聖書に名を借りた支配―信仰による虐待と聖書信仰―

はじめに

 先にわたしは、神学や信仰の先鋭化の危険性についてふれた。
 また、ここではまだあまり展開しきれていないが、信仰においてあまりに神に対する怖れを強調することが、この先鋭化の運動と相まって、その宗教を本来の姿から大いに逸脱させる危険もあるとわたしは考えている。

 今回は、その先鋭化の行き着く先のひとつの特徴的なものとして宗教カルトの問題を取り上げたい。
 わたしは以前からこの問題に興味がある。それに加えて、カルトや彼らが行なう悪質なマインド・コントロールについて世間にはいろいろと誤解があるので、非力を顧みず、本記事によってその誤解が少しでも解ければと願うものである。

■1:カルトとはなにか?

〔1-0:はじめに〕

 カルトという言葉を聞いて、人は一体どんな集団を思い浮かべるだろうか?

 わたしがカルト問題に興味を持つようになってからずいぶんたつが、時をおかずしてこの言葉が一人歩きを始めてしまった感がある。要は自分の気にいらない団体をカルト呼ばわりする風潮がはびこっているように見える。

 カルトに限らず、たとえばニヒリズムにせよテロリズムにせよ、あるいは全体主義やイデオロギーもそうだが、いわゆる「レッテル語」と呼ばれるものがある。これらのレッテル語は辞書的な定義が非常にむずかしいのだけど、カルトもそのうちのひとつである。定義と言うか、これらの用語の使用に逸脱が見られるのもそれが要因となっているようだ。
 ただカルトの場合、本来の意味がまだ失われてはいない。そのため、「(破壊的な)カルト」と言った場合も、幸い他のレッテル語に比べてその定義がまだ比較的容易であるように思う。それでも、カルトという用語に逸脱と言うか誤解が多いので、多少個人的な見解も交えながら、カルトという言葉の正確な意味について、ここでなるべく詳しく説明をしておくことにした(※ただし、今回はカルトについて本格的な考察を行なうことを目的としているわけではないため、以下のカルトに関する説明は浅見定雄氏の著書『なぜカルト宗教はうまれるのか』の説明におおむね準拠したことをお断わりしておく)。

〔1-1:カルトとは何か?〕

 まずはカルト(cult)という言葉が本来持っていた意味から説明を始めよう。

 辞書的な説明ながら、本来カルトとは、ラテン語で古代ローマ以来の宗教の具体的な「営み」(神々の崇拝や礼拝などの儀礼)を意味していた。また、本来「耕す」という意味も持つculture(カルチャー)はcultと語根を同じくする語でもある。そのため、これは西欧の文献に多い印象があるのだが、「祭祀」の意味でcultの語を用いる研究者は最近でも多く見られる〔注1-1-1〕。したがって本来カルトとは、簡単に言えば、(宗教学上の定義としては)伝統的な成立宗教から見て《比較的新しく、少し奇異な感じを与える、小さな、宗教集団》〔注1-1-2〕のことである。浅見はこれを「新・奇・小」と呼んでいるが、わたしはこれに「熱狂的」(場合によっては「狂信的」)という語を加えてもよいのではないかと考えている。カルト・ムービーやカルト・ミュージックといった言葉が今も現実に生きていることからもそれはわかるだろう〔注1-1-3〕

注1-1-1:もっとも、すでにこの定義自体が必ずしも価値中立的ではなく、既成宗教、特にキリスト教から見て古代の宗教や新興宗教は低次元の、ないし未発達な宗教=信仰形態であるとする価値判断が含まれているものと思われる。かつてよく見られた「未開宗教」と「高等宗教」とを区別する視点もまた無自覚ながら従来のカルトの定義に反映していると見ることができるかもしれない。
注1-1-2:浅見定雄『なぜカルト宗教はうまれるのか』日本基督教団出版局、1997年3月、p.20.
注1-1-3:手許の英和辞典でも、cultの項目で、儀式や宗派、にせ宗教、異教、新興宗教といった意味に加えて、《礼賛、賞賛、崇拝。[けなして](一時的な)熱狂、(…)熱。[集合的に]礼賛[賞賛、崇拝]者;賞賛[熱中]の対象》〔『ジーニアス英和辞典〔改訂版〕』大修館書店、2000年4月〕という語釈がなされている。さらにこの語を形容詞的に用いて、「流行した」何らかの事柄(例:はやり言葉、a cult wordなど)を意味する場合もあるという〔同上〕。

 以上は宗教学および社会学上の従来のカルトの定義である。
 ところが、このように従来はカルトという言葉には特に悪質な意味はなかったものが、時代が下るにつれて、次第にカルトと言えば「悪質なマインド・コントロールを行なって、その構成員を支配し隷従せしめる団体」の意味として用いられるようになった。たとえばカルトからの救出カウンセラーの先駆けであるスティーヴン・ハッサンが『マインド・コントロールの恐怖』(原著の出版は1988年、翻訳は1993年)を著わした頃はまだ「破壊的な(destructive)」という形容詞を添えてカルト問題が論じられていたものが、いつの間にか――少なくともこの本が日本で翻訳出版された直後ぐらいから――単にカルトと言っただけで、上記のような「社会やその団体の構成員に対して破壊的な影響を与える特異な団体」の意味で使われるようになった〔注1-1-4〕

注1-1-4:ただし浅見氏によれば、ロス・ランゴーニの『カルト教団からわが子を守る法』〔ASAHI NEWS SHOP、朝日新聞社、1995年6月〕や、上記『マインド・コントロールの恐怖』に「推薦のことば」を寄せているマーガレット・シンガーの『カルト』〔飛鳥新社、1995年10月〕などにおいては、原著でもすでにカルトだけで悪い意味として使われているという。

〔1-2:マインド・コントロールとは何か?〕

 次に、マインド・コントロール(mind control)という語について簡単に説明しておこう。

 一般に破壊的なカルトには必ずと言ってよいほど悪質なマインド・コントロールが伴う。しかし、そのマインド・コントロールにしても、従来はカルトと同じく特に悪質な意味はなく、その「悪用」の問題として論じられていた。それがカルトの意味が変化するのとほぼ時期を同じくして、マインド・コントロールも、相手にそれと悟らせずに他者を操る非倫理的な心理学的な技法の総称――より専門的に言えば《個人の人格(信念、行動、思考、感情)を破壊しそれを新しい人格と置き換えてしまうような影響力の体系(システム)》〔注1-2-1〕――として、現在見るような極めて悪質な操作技法として使われるようになってきた〔注1-2-2〕。そのため、特に断わりがない場合は、ここでもこの意味合いで「カルト」を使うことにする。

注1-2-1:スティーヴン・ハッサン『マインド・コントロールの恐怖』、浅見定雄訳、恒友出版、1993年4月、p.27.
注1-2-2:わたしの記憶では、日本においても遅くとも1980年代末ごろまではマインド・コントロールはよい意味として語られることも多かったようだ。それが1993年の統一協会の合同結婚式報道あたりを皮切りに、この言葉はその意味を変質させるようになった。たとえばその証拠に、イメージ操作を伴う願望実現メソッドとして有名なシルバ・マインド・コントロールなども、世間の誤解を避けるためであろう、たしか1990年代中頃にはシルバ・メソッドと名称を変更していた。

〔1-3:カルトにはどのような団体が存在するのか?〕

 それでは、以上のような破壊的なカルトにはどのような団体が存在するのだろうか?
 ごく簡単に説明しよう。

 破壊的なカルトは、宗教団体に限らず、経済カルト(マルチ商法など)や心理療法カルト(自己啓発セミナーなど)その他あらゆる形態がある〔注1-3-1〕。その中でも一段と悪質で特徴的なものが「宗教カルト」である。ただし上でも説明したように、カルトとは元来「熱狂的(あるいは狂信的)で特異な比較的小規模な宗教集団」に対して使われていた宗教学および社会学上の用語だが、上記のような様々な派生的なカルト集団が近年続々と現われてきている実情から、現在においては本来の宗教カルトをわざわざ「カルト宗教」と呼ぶ必要も出てきているという〔注1-3-2〕

注1-3-1:他に日本ではあまり見られない形態として政治カルトがあるが、これはいわゆる政治結社で、現代ではある種のテロリスト団体もこれに含めることができるだろう。
注1-3-2:浅見『なぜカルト宗教はうまれるのか』、p.147参照。

■2:福音とその変質
―キリスト教界にはびこる聖書カルト―

 話をキリスト教に限定しよう。

 以上の説明でカルトという言葉の意味については大体理解していただけたものと思う。ところが、多少同語反復的な「宗教カルト」という用語以外に、上でも触れたように、最近では「聖書カルト」(カルト化する教会)なる用語を心あるキリスト教サイトその他でも見かけるようになった。15年ほど前にこの言葉に最初に接した時はわたしもいささか驚きを禁じ得なかったことを覚えている。

 キリスト教においては、信仰とは「怖れからの解放」としての福音を信じることだと言われる。《真理は汝らに自由を得さすべし》(ヨハネ福音書 8:32)と聖書にもあるように、それは「解放」の音ずれである。また、ギリシア語で「罪」を意味するハマルティアという語の原義は「的を外す」という意味だとされる。福音とはだから、人間が神との正しい関係から「的はずれ」となって罪の奴隷となった状態からの解放の喜ばしい「知らせ」(Good News)なのだ。出エジプトに象徴的に表われているように、それは、現代風に言えば「人間疎外」という名の奴隷状態からの人間解放の「福音(よきしらせ)」でもあると言えよう。

 わたしは、キリスト教に限らず、ほんものの宗教〔注2-1〕は皆すべからく福音であると信じている。たとえば浄土教の教えなどまさに福音と言ってよいと思う。しかしながらその反面、人間を真の意味で解放せず、かえって奴隷化するだけの「宗教」があまりにも多いことも事実である。そのような「偽造宗教」〔注2-2〕の中でも、特に「破壊的なカルト(destructive cult)」による「信仰による人間疎外」〔注2-3〕の問題はこれをなおざりにすることはできない。

注2-1:「ほんものの宗教」とか「正しい宗教」といった表現は多少問題があると思うし、何をもって「ほんもの」であるとか「正しい」とするかについてはそれぞれの見解もあるだろうが、今はあえてこのまま使う。
注2-2:谷口隆之助『聖書の人生論――いのちの存在感覚――』川島書店、1979年5月、p.192.
注2-3:精神科医でクリスチャンでもある工藤信夫氏の著作名、『信仰による人間疎外』(いのちのことば社、1989年9月)より借用。本書の内容は聖書カルトとは直接関係はないが、内容的には重なる部分が多くある。

 それらの団体の行なうマインド・コントロールの中でも極めて悪質なものが信者に対する恐怖心の植えつけだが、それは恐怖症(フォビア、phobia)と言ってよいほどのものであるという〔注2-4〕。さらにこのような信者に対する恐怖心の植えつけは、今やカルト宗教や一部の新興宗教の専売特許ではない。「聖書カルト」と呼ばれるキリスト教会において、そのような信者への「支配」が日常的に行なわれているというのだ。しかも保守的なプロテスタント教会を中心に、近年そのような聖書カルトが多数生まれてきているという。その証拠に、キリスト教の出版社であるいのちのことば社でも、ここ10数年くらいの間に聖書カルトに関する一連のブックレットを出版して教会員に警告を発している〔注2-5〕。もちろんこのような啓発を一般信徒に向けて行なうこと自体は大変意義のあることなのだが、しかしながら、こればかりは手放しでは喜べない。そもそも伝統的で保守的な信仰を守る福音派の出版社であるいのちのことば社で、小冊子ながらこのような書籍が何冊も発行されざるを得なかったということは、やはり由々しき事態だと言わざるをえないだろうからである。

注2-4:浅見『なぜカルト宗教は生まれるのか』、p.222参照。
注2-5:現在わたしが目を通したものは、『「信仰」という名の虐待』〔パスカル・ズィヴィー、福沢満、志村真著、21世紀ブックレット17、2002年5月〕と『教会がカルト化するとき―聖書による識別力を養う―』〔ウィリアム・ウッド著、同シリーズ18、2002年12月、以上いのちのことば社〕の二冊である。それ以外でわたしの手許には、『“「信仰」という名の虐待』”からの回復―心のアフターケア―』〔パスカル・ズィヴィー著、21世紀ブックレット37、2008年4月〕と『「健全な信仰」と「カルト化した信仰」」』〔ウィリアム・ウッド著、同シリーズ26、2005年2月〕、『霊の戦い―虚構と真実』〔ウィリアム・ウッド、パスカル・ズィヴィー著、同シリーズ44、2011年3月、以上いのちのことば社〕の三冊がある。なお、上記の本の中で必ずしも明記されているわけではないが、どうやら福音派の教会が「聖書カルト」化する傾向が強いようだ(後述)。

■3:「聖書信仰」がもたらすもの

〔3-1:聖書カルトとは何か?〕

 それでは、「聖書カルト」とは一体どのようなカルト団体なのか?

 ここでは、上記でも紹介したいのちのことば社のブックレット〔注2-5参照〕を参考に、「聖書カルト」とは一体どのような教会なのか、わたしなりに説明をしておくことにしたい。

 聖書カルトとは、統一協会はもちろん、エホバの証人やモルモン教のような、聖書に加えて独自の聖典や啓示を持つ異端的な「キリスト教系新宗教」〔注3-1-1〕ではなく、あくまでマルティン・ルター以来の「聖書のみ」の原則を守り「聖書信仰」の立場で、しかもその聖書の御言葉によって教会員を支配(マインド・コントロール)する教会を言う。
 マインド・コントロールの実際に関しては、前出の『マインド・コントロールの恐怖』その他に詳しく書かれてあるのでそちらをご覧いただきたいが〔注3-1-2〕、恐怖心の植えつけに関して特にここで説明しておこう。

注3-1-1:統一協会の正式名称は世界基督教統一神霊協会(最近になって世界平和統一家庭連合に改称)で、本来略称は統一教会ではなく統一協会の方が正しい。次にエホバの証人は信者を表わす通称で、正式な組織名はものみの塔聖書冊子協会。さらにモルモン教の正式名称は末日聖徒イエス・キリスト教会である。従来これを一般に「三大異端」と呼ぶ。かつては三位一体の教義を否定したユニテリアン教会が異端としてつとに知られていたが、こちらは社会問題等は特に起こさない、あくまでも教義上での異端(こちらは「三位一体」の教義を否認したがために異端とされた)であった。ただし昨今は、これらの「三大異端」が聖書に加えて独自の経典を持っていることをもって、通常のキリスト教会においては、これらは「異端ですらない」、すなわち「そもそもキリスト教ではない」とされるようになった。そのため、近年はこれら「三大異端」のことを通常は「キリスト教系新宗教」と称することが多い。そして、ユニテリアンをのぞいて、これら「キリスト教系新宗教」は一様に悪質なカルトとされることが多いのだが、そのうちエホバの証人とモルモン教に関しては、それらがどれほど容認できない教義を信奉し実践しているか、その実態についてはわたしもよくは知らない。ただし、統一協会に関しては誰が見ても悪質なカルトの代表格であることは斯界の認めるところである。もっとも、いくら「異端」ないし「キリスト教系新宗教」だからと言って、そのことだけをもって、それらが個人の内面の信仰として認めることもできない間違った宗教だと断定することは誰にも許されないことである。それはよくよくその実態を把握した上でなされるべき判断である。
注3-1-2:スティーブン・ハッサンや浅見定雄の著書以外では、西田公昭『マインド・コントロールとは何か』(紀伊國屋書店、1995年8月)や郷路征記『統一協会マインド・コントロールのすべて――人はどのようにして文鮮明の奴隷になるのか』(教育史料出版会、1993年12月)などが参考になる。

 その具体例としては、たとえばその教団から抜けようとすると、その途端にそれまでの友好的な態度〔注3-1-3〕を一変させてメンバーを責め裁き、「離れたら地獄に堕ちる」「不幸に襲われる」等々の“脅し”を信者に対して行なう教団が多い。聖書カルトと称される教会でも、牧師が同じような脅しを信者に対して行なって彼らを支配しているというのだ〔注3-1-4〕。また、聖書カルトは単立の教会に多いそうだが、それら聖書カルトの大半が「律法主義的」(わたしは律法主義的であること自体がすでに福音的ではないと考えている)で、さまざまな恣意的な規範を作っては、それをもって牧師が自分の思うままに教会員を支配(コントロール)している状況が多く見られるとされる。聖書カルトにおいても、牧師による信者の支配のために破壊的なカルトと全く同様なマインド・コントロールの手法が使われているのである〔注3-1-5〕

注3-1-3:たとえば入信者は当初「愛の爆弾」ないし「賛美のシャワー」と称する歓迎をカルトのメンバー全員から受け、とても友好的な雰囲気の中に――操作的に――浸らせられることになる。
注3-1-4:パスカル・ズィヴィー、福沢満、志村真『「信仰」という名の虐待』、いのちのことば社、21世紀ブックレット17、2002年5月、p.23~24参照。
注3-1-5:カルト化した教会の実際については上記いのちのことば社のブックレットを見ていただきたいが、それに加えてカルト問題一般を扱った他の関連書を見れば、カルト宗教でも聖書カルトでもその実態は本質的に同じであることがよくわかるだろう。

〔3-2:カルト化する教会と聖書による支配の実態〕

 ところで、先にわたしは聖書カルトについて書かれた参考文献の注記〔前記注2-5参照〕の中で聖書カルトが福音派の教会を中心にはびこりつつあるかのようなことを書いたが、これは必ずしも根拠のない感想ではない。そのことについて、ここで少し補足的な説明をしておきたいと思う。

 多少くりかえしになるが、上記の参考文献によれば、カルト化した教会では聖書の御言葉を教会員支配の道具に使っており、また、それらの教会の多くが律法主義的で、さまざまな規範(実践行動)を信者に強いて教会員を支配していること、それらの教会の多くは特定教派に属さない単立の教会が多いことが指摘されている。

 意外に思う人がいるかもしれないが、ここで肝要なのは、その際に支配の前提ないし根拠となるのが実は「聖書の御言葉」であるということである。しかも福音派や福音派に近い立場の教会〔注3-2-1〕の場合、「聖書は100パーセント間違いのない神の言葉である」とする立場から来る当然の帰結として、聖書の御言葉およびその解釈は絶対的な権威をもって信者に迫ってくる。その聖書の言葉の意味について信者自らが自分の頭で考えることは、カルト的な教会の中では――その教会ないし牧師による解釈を逸脱するような形では――当然ながら許されない。批判的な視点で聖書に接するなど以ての外、そのような行為は「不信仰」として大概は否定されることになる。完全な書物たる聖書に批判的な姿勢で接することは敬虔ならざる態度として斥けられなければならない。それは信者としては許されざる行為なのだ。何となれば、それは神に異論を差し挟むことにもつながるからである〔注3-2-2〕
 このように、聖書カルトにおいて聖書の御言葉の解き明かしができるのはひとり牧師だけなのだが、しかしその実態は、聖書ないし神の権威を背景に牧師が信者を支配(コントロール)しているにすぎない。聖書カルトにおいては牧師が権威なので、どれほど聖書根本主義の立場を表明しようとも、実際には聖書が権威でも神が権威でもないのである。これは被造物神化、すなわち牧師自身が神になることを意味するが(このとき聖書の権威を背景にその教会内で牧師が神ないし唯一の預言者となる!)、それもこれも聖書の御言葉の絶対視がその権威と根拠を牧師に与えているがゆえのことなのである。

注3-2-1:ここでは福音派に関する詳細な定義は特に行なわないでおくが、一部に誤解があるように、福音派は聖書根本主義(いわゆる原理主義)の立場の教会と必ずしもイコールではない。たしかに福音派の最右翼が聖書根本主義(原理主義)であると言うことはできるのだが、必ずしも福音派に属する教会がすべて聖書根本主義の教会であるとはかぎらない。また、広く聖霊派ないしペンテコステ派と呼ばれる教会があり、これも本来は福音派には数えないが、一部には聖霊派も福音派に含めて捉える専門家もいる。さらに、教会としては福音派とは一線を引きながらも、保守派のバプテスト教会もその信仰内容においては福音派と軌を一にしていると見てよいだろう。これらの教会は、礼拝の形態その他の面ではさまざまに違っていても、その信仰内容は非常に似ている面があるようだ。その証拠に「聖書信仰」という点に関しては、福音派も聖霊派も保守派のバプテスト教会もほぼ同様な見解を示している。それゆえ本論においては、これら本来は福音派に属さない教会もまた福音派と近親関係にある信仰だと見て論を進めている。
注3-2-2:そういった姿勢の対極にある態度として、たとえばアブラハムはソドムのためにあえて神に抗弁したし〔創世記 18:16-33〕、また、ヤコブが神によって祝福のうえ与えられた「イスラエル」という名は元来「彼は神に抗う」という意味であったこと〔創世記 32:23-33〕などをあげることができるだろう。ここでは指摘だけにとどめるが、彼ら以外にも、ヨブのように、自らに与えられた理不尽な不幸に対して神に向かって異議申し立てをした「義人」もいるのである。わたしたちはそのことを肝に銘じるべきである。

 くりかえすが、このような逸脱が起こるのも、皮肉なことにそれは「聖書の絶対的な権威」があったればこそである。聖書根本主義の教会だからこそ、信者をコントロールするための道具として聖書の御言葉をこのように効果的に使うことも可能となるわけで、ここに「聖書信仰」が孕む問題点があるのだとわたしは捉えている。

 もっとも、これがたとえばリベラルな立場の教会であれば、教会員自らが自分の頭で、時には批判的に聖書を読み、牧師の説教を聞いてしまうため、牧師一人による信者の支配は比較的むずかしいと言える。大体通常の教会であれば、牧師の行動があまりにもおかしいと思えば、場合によってはその教会の役員か一般信徒の誰かが教派の上層部にその牧師の行動を訴え出ることもあるだろう(実際そういった話は知人などから時々聞くことがある)。それに対して聖書カルトにおいては、牧師は誰からも批判されてはならない存在である。何となれば、彼は神によって権威を授けられた特別な存在だからである。ここにおいて、彼は聖書および神の御言葉の解き明かしをひとり独占するのである。

 さらに、ある教会が何らかの理由で“問題化”した時に、教派の上層部からの批判や譴責などに対して、問題の牧師がリバイバルと称して教会を独立させるということもあるだろう。そして、その単立教会が教線拡大で教派を形成すれば、ここに新たなカルト教団が生まれることになるわけで、その辺は一般のカルト宗教と何ら変わらない。もしも違いがあるとすれば、他のカルト宗教と違って、聖書カルトには伝統的な聖書信仰ないしキリスト教という「後ろ盾」があることだろうか〔注3-2-3〕

注3-2-3:もっとも一般のカルト宗教の場合も仏典その他を権威づけに使うのだが、キリスト教会における聖書ほどの絶対的な権威をそれらの聖典類が現代においても持っているかどうかとなると、それは疑問と言わざるをえないのではないかと思う。それほどにクリスチャンにとって「正典=聖典」としての聖書の持つ権威は絶大なのである。

 かくして、単立のカルト教会でも一般のキリスト教会を隠れ蓑として破壊的な活動が可能となる。しかも、単立であればあるほどカルト性(破壊性・問題性)が外から見えづらくなるため、一般世間の批判ばかりでなく、クリスチャンによる批判・検証も受けにくくなるという次第である。以上が、特に福音派など聖書根本主義に立脚する教会で聖書カルトがはびこりつつある要因であり、聖書カルトが単立の教会で多いとされる理由でもあると言えよう。

■4:文字は殺し、霊は生かす
――人を殺すこともある聖書解釈――

〔4-1:キリスト教ならばすべて正しいか?〕

 以上長々と論じてきた聖書カルトの問題はたしかに大変重要な論点ではあるが、今この問題についてこれ以上具体的に論じることはできないし、残念ながらその力もない。わたしは、ここで必ずしも聖書カルトを本格的に問題にしたいわけではないし、聖書信仰に関しても、ただそれだけでこれを否定したいわけでもない。ただ、その聖書信仰が時に「信仰による人間疎外」や、場合によっては「信仰による虐待(spiritual abuse)」をすら生むことがあることを指摘しているだけである。
 わたしがここで言いたいことは、同じ聖書を信仰し、必ずしも異端視されているわけではない伝統的なキリスト教会の中にも、現実としてこのようなカルトまがいの「宗教偽造」の類が蔓延しつつあるということである。すなわち、聖書を信じ、同じキリストを信じながら、その同じ聖書やキリストの名によって人間を「奴隷化」する間違った信仰が現実に行なわれているということをわたしはここで強調したいのだ。クリスチャンではないが、宗教を信じる者として、このような問題をないがしろにすることはわたしにはできない。

 そんなわけでクリスチャンは、「キリスト教ならばすべて正しい」という先入観は(これは自らが属す教団や教派についても同様である)今や捨てなければならない。「キリスト教」を「聖書信仰」と言いかえても事態は何ら変わらない。《わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。》(マタイ福音書 7:21)と聖書にもあるように、ただ単にキリスト教会に所属し、イエスをキリストであると信仰告白するだけで、わたしたちは自動的に神のみ前に義とされるわけではない。また、教派・教条の違いも何ら意味をなさない。肝腎なのは、自分がクリスチャンとして正しい信仰を持つ、すなわち神に対して正しく関わるということなのである〔注4-1-1〕
 要するにこれは、その教会の牧師や信者が「自分たちは聖書を誰よりも正しく信じている(あるいは理解し解釈している)」といかに声高に主張しようとも、ただそれだけでは正しい信仰を生きているとは必ずしも言えないということである。《たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい》(コリント人への第一の手紙 13:2)と聖書にあるとおりである。

注4-1-1:これは神に対して「的外れ」でない状態になることを意味するが、何もそれは必ずしも神に対して完全に(行ないにおいても)義なる状態となるということではないのではないかと思う。「神に対して正しく関わる」とは、信仰において神によって義とされる、そのような「関係」「状態」となる、ということであろう。そして簡単に言えば、神を正しく信じるとは、そのことがそのまま神に対して正しく関わることになるのだとわたしは理解している。

 わたしがここで言いたいことは、多くのクリスチャンが信じているような意味では、キリスト教以外の宗教が必ずしも間違っているとは言えない、キリスト教でも他の宗教同様に道を踏み外しうる、ということである。一部のクリスチャンには認めがたい見解かもしれないが、それは、キリスト教以外の宗教にも正しい信仰があるし、キリスト教でも間違った信仰がある、ということでもある。社会心理学者のエーリッヒ・フロムが《権威主義的宗教と人道主義的宗教との区別は、さまざまな諸宗教を区別するばかりではない。同一の宗教のうちにもその区別はなされうるのである》〔注4-1-2〕とその著書の中で書いているが、このフロムの言う「権威主義的宗教」「人道主義的宗教」を「間違った信仰」「正しい信仰」などと言いかえればこのことは誰の目にも明らかだと言ってよいであろう。

注4-1-2:フロム『精神分析と宗教』谷口隆之助、早坂泰次郎共訳、東京創元社、現代社会科学叢書、1953年、1971年改訂版、p.54.

 上でも述べたように、聖書カルトの問題は一般のクリスチャンにとっても決してなおざりにすることのできない問題である。もっとも、中には「聖書カルトの問題は通常のキリスト教会とは関係ない事柄で、自分たちには関係ない話題だ」と思う人がいるかもしれない。そういう考えももちろん理解できなくはない。しかしながら聖書カルトの問題は、わたし以上に、クリスチャンにとっては同胞の問題、自分が「当事者」となった信仰の仲間(きようだい)の問題であろう。教派なり教会は違っても、カルト教会に集う信者も同じキリストの体につながる仲間(信仰の群れ)であって、少なくとも部外者ではないはずだからである。

 何にせよこの事態は、聖書カルトの出現においてクリスチャンとしての「責任(responsibility)」がいま問われているのだと理解することができるのではないだろうか。あるいは聖書カルトの出現によって、クリスチャンは「キリスト教ならばすべて正しい」という昔ながらの素朴な信仰(ひいては先入観)を保持することが許されない時代になったのだと理解することもできるかもしれない。それは、クリスチャンが今その信仰の真価、ひいては自分の信仰が神の前に(それは同時に「社会の中において」でもあることをわれわれは決してわすれてはならない)真に正しい信仰であるかどうかが問われているということでもある。その意味で聖書カルトの出現は神による信仰の試練(こころみ)なのだと、このように捉えることもできるかもしれないのだ(※信仰における責任の問題については後に改めて取り上げる予定)。

〔4-2:人を殺すこともある聖書解釈〕

 いささか脱線した。話を戻そう。

 多くのキリスト教入門書を読むと、「聖書は神の霊感によって書かれた」と説明されている。そのことに関しては特に批判も何もないし、わたしも事実そのとおりだと思っている(もっともわたし自身は仏典その他の「宗教的古典」も神ないし仏による霊感によって書かれたものだと信じている)。また、一般にキリスト教会では「聖書は聖霊の導きによって初めて理解することができる」と信じられているという。意外に思われるかもしれないが、わたしはそのことに関しても特に異論はない。ただし、クリスチャンならば聖書を読んで直ちに聖書の御言葉を完全に理解できるかとなると、それはやはり疑問と言わざるをえないだろう。

 たしかに聖書は神の霊感によって書かれた書物には違いない。それを読む時も神の霊感によらなければ聖書を完全には理解できないということもまた事実だろう。そのことを認めることにわたしも決してやぶさかではないが、しかしながら、すべてのクリスチャンにそれが可能だとはわたしには到底思えないのだ。洗礼を受けたならば、それだけですべてのクリスチャンが聖霊の働きによってその日から突然に聖書が理解できるようになるわけでもあるまい。それは歴史やキリスト教会の現実が証明しているとおりで、聖書の言葉を完全に理解し実践することは、神の前に不完全な人間にはやはり至難の業と言うべきなのである。大体において、もしもクリスチャンであるだけで聖書解釈ができると言うのであれば、いくら巧妙なマインド・コントロールの手法を使うからといって、洗礼を受けたクリスチャンがカルト教会の牧師にそうやすやすと騙されるわけがないではないか。そのように考えれば、洗礼を受けたクリスチャンによる聖書解釈がいつも正しいとは限らないことは誰の目にも明らかであると言えるだろう。

 それでも、上記のようなわたしの見解に対してはさまざまな異論があるだろうが、今これについて詳論する余裕はない。
 もちろんこれに対しては、「それは真実のキリスト教会ではない」とか「その洗礼は有効ではない」、あるいは「それは真実に聖霊の導きではない、したがって正しい聖書の解き明かしではない」といった反論が当然ながら予想される。それは、かつて共産主義国家がその信奉者たちによって「あれは真実の共産主義国家ではない」「あれは共産主義の失敗例だ」とさんざん“弁護”されたのとまったく同じような“弁明”だと言ってよい。何となれば、それを言うなら、「どれが正しい共産主義なのか」という問いと同様、「どれが正しいキリスト教理解・解釈なのか」「その判断を誰が下すのか」といった問題が直ちに生まれて来ざるをえないからである。当然「自分たちの教会の判断が一番正しい」ということになるのだろうが、それならば今度は「その判断は誰が下したのか」と問われなければならない。人間すなわちその教会員の誰かがその判断を下したというのであれば論外だ。何となればその場合、カルト教会の牧師と同様、その判断を下した人間は神と同様に間違いのない判断をすることを自らに許していることになるからである。

 いや、さらに言えば、たとえそれが教団の役員や神学者たち複数人によるものであったとして――いや、それが何らかの宗教会議で全員の賛成によってその解釈ないし教義の正当性が決定されたものだとしても――やはりそれは基本的には同じことである。理屈を言えば、バベルの塔の逸話にも見るように、神の前に不完全な人間がいくらたくさん集まって一致団結したとしても、彼らがそれで不完全でない存在になることはありえないし、それだけで神から嘉(よみ)されることもない。
 もちろん「宗教会議にも当然ながら聖霊の働きかけがあり、神の完全性からすれば不完全ではあっても、正しい教義制定や解釈がこれまでなされてきたし、これからもなされてゆくのだ」とする見解もあろう。わたしもそれは否定しない。そのとおりだと思う。その意味で世にはこれまでたくさんの宗教会議・教会会議が存在し、さまざまな決議がなされ、信仰規準が定められてきたことは事実である。しかしながら、そのうちのすべてが正しい解釈だというのか。それとも、そのうちのどれかひとつ、ないしいくつかだけが正しい解釈なのか? たとえ教義制定その他に聖霊の働きかけを認めるにしても、今度はどの教義解釈に聖霊の働きかけが認められるかを人間側が判定する必要が出てくるという意味では、それはやはり同じことなのだ。これは要するに、キリスト教のいかなる会派もその絶対性の保証はこの世においては持ちえないということを意味していると言えるのである。

 もっとも、それを言い出したら聖書の解釈そのものが不可能になってしまう。そこで、簡単ながらここでこの問題に関してひと言コメントしておけば、その聖書解釈が人間をより人間的にするものならば、それは聖霊の導きによる正しい解釈である――それに対して、それとは逆の「信仰による人間疎外」を(相対的により多く)もたらすような解釈は、たとえそれがいくら神の栄光を輝かせるもののように見えたとしても(これもいずれ詳しく論じたいテーマだが、実はわたしは「神の栄光を輝かせるため」にという多くのクリスチャンが表明する主張にも大きな疑念をいだいている)、それは聖霊による導きではないと判断したらよいのではないかと考えている。

 《安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。》(マルコ 2:27)と聖書にもあるが、「安息日」を律法、ひいては「教義」と解釈すればわたしの言いたいことは大体理解していただけるものと思う。結果として人を殺すものは、どんなに正しい(正しく見える)「教義」でも、それはその時点ですでに間違った「教義」、間違った「教え」なのである。

 なお、誤解のないよう申し添えておくが、わたしは聖霊の手助けによる聖書の解釈はノン・クリスチャンにも開かれていると信じている。ただし、だからと言って「ノン・クリスチャンであるわたしの方が、聖霊の導きによってクリスチャンよりも正しく聖書を解釈してみせる」などと間違っても言いたいわけではない。そうではなくて、聖霊の導きによって正しく解釈されたはずの従来の聖書解釈が神の目から見て真に正しい聖書解釈であったかどうか、非力を顧みず吟味したいと考えているのである。

 《神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。》(二コリント 3:6)とパウロは書いているが、神の霊感によって書かれた聖書といえども、それだけではただの「文字」でしかない。「文字は殺し、霊は生かす」のならば、時と場合によっては、すなわち表面の「文字」にのみ囚われた場合、聖書ですら人を殺すものとなりかねない。そういうことをこのパウロの言葉は意味していると言えよう。それだから、霊である聖書の文章も、単に霊を映したにすぎない文字であるかぎり、それが人を殺すものと化す可能性をわれわれは否定することができないのである。それだから、聖書の文言に囚われることもまたある意味で一種の「偶像崇拝」に他ならない。そして、このような信仰態度すなわち聖書の偶像化が、聖書を使うカルトを生み出す原因のひとつでもあると言っても決して過言ではないのではないだろうか。わたしはそのように考えている。

 上でわたしは聖書カルトの例をあげて、信者を支配(コントロール)するための道具として聖書の御言葉がいかに効果的であるかを指摘した。聖書の御言葉の絶対視による聖書の権威、ひいては「聖書の偶像化」は、実にこれほどの問題点を孕んでいるのである。ここにこそ「聖書信仰」の孕む最大の問題点があるのだと思う。

最後に

 上で述べたように、福音とは、そしてキリスト教信仰とは、怖れからの解放とその福音に対する信仰でなければならないはずである。それにもかかわらず、(たとえ一部の教会とは言え)聖書カルトに見るように、それが上に書いたように完全に逆転してしまっているのは「聖書信仰」の一体どこに問題があるのだろうか? 《樹(き)は果(み)によりて知らるる》(マタイ 福音書12:33、他にマタイ福音書 7:15-20、ルカ福音書 6:43-45)と聖書にもあるが、それならば聖書カルトを生み出すような「聖書信仰」は一体どのような《木》によって生み出されたのだろうか?

 以上述べてきたような問題があるからこそ聖書に対する批判的かつ対話的なアプローチが必要とされるのであって、聖書を《聖》書たらしめるためにも、われわれは聖書批判を避けて通ることはできないのである。

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