富士谷ふじだにと称せられ、この地は、古来南朝関係の史実もあり遺蹟伝説いせきでんせつに富んでいる。山中湖西岸の山中に御所と呼ばれる地があり、高貴の館跡やかたあとと推定せられる遺蹟が現存して、宗良むねなが親王の御住居の御殿ごてんのあった所と伝えている。 

忍びて住みはべりし山里に梅花さかりなりしかば   
  梅の花うたて匂ひにおいしるければ     
  我が隠家かくれがも人や訪ふらん (梨花集 春) 

山里に住みはべりし頃よみける   
  草のいおり竹の編戸あみどのかりの世に      
  月も心をとめじとぞすむ (梨花集 秋)

この歌は、親王のこの里に詠まれたものである。  
名にたてる鶴のこおりの民なれば     
  千世ちよのみつぎもたえせざりけり (梨花集 雑)

これは、親王が年々の貢物みつぎものを欠かさぬ都留郡民の忠良を御讃へおたたえになった歌である。又正二位大納言藤原政為まさため卿の歌に
  
  君が代の千代の日嗣ひつぎ行末ゆくすえは      
  つるのこおりの民やしるらん (碧玉集)

があり、今から五百年前に詠じたもので、この一首をみても甲斐国かいのくに都留つる地方が皇室に深いゆかりあることが知れるのである。(中略) 

富士谷は、後醍醐天皇以来南朝方の近従が画策かくさくを計ったところで、藤原藤房ふじわらふじふさもこの地へ来られ、金剛坊はその遺蹟と伝えられている。又富士十二郷の総地頭富士大宮司の三浦氏は、南朝の秘密裏大将と伝えられ、南朝の正統を守護し、そのため京より多くの公卿も此地このちに移住した。大明見おおあすみは、さながら京都の町を縮小した如き観があり、この地方には今尚これを物語る地名や御所言葉(公卿言葉)と思われる古風な方言が残っている。三浦氏は姓を宮下と改め、大明見おおあすみの小室浅間神社の宮司家である宮下守氏の先祖は三浦氏と称し、㊂の紋を家紋としている。(以下略)

藤原丸山著「富士谷の史蹟と伝説」(誤記箇所を訂正した)

4、富士谷御所(大明見)の神風串呂

三浦芳聖は、富士吉田市の「大明見」を中心とした下記の二本の串呂を解明していますのでご紹介します。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第五章

(1)大明見と元町(さいたま市)の神風串呂

三浦芳聖は、富士吉田市の「大明見」とさいたま市の「元町」とを串呂すると次のようになると述べています。

吉田」(新城市)-「京丸」(浜松市)-「小室沢」(身延町)-「大明見」(富士吉田市)-「南元宿」(さいたま市)-「元町」(さいたま市)

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』189頁、現住所に改めた)

【地文のみ掲載】
「吉田」-「京丸」-「小室沢」-「大明見」-「南元宿」-「元町」

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)

ア、吉田(よしだ、愛知県新城市)
大明見の住所「富士吉田市」の吉田を表わす。大明見が良い御所であったという意味にも解釈できる。

イ、京丸(きょうまる、静岡県浜松市天竜区春野町小俣)

京丸

京丸は、松良天皇の隠棲地のひとつで、この神風串呂は実証の串呂である。地文としては、「京」に「皇居のある土地。みやこ」の意味がある。国内唯一の地名。

元中5年(1388年)、足利義満率いる15万の大軍の猛攻に遭い、富士谷御所が落城したため、松良天皇は側近の臣下と共に、越後の寺泊(てらどまり、新潟県長岡市)に逃れた後、遠州京丸(浜松市天竜区春野町小俣)に集結して隠棲していた。住所の小俣(こまた)は不便で困(こま)ったの意味。

応永元年(1394年)遠州京丸で、第一皇子の美良親王(大宝天皇)が降誕し、皇太后が薨去した。(三浦家系譜)

ウ、小室沢(こもろさわ、山梨県南巨摩郡身延町大島)
小室門院元子内親王の行在所を表わす。リンクの地図は右上の「地理院地図Vector」をクリックすると見られます。

小室門院という名称は『長慶天皇紀略』に出ています。「三月十日、富士勝山谷の玉川の宮に於て、皇子誕生。母は、皇太后小室門院。其産室を、宝野の宮と称す。皇子を正良親王と名づけさせ給ふ。」(三輪義熈『長慶天皇紀略』62頁、旧漢字は新字体に改めました。)

【参照】小室門院元子内親王についての詳細はこちらをご覧下さい。

エ、大明見(おおあすみ、山梨県富士吉田市)
富士谷御所のあった所。国内唯一の地名。

大明見
山梨県富士吉田市(地図マピオン)

オ、南元宿(みなみもとじゅく、埼玉県さいたま市桜区)
南朝の元子姫(小室門院)の御所・行在所を表わす。

カ、元町(もとちょう、埼玉県さいたま市浦和区)
小室門院元子内親王を表わす。

【この串呂の解釈と串呂哲学的考察】
「吉田」-「京丸」-「小室沢」-「大明見」-「南元宿」-「元町」

山梨県富士吉田市の大明見は、南朝の小室門院元子内親王の京(みやこ)であり、良い(安心して過ごせる)御所・行在所であったことを表わす。

(2)大明見と小室山(伊東市)の神風串呂

三浦芳聖は、富士吉田市の「大明見」と静岡県伊東市の「小室山」とを串呂すると次のようになると述べています。

小室山」(伊東市)-「忍草」(忍野村)-「大明見」(富士吉田市)-「」(山梨市)-「焼山峠」(山梨市)-「御所平」(川上村)

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』189頁。現住所に改めた)

【地文のみ掲載】
「小室山」-「忍草」-「大明見」-「南」-「焼山峠」-「御所平」

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
ア、小室山(こむろやま、静岡県伊東市川奈)標高321mの山

伊東市小室山

小室門院元子内親王を表わす。

小室門院という名称は『長慶天皇紀略』に出ています。「三月十日、富士勝山谷の玉川の宮に於て、皇子誕生。母は、皇太后小室門院。其産室を、宝野の宮と称す。皇子を正良親王と名づけさせ給ふ。」(三輪義熈『長慶天皇紀略』62頁、旧漢字は新字体に改めました。)

イ、忍草(しぼくさ、山梨県南都留郡忍野村)

忍草
山梨県南都留郡忍野村

忍野村忍草(おしのむらしぼくさ)は、富士谷の隠れ城に忍んで住んでいた(隠棲していた)ことを表わす。国内唯一の地名

ウ、大明見(おおあすみ、山梨県富士吉田市)
富士谷御所のあった所。国内唯一の地名。

大明見
山梨県富士吉田市

エ、(みなみ、山梨県山梨市)
南朝を表わす。

オ、焼山峠(やきやまとうげ、山梨市牧丘町北原)
足利義満率いる大軍に攻撃され、富士谷の御所が焼かれ、それを峠に落ちられたことを表わす。国内唯一の地名(山岳)。小楢山ともいう。

隣接する「乙女高原」は、小室門院元子内親王がこの地で乙女時代を過ごしたことを表わす。(元子内親王は、大明見小室宮下の館で降誕した。)

山梨市牧丘町北原(地図マピオン)

三浦系図によると、元中5年(1388年)、足利義満率いる15万の大軍に富士谷御所を急襲され、完膚なきまでに粉砕され焼き払われたという。

小室門院元子内親王は、遠江国(静岡県牧之原市大寄萩間)へ落ち延び言語に絶する艱難辛苦を味わい、応永元年(1394年)静岡県牧之原市大寄部ヶ谷に於て崩御され、牧之原市菅ケ谷の妙覚塚に埋葬された(54歳)。

【参照】「小室門院元子内親王」より転載
元中5年(1388年)、足利義満率いる大軍に富士谷の御所を急襲され、遠江国(静岡県牧之原市大寄萩間)へ落ち延び言語に絶する艱難辛苦を味わう。48歳。(小室門院48歳/桑年の御時、三浦芳聖)

上記の記述を裏付ける資料として、室町幕府の第三代将軍足利義満が、元中5(1388)年、駿河で富士山を遊覧したという記録があります。

・・・元中5年/嘉慶2年(1388年)には駿河で富士山を遊覧し・・・
  (『ウィキペディア』足利義満#家督・将軍職相続

カ、御所平(ごしょだいら、長野県南佐久郡川上村)
御所(行在所)を表わす。ここでは大明見の富士谷御所を表わす。

【この串呂の解釈と串呂哲学的考察】
「小室山」-「忍草」-「大明見」-「南」-「焼山峠」-「御所平」

南朝の小室門院元子内親王の京(みやこ)であり、御所であった富士の隠れ城(大明見)に忍んでいたところ、足利義満率いる大軍に攻撃され、富士の皇居が焼かれ、それを峠に都落ちされたことを表わす。

(1)吉田-京丸-小室沢-大明見-南元宿-元町
(2)小室山-忍草-大明見-南-焼山峠-御所平

上記の縦横に交差する二つの串呂は、地文がそれぞれ対照的になっている点、神秘的で串呂主宰神のご苦心が伺われます。

(1)吉田―――――(2)忍草・・・御所に対する状態を表わす。
(1)京丸―――――(2)御所平・・御所・行在所を表わす。
(1)小室沢、元町―(2)小室山・・小室門院元子内親王を表わす。
(1)南元宿――――(2)南・・・・南朝を表わす。

どちらも富士谷の御所を表わす、実に的確な地文が串呂していて、串呂主宰神の偉大さとご配慮がよく分かります。

【参照】御調町公文と大明見の神風串呂(№72)
「公文」-「神代町」-「南古都」-「新田」-「⛩松尾大社」-「鏡山」-「政所町」-「神守町」-「南山町」-「丸山」-「醍醐山」-「大明見」-「五辻」
【参照】『富士谷 長慶院仙洞御所略図』(不二草紙 本日のおススメ)


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🟡情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№70)
🟢次号(№72)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会 
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。