親や子供の話題で、心の奥にズカズカ突っ込んでほしくないです。
私は幼い事から、親からの虐待をうけていた。
そのことが原因で、病気を発症したりもした。PTSDとも診断された。
私は、世間でよく聞く「子どもを愛さない親はいない」「どんな親でも子供を愛しているからそうするだけ」「親からの愛こそ、無償の愛」なんて言葉は、理想論か綺麗ごとだと思っている。
じゃなければ、そんなに愛している子供を、無償の愛を捧げているはずの親が、どうして胸倉をつかみ投げ飛ばしたり、泣いている子供を踏みつけたり、女に振られたのはお前みたいな邪魔者がいるからだ、お前なんか生まれてこなければよかったんだ、今すぐ死ぬか、一生かけて生まれてきたことを償え、なんて言うだろうか。
お前は奴隷だから、俺が許さない限り一言も口を聞くな、俺の言うことを聞かないなら捨ててやる、俺を怒らせたら死刑だからな、なんて、現代の日本でもまだそんなことをいう人間がいるのだと、誰が信じてくれるだろうか。
虐待をうけていたことは、名前や顔を知られている相手には、基本的に知られたくないことだ。
正直なところ、過去の辛い記憶は頭の片隅にできるだけ追いやって、”今”をできるだけ穏便に過ごしたい。
だから勿論、親の話なんか自分からはしないし、人に対しても振ったりしない。
同じ境遇の人がもしいれば、その話題に、同じように苦しむかもしれないと思うから。
だけど、そんなこと知りもしない人たちは、簡単に人の心の奥に踏み込んできて、土足で傷をえぐり、かき回す。
「結婚しないの?」「子どもは何人くらい欲しい?」「今は欲しくなくても、本当に好きな人と出会ったら、その人との子どもが欲しくなるよ」「自分の子供を愛せない親なんかいないよ」「どうして親に対してそんなひどい事言うの」「親とは仲良くしなきゃ駄目だよ」「今まで育ててくれたんだから、親に感謝しないと」
知らないから、仕方ない。
仕方ないけれど、どうしてこうも、「なんでもない世間話」の顔をして近づいてきては、グサグサと刺されなければいけないのだろう。
どうして、その話題をやめてほしい理由すら、説明することもできないのだろう。
幼少期からずっと虐待を受けてきたので、今でも子供を見ると自分の幼少期を思い出すのか、震えてしまい直視できません。
だから、子供を愛せる気がしません。自分の子供だったとしても。
育て方がわからないんです。正解を、見たことがないから。
愛された経験がないから。
それにテレビで、「虐待を受けて育った子供は、自分が親になった時、例え嫌だと思っていても、自らも同じように子供を虐待してしまう傾向にある」と知った時に、自分は子供を産まないと誓ったんです。
自分のように、大人になってもなお、過去の虐待に苦しむ子供を増やしたくないから。
自分のもとに生まれてきた子供が、可哀想だから。
そんな風に、会社で、レストランで、大勢の人がいる場所で、説明しろというのか。
今の時代、片親の人も、虐待を受けていた人も、子供を産めない人もたくさんいるのに、どうして未だにそういった話題に簡単に触れていいと思われているのかが、甚だ疑問だ。
まだ学生の頃、友達に「距離を感じる」と言われたことがある。
もっと親しくなりたい、私は親友だと思ってる、だからなんでも話してほしい、悩んでることを共有したい。
だけど、言えるだろうか。言ったとして、あなたはどんな顔で話を聞いて、第一声、なんというのだろう。
「親の事、好きにならないとって努力したんだけど、全部水に流そうって頑張ったんだけど、未だに考えるだけで手が震えるんだ。」
「親と喧嘩したとか、口うるさいとか、加齢臭で嫌いになったとか、そういうの聞くと、そんな程度のことで悩めるなんていいなって、卑屈になっちゃうの、やだよね。」
「どうしたら、床とか壁の傷見ても、虐待のこと思い出さずに済むのかな?」
「英語の授業でさ、家族を紹介してくださいってあったでしょ?あれで思い出してフラッシュバックして、だから英語の授業だけ受けられなくていつも休んでるんだー。」
「親が浮気してるから、近所に腹違いの兄弟がいてもおかしくないんだって。偶然会っちゃったりしたらどうしよう(笑)」
所詮中学生、高校生の友達が、そんな相談をされてもひいたり、言葉を失ったりせずに、これで親友だねって、隠し事なしだねって、なんでも話してくれたねって、言ってくれただろうか。
その他の悩みなんて、正直なかった。
家にいて、生きた心地がしたことがなくて。張り詰めた空気の中でいかに存在を消すかに必死になっていて、好きな男の子だとか、宿題が終わらないとか、テストの点数がとか、そんなこと、考えている余裕なんてなかったから。
これ以上、
人と話していて、悩み事を聞いていて、「くだらない」「そんなことで」と思いたくなかった。
「みんな、私と同じ思いをすればいいんだ」と、卑屈になりたくなかった。
「幸せそうな人間は消えてしまえばいい」なんて、関係ない人まで恨みたくなかった。
だから、
社会不適合者と言われても、冷たい人だとか、壁があると言われても、人付き合いが悪いと怒られても、どうしても、深い関係を築くことができなかった。
何も知らない人に、過去の傷を、えぐられたくないから。
本当のことを話したら、きっと抱え込めないようなまだ若い友達に、「なんでも話してほしい」なんて、軽々しく言ってほしくなかったから。
いざ包丁を向けられたら怯えて何もできないような彼氏に、「俺が守る」なんて虚勢張られるのが、憎くなるほど嫌だったから。
誰にでも、心の傷はある。
命に関わる重い病気をしたことがある人は、他人が軽々しく「死にそう」「死にたい」「咳が止まらないから重い病気かも」「癌かも」なんて口にすることで不快になるだろう。
訳あって妊娠できない人、子供を授かりたくない人は、「結婚したことだし…子供は産まないの?」「早く孫が見たい」なんて言葉を聞くのは嫌で仕方ないだろう。
様々な事情で異性を愛せない人は、「結婚してほしい」という親からの圧力に息が苦しくなるだろう。
人にはそれぞれの環境と考え方があるから、きっと私の発言だって、親ととても仲がよくて、または子供を心から愛している人からしたら、失礼な発言であって、間違っていると感じられるのかもしれない。
けれど私からすれば、虐待をうけた自分が「親は愛すべきではなくて憎むべき存在」とか、「子どもがどんなに親を嫌っていても、親は我慢してすべてを許すべき」なんて誰にも押し付けていないのに、そういう環境を知らない人たちは、「親のことは大切にするべき、子供なら親を愛すべき」とか、「親に育てられてきたのだから、多少のことには目をつぶって、感謝すべき」などと、自分たちの思想を押し付ける傾向があるように思う。
そういう人たちは、きっと幸せに育ってきたのだろうと思う。
その人たちからすれば大変だった人生だろうとしても、ずっと虐待を受けた自分からしたら、恵まれていると思える人生なのだろう、と。
傷ついた分だけ、強くなるとか、人に優しくなれるとか、
過去の辛い出来事から目を背けちゃいけないとか、きちんと向き合って克服するべきだとか、
ストレスに強くなれば大丈夫だとか、明けない夜はないとか。
一体、どんな人が言ったのだろう。どんな思いで言えたのだろう。
傷ついたら、それだけ心は弱くなったし、怯えることが多くなったし、幸せな人を心から祝福できなくなった。
過去のことを思い出すだけで、発作が起きて、文字通り、死ぬほど苦しい。
どんなに長年虐待を受けても、ストレスに強くなることはなかったし、親の存在から、過去の記憶から、PTSDから解放された日はない。
子孫を残すことが役目とか、命をつなげてとか、自分が貰った愛情を子供にも、とか。
私は、私と同じような境遇の子を作りたくない。
あんな親の血が流れる人間を、これ以上増やしたくない。
もし、あれが愛情というのなら、私は誰も愛せなくていい。
私の価値観は、わたしだけの心に留めておくから。
誰にも、強要したりしないから。
人との深い繋がりを、求めたりしないから。
自分のことを知ってほしい、相手のことも全部知りたいなんて、思わないから。
だから、どうか。
これ以上、心の奥に踏み込まないでください。
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