コミットするということ

 先にわたしは、批判もまた対話の一つだとして、批判をコミットメントとして捉えていると書いた。

 コミットおよびコミットメントは、わざわざ日本語にせずにそのまま使われることが多い。
 それでは、コミットメントとは一体どのような意味を持った言葉なのだろうか? わたしはなぜこの言葉にこだわるのか。そのことも含めて、今回はこの言葉について、単なる辞書的な定義を越えて詳しく考察してみたい。

(1)コミットメントとはなにか?

 コミットおよびコミットメントの語にどのような意味があるか、わたしはそれをどう捉えているのか。まずはその点についてなるべく詳しく説明してゆこう。

 コミット(commit)ないしコミットメント(commitment)の語〔注1-1〕は、これが一般に人間関係の文脈で使われる場合は、自己投入とか対象に対する専心ないし傾倒、あるいは「(他者に対して)本気で関わること」(また、その態度・姿勢)などさまざまに意訳される。わたしは最近それに加えて、身を入れる、ないし「(対象に対して)踏み込む」という意味合いでもこの言葉を使いたいと考えるようになった。コミットメントとは、このように他者との真剣な関わりを意味する語なのである。(強いて言えば信仰などもまた当然コミットメントだと言えるのだが、この点については後日改めて書いてみたいと思っている。また、ここではビジネスシーンで最近よく使われるコミットの意味についてはあえて考察の対象から外した。)

注1-1:コミット(commit)は、手許の英和辞典によると、(対象に対して)専心ないし傾倒することの意味の他に、(対象に)関与する、責任を果たす、自分の立場や態度を明らかにする、(相手に)身を任す・委ねる、あるいは犯罪などを犯すなどさまざまな意味のある語であることがわかる(研究社英和中辞典およびジーニアス英和辞典参照。この語は「人に委ねる」が本義、また語源的にはラテン語の「一つに組み合わせる、委ねる」が原義で、「ある人のところに(com)」+「送る(mit)」から派生した語であるという。また『広辞苑』第四版では「かかわりを持つこと。関係すること」とある)。このように、この語はもともと日本語に訳しにくい語
であるため、あえて日本語にせず、そのままで使われることも多い。

 コミットメントと言うと、いつも思い出す番組がある。
 たしか90年代前半くらいに放送された教育テレビ(Eテレ)の番組で、それは、写真家の橋口譲二が若者たちに対して写真の撮り方をレクチャーするという内容だった。番組は、前半で写真を撮る心構えといったものを質疑応答などを通して若者たちに橋口が伝えながら、後半で上野動物公園に撮影に出かけるというものだった。
 橋口の語ることはその時はずいぶん心に響いたのだが、残念なことに前半の内容はほとんど覚えていない。ただ後半の撮影会で、ある若者が動物の檻の前にいた初老の夫婦を撮ろうとしているところで、「もっと近づいて撮りなさい」と橋口がアドバイスしている場面はよく覚えている。
 人を撮る場合、近づいて撮れば失礼に思われるかもしれないし、それを考えてこちらがひるむかもしれない。それでも、相手に近づきなさい、へっぴり腰になってもよいから、撮影対象にもっと近づきなさい。若者に対して、橋口はそんなアドバイスをしていた。
 もっとも有名な写真家でも、望遠レンズを使って遠くから人物を撮る人もいるし、個人的な印象ながら、それで撮影対象と何らかの交流をした気になっている人も中にはいるようだ。それに対して、橋口の写真の撮り方、撮影に対する姿勢といったものは、それとは正反対のものであると言える。
 写真集自体あまり見ないわたしは、橋口譲二という写真家がどんな写真を撮るのか、実際にはあまりよく知らない。けれども、人物を撮ることが多いとされる橋口は、望遠レンズで安全圏から人物写真を撮る写真家とは違って、撮影対象に対してコミットしていると言ってよいと思うのだ。
 この番組を見たからかどうかは不明ながら、写真撮影だろうが、何だろうが、対象により近づく(対象にアプローチする)こと、その対象に対して踏み込み、相手と積極的に関わる姿勢をわたしはコミットメントだと捉えている。

(2)相手に対して興味を持つこと

 次に、特に大切な観点として、「興味」という視点、すなわち「対象に対して興味を持つ」というアプローチ(対象に対する接近法)について触れておきたい。

 同じような話題で恐縮だが、先に触れた写真家の橋口は、自分が街で人を撮る時に滅多に断わられたことがないという。橋口によれば、それは、相手に対して興味を持っていることを彼が素直に表に出しているからだろうと言う〔注-2-1〕。
 写真家として彼が時に撮影の対象とする社会の底辺にいるような人たちの場合は特にそうだが、その相手に対する軽蔑や、あるいは憐憫といった感情がこちら側にあると、相手はそれを敏感に感じ取るものである。
 そういった話はよく聞くと思うが(後述)、そのような態度で相手に接しても、その相手から決してよい反応が返って来ないことは当たり前だと言ってよい。ところが、人と関わるには邪魔なそういった夾雑物に等しい感情がなく、「あなたのことを知りたい」という純粋な興味で近づく橋口に人が心を開くのもまた当たり前だと言ってよいのである。

注2-1:橋口譲二、星野博美『対話の教室—あなたは今、どこにいますか?—』平凡社、2002年7月

 長くなるので詳細は省くが、最近も障害者や障害者の家族に関することで、彼らの置かれた状況をよく知りもせずに、いきなり「支援」と称して関わろうとした人たちが当事者からほぼ総スカンを食らうということがあった。しかも当の相手(10代の青少年も多い)に対して、上から目線で「指導してあげる」という姿勢がありありと見て取れたのだから、これでは反発を招くのも当たり前だと思った。
 ところが、当人たち、特にその中の一人は、なぜそんなに反発されたのか全然わからなかったようだ。大体、相手に本気で興味を持っていない、したがって、まだそこまで相手を知らない状態で、しかも上から目線で、いきなり「支援」などと称して近づいても、当事者から反発されるのは目に見えている。驚くことに、彼らにはそれがまるで理解できなかったらしいのだ。
 それに加えて、そのような複数名からの反発に対して、その中の一人が直ぐに関係を切るという形でしか応答(厳密にはデタッチメント)しなかったことをわたしはとても残念に思った。わたしも含め、その問題について知ったばかりだから仕方がないとは言え、なぜ相手のこと、相手が置かれた状況をもっとよく知ろうとしなかったのか。一人ないし二人の相手と対話をくりかえし、相手を理解することからなぜ始めようとしないのか。
 わたしの推測ながら、彼やその周囲の人たちは、結局のところ相手に対する興味をあまり持っていなかったのだろうと思う。そのうえ、時間がかかる対話という作業を根気よく続ける意思もなかったのに違いない。あるいは単に自分に反発する人に対する敬意を欠いていたのかもしれないし、単に批判や反発を攻撃としか捉えられなかったのかもしれない。けれども、基本的に相手に興味や関心がないのならば、残念ながらそれも仕方がないことだろう。それでは、批判を含む対話を通した自己変容などは望むべくもないからだ。

 もっとも、このように「興味」ということを強調する視点に対して、逆にこの言葉を避けたいと思う人も多く見られることも事実である。これは興味という言葉に対するマイナスのイメージ(この場合の興味はせいぜいよくて好奇心のレベルを超えないし、時には相手を小馬鹿にしたような「興味」すらある)が原因だと思う。そのため、ここは「興味」という言い方よりは、デール・カーネギーに倣って、《相手に対して誠実な関心を寄せる》(『人を動かす』)とでも言った方が誤解が少ないかもしれない。
 もちろんこれはあくまで好みの問題でもあるので、どちらが正しいとは言えない。しかしながらわたしは、「関心」という表現にはどうも静的(スタティツク)な印象が強く、批判や対話においてコミットメントを強調する立場からは、(特に人間に対しては)より動的(ダイナミツク)な「興味」という表現の方を好ましいと感じるようになった。そこでわたしは、「対象(特に人間)に対して興味を持つ」と言った場合、「興味」という言葉を単なる「好奇心」としてではなく、「その相手のことをもっとよく知りたい」という強い気持ち、というくらいのニュアンスで使いたいと思っている。
 その「知りたい」という気持ちは、相手の業績や年齢、あるいは知識といった表面的なことばかりではなく、それらを剥ぎ取っても在る本来のその人らしさ、裸のその人そのものを知りたい、という気持ちである。さらに言えば、その「知りたい」という場合の「知」は、相手のことを「知識として所有したい」という「所有としての知」ではない。強いて言えば、それは対象を大切に思うところの知、すなわち「愛する知」なのである〔注2-2〕。

注2-2:かつて戦国時代に渡来したキリスト教の宣教師はキリスト教で言うところの愛を「御大切」と訳したとされるし、さらに現代でもマザー・テレサは「愛の反対は憎しみではない、無関心だ」と述べているという。古代ギリシアにさかのぼる哲学(philosophy)の語源としての「愛-知」とはかなり趣(おもむき)を異にするが、このような「知」もまた立派な「愛-知」なのだとわたしは思うのだ。

 なお、当然ながらその意味での相手に対する強い「興味」は、ビジネスその他で「何らかの目的のために相手を上手く利用すること」を目的とした視点から言われる「相手に誠実な関心を寄せる」(デール・カーネギー)などというアプローチとは一線を画していることは言うまでもない。ここで言う「相手のことをもっとよく知りたいという強い気持ち」という視点からすれば、その種の「関心」には逆に「無関心」の語を当てる方がよりふさわしいと言えるのではないかとわたしは思うのである。強いて言えば、それは「操作的な関心」の域を少しも出ない自己中心的な興味ないし関心でしかない。したがって、それは真の意味では「関心」とは言えないものなのである。そのような誤解を避ける意味でも、「関心」ではなく「興味」の語をわたしは選んで使っている次第である。

 むろん誰もすべての人に対して全身全霊で関われるわけではない。神ならぬ身の非力な人間にとって、誰に対しても熱い感情、強い興味を持てるものでもない。しかしながら、そのようなレベルでの「知りたい」という気持ち、そのようなアプローチ(対象に対する接近すること)の姿勢が根底にあって普段から人に対しているか、といったことは問われてもよいのではないかと思う。いや、その人の人間関係の姿勢・態度としてこれは問われるべき事柄であろう。わたしはそのように考えている。

(3)自己投入と自己超出

 ところで、コミットメントの語義からは多少逸脱するかもしれないが、ここで実存主義的な観点も多少加味しながら、コミットメントについてより深く考察を進めてゆきたいと思う。

 目の前の対象に対してコメット(自己投入)するということは、これはその対象に対して、あるいはその対象との主体的かつ実存的な関係の中に自己を投げ出すことである。他者との関係の中で自己を開示するその行為は、他者との関係の中で個人的自己を超出ないし超越する行為でもあると言える。

 あまりに個人的な体験で恐縮だが、わたしも若いころは自分のことが嫌いで、自分を受容できていなかった。そんなわたしが、ふとしたことからある女性に好意をいたき、従来のわたしとは違い、思い切ってその人に対してアプローチしたことがある。残念ながら結果は不首尾ではあったものの、そのとき気がついたことは、相手に対して本気で関わっている時には「嫌っている自分」などといったものはどこにもいない、ということだった。これは何も恋愛にかぎらない。何事にせよ、本気で何かにコミットしている時には、近代人特有の思考過多・反省過多な自我などはどこかに消し飛んでしまうのであって、これをわたしはコミットメントに伴う自己超出ないし自己超越と捉えている。
 もちろんわたしの体験などはたしかにごく些末で貧弱なものでしかないだろう。いや、嗤うに等しいものに違いない。けれども、たとえそれがどんなに些細な行為であったとしても、「千里の道も一歩から」で、何事もその小さな一歩から始まる。相手に興味を持って、その相手に本気で近づこうとする行為(アプローチ)は、だから、そのまま自己を越える行為ともなりうるのである。それは実存哲学的な表現を使えば一種の「投企」であり、「賭」(パスカル)でもあると言えるのではないだろうか。

 ある対象に対して強い興味をいだき、その相手のことを心底から知りたいと思ったとしよう。そのとき人は、具体的にどのようなアプローチをするかは別にして、必然的にその相手に対してコミットする。つまり、その人はその相手の世界の中に必然的に踏み込むことになる。このとき個人的な世界の中でのみ生きていたその人は、当然ながら自己を超越することになるわけだが、一方の踏み込まれた相手の方も必然的にその相手との関係の中に引き込まれることになる。したがって、コミットすること、コミットした先にあることは、(もちろんそれは理想的な形においてではあるにしても)お互いの関係の中でお互いが自己を超越しあう関係に生きるということなのである。それはまた、お互いが自己を実現しあう関係〔注3-1〕であるとも言える。

注3-1:これをわたしは「相互自立的人間関係」と表現したいと思っている。この表現は、出身大学は違うが、ある意味で恩師と言ってもよい立教大学名誉教授の早坂泰次郎氏の「相互主体的人間関係(Interpersonal Relationship)」という表現(『人間関係学序説』川島書店、1991年4月、p.183)からヒントをえたものである。もっとも「主体的」も「自立的」もほぼ同様の意味だと解すこともできるし、前者の方が意味が広く、よりすぐれた表現だとも思う(自立するとは極めて主体的な事柄である)が、あえて後者の「自立的」の表現を用いた。

 たしかにこのような関係の取り方は、下手をすると傍若無人な印象を与えるし、時に暴力的ですらあると批判されるかもわからない。しかしながら、個人的な自己を超えて相手との関係の中に踏み込まないかぎり他者との真の出会い(エンカウンター)〔注3-2〕はないということも事実である。そこには正解といったものはなく、わたしたちは迷いながらも、そのつど相手に対してコミット(関係)してゆく以外ないのである。ちなみに、相手にコミットする行為が時に暴力的と批判されること、その危険性を重々承知しながらも、自分にとってないがしろにできない事柄に対して本気で関わる、関わり続けることをわたしは「批判」の本来あるべき姿だと捉えているのである。

注3-2:日本においては、一般にエンカウンターは「出会い」の意味として理解されることが多い。しかし、欧米語でencounterと言った場合、それは元々は「ぶつかって(counter)中に入る」が原義で、「敵や危険との出会い頭の偶然の遭遇、直面」といった意味の語として使われている〔『ジーニアス英和辞典』改訂7版、2000年7月〕。そこには、日本語の「出会い」という言葉から連想される微温的な「優しさ」といったようなニュアンスはほとんどない。批判に対する彼我の感覚の違いもその辺の感覚の違いにも由来しているのかもしれないが、欧米社会においては出会いも対話も本来は価値観が違う者同士のぶつかり合いを意味する言葉なのだ。

(4)〈超えてゆく〉ということ—現実世界に根を下ろした自己超出—

 ここでいささか余談ながら、「自己超出」ないし「自己超越」ということについていくらかコメントしておきたいと思う。(notoでは以前に「越えてゆくということ(メモ)」と題して投稿したことがあるが、あの時の覚え書きを今回改めて詳述することにした。)

 上記で述べたような対象にコミットすることによって自己超出が起こったとき、個人的自己は全体の中に「解消」されるのではなく、全体の中で(他者とともに)真に自己を実現し表現することになる。少なくとも個人主義的な狭い自己は越えられて、そこに新しい世界が開けてくることになるだろう。それは、単に現実を(時にその現実を無視して)「超える」ことではなく、現実の中で・現実に根ざして、なおかつその現実と自己をともに「越えてゆく」ことを意味している。
 さらに言えば、わたしの個人的関心領域が宗教・信仰であることからも言えることだが、この現実の中で・現実とともに、その現実を(人々とともに)超えてゆくアプローチこそが真に宗教的な姿勢であり態度だとわたしは理解している。しかし、いくら宗教的(霊的=実存的)だからと言って、ここで言うところの「超越」は、自己を大いなるもの(超越者)の中に安易に「解消する」ことを必ずしも意味しない。それは、むろん滅私奉公的な主張やその種の全体主義的なアプローチをその根本から拒否し否定するものなのである。

 多少余談ながら、「超越」という言葉をわたしがどのように捉えているか、ここで簡単に説明しておきたいと思う。

 「超越」とか「超越する」という言葉を見聞きすると、一般には大地から離れて、すなわち地上の制約から解放されて空中高く飛び上がるようなイメージをいだく人が多いだろう。しかし、今のわたしのイメージでは、「超越する」(transcendないしtranscendental)と言った場合、本来は、地面から空中に浮遊するようなイメージではなく(トランスパーソナル系の心理学で言うところの超越はこのイメージが強いように思う。一部の修行系宗教も同様なものが多い印象がある)、山登りのイメージが合っているのではないかと思う。
 たとえばどこかの盆地なり谷間に住んでいる人が、あるとき広い世界を知りたいと思い、住みなれた世界を後にして、周囲の山を踏み越えて自分の知らない新しい世界に出てゆくとしよう。それが一つの超越、超えてゆく行為である。ただし、ひと山越えたその人の前にはさらに別の大きな山並みが立ちはだかり、挑戦はいつまでも続く。完結や完成、ないし最終解脱などといったものは、人間が生きているかぎりどこにも存在しないのだ。
 あるいはある登山家がどこかの山を登り、さらに高い山を目指し続けたとしよう。しかし、その登山家が最後にどのように高い山の頂(いただき)に至ったとしても——たとえどんなに高い山、たとえばそれがエベレストの山頂であったとしても——そこは空中ではない。そのとき彼の足は地面から一歩も離れていないからである。
 これが「超えてゆく」という言葉に対してわたしがいだくイメージである。単なる「空中への飛翔」といった意味における超越(trans)ではない、このように一歩一歩大地を踏みしめながら山を越えてゆくというような、そんな感覚をこの言葉に対してわたしはいだいているわけである。

 以上でわたしが「超越」という語にいだくイメージを述べたが、脱線ついでに、ここで「超越」および「自己超越」という言葉の意味について、わたしなりに多少詳しく解説しておきたいと思う。
 ここで言う自己超越は、ニューエイジ系の思想や人間性回復運動(ヒユーマン・ポテンシヤル・ムーブメント)などの影響を受けたトランスパーソナル心理学などでよく言われるところの「自己超越」とは異質なもの、あえて言えば似て非なるものだとわたしは捉えている。たとえばその手の心理学で言われる変性意識状態(Altered state of consciousness)などは、他者との厳しい対決などなくても実現できる意識状態である。それは、薬などによる外からの脳刺激などによってももたらされる極めて個人的(厳密には個我的と言うべきかもしれない)な種類の意識の状態なのである〔注4-1〕。もちろんそのような特殊な意識状態をもたらすことに治療的な効果があることも事実なので、わたしもその手の試みがまったく無意味だと言うつもりはない。ただし、そのような特殊な脳の状態は、必ずしも他者との関わりの中での自己変容を伴わった変化ではないという意味で、それはやはり個人の体験を超えないものなのである。

注4-1:事実アメリカにおいてLSDが合法だった1960年代前後には、その手の研究者がこぞってLSDを実験に利用していたことはよく知られているところである。それが1960年代後半にLSDが禁止薬物に指定されると、意識や自己の超越を求める人々は、その種の意識状態をえるために、今度は東洋の修行法、特に呼吸法や瞑想法などをその代用として好んで用いるようになる。(オウム真理教などもこの系統の影響を強く受けていることはよく知られている。彼らはヘッドギアをかぶり、脳に電気的刺激を強制的に与えて修行したとされる。当然ある種の薬物の投与も行なわれていただろう。)

 上に述べたことと関連するが、そのような他者の存在を無視したに等しい個人主義的なアプローチでは、個人を否定する集団主義とその行き着くところの全体主義に対抗する力にはなりえないとわたしは見ている。また、そのようなアプローチは、「呪術的」ではあっても、決して真の意味で「宗教的」とは言いえず〔注4-2〕、したがって真の信仰はそのような姿勢・態度からは決して生まれて来ないのである。

注4-2:宗教哲学者の谷口隆之助は、人間の個人的な努力ではどうしようもない死や病といった人生における限界状況(危機的状況)に直面して人が取る態度として、「宗教的態度」と「呪術的態度」とを原理的に区別することができると述べている〔『聖書の人生論』川島書店、1979年5月、その他〕。なるべく簡単に説明すれば、谷口によれば、自己を無にして、それらの危機に身を預けることで危機自体を乗り越えることが実存的で宗教的な態度である。それに対して、何らかの技術的な方法を用いて自らにさまざまな力を外から加えることで危機自体を無力化しようとすること、そのような人生態度を呪術的な態度と言うことができる。もちろん宗教と呪術は現実の宗教的営為の中に今も混在しているし、厳密にこれを分けることは現実問題としてはむずかしいことである。いや、不可能だとすら言ってよいのだが、この両者は一種の理念形として原理的にきっちりと区別すべき事柄なのである。なお、古代においてはその方法は“呪術”であったが、現代ではそれが科学的な、より厳密に言えば技術的な方法に取って代わられたと見ることもできる。どちらも技術的なアプローチであるという意味では両者に本質的な違いはないからである。

 以上の議論は、個人主義的な西洋近代的な自己概念に慣れ親しんだ人にとってはわかりにくいところがあるかもしれない。そこで参考までに「自由」に関して同じような視点から考察してみようと思う。
 自由と言うと「身勝手」と同じような事柄と捉える人も多いだろうが、それは、誰かが自由になれば、その影で他の誰かが不自由をかこつことが多いからだ。そう考えると、すべての人が自由を謳歌することは本来不可能だということになる。それに対して、このように個人が周囲と無関係に一人で勝手に自由になるのではなく、「周囲の人たちと共にお互いに自由にななってゆく」という視点でこの問題を考えればどうだろうだろうか。これも完全な実現は不可能だが、一人で自由になろうとあがくよりも、こちらのアプローチの方がよほど現実的な視点だと思う。そして、それこそが本来の意味における「自由になること」、すなわち自由の実現なのではないだろうか。そのようにわたしは理解している。

 自己の実現もそれと同じで、私たちはお互いの関わりの中において自己を実現してゆくのだ。それは時に激しいぶつかり合いとなることもあるだろうが、しかし、そのような「出会い(=ぶつかり合い)」を通さないかぎりは、人は真に自己を実現することはできない。わたしはそれを「相互自立的な人間関係」の在り方だと捉えている。その意味でわたしは、トランスパーソナル系の心理学に代表される、時に現実逃避的で、また個人主義的な「超越」を「独語的超越」として、ここで言う真の超越を「対話的超越」としてこれを区別したいと思っている。

最後に—コミットする(批判する)とは主体的であるということ—

 以上コミットメントに関していろいろと述べてきたが、コミットメントとは、その意味で極めて「主体的」な行為でもあると言える。当初は「批判的」の語を「主体的」と捉えることに実は違和感を覚えたわたしだったが、コミットメントの語を上記のような意味合いで捉える時(これは当初、非自覚的にはこのように把握していたことなのだが、改めて文章として表わしてみて自分でもはっきりと認識することができたわたしの考えである)、「批判的である」とはまさに「主体的」な在り方だという確信をえるにいたった。そして、それこそがわたしにとって他者に対する宗教的(霊的=実存的)な関わりの仕方を表わす表現の一つなのである。実存のレベルで見られた人間の世界は宗教的=霊的な次元と深く切り結んでいるのであって、それを越えた存在などどこにもない。だからわたしは、他者に真剣に関わること(コミツトメント)もまた宗教的な概念として捉えているのである。

 わたしは本稿において、(特に人間関係に関する場面で)コミットメントという語が持つ意味について詳しく考察してきた。これらは一部にわたしの個人的な解釈も若干含まれている。また、特にわたしたちが当の対象にコミットした先の事態まで考慮に入れてこの語を考察してきたことも事実である。そのため、解釈としては逸脱と思われる箇所もいくらかあるかもしれないが、必ずしも間違ったことを述べたとは考えていない。

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