曖昧さに耐える勇気

批判的な意図による他人様のツイートの引用は本来あまりしたくないのだけど、かなり気になる内容だったので、覚え書きとしてアップしておくことにした。

まずこのツイートとそれに対するリプライを見て気になったことは、
なぜ「南京大虐殺の犠牲者数が特定できない」とする発言が、そのまま「犠牲者数はゼロもありうる」となるのか、まったくもって理解できない、ということだ。たしかに中国政府の言う30万人は多すぎる数字だろう。しかしながら、この手の発言をする人達は、あくまでも、「10万人でも多い、できればゼロと言い張りたい」という先入見あるいは願望のの下に相手の発言を読んでしまうため、上記のような「発想」を呼ぶのではないかと思う。

「犠牲者数を特定していない」という朝日新聞側の発言は、ある意味で誠実な発言だと思う。虐殺の規模に論争があるのだから、これは客観的で、当たり前な態度だと思う。

それと多少関連するが、たとえば福島の原発事故の時にも、「科学者としては放射能の危険性について軽々に断定はできないから、どうしても曖昧な表現にならざるをえない」とする発言があった。「放射能の危険性については断定できない」とする発言が、危険性ゼロを意味してはいないことは誰にもわかるだろう。しかし、上記の南京事件となると、これと同じ「犠牲者数の特定はできない」とする発言が、いきなり「犠牲者数ゼロもありうる」に短絡してしまう、させてしまうのだ。

たしかに私を含め一般人は、上記のような科学者の曖昧さを残す発言を好まない。安全なのか、そうでないのか、白か黒かを誰かに断定してもらいたいのだ。そのような心理が、ニセ科学やそれに類するデマにに人を走らせる原因のひとつだと言ってよいと思う。マスローという心理学者は、ある本の中で《科学者は曖昧さに耐える結城が必要だ》(『可能性の心理学』)と書いていると言うが、今の時代、曖昧さに耐える必要があるのは一般人も同じだと言ってよい。その努力をしたくない人達が、たとえば先の「犠牲者数を特定していない」とする発言を直ちに「犠牲者数はゼロもありうる」に短絡させてしまうような発想を好むのではないかと思う。その可能性は高いと思う。厳に誡むべきことだと思う。


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