マガジンのカバー画像

小説

17
運営しているクリエイター

#超短編小説

亀裂

あの時、俺はどうすればよかったのだろうか。ふとそんなことを考え出しても答えの出るものではない。でも、間違えてしまったことは確かなのだ。あの時確かに生じた亀裂があった。その苦い思いは遠く過去のものになり、乗り越えたといってよいと思う。しかし、たまに思う。どうすればよかったのだろうか、と。あの時生じたままの亀裂を、俺は踏み越えられないでいる。

 久々に会った幼馴染は、髪を首筋までで切りそろえていた。

もっとみる

クラゲとヒトデとてんとう虫

 広い海を漂っていくのは、思いのほか簡単なことではない。海に生きる魚や、えびやその他多くのよくわからない生き物も、おおむねクラゲのことを楽して生きているものと思い込んでいるようだった。実際には、周りのものが考えるほど楽な暮らしはしていない。クラゲが楽そうに生きているように見えるのは、クラゲ自身がそのように語っているからだ。楽に暮らしていると語り、楽に暮らしているのだという顔さえ崩さなければ、だれも

もっとみる

空想スケッチ

 音はしない。
いつも見る夢だ、と彼女は言う。
果てしない遠くのほうまで、水面が広がっている。見渡す限り、水面が続いている。ところどころ群生する木はさして背が高いわけではない。何かにしがみつくようにまとまって生えていて、それがまるで水田のなかにぽつんと残った祠を守っているような唐突さがあるのだという。
彼女はいつもそこに立って、ただ立って周りを見渡している。
木になったような気分になるというのだ。

もっとみる

二つの朝

 二人の男が話している。

「今年もこれで終わりか」

「まだ夏だろ。もう年明け気分なの?」

「違うよ、花火。もうすぐ終わっちまうなと思って」

「いいじゃん、フィナーレ。豪華で」

「終わりが華々しくてもな。後が虚しいだろ」

 ロングのビール缶を足元に置く。

 二人の男が話している。

「お前最近、ちょっと世の中嫌いだよな」

「なんだそれ」

「厭世的っていうのかな。虚無主義的な」

もっとみる

沈む空に

 夢は終わった。もう長いこと、ずっと見ている夢だった。揺られ漂って、少女は青い水の中で息を吐いた。真正面に向かって泡が膨らんでいく。なら、今は仰向けになっているのだろう。ずっと遠くに輪郭のない太陽が見える。水の中にその色は蒼あおい。しゃがれた波の中に少女の吐いた息が切り揉まれて太陽を崩していく。少女はゆっくりと瞬いた。衣服を絡めた手足がどこまでも沈んでいく。髪が広がっては纏まといついていく。太陽に

もっとみる

昇り階段の青

 昇る階段の先に空がある。彼女は階段を昇るのが好きだった。拍を取る爪先。イヤホンのコードに映る空色。自分から顔いっぱいに風を受ける。上から吹き降ろす風に足を差し出して次の一歩を踏む。頭こうべを上げて首を伸ばす。昇り階段では、彼女は下を向かない。踊り場に向けて真っ直ぐ眼差しを向けていられる。手すりを掴んで踊り場を折り返し、次の十段へ。灰と白のミルフィーユの先にはまた空が彼女を見下ろす。空は青い。雲を

もっとみる

にゃんこがおる

 にゃんこがおる。道路のなかの安全地帯ににゃんこが生えていた。本物じゃない。エネルギーの噴出物がにゃんこの形をとっている。そんな感じに思えた。ちょっと亡霊チックである。ニャーンと平坦な鳴き声が聞こえるような気がする。もちろん気のせいだ。だって頭の中にダブった道路の中に生えたにゃんこだから。普通、にゃんこは生えない。道路だろうが草むらだろうが、生えたりしない。これは想像上の、ちょっとおかしなにゃんこ

もっとみる

水たまりの入り口

少年は傘をさして駅からの家路を歩いていた。雨はもう降っていなかったが、濡れた折り畳み傘をぶら下げるのも、鞄の中に突っ込むのも御免だ。くるくると傘を回して、雨水をはね散らかす。紺青の空にくっきりと淡い灰色の雲がたなびいていて、尾を引いたその輪郭は薄く滲んでいた。そう遅くはない時間だというのに、とうに月が昇っていた。月をはらんだ雲が、丸く虹を作って雲の濃淡を彩っている。おぼろ月というには隠れすぎていた

もっとみる

カラスの罪と手配書

 闇夜にまぎれて、男はレンガ敷きの道に高い靴音を響かせていた。深くかぶった帽子も長い外套もこの街で特に珍しい服装ではなかったが、それがこの男にとっては好都合だった。木枯らしが吹く乾いた道を黙々と歩く。

幾分か疲れた。人を殺すのに人を生むほどの疲れは伴わずとも、作業は多い。苦痛はもはや伴わないが、人を殺す快感と人を生む喜びは等価に近いと男は思っていた。女が産むことに喜びを感じるのなら、男が殺すこと

もっとみる

向日葵の音

 太陽は花を求めている。眼下に広がる無数の花にいつも焦がれていた。距離はわずかに一億五千万キロに満たない。年をとればとるほど熱を帯びるから、太陽には触れるのに造作ない距離だった。それでも、触れてはならないと心のどこかで思っていた。優しくて柔で繊細で、太陽が少しでも触れようものならみんな消えてしまうだろう。それほど弱いのに、花というものはいつまでも強く毅然と咲いていた。

 なかでも太陽が一番好きな

もっとみる

木霊

眠れぬ夜には木霊がまとわりついている。無数の木霊が話しかけてくる。応えたりはしない。木霊はつねに、私の言葉を繰り返すだけだ。
 部屋中に埋め尽くされた木霊たちは、脳から発生する音波を奏で続ける。私はただそれを聞いている。無数のささやきが部屋を埋め尽くす。聞き取れぬほどにたくさんの音がある。激しいものもあれば、ひそかなものもある。そのすべては、等しく私の耳に届く。そのすべてが、私に認識されるのを待っ

もっとみる