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ozzy
2020年8月1日 07:30
その日以来、成美は休みの日になると母親の元へ通うようになった。私もついていこうと提案するが彼女は断った。どうやら、母親の娘に対する対応を見られたくないらしい。 おそらく娘に対する対応など、ない。母親からしてみれば、見知らぬ他人が頻繁に見舞いにくるくらいにしか思っていないのかもしれない。それが成美にとっては辛いはずだった。それでも彼女はたった一人の肉親である母親を求めて懸命に千葉まで足繁く通って
2020年8月3日 07:30
話し終えると沈痛な空気が辺りを支配した。それは重く私にのしかかってくるようで、居心地が悪い。腕を組んだままの榊が口を開いたのはしばらく立ってからだった。「考え過ぎだよ」 再び榊は歯を見せた。その瞬間、榊はいつもの彼に戻った。「勝手にお前が一喜一憂しているだけに聞こえるぜ。本当にお前が言う程、彼女は目の前の事を憂いているのかな」 私は二の句が継げない。「自分が他人に不幸だと思われるのって
2020年8月4日 07:30
パスタを平らげ、コーヒーを飲み終えた私達は会計をする為に席を立つ。財布を開いている私を彼女は制止した。「ここは私がご馳走しますから」 のんびりとした口調で成美は言った。私は一度断ったが、いつまでも問答するのもどうかと思い彼女の言葉に甘える事にした。彼女に「ありがとう」と軽く手を挙げて一足先に店を出る。 通りを何気なく見渡し、私は深く息を吸い込んだ。この後どこへ行こうかと思索を巡らせていると
2020年8月5日 07:30
結局どんよりとした雰囲気を引きずったまま、いやそれは私が持て余していただけであって一方の成美は笑顔を取り戻していた。彼女はこの日も千葉の母親の元へ向かうらしく、駅前で別れた。 一人になり帰路についても私の頭の中は彼女の今を憂うことでいっぱいだった。いつまでたっても抜け出せないトンネルに迷い込んだようで、希望は傍らにあるのにそれを照らす術がないようで、それは苛立ちに変わりやがて憤りに変わる。だ
2020年8月6日 07:30
私は聞いた事の無い彼女の慟哭に狼狽したが、目の前に榊がいてくれるだけでなんとか冷静を保つ事が出来た。「ゆっくり話して。泣いているだけじゃわからないって」 榊が目を丸くした。声を出さずに「泣いているのか?」と聞いてくる。私は小さく頷く。「お母さんの入院費で」 私はその彼女の言葉で察した。まさに今榊に相談していた事だ。私に迷いは無かった。「大丈夫。それなら俺がなんとかするから。一緒に頑張ろ
2020年8月7日 13:00
それは電話口であったが空気が切り裂かれたようにはっきりと感じる事が出来た。「そんな事、知らねえ。払えねえじゃなくて払うんだよ。じゃねえとこの女、本当に風俗に売り払うはめになるからな」 その乱暴で身勝手な口調に私は怒りよりもむしろ谷底に沈んでいく未来を覗き込んだかのような暗澹たる気持ちになる。首筋には脂汗がにじんでいた。「待って下さい。明日までにはなんとかしますので」私は咄嗟に口走っていた。
2020年8月8日 07:30
「お前は学生だし消費者金融で借りる事が出来る金額なんてたかが知れている。だけど、その金融屋はお前みたいに若い奴ならそれなりの額を貸してくれる。だからとりあえず急場しのぎにお前が借りて成美ちゃんを救うっていう手もある」 闇金融というそれまでの私にとって触れたことのないものへの恐れや不安よりも、成美が泣きじゃくる姿の方が私の胸を焼き焦がしていた。「本当にそこで、借りられるんですか?」 榊は目を伏
2020年8月10日 07:30
何が起こっているのか。分からないまま私は必死に彼女を捜した。だが皮肉にも私は初めて気づかされたのだった。 私は彼女の事を何も知らない。 それまでの彼女との日々がまるで幻のように私の前で消えていく。たとえそれが幻影だったとしても私にはもうそれにしがみつく事しか出来ない。そうして私の足は千葉に向かっていた。✴︎ 私の行く道を太陽は照らし続けていたが、冬の陽射しに力強さは感じられず、逆に海
2020年8月11日 07:30
失意の中、病院を後にした。海風は相変わらず鋭く身体も心も冷やす。茫洋たる海を眺めながら、頭の中が真っ白のまま駅までの道を歩いた。 一体どうなっているんだ。 そして成美はどこにいるというのだ。 駅が見えてきた所で不意に胸ポケットが震えた。私は携帯電話を取り出し、着信を確認する。小さいディスプレイに榊と表示されていた。 そうだ。榊がいた。彼ならば何か知っているかもしれないし何より助言をくれる
2020年8月12日 07:30
「何を言っているんですか」「だーかーらー、加藤成美ちゃんは榊の女なんだってよ」伊東が横槍を入れる。「もう付き合い始めてから二年くらいかな」何気ない口調で榊は言った。 動揺というレベルではない。頭の中が混乱しすぎて自分でも何を聞くべきなのか何をすべきなのか分からなかった。文字通り絶句だった。「おいおい、もっとこう、激怒したりしねえのかよ」 榊はそう言ってタバコの煙を吹きかけてきた。そして、
2020年8月13日 07:30
「まだ思い出さないのか?」榊は私に顔を寄せる。そして声を出して笑った。「俺の本当の名前は高木徹弘だ。お前ら家族に人生を台無しにされた高木だよ」 高木徹弘。その名を聞いて私は血の気が引いていくのが分かった。そして全身の力が抜けていく。「お前はだまされたんだよ。結局借金だけ残ったけどな。ただ、借りたものは返す。これ常識」軽薄な口調で伊東は私を羽交い締めにしたまま事も無げにそう言った。「それ
2020年8月14日 07:30
私は話し終えると、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。「ついてないねえ」 目の前の男はおよそファミリーレストランには不似合いな言葉を発した。私にはまるで感情がなく聞こえる。「あんた、家族に何かあったのか?」「それは今回のお取り引きには関係のない話ですので」 私は一取引に一つのエピソードしか話さない主義だ。たとえ話の中に疑問点があったとしてもそれを明かす事はしない。「まあいいよ。な
2020年8月15日 07:30
「あんたなにしてんの?」 私はギョッとした。取引の際は細心の注意を払い、さりげなく周囲の目を気にしている。 今日も周りには客がいない事を確認していた。それが私の後ろから急に声が聞こえたのだ。 恐る恐る振り返えるとそこには派手な髪型には不釣り合いなジャージを着た女が笑っていた。その出で立ちは異様であり、私は面食らう。しかし化粧は濃いが顔立ちは整っており、そのせいか首から上だけが夜の雰囲気を醸し
2020年8月17日 07:30
確かにその通りだった。私の過去などに価値など無い。だが世の中には様々な価値観があり、つまらないものにも価格がつけられる。私の他に同業者が存在するかは分からない。しかしこうして商売として成り立っているのはそれが需要のある証拠である。「買う方も買う方だけど売る方も売る方だわ」そう嘆息し私に侮蔑の眼差しを送ってくる。「私は他人の過去なんて興味ない。そんなものただの思い出でしょ?それをさも悲劇のよ