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南朝正統皇位継承論3-南朝正副二統皇位継承論に徹する!

南朝正副二統皇位継承論に徹する!

(1)吉野朝の正体は擬朝だった!

吉野神宮

南朝史学会の藤原石山氏は、「南朝には正副二統の天皇が存在し、吉野朝の天皇は南朝の擬朝(副統)であり、後醍醐天皇の正統を継承した守永親王の身代わりの天皇であったと見るのが正しいものと考える」として下記のように述べています。

南朝正統皇位継承論3
古本大系図

南朝の正副二統
南朝には、正副二統の天皇が存在し、吉野の朝廷は、南朝の偽朝(副統)であった。皇系系譜として最も信憑せられる『本朝皇胤紹運録』に吉野の朝廷を〝南方偽朝〟とあり、『古本大系図』には義良親王を〝偽主〟と断じている。従来の史家は、この〝南方偽朝〟とか〝偽主〟の意を北朝の朝廷に対する偽主と解釈してきたが同系譜が長慶天皇の即位を〝南方ニ於イテ自立〟と明確に認めていること、後亀山天皇が吉野から降服したことなぞ、この系図に誌されていることが史実であることは、疑いのないところである。
(藤原石山著『南朝正統皇位継承論』105頁/1988年版)

古本本朝皇胤紹運録上
古本本朝皇胤紹運録下

 吉野の朝廷を南方の偽朝とする
  『本朝皇胤紹運録』の資料価値
日本の皇系譜として最も信憑性のある『本朝皇胤紹運録』に長慶天皇の実父に当たる、義良親王を〝南方偽朝に於て君主と称し、後村上天皇と号す〟とある。従来この偽朝と云う意味を北朝系の人が書いたところから、京都の朝廷が正しい朝廷で、吉野の朝廷は偽朝であると解釈してきたが、この解釈は誤りであって南朝には、正副二統の皇統があって吉野の朝廷は南朝の偽朝即ち副統で義良親王は、後醍醐天皇の正統を継承した尊良親王の王子の俗に尹良王と伝える守永親王の身代わりの天皇であったと見るのが正しいものと考える。
 『本朝皇胤紹運録』『本朝皇系譜』『本朝皇胤紹運図』『日本紹運図』『帝王系図』『日本帝皇系図』等と題し、いずれも皇室の御系統を順次書き継がれて広く流布されている。
 この系図は、応永三十三年五月内大臣洞院満秀が、後小松天皇の仰せを奉じて作製したもので、この年は、後亀山天皇が崩御なさってニ年の後に当り、南朝の皇子や近臣も生存しており、これら皇子や近臣に聞き糺した上で書き上げ、後小松天皇も御承認になって題名を宸書なされたほどのもので、これが資料価値は論ずるまでもなく、おそらく南方の皇系譜として最も古い『古本大系図』の記事をそのまま引用したものであろう。
 従来は、義良親王を〝南方偽朝称君主〟又は〝熈成王自吉野降参〟と記せる意を誤解されていた。然し当時既に公に承認されていた最も有力な史料で、これが歴史の事実であることは一点の疑もないところである。(後略)(藤原丸山著『続南朝正統皇位継承論 尹良親王の伝説』14頁/1971年/南朝史学会、誤字を訂正した=8行目義長→義良、9行目守良→守永)

南朝では、正統の天子を天皇と称し、副統の天皇を帝(みかど)又は天王と称しました。後醍醐天皇も吉野潜幸以来南帝と申し上げています。(吉野上川村朝拝資料)
藤原石山著『長慶天皇の三河遷幸と諸豪の動き』(南朝史学会/1982年)

(2)『神皇正統記』の擬装を読み解く!

上記の「南朝正副二統皇位継承論」に徹し、吉野朝は陽動作戦による南朝の前衛であり擬朝であるとして南北朝時代史を読む解くと、これまでモヤモヤしていた事項が、霧が晴れた様にスッキリとして参ります。

北畠親房

その一つが北畠親房の『神皇正統記』の解釈です。この著書を北朝・武家方を欺く為に著わした、陽動作戦による「偽書」であり、敵方を如何に騙すかに腐心して書かれた著書であるという視点に徹して読み解くのです!

面白い事に、『ウィキペディア』神皇正統記に下記の様に書かれています。

ところが、実際には、21世紀初頭時点で、親房が本当は何を言いたかったのか、いまだに一致した見解が得られていない[4]。そもそも、誰に向けて、何のために書かれたのかすらも確定していない[5]。『神皇正統記』本文および『神皇正統記』評を読む時は、この点に強く注意する必要がある[4]。

この点に関し私は、神皇正統の天皇を守る為に、義良親王が後醍醐天皇の皇位継承者であるかの如く擬装する為に書かれた「擬装書」だと主張します。

下記は『神皇正統記』の一節ですが「全て敵方を騙す為に書かれた擬装書」であるという視点に徹して解釈するのです。

*後に芳野へいらせましまして、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。
*内侍所・神璽も芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。
*まへの夜より親王をば左大臣の亭へうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる。
*御母准三宮、藤原の廉子。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御こととぞかねてよりきこえさせ給し。
*秋八月中の五日ゆづりをうけて、天日嗣をつたへおまします。

蛇足ながら初心者の為に付け加えるなら、上記のような内容の書物がある事こそが、義良親王が守永親王の影武者である証拠だと見抜かねばならないのです。

もっとも、以上は北畠親房に対して好意的に述べている論であり、北畠親房が、義良親王を奉じて南朝を牛耳ようとしたと考えることも出来ます。そうだったかもしれません。

【参照】後村上院(義良)午年皇子説立証の神風串呂(№186)
「王院山」-「大馬木川」-「美女原」-「釜村」-「大忠」-「南山方」-「後村上天王御陵」-「後醍醐天皇御陵」

(3)『太平記』の擬装を読み解く!

雪の金ヶ崎神宮

『太平記』(巻17-8)にも、下記のように皇太子恒良親王が皇位を継承したように擬装されています。

但朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春宮に天子の位を譲て、同北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に不替此君を取立進すべし。(「立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事」)

皇太子恒良親王が皇位継承者でなかったことは既に考察済みです。

【参照】北陸朝廷3、北陸朝廷の天皇は誰だったのか(№19)

『太平記』巻21-4「先帝崩御事」の後醍醐天皇の御遺勅「第七の宮を天子の位に即け奉りて」や「先帝崩御の刻、遺勅を遺され、第七の宮を御位に即け進せ、朝敵追伐の御本意を遂げらるべし」についても同様です。

擬装ですから、わざと紛らわしい表現にしてあると見るのです。「第七の宮は義良親王」でよいのです。「第七の宮」が誰であるかを争う必要はないという事です。

延元4年8月15日の後醍醐天皇の綸旨「陸奥親王に御譲国し了ぬ」(五条文書)についても同様です。「陸奥親王は義良親王」でよいのです。陸奥親王が誰であるかを争う必要はないという事です。

*コラム・超世志のここだけの話
「南朝正副二統皇位継承論」と「串呂哲学」のお蔭で、南北朝時代の擬装を読み解く事が出来、遂に「百尺の竿頭更に一歩を進め得て」前人未踏の新境地に達する事が出来ました。三浦芳聖、藤原石山、両先生の学恩に心より感謝申し上げます。(2020年9月27日)

(4)後醍醐天皇の神霊かく語りき!

画像7

三浦芳聖は、『神風串呂解明』(昭和40年7月24日発行、通算125号)で、下記のように述べています。ここにも「擬装」が語られています。

後醍醐天皇は、延元元年10月9日、叡山に於て皇太子恒良親王に譲位したかのように擬装して尊良親王に譲位し、足利尊氏に騙されたかのように擬装して、偽器を用意して京都へ還幸されたと語られたと云うのです。

南北朝時代は、戦乱の世で、擬装、擬装の時代だったのです!だからこそ、神皇正統家の皇孫は今日まで続いているのです。

書物や文書はいくらでも擬装出来るので、串呂主宰神(天照大御神を始めとする日本神界)が、神風串呂を重要視される所以であります。

後醍醐天皇から三浦芳聖への霊示(要旨要約)
 昭和25年(1950年)8月15日、豊川市市田町諏訪林37番地に於て祭祀を厳修した時、正午から約一時間にわたって後醍醐天皇から次のような御神示がありました。「延元元年10月、比叡山に於いて足利軍に包囲されたとき高氏から起請文が寄せられたが、これは三種の神器を奪い取るための謀略であると見抜き、第一皇子の尊良親王に譲位した後、高氏の請いを入れて京都へ還幸したように装った。
 非常の場合であるので表向きは恒良親王に譲位したように見せかけたが、皇位は尊良親王以外には誰にも譲位していない。ただし「将来必ず守永親王に譲位する事」という条件は付けた。
 尊良天皇は金ケ崎の落城以前に守永親王に譲位し、義貞・義助らに女官二人を付けて杣山へ落とした。これらは神風串呂によって証明せられてある。後醍醐天皇の皇位を継承している神皇正統たる所以である。
 数ある皇子の中で尊治の尊という字は尊雲、尊澄などの法親王は別にして尊良親王以外には付けていない。」                  
『神風串呂解明』(昭和40年7月24日発行、通算125号)

(5)小松天皇の神風串呂

神皇正統第98代・小松天皇の神風串呂は下記をご覧下さい。

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串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)

情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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