すなふ。

ゲームとPCが大好き。洋服も好き。見た目はふつう、中身は精神疾患持ち。

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最近の記事

カテゴライズされることは安心か嫌悪か

note、更新するの1年以上ぶりなんだ…去年とか結構更新してたのに、ってびっくり。んなことどうでもいいんだけど。 表題の通りですが、最近いろいろ思うところがあってこの記事を書こうかなって思います。 今回の記事は、前回の記事みたいに、今辛い人に何かを伝えたい!というものではなく、自分の中での考えを書き留めておく、という意図が強いです。 なので、結果とか出ないです。多分ずっと、考察は続くんだと思う。 きっかけは、自分がトランスジェンダーなんだってことをはっきりと自覚というか、

    • 「生きている」、それに価値がある。

      ※自殺とか、死ぬとか、そういう描写があるので、やばいかも、ってなんとなく思ったら、それはもう光の速さでブラウザを閉じてください。 ブラウザじゃなく、タブ閉じでいいけど。もっと言えば、お気に入りとかクリップして、大丈夫そうな時に読んでくれたら嬉しい。 今つらい、そういう人にこそ、読んでほしい内容でもあるから。 でも、辛くなるくらいなら、少しいろんな選択肢を保留にして、最後の最後に、読んでもらうのでも、全然いいです。 とある本を読んで、その本の内容に触発されて、記事を書こう、

      • 成宮くんの件について。”ゲイ”でも”許せる”ってなんですか?

        ここ数日、騒がれている成宮くんの件について。 (苛立ち隠せないのでものすごく口調荒いです、嫌な方はバックオーライで。) 現代でもこんな差別まだまだあるんだなーというのと、日本て先進国のクセして中身は未だこんな古い国だったのかよ…というがっかり感が否めない感じに。 ※薬物使用については賛否あるし、私はどっちの可能性もあると思っているのでここでは明記しません。 そもそも、私は人様のパーソナリティな部分に対して(勿論性癖とかだけじゃないです)、”偏見がない”というより、”誰し

        • 親や子供の話題で、心の奥にズカズカ突っ込んでほしくないです。

          私は幼い事から、親からの虐待をうけていた。 そのことが原因で、病気を発症したりもした。PTSDとも診断された。 私は、世間でよく聞く「子どもを愛さない親はいない」「どんな親でも子供を愛しているからそうするだけ」「親からの愛こそ、無償の愛」なんて言葉は、理想論か綺麗ごとだと思っている。 じゃなければ、そんなに愛している子供を、無償の愛を捧げているはずの親が、どうして胸倉をつかみ投げ飛ばしたり、泣いている子供を踏みつけたり、女に振られたのはお前みたいな邪魔者がいるからだ、お前な

          障害者が、不公平感を感じてはいけないのか。

          目に見える障害と、目には見えない、障害。 同じ”障害”のようで、それに対する反応や世間の目は違っている気がする。 小さい頃、親に「車いすに乗っている人を見たら、何かお手伝いできることはありますかって、声をかけるんだよ」と教えられた。 「目の見えない人の為に、点字ブロックの上を歩かないこと」と、小学生の時に先生から教わった。 「急に腕を引っ張ったりすることも、恐怖や不快感を煽るからやめましょう」と言われた。 でも、耳の不自由な人に対して、こうするといい、と聞いたことは何

          障害者が、不公平感を感じてはいけないのか。

          精神科の患者が「自分を認めること」の難しさに直面しています。

          以前の記事で書いたように、私は精神疾患をいくつも持っているのだけれど、ここ2か月くらい、それを克服したくて「自己承認」「自己受容」についてのブログ記事などを読み漁っている。 それで(ここには詳しく説明分は書かないけれど、)自分の中でなんとなく「自己承認」や「自己受容」などについては少しずつ概要を把握できるようになってきていて、でもそれがいざやろうとしてみると難しくて仕方ない。 心理学などの専門家が、精神疾患を持つ患者や、そうでなくとも自己否定ばかりしてしまって苦しくなって

          精神科の患者が「自分を認めること」の難しさに直面しています。

          これは極論で例えが極端なのだろうが、イメージとしては24時間行う業務を、夜型人間と朝型の人とで手分けすればいいのに、”24時間ずっと起きてられる人しか要りません”、って言われてる感じ。 これもまた少し頑張れば24時間起きてられる人からしたら、「努力不足」の一言で終わるんだろうな。

          これは極論で例えが極端なのだろうが、イメージとしては24時間行う業務を、夜型人間と朝型の人とで手分けすればいいのに、”24時間ずっと起きてられる人しか要りません”、って言われてる感じ。 これもまた少し頑張れば24時間起きてられる人からしたら、「努力不足」の一言で終わるんだろうな。

          何かに長けた人間になりたい、と長らく思っていたけれど、いろんな記事とか見ると、今はもう「何か1つのことに長けた」では生き辛いんだなぁということを、ひしひしと感じる。 フルスタックな人しか生きれないんじゃ、将来は受験とかも全教科必須になるのかね。得意不得意があるのが人間だと思うが…

          何かに長けた人間になりたい、と長らく思っていたけれど、いろんな記事とか見ると、今はもう「何か1つのことに長けた」では生き辛いんだなぁということを、ひしひしと感じる。 フルスタックな人しか生きれないんじゃ、将来は受験とかも全教科必須になるのかね。得意不得意があるのが人間だと思うが…

          「ふつう」に染まる、ということの苦痛。

          わたしには、障害がある。といっても、目に見えるような身体障害ではなく、精神的な障害である。 それらは公にしなければ気づかれないし、目に見えない分、所謂「ふつうの人」として扱われる。 そして、自分自身そうやって思ってきたし、そう振る舞って生きてきた。 それが成人して社会人になって、ある日突然、自分に障害があることを知った。 知ってみて、ものの見方や感じ方が180度くらい変わった。(それは大げさかもしれないけど…) 「○○障害です」と医師に伝えられてから初めて、自分自身に、

          「ふつう」に染まる、ということの苦痛。

          心の元気を失っている人に、「部屋を片付ければ気持ちも整理される」と勧める矛盾。

          以前からずっと思っていたことではあるのだけれど、特にうつ病になってからひどく気になっていた言葉があった。 タイトルの通りである。 うつ病に限らず、心療内科医や臨床心理士のよく言う、"心のエネルギー"を失っている人がいる。 もっと簡単な言葉にすれば、元気がない、やる気が出ない、何をするのも億劫、疲れが取れない、そんな人。 そういう人に、決まって「部屋の整理整頓」を勧める人がいる、とわたしは感じている。 理由は明らかだ。そういう人は、部屋や身の回りの整理整頓ができない状態に

          心の元気を失っている人に、「部屋を片付ければ気持ちも整理される」と勧める矛盾。

          うつ病になってから、まるで「就職活動」状態な話。

          まず初めに記載しておくと、わたしがなった「うつ状態」は、思っていた「うつ状態」と違っていた。 「うつ病」と言って想像されるのは、「自分には何の価値もない」「死にたい」など、何に関しても悲観的になって、暗くなって動けなくなって、ベッドに寝たきりの状態になり、最悪の場合、”死”を選択してしまうイメージであったが、わたしの場合は、それには当てはまらなかった。 だからわたしは、自分がまさか「うつ」だとは思わなかった。 わたしの場合、まず身体症状が出始めた。 頭が痛い、吐き気が酷い

          うつ病になってから、まるで「就職活動」状態な話。