批判はお嫌い?

 わたしは議論その他における批判肯定派で、批判の意義をかなり積極的に認めている人間である。しかし、「批判」(いわゆる批評もこれに含む)行為については誤解する人も多い。
 たしかに批判を毛嫌いする人は多いが、批判に対する時に過剰とも言ってよい人びとの反応を見るにつけ、わたしは最近「批判(的)」という表現ではかえって誤解を受けやすいようだと感じるようになった。そして、それでは「批判(的)」という言葉でわたしは一体何を言いたいのか、少し自問してみた。

 そこで、わたしが批判という言葉で何をイメージしているか明らかにするためにも、まずは「批判」という言葉から多くの人が受けるであろう誤解をできるかぎり解いておく必要があるのではないか。批判という言葉から受ける印象が世間一般の人とわたしとで違うとするならば、わたしは「批判」という言葉で何を言いたいのか。まずはそのことについて、ごく簡単にでもコメントしておきたいと思う。

 今回noteを再開するに当たって、個人HPで批判の意義を論じた部分を独立させて、改めてアップしてみたいと考えた。ただ、実際内容も濃く、いきなり本論に入るのはいささか憚られるので、序文として、過去に某所にアップした文章を再録することにした。


批判はお嫌い?

 とかく批判すなわち《攻撃》と取られやすいものですが、批判的なやりとりといえど本来は《対話》であるはずです。ここではキリスト教を例に批判的行為の意義を強調しておきたいと思います。

 聖書には、《「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。》という言葉があります。自分たちにとって異質な価値観を持つ人々を敵視する「他者否定」の在り方(選民思想)を排し、その代わりに真に人道的な在り方を自らの生命をかけて開示したのがイエスその人であったのです。
 このような形で律法(主義)を繰返し批判するイエスは、しかしその一方で、《わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。》とも言っています。矛盾とも見えるこのイエスの言葉の真意は、批判という行為を通して聖書を真の意味で《聖》書たらしめるためのもので、その意味でイエスの言動は妥協ではなく真の調和を求めての行為であったことが了解されます。
 そんな訳でイエスの批判は、相手を批判することで、すなわち相手の誤ちを正すことで、あくまで「相手を正しい生き方に導きたい」との強い《愛念》から発しているのです。パリサイ人に対するイエスの批判はそれこそ激越を極めますが、これだって一人ひとりの具体的なパリサイ人たちをイエスがどれほど愛していたかの証拠だとは考えられないでしょうか? 《聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。》と言いながら、——これはイエスの憤りの言葉でもあると思うのですが、——そして殺されるのが分かっていながら、彼ら敵対者に対してイエスは愚直に「真理」を投げ与え続けたのです。批判するという行為には、実はこのように《愛》があるのです。
 もっともそうは言っても、一般に宗教を信仰している人に批判を嫌う傾向が強いことも事実でしょう。しかし、本来は宗教の道に深まれば却って善悪の判断がつくようになり、批判力が鋭くなってゆくもので、無批判に何でも受容することが正しい宗教信仰の態度ではないはずです。それは仏教とて同様で、たとえば修行者を誰でも「法友」として対等に遇した釈迦の教団は、まさに当時のカースト制度に対するアンチテーゼであったとも解釈できるわけです。
 批判するという行為は、このように、真理を真理たらしめるために、そして、真理を本当の意味でこの世に活かすために本来必要な行為であるのです。要するに批判的行為とは、人を真に自由にし、そのいのちを真に生かすかすためのもので、これこそは 仏教が究極的に求めるところでもあるのです。
 皆様のご批判をお待ちしております。
※聖書の引用は日本聖書協会・口語訳聖書によりました。

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