対話のストレスに耐えられない日本人

 先に「批判とその意義」について書いたが、そのことに関して最近わたしが気になるのは、批判肯定派を自認する人たちの一部に、自分はあれこれ自由に他者を批判をしていながら、いざ自分が相手から反論されたり何か言われたりすると、その途端に腹を立てる人が見られることである。あるいはかなりひどいことを相手に言っておきながら、相手から少しでも反撃されたりすると、「心外だ」などと言って立腹するような手合いも見受けられるが、これも同様である。いつも思うのだが、このような人物は、自分の発言に責任を負えない、あるいは自分の発言に対する何らの自覚も覚悟もない人なのだろうと思う。

 わたしの経験上、この手の人はやりとりをしている最中にいきなりキレてしまうことが多いのだが、これはあまり論理的でない人によく見られる反応である。けれども、意外に思うかもしれないが、論客として自他共に認められているような人にも、このような攻撃的な行動を取る人が少なからずいることに最近気づかされた。批判を嫌うのは何も非論理的なタイプばかりでなく、実は意外と論の立つタイプの人の中にもその手の人がいるらしいのだ。それもかなり多いのではないかと思うようになった。
 非論理的な人と違って後者のタイプは、周囲の人間も――場合によっては自分すらも――そのことに気がつくことはむずかしいように思うが(そのむずかしさは、われわれには「知的な人の方が人間的にも成熟しているはずだ」というあまり根拠のない思い込みがあることにも原因があるのではないかと思う)、このタイプはわかりにくいだけにかえって厄介かもしれない。
 そのような人は、たぶん相手を論破することは得意だが、まさか実際は自分が批判を嫌っているのだとは思いもよらないのだろう。彼らが好んで行なっている批判は、あくまで批判とは名ばかりの応酬にも近いやりとりであって、それに対して彼らが嫌っているのは、厳密に言えば実は批判というよりは対話なのではないか。頭がよいこともあってか、彼らは時間のかかる対話的なやりとりを嫌っているのではないだろうか。わたしは最近そのように思うようになった。

 そのことに関連して興味深い話がある。
 劇作家で演出家でもある平田オリザによると、日本のような均質社会(=和社会)ではない欧米社会では、どんな細かいことでも、お互いに共通認識を得るための議論が納得のゆくまで延々と行なわれる。ところが、多くの日本人はそのようなやりとりに耐えられず、おおよそ30分でキレてしまうというのだ。このようにいきなり本論に入りたがる日本人を平田は「効率ばかり求める」と言うのだが〔注1〕、これは彼が演出家なるがゆえの発言だろう。というのも、平田氏が関わる演劇や国際的なワークショップといったものは、一般のビジネスと違って何をするにも初めてのことばかりで、すべてをゼロから創り上げてゆかざるをえないものが大半だろうからである。日本人の対話嫌い、そして批判嫌いの側面がよく出ているエピソードだと思う。わたしの知るかぎり、平田自身この話を二冊以上の本で紹介しているので、よほど印象に残っているのだろう。

 なお多少余談ながら、先の平田の指摘とも関連するが、それと同じく興味深いと思ったのは、別の人が書いた一種の日本人論でも、日本社会に特有な「和社会」のシステムについて、それを「効率的」と評していることである〔注2〕。ちなみに、さらに興味深いと思ったことは、和社会においては「友情」が忌避されるという指摘であった。これは、伝統的な日本社会では馴れ合いのような和合は奨励されても、個人対個人の関係が強調される友情は必ずしも認められないということだろう。残念ながらこの問題については、今の段階ではこれ以上話を展開できない。考えもまるでまとまっていない。それでも、この辺に日本人が批判的というよりも対話を嫌っている、その日本人の社会的性格を解くなんらかの鍵があるように思う。

注1:平田オリザ『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、2012年10月、その他。
注2:高際弘夫『日本人にとって和とはなにか――集団における秩序の研究』商学研究社,1987年、後に白桃書房,1996年より再刊。

 さて、このように日本人が時間のかかる対話を嫌い、直ぐに本論に入りたがるという平田の指摘はそのとおりなのだが、それとは逆の特徴もある。
 たとえばある程度の共通認識がすでにできあがっている通常の仕事上の打ち合わせなどの場面では、日本人は逆に延々と世間話をしてなかなか本論に入ろうとせず、延々と世間話をしないことが多い。単刀直入に本題に入ることが多い欧米のビジネスマン、特に日本で事業を行なう人たちには逆にこれがストレスになるわけだが、これを非効率と言わずして何と言ったらよいだろうか。そのため外資系企業でも、最近では日本企業との打ち合わせでは最初の15分は雑談をする取り決めをして応対しているところもあると聞く。

 これは上の特徴とは正反対のように見える。たしかに両者は一見矛盾して見えるが、しかし、そのどちらも日本人に特徴的な姿である。では、これをどう考えたらよいのだろうか。

 多少単純化した言い方ながら、これは、日本人が対話などに伴う心理的ストレスにきわめて弱いこと、そのような自我をその長い歴史の中で育んできたことが原因ではないかと思う。それだから、平田氏が経験しているような細かい議論が必要なシーンになると、日本人は今度は逆に「効率」を求めていきなり本論に入りたがるのではないかと考えられる。
 ちなみに上記で触れたことにも関連するが、論客と言われるような頭のよい人たちもそこは同様ではないかと思うのだ。ディベートならともかく、悠長な議論なり対話を彼らが嫌うのも、一見効率的に見えて、実は対話のストレスに耐えられないという心理的な弱さがそこに控えているがゆえのことなのかもしれないと思う。

 以上でも指摘したように、日本人は和を強調し、対立を嫌う。批判を嫌い、異質なものを排除し、出る杭を打つといった多くの欠点を持っている。ことはそのとおりではあるのだが、しかしその一方で、《和を以て貴しとなす》それら日本人の特性がその美質を形成してきたことも事実である。美質と欠点とは裏腹だと言われる。国際化社会の中で、その日本人の美質は残しておきたいとする意見は多く、わたしもその点は基本的に同意なのだが、それができるかどうか。美質を残そうとするかぎり、残念ながら欠点は消えないかもしれないとも思う。
 それでも、わたしはこの日本人の美質を残したまま日本人が国際的にも積極的に自己表現をしてゆけるようになってもらいたいと心から願っている。それが現今の日本社会におけるさまざまな問題の解決や、また日本人社会において生きづらさを感じる多くの日本人にとっても生きやすい社会を実現するよすがとなるのではないかと思うからである。

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