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聖書に名を借りた支配―信仰による虐待と聖書信仰―
はじめに 先にわたしは、神学や信仰の先鋭化の危険性についてふれた。
また、ここではまだあまり展開しきれていないが、信仰においてあまりに神に対する怖れを強調することが、この先鋭化の運動と相まって、その宗教を本来の姿から大いに逸脱させる危険もあるとわたしは考えている。
今回は、その先鋭化の行き着く先のひとつの特徴的なものとして宗教カルトの問題を取り上げたい。
わたしは以前からこの問題に興味があ
cakesコンテスト、推敲がイマイチだけど、なんとか間に合ったか。
神学および信仰の先鋭化と人間疎外
前回わたしは、柔軟な信仰の必要性を強調した折に、それとは正反対の運動、すなわち神学および信仰の先鋭化の問題に簡単に触れた。今回はその先鋭化の危険性を詳しく取り上げたいと思う。
■1:神学の先鋭化と人間疎外 心理学に関しては素人ながら、わたしは愛や信頼と怖れとは少なくとも同じ対象に関する感情としては本来同居しえないのではないかと考えている。ましてや、それが同じその対象との関係の在り方を意味する言
成熟した柔軟な信仰を生きるために
はじめに 実はわたしのことをクリスチャンだと勘違いする人が多いが、わたしは信仰は持っているものの、クリスチャンではない。小学校はキリスト教(プロテスタント)の学校だったし、教会にも通ったことはあるのだけど、ついぞ洗礼を受けるには至らなかった。
そうは言っても、ずっとキリスト教には興味と関心を持ち続けてきた。ただ、それでも自分にはキリスト教は合わないと思い、クリスチャンになることは大学卒業間際に諦
きちんと推敲してアップしたつもりが、編集の途中で内容をうっかり消してしまったのか、一部に不備があったので早速直しておいた。こういった編集が意外とやりにくい。一般のブログの編集画面などと違い、この辺が相変わらず使いにくいと感じる。
対話のストレスに耐えられない日本人
先に「批判とその意義」について書いたが、そのことに関して最近わたしが気になるのは、批判肯定派を自認する人たちの一部に、自分はあれこれ自由に他者を批判をしていながら、いざ自分が相手から反論されたり何か言われたりすると、その途端に腹を立てる人が見られることである。あるいはかなりひどいことを相手に言っておきながら、相手から少しでも反撃されたりすると、「心外だ」などと言って立腹するような手合いも見受けら
もっとみるコミットするということ
先にわたしは、批判もまた対話の一つだとして、批判をコミットメントとして捉えていると書いた。
コミットおよびコミットメントは、わざわざ日本語にせずにそのまま使われることが多い。
それでは、コミットメントとは一体どのような意味を持った言葉なのだろうか? わたしはなぜこの言葉にこだわるのか。そのことも含めて、今回はこの言葉について、単なる辞書的な定義を越えて詳しく考察してみたい。
(1)コミッ
やっぱり色々と書きにくいなあ。もっと使い勝手がよくならないと。
そんな訳で、今のところここは覚え書きをアップする場所として利用していこうと思っている。
曖昧さに耐える勇気(メモ)
前のノートの続きとして、
日本人は片方では、曖昧ではない、あるいは曖昧にすべきでない事柄をことさらに曖昧なままにしたがる。それでいながら、これは最近の風潮かも知れないが、本来曖昧な事柄になると今度は一転して白黒つけたがる。一見矛盾しているが、そうではない。
後者の本来曖昧な事柄を曖昧なまま正確に表現する、軽々に白黒つけないという態度はとても客観的でロジカルな態度だと言える。それに対して、曖昧に
今は火狐をメインにしているんだけど、試しにIEでアクセスしたらまともに表示されなかったぞ。リカバリしてまだ間もないからこちらのマシン上の問題ではないはず。スマホ用アプリなので、PC環境での利用には限界があるのかも。PCしか使っていない私には使い勝手が悪すぎるかも。
使いにくいなあ。最初の設定画面の興味分野の見直し・変更をしたいのだけど、その手の変更方法がどこにも書いていない。それにフォローしたい人がいるのだけど、その人を探す画面もないというのはどういうことだろう? 全体的に使い勝手が悪いということだろうな。イチイチ問い合わせが必要なのかな?