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にがうりの人 #29 (ジャージの女)

「あんたなにしてんの?」
 私はギョッとした。取引の際は細心の注意を払い、さりげなく周囲の目を気にしている。
 今日も周りには客がいない事を確認していた。それが私の後ろから急に声が聞こえたのだ。
 恐る恐る振り返えるとそこには派手な髪型には不釣り合いなジャージを着た女が笑っていた。その出で立ちは異様であり、私は面食らう。しかし化粧は濃いが顔立ちは整っており、そのせいか首から上だけが夜の雰囲気を醸し出していた。
 これ以上の長居はまずい。私は嫌な予感がよぎり、自分の頬が引きつっているのを感じる。
「悪いけど全部聞いてたのよねえ」そう言って再び女はにんまりと笑った。
「強請る気なのか」
 私は焦燥からか、的外れな受け答えをしてしまう。
「はあ?なんであんたを強請るのよ。馬鹿じゃないの。それよりさ、さっきの話本当なの?」

 私は姿勢を元に戻し、無言を決め込む。興味本位で他人の話を聞いた馬鹿な女が酒の入った勢いで絡んできているのに違いない。私は面倒な事になる前に立ち去ろうと思った。すると私の前にその女がずかずかと座り、前のめりに私の顔を覗き込んできた。私はとっさに帽子のつばに手をやる。
「あんたさ、喜怒哀楽を無理矢理殺しているんでしょ?」
 一瞬鼻白んだ。
 喜怒哀楽を殺す。
 その奇妙な言葉の響きに私の心臓はドクンと脈打ち、音が聞こえるのではないかと心配になる。
「あらら図星ね。そうやって言葉少ないのも余計な感情を芽生えさせたくないからでしょ?」
 女はいつのまにか手にしているオレンジジュースをズズズズと音を立てて飲んでいる。

 この女は何者なのか。顧客から私の情報が漏れたのだろうか。
 いや、そんなはずは無かった。顧客は数珠つなぎの紹介であるし、他人の過去を買うなどという背徳極まりない所業を自らべらべらと話す者もいない。金持ちや権力者は自らの地位の保全には全力を注ぐ。体裁や信用はそれがたとえ薄っぺらいものであろうと彼らにはステータスであり、逆に言えばそれが無いと彼らは他人の過去を買うという悪趣味すら出来なくなるのだ。もちろん私自身も守秘に関しては最大の注意を払っている。
 ともかくも私の頭の中は様々な可能性が巡っていたが、目の前に現れた女の存在を推し量る事は出来なかった。だからこそ得も知れぬ焦燥感を駆り立てられた。
「だったら何だというんだ。あなたには関係ない」
 私は不快を露わにして言い放った。だが、女は動じない。
「過去を売るなんて考えたわね。でもさ、あんたの過去にはそんなに価値がある訳?」

続く

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