批判とその意義

 先日、「批判はお嫌い?」と題する文章をアップした。
 その後少し時間が空いてしまったが、批判の意義や、批判の本来あるべき姿、また正しい議論の仕方等について色々と書いてゆきたいと思っている。ただ、本格的に書くとかなり長くなるので、今後展開する予定の内容について、今回は要約的に紹介しておこうと思う。(※本論は個人HPにアップ済み。また、多少の重複はお許しいただきたい。)

はじめに—批判という言葉をめぐって—

 先日も書いたように、わたしはいちおう批判肯定派を自認しているのだけど、それに対して批判という言葉を蛇蝎のごとく嫌っている人も多い。批判に対する時に過剰とも言ってよいほどの人びとの反応を見るにつけ、わたしは最近「批判的」という表現ではかえって誤解を受けやすいようだと感じるようになった。そして、それでは「批判的」という言葉でわたしは一体何を言いたいのか、自分なりに少し自問してみた。

 批判という言葉から受ける印象が世間一般の人たちとわたしとで違うとするならば、わたしは「批判」という言葉で何を言いたいのか。まずはそのことについて、今回は(多少の加筆はしながらも)要約的に説明しておきたいと思う。昨今のギスギスしたネット空間の言い合い等を見るにつけ、そうすることで「批判」という言葉から多くの人が受けるであろう誤解をできるかぎり解いておきたいと思うからだ。そして微力ながら、人びとに生産的な議論や対話の「作法」を取り戻してもらいたいと思う。私の能力では無駄な努力かもしれないが、それでもこれは書いておきたいと思うことなのだ。

 それでは、「批判」という言葉でわたしが何を言いたいのか、何を訴えているのか。また、わたしは批判とはどうあるべきだと考えているか。
 結論を先に言えば、わたしが言うところの「批判」とは、生産的かつ創造的な行為の一環として行なわれる知的営為であると言えばよいだろうか。それは当然、批判的ながらも誠意を持って行なわれる対話的なアプローチである。わたしはこれを別の言葉で言えばコミットメント(対象に対する傾倒、ないし相手に対して本気で関わる姿勢)として見てよいのではないかと思っている。そして、それが真に対話(批判的コミットメント)であるならば、その行為は同時にわたしの生き方を問い返すアプローチともなるはずである。ここで簡単ながらその内容を要約的に示すことにする。

(1)対話的コミットメントとしての批判

〔批判とは相手に対してコミットすること〕

 いろいろと考えてみた結果、どうやらわたしは「批判的」の語をコミットメントの意味合いで使っていたらしいことに思い至った。詳しい説明は今後にゆずるが、簡単に説明すれば、コミットメント(commitment)とは、自己を賭けて相手に本気で関わること、相手との関係に自ら踏み込むことを意味する語である。そのことと関連して、わたしは、「批判的」とは「関わりのなさ(デタッチメント)」とは正反対の態度だと捉えている。それは極めて主体的な行為でもある。
 また、最近わたしは「チャレンジ」という言葉に注目するようになった。欧米の人の書いた文章で、批判の代わりに「相手からチャレンジを受けた」などの形で用いられることが多い。そのこともあってか、チャレンジという言葉には非難とか攻撃といったニュアンスはあまり感じられない。
 さらにわたしは、最近アプローチという表現にも着目するようになった。これは対象への接近法ないし働きかけ、対象に迫ることを意味する言葉である。
 そんなわけで、わたしが言う批判とは、主体的な行為として行なわれる批判的なアプローチ、すなわち批判的な形を介した対象への接近ないし働きかけの主体的試み(対象への主体的接近法)以外のなにものでもない、ということになる。

〔批判も対話の一つ〕

 対話は会話(単なるおしゃべりや雑談)とは違う。会話(雑談)をいくらしたからと言って、何かが変わることはたぶんないだろう。誰もそんなことは期待しない。それに対して、議論もそうだが、対話は本来自分が変わることも引き受けて行なわれるものであり、それは自他の生き方が問われる実存的な行為でもある。その意味で真に批判的な営みは対話的アプローチでもあるはずなのだ。大体、批判するという行為は批判する対象が存在してこそ成り立つものなのだから、批判も当然対話以外のなにものでもないはずである。
 それに、自分のことは自分ではわからないもので、わたしも含め大概の人は自分の考えや主張が全面的に正しいと無意識ながら考えて生きている。たとえば自分が正しいと思ったことは誰がなんと言おうと正しいと思い込んで、テコでも動かない人がいる。「正義の暴走」などと言われる事態も、その思い込みで起こる悲劇だと言ってよいだろう。
 もちろん極端なのは論外としても、誰でもがそのような思い込みは少なからず持っているものだ。わたしとて例外ではない。その思い込みを是正するためにも、他者からの批判的アプローチ(異論や反論)はとても大切なものである。そんなわけで、議論や対話において実りある結果を得るためにも、他者と真剣に関わり、そのやりとりを通して他者を知り、また自己を知る作業が必要となるわけである。

(2)有意義義な批判的対話のために

 もちろんわたしも批判ならば何でもよいなどと思っているわけではない。
 当然ながらわたしは、自己目的化した批判はすべきではないし、批判をするならば自分が批判されることを忌避すべきではないと考えている。

〔動機なき批判は無意味〕

 批判が不毛なものとならないためにも、批判を行なう側の動機——すなわち“どんな目的でその対象を批判するのか”といった「反省」はとても大切な視点となる。また、いくら動機があるからと言っても、それが自己目的化した批判(たとえばストレス発散を目的とした憂さ晴らしなど)であってはあまり意味をなさない。いや、その人にとってもあまりメリットはないし、むしろやらない方がよいだろう。
 大体、自分が変わる可能性に開かれていない相手とのやりとり、あるいは自己批判の契機を欠いた他者への一方的な批判(この場合は非難と言った方が正確)は、結局は批判対象である相手と自分たちいう「敵-味方」図式をもたらすだけである。そして、それは容易に自己の立場の絶対化をもたらすことになる。
 先にも述べたように、わたしたちは往々にして自分や自分たちを一方的に正しいと思い込みがちだが、そのことに対する反省は忘れてはならない。そのためにも、わたしたちは自分の行なう批判がただの一方的な攻撃になっていないかどうか、常日頃から自らを省みることが必要となる。

〔対話の姿勢が問われている〕

 「批判をするな」という主張をよく見かけるが、この手のことを言う人に限って、いざ相手を批判するとなると、批判と言うよりは単なる人格攻撃になりがちである。こういった人が意外と多い。
 こういった人は、(論理的だと自認する批判肯定派などからは)非論理的だと嫌われることも多い。しかし、これはわたしの個人的な印象だが、批判を嫌う人には、そのような非論理的な人たちばかりでなく、実は意外と論の立つ人(いわゆる自分への批判は許さないタイプ)も多く見られるように思うようになった。その手の人は、実は批判と言うよりは対話を嫌っているのかもしれない。また、自分ではあれこれ人様を批判をしておきながら、いざ相手から何か言われると腹を立てる人もよく見かけるが、こういった人間は、自分の発言に責任を負えない、あるいは自分の発言に対する覚悟がない人なのだろうと思う。
 いずれにせよ、日頃から批判の意義を主張し、批判的発言を行なっているのならば、相手からの反論は覚悟しなければならない。いや、それ以上に、そのような反応はこれを喜んで受け入れなければならないはずだ。これは批判ばかりでなく対話を行なおうとする者の責任であり覚悟であると思う。要はわたしたちは“対話の姿勢があるかどうか”を問われているのだ。

(3)対話の姿勢

〔変わることを怖れるな〕

 自分の意見が変わることを怖れる人、あるいは拒否する人には対話は不可能だ。また、対話的意図ないし何らかのコミットもなしにその相手を一方的に非難しているような人がいるとしたら、それは批判というよりは攻撃と捉えた方がよい。
 たとえば最近は宗教間対話の必要性が唱えられることが多くなったが、批判を含む意義のある宗教対話を行なうためにも、もっと他の思想や宗教に対する敬意ないし真摯な態度がお互いに必要となる。至らない点があればこれを改める勇気も必要だろう。自己の信念が少しでも変わることを怖れていては対話そのものがもともと不可能なのだ。

〔相手に誠意をもって対する〕

 これまで相手に対して敬意(respect)を持つことがしばしば強調されてきたが、どうしても敬意を持てない人がいることも事実である。その場合はどうしたらよいのか、疑問に思う人も多いに違いない。これに関してわたしは、“何に対して敬意を払うか”を考えたらよいのではないかと思っている。それというのも、敬意には、「相手の能力に対する敬意(条件付きの敬意)」と「相手の存在そのものに対する敬意(無条件の敬意)」の二つがある。一般的に敬意というと前者を思い浮かべ人が多いだろうが、後者の敬意こそが対話の基本だとわたしは思うのだ。
 それに対して前者の敬意、すなわち尊敬できる何らかの能力を有した相手にしか敬意を持たないという態度は、結局のところ、能力のない奴は評価しない、切り捨てる態度でしかない。こういった意見に対しては、「今は駄目でも、相手の可能性に対して敬意を払うのだ」などいろいろと反論が帰ってくるだろうと思う。しかし、どんなきれいごとを言っても、前者の敬意の立場に立つかぎり、最後はその人から見て能力の落ちる人間、無能な人間は切り捨てらてしまうことになる。しかしながら、そういった態度では実りのある対話は成立しないことが多いのではないかとわたしは思うのだ。
 そこでわたしは、相手に対する敬意よりも先に、今後は「誠意」を重視するアプローチがよいのではないかと思うようになった。慇懃無礼な態度など、これもかなり形式的になる危険性はあるものの、相手に対して攻撃的な態度に終始することに比べたらよほどすぐれた姿勢だと言えるのではないだろうか。
 それに加えて、“その相手に対して関心ないし興味を持てるかどうか”という視点が対話では重要な要素となる。後者の敬意、すなわち人間存在そのものに対する敬意を誰に対しても持てるようになるためにも、わたしたちは対象となる相手に対して心から興味(ここで言う興味は単なる好奇心のレベルのそれではなく、「目の前のその人のことを心から知りたいと思う強い気持ち」と言った意味合いでこの言葉を使っている)をもって接することが重要なのである。(※これは重要な論点なので、コミットメントについて書く機会があれば、その時に詳しく書いておきたいと思う。)

〔議論の形式に囚われるな〕

 論理的でありさえすれば誰もがその人の主張を受け入れるとは限らない。そういった相手を説得するには、その相手に対していろいろな側面からアプローチするのが当然だろう。それをざぼることは対話の精神から遠いと言わざるをえない。
 およそ人間は一人で生きているわけではなく、しかも他者は自分にとって都合のよい反応をしてくれる存在ではない。いや、自分にとって都合の悪い反応をするのが本来の他者なのだ。その意味で議論や対話は当然ながら一人ではできない。自分とは異質な感性や意見を持つ他者がいてこそ対話(議論)が成り立つのだし、対話の意義や意味もそこにあると言える(もっとも「自己との対話」などといったことも言われるが、これにしても、まずは他者との対話の経験が前提にあってこそ成り立つことなのである)。
 それに対して論理的であることを自認する一部の人は、自分にとって都合の悪い反応をする(自分たちからみてあまり論理的でない)相手に対して当然敬意など払わないだろうし、切って捨てる人も多い。相手が誠意を持って議論に臨んでいるか、あるいは何らかの正当な理由があって反論なり異論をはさんできたのだとしても、そんなことは無視をする人もいる。けれども、それでは実りある対話は不可能だ。
 論理的であることを自認する人たちの問題点は、自分が論理的に思考するのはよいが、相手にも自分と同様に論理的であることを求めるところにある。しかし、都合よく論理的な反応をしてくれる人ばかりがこの世に存在しているわけではないから、その望みはあまり現実的だとは言えない。自分がいくら論理的思考に長けているからと言って、あまりに形式的な議論に固執すると、その手の訓練を受けていない、あるいはそれをあまり得手としない相手がいだく違和感や疑問を切り捨ててしまうことにもなりかねない。生産的たりえたかもしれないやりとりの可能性をその段階で摘み取ってしまっている可能性すらそこにはあるのだ。

〔曖昧さに耐える勇気を〕

 欲求の五段階説で有名なアブラハム・マスローという心理学者は、本来曖昧で矛盾を孕んだ人間存在をその現実のままに記述する態度を真に科学的な態度だとし、そのためには科学者の側に《曖昧さに耐える勇気》が必要だと述べた。本来曖昧なものを曖昧なままにしておくストレスに耐えられず、効率だけを求めて拙速に白黒をつけたがる態度は、やはり対話の精神からかけ離れたものだと言わざるをえない。それはやはり真に論理的で理性的な態度とは言えないのである。
 そういった意味で、論理的に割り切れず、非効率に見えるやりとりの、その曖昧さに耐え、根気よく対話を続ける姿勢が必要だとわたしはいつも思うのだ。その姿勢に徹すれば、論理的思考に長けていない人との一見非効率とも見える時間のかかるやりとりも決して無意味なものばかりではなくなるだろうと思う。

〔対話の精神について〕

 パソコン通信を中心とした掲示板(BBS)全盛時代と違い、近年は2chやTwitterといった短文投稿サイトが主流となった。書込みに対する返信も含め、近年は何事もスピードが要求される。そんな変化の中で、昨今はネット空間においてギスギスしたやりとりが目立つようになった。
 以前のように何事にも熱くになって議論する作法はもう流行らないのかもしれない。しかし、そのように相手と本気で関わることを忘れつつあることが、ネットにおいて昔以上に要らぬ炎上をもたらしている原因でもあるのではないだろうか。
 近年におけるネット上の書込みはその大半は短文の言い捨てで、匿名で中傷的な発言をする人が非常に多いのが特徴だが、これでは対話が成り立つわけがない。たしかに、かつてのように本気で議論すれば、そこそこ炎上も起こるし、時間ばかりかかって非効率極まりない。しかし、効率ばかりを求めて時間のかかるやりとりを必要以上に嫌う姿勢は、結局は対話の精神を蝕(むしば)むことになる。要らぬ炎上もかえって起こることにもなるだろう。そして、このように、物事に対して本気で関わろうとしない(デタッチメントな)態度が、かえって生産的な議論を生まない要因を育んでいるのではないだろうか。
 上でも述べたように、一見非効率とも見える時間のかかるやりとりも決して無意味とばかりは言いきれない。《曖昧さに耐える勇気》を持たず、効率だけを求める態度は、やはり対話の精神から遠いと言わざるをえない。議論(ディベート)のノウハウ以上に大切なことは、その人が誠意を持って相手とやりとりをする気持ちがあるかどうか、そこに対話の姿勢があるか否かなのだ。

 繰り返すが、批判もまた議論の形を取るかぎり、批判もやはり対話である。それは、単なる効率ばかりを優先した論理的思考やそれに準じたディベートとは本来異質なものだ。そのやりとりがいくら非効率で時間ばかりかかるとしても、わたしたちは決してそのプロセスをおろそかにしてはいけない。
 対話ないし議論とは、お互いに違う価値観を持つ者同士が、そのお互いの違いをよく把握し、なおかつお互いに自分の意見をいくらか変化させながら、お互いを理解するやりとりである。その過程でお互いがぶつかり合うことも多いだろう。しかし、賽の河原の石積みにも似たそのプロセスをはしょらずに続けないかぎり、対話(議論)が実りあるものになることは決してない。
 演出家の平田オリザは、対話は「時にお互いが理解し合えないほどに違うことがある」という気づきから始まるとある本の中で述べている。対話とはだから、それでもなおその相手を理解しようという強い意志とその相手に対する(敬意を伴った)興味があって初めて成り立つ行為なのである。

最後に

 以上いろいろと書いてきたが、わたしが言う批判的アプローチは、上記で述べたような一部の不毛な「攻撃」ではない、あくまで創造的かつ建設的な行為として考えている。自分でもこの心懸けを時々失念してしまうこともあるが、このような姿勢で議論や対話を行ないたいとわたしは普段から考えている。

※要約的に書くと言いながら、結局かなり長いものとなってしまった。
ご容赦願いたい。

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