「ふつう」に染まる、ということの苦痛。

わたしには、障害がある。といっても、目に見えるような身体障害ではなく、精神的な障害である。

それらは公にしなければ気づかれないし、目に見えない分、所謂「ふつうの人」として扱われる。
そして、自分自身そうやって思ってきたし、そう振る舞って生きてきた。
それが成人して社会人になって、ある日突然、自分に障害があることを知った。

知ってみて、ものの見方や感じ方が180度くらい変わった。(それは大げさかもしれないけど…)

「○○障害です」と医師に伝えられてから初めて、自分自身に、障害に対する偏見があることを知った。
今まで、障害者の人を「大変だな」とか、「周りの人は見て見ぬふりをしたりして可哀想、手伝ってあげればいいことなのに」という考え方さえ、偏見に起因するものなのかな、とか、そういう深いところまで考えるようになった。
だって、そう思う=少なからず、障害者は可哀想だとか、自分たちができるのだからしてあげるべきとか、”してあげる”という時点で、健常者が上だと思っているようなものかもしれないから。
自分が障害者だと診断されるまでは、そういったところまで考えることはなかったかもしれない、と思う。

それから、些細な言葉に敏感になった。
同じ障害を持っているであろうと言われている有名人に急に親近感が湧いたり、一方で障害者に対するネット上などでの心無い発言にひどく傷ついた。
批判だけでなく、簡単に「俺も○○障害かも」とか、「お前○○障害かよw」といったネタ的に障害という言葉を使用している発言なども見る度に不快感を覚えた。
自分でも、現金だなと思う。自分が診断された瞬間にそんな風に思うようになるなんて。
自分には本来、傷つく権利などない筈だと。
何故なら、心無い発言はせずとも、わたしだって、健常者と障害者とで一線を引いて生きていたから。

また、何かにつけて「自分が障害を持っていること」をひどく気にするようになった。
今までなら、何故かこういうことが苦手、とか、自分には向いてないな、とか、できないなぁ、で済ませていたことを、「これが全然できない、どうしよう。それが障害のせいだって知られたら差別されるかな」などと思ったりして、近い人たちの前でさえ、障害を持っていることは自発的に発言できない。
それは自分自身に少なからず偏見があったからで、だからこそ、自分の周りにいる人も、全員とは思わなくとも、偏見を持っている人がいるであろうという考えの元、言動を慎んだり、怯えて過ごしてしまう。

わたしの障害は、簡単に言えば「普通のこと」ができなかったり、「普通じゃない」考え方をしたり、「変わってる」と言われるような行動をしてしまう。
障害と診断される前も、これには正直困っていて、普通と思われ対応されるとおかしいことをしてしまうし、場に合わない発言をしてしまうし、だから予防線として「わたし、少しおかしいかもしれないんで」「変わってるとか、普通じゃないってよく言われるんですけど」と前置きすると、それはそれで「はいはい、変わってるアピールねwみんな好きだよね、”普通じゃない自分”がw」などと言われたり、思われたりするので、本当に厄介だと思っていた。肩身も狭かった。
勿論、障害とわかった今、障害の名を借りて説明することで、それがただ単に「変わってる自分アピール」ではないんです、ということは主張できるのかもしれないが、それはそれでリスクを伴う。
先にも申したように偏見や差別を受けるかもしれないし、それは直接的ではなかったとしても、噂されて広められるだけで気になるものであり、肩身が狭いということに変わりはない、というより、障害と名がついた分、それは尚更かもしれない。

障害で苦労することはあっても、救われることはなかなかない、と思う。
ネット上でよく言われているような、「障害者は健常者が一生懸命働いた金で手当てとかもらえるし」論については、精神障害者はよほど重度でない限り該当しないし、重度で働けない程であっても、その手当ては薄い。
また、「普通」に生きてきて、障害ともかかわってこなかった人はあまり知らないかもしれないのだが、(事実わたしは知らなかったので…わたしが無知なだけかもしれないが)障害者雇用も増えてきてはいるものの、その給与は低い。
精神的なものであっても、障害を持っている時点で少なからずお金がかかる。
主に医療費等だが、控除はされても免除になることはないし、精神障害者が所謂「普通の人」になる為にカウンセリングなどを受けるとしても、カウンセリングは今の日本では医療行為と認められていない為、その金額は10割負担だ。

わたしの障害は、カウンセリングが大いに「普通に生きる」為の役割を果たしてくれる。だが、必死で「普通」を勉強して練習しても、本来の自分を押し殺さなければならない上にお金も取られ、普通になることは「当然」のことなのでそれで努力を認められることもなければ褒められることも勿論なく、だけどその努力が不足していれば怒られる、非難される。

先日の「黒人は奴隷だった」発言といい、差別をなくすということは本当に難しい事だと思う。
どれだけ時が経ってもそういった考え方がなくならないように、障害に対する差別は、「障がい」「障碍」と記されるようになった今でも、そこはなかなか変わらないように思う。(わたし個人の考え方として、差別は表記を変えたからどうというわけではないように思ったり、表記を変えるというのは過剰反応ではないか、とも思うところがあって、この記事では一番一般的である”障害”表記に統一している)

だから差別を一切なくしてほしい、と思うことは難しいにしても、障害を持っている人間を一方で差別しておきながら、一方では”普通のレベル”を求める矛盾は、なくなってほしい。

これもあくまで個人の考えで、障害を持っている方でも真逆の意見もあるだろうが、わたし自身は、障害者としてどうせ差別されるなら、障害者としての生き方を許してほしいし、健常者の普通を求めるのはやめてほしい。

「一般的」や「普通」は、本当に苦しいし、辛い。
それが「普通」であるからどこにも”見本”や”説明書・教科書”はないし、自分で当然のごとく学ぶものとされている分、普通でないことは批判の対象になる。

「普通」を普通に学べる人はいい。学べない人は、どうしたらいいのか。
説明書が欲しい、普通じゃない対応をしていたら普通はこうだとその場で伝えてほしい、陰で言うのではなくてまず自分にそのまま伝えてほしい、それでも自分が自我を通してばかりだったり改善する気もない仕草であれば非難されるのも仕方ないと思えるが、知らないことを知らぬ間に求められていて、それに適応していなければ知らないところで叩かれる、いつの間にかのけ者にされるのは、本当に苦しい。

日本は特に「普通」であること、「横一列」であることを求められる社会であり、それがつらいと溢すと「じゃあ海外行けよw」なんて言われるが、自分は日本で生まれて日本で育って、生き辛さも感じているが、それでも日本が好きだ。
日本に居づらいなら海外へ行け、というのは、日本に適応できている人からすれば当然の考え方なのかもしれないが、海外へ行くという選択肢があっても、それを選択するかどうかは自分の自由で、わたしはその選択肢を含めても、今後もできる限り日本にいたい。

日本にいたければ日本の「一般的」な考え方に適応しなければならないんだ、と思って、自分なりに一生懸命頑張ってきた。
「普通の人」からしたらわたしの頑張りは足りないのかもしれないけれど、それでもできる限り、普通になろうと努力してきた。

でも、正直言えば、本当に根底にある考えを話せば、わたしは死ぬまで一生努力して「普通」であり続けたい訳ではなくて、「みんなと同じ」箱に入れてほしい訳ではなくて、障害を持っている人間として、障害を抱えたまま、「普通じゃない」生き方も認めてほしい。
それは決して、障害者だからって”特別扱い”してほしいという話ではなくて。

例えば障害者枠で働いた時、障害を持っていて普通じゃないからってどうして給与を減らされなくちゃいけないんだ、と思う。
健常者からすれば、「迷惑をかけてるんだから当たり前」とか、そういった趣旨の話なのかもしれないけれど、じゃあ健常者で迷惑かける人はいないのだろうか。
健常者だって、わたしより仕事上ミスが多くて、上司や同僚や後輩に迷惑をかけている人をたくさん見てきた。
健常者が障害者に「こんなこともできないなんて」と思われているかもしれないように、障害者から見たらできる範囲のこともできていない健常者だっているだろうに、そこに「障害」と名がつくだけで「雇うこっちに負担がかかるのだから、給与を下げるのは当然」とされたりすることを、遺憾に思う。

けれどわたしは決して、障害者枠を設けて雇い口を増やしてほしい、だけど給与は普通に貰いたい、というわけではない。
「障害者だけど雇ってほしい、雇ってもらえるなら給与が減るのは仕方ないから我慢する」ではなくて、わざわざ障害者枠で応募しなくても、面接時に、「こういうことが苦手です」「これができません」と言えて、それを把握してもらった上でできる業務を担当させてもらいたいし、もしそれができないと判断されれば雇用されないのは仕方ないと思う。
障害者だから特別扱いして雇って!ではなく、障害者云々関係なく、判断してほしい。
それは障害を持たない人でも同じことで。
なんでも「できます」「やります」「頑張ります」じゃなくて、その人の向き不向きで、業務を割り当ててもらえる社会だったらいいのに、と思う。
(勿論そういう企業だってあるのはわかっているし、自分がそういう企業に行けばいいというだけの話かもしれないが、理想論を言えば、どういう企業も「なんでもできる人」を求めるのではなくて、「これはこの人に」という割り振りで雇ってくれたら、雇用数も増えてみんな楽になって生き易いのに、という理想だ。)

わたしは著名人でもなんでもないので、この記事が有名になることもないと思うが、それでも、人目に触れる機会がある以上、障害者であるわたしが「辛いからこうあってほしい」と言えば「障害者がクレクレかよ」と言われたり、お金のことを言及すれば「金欲しいだけだろ」と思われるだろうし、日本辛いと言えば「日本から出ていけ」というだけの話かもしれない。

それでも、同じように、(勿論障害がない人でも)「ふつう」を求められることが辛く感じる人に、1人でもいいから、この記事が届いてほしいと思う。

「日本死ね」の記事のように、この記事がきっかけで何か変わる、なんてことはないだろう。
最初にわたしが障害持ちだと書いたことで、その最初の文だけで、障害者嫌悪の人はこの記事を読まないだろう。
でも、読んだ人が、差別だろうと何だろうと、こういう考えの人いるんだな、とか、思ってくれたら嬉しい。

この記事は、わたしの愚痴の吐きだまりみたいに見えるだろうから、公開することを迷った。もう何か月も迷った。
でも、愚痴の吐きだまりだって、それに「自分だけじゃないんだ」って思ってくれる人も、いるかもしれないと思った。
傷のなめ合いでもいいから、同じ苦痛を感じている人に届いてほしかったし、そうじゃない人には「あー自分にも偏見あるわ」なんて一行くらいでもいいから、何か少しでも考えてもらえるような文章を発信できればそれでいいやと思った。

わたしは人の目を人一倍気にするタイプだし、それ故にTwitterなどのSNSでもほぼ一言も発言できない人間だったけれど、本当は非難を受けたとしても、発言するのは自由だ。
非難を受けるのは幾度も経験して、それでも慣れないものだし怖いし嫌だけれど、でも、辛いことは辛いと、声に出してもいいんだと、思いたいし、同じように声に出せない人にも、「言ってもいいんだ」と思ってほしい。

そんな大それた文章書けていないけれど、でも書きなぐったこの文章で、一人でも、1ミリでも心がなにか反応してくれたら、嬉しい。

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